古代日本における秦氏の力は計り知れず、太秦村誌にも「欽明天皇の頃戸籍に載する秦氏の総数七〇五三戸に及ぶより見ればその勢力の侮るべからざることを知るべし」と記されています。当時、秦氏の戸数はすでに一四〇郷余りであり、欽明天皇より十五代後の元正天皇の御代でも国内全体の郷数は四〇一二にすぎず、秦氏の勢力について想像するに難しくありません。事実、秦氏の手が及んでいない神社仏閣を探す方が難しい程、秦氏は京都太秦を中心として栄えました。そして秦氏は大陸新文化を鼓吹し、商業、農業、酒醸造などに貢献し、日本文化の礎を築く原動力となることにより、政治経済の実権を握ったのです。その実態は京都府葛野郡史概要に「伊勢に至り商業に従ひしことあれば利殖の道に長け、他日、秦氏の富饒を招来する因を講へしなるべし。特に大蔵省に召されしを見ても秦氏の富との関係、はなるべからざる由来を窺ふべし。秦氏は實に新しき文化と共に巨富の所有者なりしない」と記されている通りです。秦氏がユダヤ王族系の財閥でなくして、どうしてこれだけの実力者と成り得たでしょうか?
ところが、古代日本社会において、日本文化の基礎を築きあげる中心的役割を、秦氏が果たしたことが明らかであるにも関わらず、歴史の教科書には「大陸から新しい文化を携えて日本の文化に貢献した渡来人」程度の記述しかない様です。日本書記等の古文書には、秦氏が「百済より帰化けり」と明記されている為、日本文化に貢献した中心的な存在として秦氏を公認してしまうと、日本人のルーツが百済であると解されてしまうことを怖れたのでしょうか。確かに秦氏の大半は百済を経由して渡来した為、百済系渡来人と思われがちですが、実際には百済で一時的に寄留していた「異邦人」にすぎません。そして秦の始皇帝の孫である可能性を秘めているだけでなく。そのルーツを更に遡ると、弓月の君の出自である西アジア地域に繋がり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を継ぐ一族に辿り着くのです。
その王族の末裔である秦氏が、当時の卓越した大陸文化とイスラエルの遺産を携えながら長い年月を経て大陸を横断し、百済を経由して日本へと辿り着いたのです。そして先祖代々の夢であるエルサレムの都の再建を目論み、満を持して日本の地において夢の実現に着手したのです。もはや、秦氏の貢献をオブラートに包み隠す必要はありません。調和と繊細な美を大切にする日本文化のルーツが秦氏にあるということは、神の選民の血が日本人にも流れていることを意味し、それは日本人の誇りなのです。
引用元:日本とユダヤのハーモニー