秦氏とユダヤ王族の関係

 秦氏が日本に渡来してきた経緯については諸説があります。秦が滅び亡命してきたという説を始め、万里の長城建設等の苦役に耐えられずに秦韓に落ち延び、最後に日本へ亡命してきたという説、秦の末裔を名乗ることで異国において優遇されようと目論んだという説等、秦氏の出自については明確ではありません。新撰姓氏録では秦氏の出自が秦始皇帝に由来していることが明記され、信憑性には疑問が残るも、その可能性については留意する必要がありそうです。

 日本の歴史において重要な役割を果たしてきた秦氏ですが、中国の文献にその出自に関する記述を殆ど見出すことができません。秦の末裔というのが本当なら、中国にも秦氏の出自に関する記述が残されているはずですが、皆無に等しいのです。

 日本書記には、弓月君が三世紀末、朝鮮半島より渡来したことが秦氏の基であると記されています。当時、中央アジアには、弓月部族が居住する弓月国が存在していました。弓月国はイスラエルの祖先の地からも近く、キリスト教の布教が熱心に行われた結果、景教の拠点となり、シルクロードの通過点として、最終的に日本の奈良まで繋がるのです。秦氏が景教信望者であることからも、弓月君の故郷は中央アジアであったと考えて、ほぼ間違いないでしょう。

 しかし秦氏は、如何にして都の造営に携わる程の政治・経済力を携えてアジア大陸を横断し日本にたどり着いたのでしょうか?どう考えても、秦氏は元来、高貴な民族の出と考えられ、その宗教的背景を探る限り、秦氏の出自はユダヤの王家に繋がるのではないかと推測されます。

 まず、景教の信望者として日本国内に神社を建立し、更にエルサレムの都に倣って平安京の造営に大きく貢献したこと自体、ユダヤ王の血統でなければ成し得ないと考えます。しかも秦氏の関連する地名や氏神の名前は、ヘブライ語で重要な宗教的意味合いを持っていることから、秦氏はヘブライ語を理解していたのです。また、秦氏の氏寺である広隆寺の境内近くには、「イスラエル」の国名に酷似する「いさら井」と外枠の石に彫り込まれた古い井戸があるだけでなく、秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰も、「ギオン」という名前の語源は、イスラエルのZION(ズィオン)と考えられ、儀式や祭りの数々が古代ヘブライ信仰に類似していることにも注目です。

 秦氏がイスラエル民族であり、しかもユダ族である決定的な理由は「秦」の読みにあります。古語拾遺には「秦」を当初「ハダ」と発音した根拠として「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」と書かれていますが、本当は「ユダ族」を意味する「(ヤ)ハダ」という発音を当てて読み、その事実を隠しているにすぎません。南ユダ王国の末裔であるユダ、ベニヤミンの二部族は今日でも「ユダヤ人」と称され、ヘブライ語で(Yehudi、イェフディ)と呼ばれています。中でも王権を継承する役目を担ったユダ族は(Yehudah、イェフダ)と呼ばれました。その綴りは、ヤーウェーの神を意味するに一文字を付け足しただけです。秦氏は「ユダ族」の出身であることから、「秦」の読みをヘブライ語で「ユダ族」を意味する「イェフダ」とし、その軽く発音される「イェ」を脱落させて、「(イェ)フダ」、または「(イェ)ハダ」と読むことにしたのです。つまり「秦(ハダ)氏」とは「ユダ族」を意味していたのです。イスラエルの王権を継承し、神の都を再建する使命を担ったユダ族の末裔が、秦氏であると知ることが、古代日本社会における秦氏の貢献を理解する重要な鍵なのです。


引用元:日本とユダヤのハーモニー