秦氏の正体から垣間見える日本人のルーツとは?

 秦氏のルーツについては長年、多くの学者が議論を繰り返すも、結論が出ないまま今日に至っています。日本書記には、秦氏の一族が百済から渡来したと明記され、また「新撰姓氏録」や「隋書」には、秦氏と秦国とのつながりに関する記述が散見されることから、秦氏のルーツとして中国人説、朝鮮人説などがあります。いずれにしても、秦氏は日本に渡来する直前まで朝鮮半島に拠点を置き、彼らの独自の文化やアイデンティティーは、長い年月を経ても殆ど変わることなく代々継承され、最終的に日本に持ち込まれたのです。

 秦氏のルーツに関するこれまでの諸説は、朝鮮および中国における足跡までしか歴史を遡っておらず、必然的に断片的な解説に留まっています。その為、今日まで結論が出ておりませんが、実は、秦氏の出自は中国を超えて遥か西アジアにまで達し、さらにユダヤ王朝の血統を引き継ぐイスラエルの民へと繋がっている可能性が高いのです。早速、秦氏のルーツに関する情報を見つめ直し、歴史の謎を紐解いてみることにしましょう。

 秦氏が語られない理由とは
 朝鮮半島から渡来した秦氏は、日本の宗教文化や衣食住に大きな影響を及ぼす様々な貢献を行い、海外からは秦王国と称されるまでの権力を握りました。そして京都の周辺に多くの拠点を構え、優れた知識と高度な技術だけでなく、大きな経済力も保持していました。その卓越した政治経済力を活かして平安京の造営まで担い、皇室との血縁関係があることも知られています。日本文化の礎を造った秦氏の功績は疑いもない事実であり、天皇家とも親密な関わり合いがあったにも関わらず、これまで日本の歴史教育において秦氏の存在がさほど重要視されなかったのは何故でしょうか。秦氏の出自を辿っていくことは、少なくとも日本人のルーツそのものについて考察することであり、その歴史的背景の解釈によっては、従来の定説に反する結論に発展しかねません。また、皇室の血統や出自についても言及することにもなりかねない為、これまで多くの歴史家は公に議論することを躊躇し、学校教育においては踏み込んだ記述が出来なかったと考えられます。

 日本書記や古事記に書かれていることを鵜呑みにするならば、日本という国家は天皇を現人神とする神国であり、およそ日本人は古代から連綿と続く単一民族であるという大前提があります。そして歴史教育によって培われた古代日本人のイメージとして、独自の文化を持つ日本列島に土着していた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が長い年月を経て交じり合い、今日の日本人の原型が育まれたとする考え方が定着してきたのです。それ故、古代日本における文化の礎を担った人々の殆どが渡来人であるといった論説は、封印されても致し方ないでしょう。しかし、渡来人の貢献なくして、古代日本社会における急速な文明開化はあり得ず、それは、アメリカ合衆国が移民の歴史で始まったことに類似しています。

 古代日本史はアメリカの建国に類似 ?
 アメリカ合衆国の歴史は、イギリスやオランダ、その他ヨーロッパ諸国から宗教弾圧を逃れて、大西洋を渡ってきた渡来人(移民)によって幕を開けました。そしてアメリカ大陸に土着していた少数派のインディアン諸部族は、圧倒的な武力を有する渡来人の圧政下の元、インディアン居住区と呼ばれるエリアに集約させられ、その存在感は徐々に薄れていきました。その結果、アメリカ大陸の歴史は渡来人によって塗り替えられ、彼らが歴史の主人公となりました。さらに、その後も多くの移民がアメリカ大陸に渡り、最終的に巨大な国家を形成するに至ったのです。

 同様に日本の歴史においても、中国の圧政下から逃れて朝鮮半島に移住した秦氏が、ある時を境に日本に渡り、結果として日本列島に高度な文化や技術を紹介したというだけでなく、政権を樹立して国家の礎を造る陰の立役者となったと考えた方が、歴史の解釈がより鮮明になり、様々な歴史資料の辻褄が合います。例えば縄文時代末期では、10万人に満たないと推定される日本列島の人口が、弥生時代になると急激に増加し、一説では50万人を超えたとも言われています。大陸からの渡来人による民族移動なくしては、これだけの急激な人口増加だけでなく、高度な製鉄の技術や、漢字の文化、醸造や灌漑技術、そして律令制に則った統治制度が、どうして急速に普及したのか説明することができません。つまり、古代日本において、渡来人が大きな役割を果たしたことは明確であり、その中心的な役割を果たしたのが秦氏なのです。

 秦氏の出自に関わる諸説
 日本書記などの古文書に基づき、秦氏は百済から渡来した朝鮮人、韓人ではないという説があります。しかしながら反論も多く、歴史家の井上光貞は、秦氏を「中国文化を身につけた外来人で、秦の遺民を称する人々」としました。つまり秦氏は朝鮮人ではなく、中国圏に長年居住してその文化を理解する秦の始皇帝の末裔である、というのです。また、江戸時代に新井白石は「古史通惑門」において秦氏は辰韓に移住してきた秦人(中国人)であると主張しています。その根拠となったのが3世紀末に、西晋の陳寿によって書かれた「三国志」の「魏書」にある東夷伝の倭人の条の略称で、日本では「魏志」とも呼ばれる「魏志倭人伝」の記述です。そこには、秦の苦役から逃れた民が馬韓(紀元前2世紀末~4世紀)へ亡命し、その東方に居住したのが辰韓人の始まりであるという記述があります。確かに同時期、朝鮮半島南部には言語や文化の異なる馬韓、辰韓、弁韓と呼ばれる三韓が歴史に姿を現しました。その後、辰韓の地域は新羅となり、馬韓は百済、そして弁韓は朝鮮半島の最南端にて伽耶と呼ばれたのです。

 ところが魏志において辰韓と弁韓が混同して使われ、いつの間にか「弁辰」という言葉で言い表されています。それは辰韓と弁韓の言語や文化が実は酷似していたからに他ならず「魏志」の記述からも、双方が蚕桑や織物という同一の技術において優れた文化を有し、辰韓人と弁辰人が雑居しているという記述さえあります。その上、住人も秦人と呼ばれる中国人に似ているということから「秦韓」とも呼ばれました。こうして「秦」と「辰韓」の辰は重複した意味合い持つようになり、混同して使われたのです。これらの文化的背景は、秦氏のものと同一であることからしても、秦氏が辰韓と弁韓、すなわち「魏志」に書かれている弁辰の中核となる存在であったと考えられます。

 弁辰の民と言われる所以
 それでは何故、秦氏の文化的背景を持つ弁辰の民が、辰韓と弁韓に分離したのでしょうか?「魏志」にも、新羅(辰韓)と伽耶(弁韓)の名前が混同して使われている事例があり、そこには明らかに同じ文化を持つ人々が居住していたことがわかります。2つの国に分かれた謎を解く鍵が、イスラエルの南ユダ王国の2部族です。秦氏のルーツは前述した通りイスラエルであり、中でも南ユダ王国のユダ族が中心となっていました。同じ南ユダ王国のベニヤミン族、そして祭司の任務を司るレビ族らが民族移動の際に同行して大陸を横断したと考えられます。そして中国から亡命してきた秦氏は、朝鮮半島の東海岸に辿り着き、そこを拠点として大きな勢力となっていく過程において辰韓と呼ばれるようになり、少数派のベニヤミン族は、部族ごとに分かれて居住するというイスラエル元来の風習に従って、ユダ族が居住する辰韓の南方に拠点を構え、ベニヤミン族の頭文字2つをとって、そこは弁辰と呼ばれるようになったのでしょう。

 秦氏の正体とは何か
 秦氏のルーツであるイスラエルの民は、国家を失った後、世界各地に離散し、それぞれの地域において、文化、教育、政治、経済面など多岐に渡り大きな貢献を成し遂げました。そしてどんなに離散しても、決して自国の文化、言語、宗教観を忘れることなく、世代を超えて自国民の生きざまを後世に伝承してきました。だからこそ、2,600年も前に国家が滅亡しても、ヘブライ語は死語となるどころか、聖書を読むために不可欠な古代ヘブライ語として存続し続け、1948年にイスラエル国家が再建された際には、国語としてヘブライ語が復活を遂げたのです。このような特異な文化を持つ民族であり、しかも痕跡を殆ど残さずに民族移動を続ける寄留者的な背景を持っていることから、最終的に日本に定住するに至っても、秦氏の正体は不透明のまま放置されてしまったのです。

 秦氏の正体とは、基本的には中国や朝鮮の文化圏において育まれたユダ族を中心とするイスラエル人です。そして大陸における長年の寄留期間を経て中国文化を吸収し、現地人との混血も進みました。その後、秦の滅亡と共に迫害を避けて秦氏は朝鮮半島に移住し、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、今度は漢流文化の影響を受けることとなりました。それが「魏志」において「辰漢人」と記載されている所以でもあります。つまり秦氏とは、中国や朝鮮の影響を多分に受けたアジア系のイスラエル人であり、漢民族や、韓民族ではないのです。

 神の選民であるイスラエルの血は、長い年月を経て大陸文化によって育まれ、元来の卓越したイスラエル文化に古代中国大陸の優れた文化がブレンドして更に磨きがかかり、その研ぎ澄まされたように繊細な美的感覚を誇る独特の文化は、秦氏によって日本に持ち込まれ、現在に続く日本文化の礎となったのです。無論、日本列島各地には、秦氏よりも前に渡来したイスラエル人が存在しており、剣山の高地性集落等を始めとして生活圏を確立していました。応神天皇らもその先発隊の流れの一部と考えられます。そしてエルサレム城の再建を合図として、秦氏をはじめ半島にいた人々も一斉に日本に渡ってきたのです。

 もはやイスラエル系渡来人の存在なくしては、秦氏の有様、功績、歴史に残る偉業の数々を含め、日本の古代史を説明することはできません。隋の使者が秦氏について「明らかにする能わざるなり」と結論を明らかにできなかったのも無理はないのです。何故なら、秦氏のルーツは、アジア大陸の遥か西方の中近東、イスラエルまで遡るからなのです。
 
 
引用元:日本とユダヤのハーモニー