秦氏と京都太秦の謎

 これまで阿刀氏が、イスラエルの神宝を管理していたレビ族の出自であることを解説してきました。平安京の造営を支えた有力者である秦氏も、同じくイスラエルにルーツがあるだけでなく、王系のユダ族に繋がっている可能性さえあります。秦氏は朝廷に対して多大なる影響力を持つようになり、平安京遷都のプロジェクトを推進するにあたり、大内裏を含む土地や多くの私財まで献上して陰の立役者となりました。そして、いつしか秦氏はユダヤ人の景教徒ではないかと囁かれるようになり、今日まで至っています。

 平安京の遷都が実現したちょうどその頃、空海は密教の経典を学ぶ機会に恵まれ、そこで景教との接点が生まれました。また、空海が学んだ場所では、阿刀氏出身の学者が活躍しており、イスラエルや大陸文化の情報には事欠かなかったはずです。空海が消息を絶った空白の7年間は、平安京遷都直後というタイミングだけでなく、朝廷との関わりや、ルーツがイスラエルにあることや景教との繋がりがある可能性など類似点が多く、秦氏と空海は面識があったのではないかと考えられます。

 さて、秦氏が関係した宗教施設や習慣等には、イスラエルの文化やキリスト教の一派である景教の影響を受けたと思われる事例が多々あります。例えば、秦氏の拠点である京都の太秦(ウズマサ)に建てられた「蚕の社」と呼ばれる木嶋神社には、三柱鳥居という3本の柱からなる奇妙な形の鳥居があり、キリスト教の三位一体を意味しているのではないかと言われています。また、広隆寺の近くにある伊佐良井(イサライ)と呼ばれる井戸の名前は、景教の経典からイスラエルを意味する一賜楽業(イスライ)に酷似しており、同じくイスラエルを意味して命名されたのではないか思われます。
 そして新撰姓氏録には秦氏について「秦始皇帝の後なり」と記載されており、秦氏本系帳にある系図においても、秦始皇帝を始めとして歴代の秦氏の名前が確認でき、秦氏は秦始皇帝の子孫であるという説もあります。その秦始皇帝の父は呂不韋と言うユダヤ系であると言われており、始皇帝の肖像画を見ても西アジア人特有の鷲鼻が際立ち、言い伝えでは「目は青く西洋人のようであった」ということからしても、秦始皇帝の先祖がイスラエル出身であった可能性は否定できません。
 もし、これらの言い伝えが事実であり、秦氏がイスラエル、ユダ族の出自であるとするならば、平安京にまつわる歴史の解釈が一変します。ダビデ王の末裔である秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統が秦氏らの介入により皇室に継承され、さらに律法に基づいて神宝の管理をレビ族の出自である阿刀氏系の法曹(空海)が執り行なったと解釈してみてはどうでしょうか。それは正に、ユダ族の王が君臨し、その神殿と神宝をレビ族が祭ったイスラエル王国の復元と言えます。

 始皇帝(三才図会より)秦氏の功績を辿ると、確かにそこにイスラエルの痕跡を見出すことができます。例えば、秦氏の氏神は大辟大明神ですが、景教ではダビデのことを「大闢」と書きます。「闢」の門構えを省略すると「大辟(オオサケ)」となるため、この名前はダビデ王を意味し、それが秦氏の氏神ではないかと考えられるのです。ところが、本来「大辟」は「オオサケ」ではなく「タイヘキ」と読むものです。しかも「大辟」は「重い刑罰」、すなわち「極刑」を意味します。どうして「極刑」にされた神、というような名前がつけられ、しかも読み方まで変えられてしまったのでしょうか。その理由は太秦に秘められていたのです。
 
                                            
引用元:日本とユダヤのハーモニー