疑問点は、まず、貧乏と言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた二十年に渡る滞在期間に必要な資金を十分に携えていただけでなく、自らが欲する書籍は何でも手に入れることができた程、ゆとりがあったようです。実際、空海は経典四百六十巻や両界曼荼羅だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」などを貸し出しています。無論、留学が短期間に終了する目安が付いて余剰資金が生まれたという見方もできますが、いずれにしても貧しい留学生の行動とは思えません。また、消息を絶つ直前の七九七年に空海があらわした「三教指帰」には、空海が大学を離れて山や難所で修行を積んだことが書かれています。既に山岳宗教の行者となって悟りを開き、平安京の行く末にも深い関心を抱いていたはずの空海だけに、遷都後の諸問題を耳にし、国家の一大事であると知りながら、お布施集めの為に国内を行脚するとか、更なる修行を積むとは考え辛く、大日経を学ぶにしても七年という期間は長すぎるようです。
しかも唐に向かった八〇四年、空海は通訳者を必要としない程、中国語を流暢に話せたことから、渡来人と積極的な係わりを入唐前から持っていたと推測できるのです。これらから察するに、空海が遣唐使となった背景には、明らかに朝廷、及び秦氏の介入と手厚い援助があっただけでなく、そこに至るまでの間、長年に渡り、空海は密かに天皇に仕えていたのです。大学を中退した後、七九四年に悟りを開いた空海は、遷都への貢献を機に桓武天皇の信任を受け、朝廷の重大なプロジェクトに関与することになったと考えられます。そして遷都直後より、南都六宗の本拠地奈良で二年間調査に費やし、密教の経典を発見した七九七年より入唐するまでの七年間、消息を絶ちます。これは空海の働きについて公にすることができない、諸事情が秘められていたからに他なりません。その知られざる七年間の答えを見つける鍵は、空海が消息を絶つ前と後に、どこで何をしていたか、どういう人人と面識があったかということを見極め、それらの共通点から空海が歩んだと思われる軌跡を辿ることにあります。そこで浮かんでくるテーマが、空海と渡来人との関わり、怨霊からの開放、神宝の行方と密教への導きです。これらを一つ一つ検証することにより、失われた七年間の真相が見えてきます。