平安京を支えた空海の働き

 奈良時代も終焉を迎えようとしていた八世紀後半、桓武天皇が即位した直後、都は平城京から京都の長岡京へ遷都されました。南都仏教勢力の肥大化を嫌った桓武天皇は、敵対する勢力の不穏な動きを避けるため、中国の長安をモデルとした長岡京の造営を決意しました。遷都することで天皇家の血統としては弱い自分の立場を強固なものにして自らを守り、しかも平城京の地理的弱点を克服しようとしたのです。ところが784年、都が長岡京へ遷都されてからというもの、国内は災難が続きました。思いもよらぬ飢饉の到来、河川の氾濫、疫病の流行だけでなく、桓武天皇の身内にも病が続いたのです。これらは不幸な運命を遂げた早良親王の祟りであると陰陽師が占う程、事態は深刻でした。

 長岡京が危機に直面し、桓武天皇への信任がゆらぎ始めた頃、時を同じく若年二十歳にして御蔵洞で悟りを開き、出家したのが空海です。

 梵語を始めとするアジア各国の言葉と大陸文化に造詣が深く、故郷四国の剣山に纏わる様々な言い伝えから日本とイスラエルとの関わりについても理解していた空海は、渡来民族とも多くの接点があったと考えられます。当然、宮廷に大きな影響力を持ち、ヘブライルーツの噂が絶えない秦氏とも深い交流があったはずで、空海の才能を知って天皇に紹介した可能性は非常に高く、国政に関わるきっかけとなったのでしょう。空海は、長岡京を呪縛から解き放つ方法を祈り求めていたある日、新しい都をイスラエルの都であるエルサレムにならって造営する必要性に目覚めました。まず、イスラエルの都がヘブライ語で「平安の都」を意味するエルサレムであることになぞらえ、都の新しい名前として「平安京」を天皇に提言しました。また、都には豊かな水源が不可欠であり、湖が近くにあることにも注目しました。エルサレムの北東にはガリラヤ湖が存在し、ヘブライ語で「ヤム・キネレット」 と呼ばれています。「キネレット」の語源は「琴」を意味する「キノル」であるため、ガリラヤ湖は「琴の泉」を意味します。そして長岡京の北東にも、日本の竪琴(琵琶)の形をした大きな湖が存在します。

 さて平安京をどこに造営するかが問題です。エルサレムは、海岸線から60㎞内陸の盆地にあります。長岡京も同様に、大阪湾と日本海側の若狭湾、双方からおよそ60㎞程内陸の、三方が山々に囲まれた盆地に位置しています。ところが長岡京は、伊勢神宮を基点として石上神宮を結ぶ中心線を挟んで、伊勢神宮と剣山を結ぶ線に対称的な線上から、微妙にずれていたのです。空海は、古代ユダヤ部落と秘宝に関わる剣山や、古文書に記載されている伊勢神宮、石山神宮等の地理的な位置関係が幾何学的要因をもって結ばれていることを理解していました。その為、新しい都は伊勢神宮と剣山を結ぶ線と対称的な線上に位置し、しかも山々に囲まれた盆地であり、さらにエルサレムと同様に北東に湖が存在する場所である必要がありました。空海は、長岡京から北東におよそ12㎞離れた場所に、これらの諸条件を満たす聖地を見出し、新しい都、「平安京」として見定めたのです。

 こうして、長岡京を呪いから開放するための施策を短期間かつ明確に提示することができた空海は、当然のことながら天皇の熱い信望を受けることとなり、側近として活躍することになります。