TVインタビュアーとしてロックフェラー氏、キッシンジャー元国務長官、フォード元大統領などを取材し、その後もジャーナリストとして活躍しながら多くの書籍を執筆されている中丸薫氏は「皇室専用の部屋には必ず六芒星(ユダヤの「ダビデの星」)のマークが椅子にも、天井にもあり…」、また「ユダヤの人々は、男の子が生まれると割礼を施し…それが日本の皇室でも行われている」と著書に書かれています。
皇室とユダヤの繋がりについて昔から噂が絶えませんが、こうしてユダヤとの繋がりについてあからさまに書き綴られていることに驚きを隠せません。これまで古代史における日本とイスラエルの関係について解説をしてきましたが、どうやら皇室のルーツに見え隠れするユダヤとの繋がりは、単なる憶測ではなさそうです。
日本の歴史に大きく貢献した秦氏
大和朝廷が成立したのと同時期に、アジア大陸から朝鮮半島を経て渡来してきた秦氏の歴史は、少なくとも3~4世紀まで遡れます。「新撰氏姓録」には、秦氏の先祖である功満王が渡来したことに関する記載があり、そして「日本書記」によると、応神14年には功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、朝鮮半島を経由して百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となりました。その後、秦氏は雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、更に6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模の存在として公に知られるようになり、一大勢力になっていったと考えられています。
当時の日本の総人口数から考えても、秦氏の存在は際立っていたようです。また、極めて高度な文化を携えてきたことでも知られており、秦氏はその財力と土木技術を活かして、灌漑や大規模な古墳の造営に着手し、特に西山、北山、東山の山麓に囲まれた山背国と呼ばれる地域の開発と発展に大きく貢献しました。そして、養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といった様々な文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割を担いました。更に政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、秦氏はその絶大なる経済力を背景に多くの寺院を建立しました。そして朝廷に対して強い影響力故に、最終的には平安京を短期間で造営する原動力となったのです。
秦氏に関する素朴な疑問とは
秦氏については、その出自がはっきりしていないこともあり、多くの謎が残ります。まず、数万人規模の集団が大陸から移住してきたにもかかわらず、故郷が明らかでないのはおかしなことです。また古代日本において短期間で蓄財することは到底不可能ですから、秦氏は大陸で財を成した有力者であったことは明らかです。
610年に新羅からの使者を迎えるにあたり、その重要な役目を授かったことからも、単に大陸通というだけでなく、歴然とした有力者であり、政治に携わってきた一族であったに違いありません。
彼らの高度な文化は一体どこで培われ、その政治力や経済力の原点はどこにあったのでしょうか?更に、秦氏と関係の深い神社仏閣に残る習慣には、景教の影響を受けたと思われる事例が散見されることから、秦氏はユダヤ系の景教徒ではないかと長年、囁かれてきています。それらの噂は本当なのでしょうか?
秦氏の出自が不透明な理由は、彼らが大陸においても寄留者・異邦人という立場であったことにあると考えられます。秦氏は長い間、遊牧民族のように大陸を移動し続け、それぞれの地域において多大なる政治・文化的な貢献を果たすも、自らのアイデンテティーを明かさず、あくまで裏方に徹してきたと考えられます。
そして最終的にたどり着いたのが、シルクロードの終点である日本なのです。その秦氏の出自を明らかにする鍵が、秦氏と神社との関わりに秘められています。
神社の建立に熱心な秦氏
秦氏は広隆寺を始め、八幡神社や稲荷神社等、多くの神社の建立に長年関わってきたことが知られています。647年に秦河勝が没した際に、赤穂の坂越(兵庫県)に大避神社が創建され、その霊は大避大神として天照皇大神と共に祀られました。
また、稲荷神社の発祥の地は京都の伏見稲荷大社ですが、その由来書には、秦伊呂具が創建したと記載されています。更に、日本各地に1万社以上あるといわれている八幡宮は、その大元である大分の宇佐八幡神宮も辛島氏という秦氏が創建者です。そして松尾大社や四国の金刀比羅宮等、多くの神社に秦氏が関わった形跡が残されています。
また、嵯峨野のある山城国葛野郡は秦氏の本拠地の一つですが、そこには秦河勝が聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、建立された秦氏の氏寺である広隆寺があります。京都最古の寺として603年に建立された広隆寺は、元来、蜂岡寺(はちおかでら)と呼ばれていました。その後、幾度となく移転を繰り返しながら平安初期、現在の地に落ち着いたようです。そしていつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになりました。
広隆寺は大秦景教のお寺
広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐においてはネストリウス派のキリスト教である景教の布教が活発になっていました。そして景教は638年に公認され、その寺院は当初「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。3世紀から7世紀にかけてササン朝ペルシャ帝国が西アジアを支配し、景教の拠点となっていた事もあって、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語で(ファシィ)、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳で、中国語では「ペルシャ」を意味する「波斯」を用いて「波斯経寺」と命名したのです。
その「波斯経寺」が、広隆寺の元来の名である「蜂岡寺」の語源となりました。「経」は「宗教の聖典」を意味し、ヘブライ語では「律法」を意味する(khok、ホック/オク)という言葉で表します。すると「波斯経」は「ファシオク」となります。その発音に当てた漢字が「蜂岡」であり、日本語では「はちおか」と発音されたのです。
その後、651年にはササン朝が滅び、イスラム共同体にとって代わったため、745年には教団の名前が「大秦景教」と改められ、それ以降、景教寺院の呼び名自体も「大秦寺」に改称されました。
当時、中国よりも西に位置する帝国は大秦国と呼ばれており、歴史的にはローマ帝国を意味します。そしてキリスト教は既にローマ帝国において国教とされていたことから、正式に「大秦景教」と呼ばれるようになりました。その際、「波斯経寺」の名前も「大秦寺」に改名されたのです。そのため、日本においても蜂岡寺として建立された広隆寺が、いつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになったのです。
ネストリウス派の布教は5世紀後半には開始され、中国では景教が公認される以前から景教の寺院を波斯経寺と呼んでいたと考えられる為、中国での公認より先だって蜂岡寺(日本の波斯経寺)が建立されても不思議ではありません。そして国家の体制が中国程に整っていなかった日本では、寺院を建立しやすかったことが、当時、中国よりも先に「波斯経寺」の日本版である「蜂岡寺」が早期に建立され公認された要因でしょう。
太秦がウズマサと呼ばれた所以
広隆寺のルーツが景教にあることの決定的な理由が、「太秦」という漢字と、読みです。日本語の「太秦」は「ローマ国教」を意味する「大秦景教」の「大秦」に由来すると考えられますが、何故「ウズマサ」と呼ぶようになり、自らの本拠地の地名として使うまで重要視したのでしょうか。
日本書紀や新撰姓氏録によると、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたのがその由来であり、また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。
実は「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に当てた字で、「大辟大明神」と同じ意味があります。まず(hutsa、フゥツァ)が「(命を)取られる」という意味の言葉であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえ(hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ)「処刑される」の意を持つ熟語にも見られます。次に(morish、モリッ)ですが「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。また(mashiakh、マシァ)は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。つまり「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「予言(遺言)の通り自らの命(財産)を捧げ、処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、元来ヘブライ語のこの言葉が日本語の「ウズマサ」となり、「処刑された救い主」を意味します。即ち「ウズマサ」とは「処刑された神」を指す「大辟大明神」と同じ意味を持つヘブライ語であり、「ローマ帝国」を意味する「太秦」の読みとして、意図的に当てられたことがわかります。
こうしてローマ国教であるキリスト教を基とする景教に深く関連する寺院として、広隆寺は「太秦寺」としても知られるようになったのです。いつしか、秦氏の拠点がある地域も「太秦」と呼ばれるようになり、そこに建立された大辟神社には、「処刑された神」の意味を持つ氏神、「大辟大明神」が祀られたのです。
どうやら、秦氏が景教の信望者としてイエス・キリストを信仰していたという推測は、あながち間違いではなさそうです。太秦寺は中国語で「ローマ国教の寺」を意味しますが、日本語の読みである「ウズマサ」に隠された本来の意味は、「処刑されたイエス・キリスト」を指していたのです。そして秦氏の氏神である外来の「神」イエス・キリストが、日本にうまく土着することを願い、「大辟大明神」や「ウズマサ」など、誰も抵抗を持たない風変わりな名前が命名されたと考えられます。大和の国という新天地において永久の繁栄を求めた秦氏の英知が、ここに結集されているのです。
引用元:日本とユダヤのハーモニー