知られざる7年間の疑問点とは?
疑問点はまず、経済的に裕福でないと言われた空海が、実は多額の金銭を携えて入唐していることです。空海は、当初予定されていた20年に渡る中国滞在期間中に必要な資金を十分に携えていただけでなく、自らが欲する書物は何でも手に入れることができた程、ゆとりがあったようです。実際、空海は「経典460巻」や「両界曼荼羅」だけでなく、数々の仏画まで買い求め、そのコレクションの質の高さが最澄の耳に入り、帰国後、最澄の申し入れに応じて「華厳経」等を貸し出しています。無論、本来20年を予定していた留学が短期間に終了する目安が付いたので余剰資金ができたのかもしれません。また恵果和尚からも多くの書籍や秘宝を譲り受けましたが、いずれにしても貧しい留学生の成せる業ではないでしょう。
空海が書き著した「三教指帰」には、空海が大学を離れて山岳宗教の行者となり、山や難所で修行を積み、20歳にして室戸岬で求聞持法を成就し、悟りを啓いたことが書かれています。それだけに、平安京遷都に関わる怨霊問題が公然と流布されている国家の一大事の時、自らのお布施集めの為に国内を行脚して時間を費やすとは思えません。しかも空海程の人物ですから、国内を旅したならば必ずその地域に何らかの軌跡が残っているはずです。しかし、7年間何ら空海に関する情報が存在しないということは、たとえ旅をしていたとしても、公にはできない理由があったのではないでしょうか。また、既に悟りを啓いていることからしても、更なる修行体験を積む為に再度、山奥の難所に潜んで瞑想にふけるとも考え難いのです。大日経を学んでいたとしても、空海にとって7年という期間は長すぎます。
7年間の謎を解く鍵はいずこに
謎は深まるばかりですが、前述したとおり空海は朝廷とも既に繋がりがあり、空海の背後には政治的な働きだけでなく、経済的な支援があったと考えられます。しかも唐に向かった804年空海は通訳者を必要としない程中国語を流暢に話せたことから入唐直前まで渡来人と積極的に係わり合いを持っていたと推測できます。都の行く末についても深い関心を抱いていたであろうと考えられるだけに、空海は何らかの重要な役目を授かり、7年間それに全身全霊をかけて取り組むことになったのではないでしょうか。しかもそのプロジェクト内容は極秘であった為、記録にも残らないほど密かに7年の時を過ごさなければならなかったと考えるのが妥当でしょう。
これらの背景から、空海の知られざる7年間を解明するためには、単に空海の文献を検証するだけでなく、やはり空海をとりまく政治と宗教の環境を全面的に見直さなければなりません。文化交流の裏に潜む権力闘争や、怨霊対策に取り組む宗教家らの働き、また知識階級の人脈と相互関係等にも目を留め、それらがどのように空海の生涯に影響を与えたかを探る必要があります。そして、凄まじい権力闘争と怨霊問題を肌で受け止めた空海が自ら察した天命をどう捉え、どのように行動するであろうかを推測するのです。その空海の歩みを解明するヒントとなる言葉が「渡来人」「阿刀氏」「神宝」そして「密教」です。これらのキーワードの意味を再検証することにより、空海の知られざる7年間が少しずつ見えてきます。
渡来人が大活躍する古代社会
6世紀から8世紀にかけて大勢の渡来人が海を渡り、シルクロードの最終地点となった日本に移住してきました。特に古代社会のメルティング・ポットとなった奈良盆地の周辺には多くの知識階級層の渡来人が居住するようになり、大陸文化の流入と共に文化人の交流の場として栄えました。当時、政治や宗教、文学、農業など、日本の文化全般に多大な影響を与え、古代の日本社会において文化を培う原動力となったのは、渡来人に他なりません。
例えば8世紀に、長岡京(現京都)の周辺に居住していた秦氏、弥坂氏、鴨氏、出雲氏などの有力者の多くは、渡来系ではないかと考えられます。これらの有力者の経済力と高い教養のレベルは渡来人ならではであり、その名前の多くがヘブライ語の意味を持っていることからして、渡来系の中には単に中国や朝鮮半島との繋がりだけでなく、イスラエル系の民も複数存在していたと思われます。中でも山背国で実権を握り、平安京遷都の立役者として活躍した秦氏とイスラエルの関係についての記述は少なくありません。秦氏はその財力と大陸文化に繋がる人脈故、桓武天皇の信任を得て、平安京遷都の際には所有する財産や不動産を献上し、朝廷にとって大きな経済的な支えとなりました。また、平城京から長岡京への遷都においても、それを指揮した藤原種継の母親は秦氏であることから、一連の遷都の背景には当初から秦氏の影響が強く加わっていたと考えられます。
秦氏の他にも、平安初期には注目すべき渡来系人が、多数浮かび上がってきます。まず桓武天皇の母親は今生天皇の「ゆかり」発言にもあったように、高野新笠という百済の出であり、父方の和氏は武帝王由来の百済王族です。また、延暦寺を建立し、桓武天皇に仕えた最澄は、後漢の孝献帝の子孫を祖先とする三津首家(みつのおび)の家柄であり、中国系の渡来人の子孫です。そして空海も、実は母方の阿刀(あと)氏が帰化人なのです。空海の伯父にあたる阿刀大足(あとうおおたり)は、その優れた教養と知識が朝廷でも高く評価され、桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講を勤めていた程でした。その阿刀大足が論語、孝経、史伝を中心とした多くの知識を幼い空海に自ら授けたのです。こうして古代社会においては、至るところで渡来系の人物が朝廷に大きな影響力を与える存在となっていたのです。
阿刀氏はイスラエルの出!
空海の知られざる空白の7年間の謎を解くためには、渡来人とイスラエルの関係だけでなく、空海の母方の祖にあたる阿刀氏のルーツを見極めることが不可欠です。まず、阿刀氏が渡来系と言われている所以について検証してみました。阿刀氏は安斗氏とも書き、物部氏の系列の氏族です。平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の裔です。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられます。その結果、明治15年頃、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。
更に「先代旧事本紀」には、饒速日命と神宝との関わりについても、多くの記述が含まれていることに注目です。その内容を日本書紀、古事記と照らし合わせて読むことにより、饒速日命の役目がより明確になります。
まず日本書記によると、天照から統治権の証として神宝を授かった饒速日尊は、弟の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向の高千穂峰に降臨する前に、船で河内国に天下り、その後、大和に移ったとされています。「先代旧事本紀」では、この神宝は天神御祖(アマツカミミオヤ)から授けられた2種の鏡、1種の剣、4種の玉、そして3種の比礼であり、「瑞宝十種(ミズノタカラトクサ)」であると具体的に記されています。その後、神武天皇が即位する際、饒速日命は瑞宝十種を譲渡し、天皇の臣下として即位の儀式を執り行い、天皇家に関わる各種の定めを決めることに貢献しました。更に古事記には、神武天皇の東征に絡み饒速日命に関する記述があります。大和の国へ進出した饒速日命は、その地域を支配していた豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)を一旦は服従させ、長髄彦の妹を妻にしますが、瓊瓊杵尊の孫にあたる後の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が東征し、長髄彦を打ち破った際にアマテラスの子孫であることを知り、神武天皇に帰順して祭祀の役目を果たすことになります。つまり天照大神の孫である饒速日命は、天神御祖の勅令をもって神宝を管理し、祭祀の役目を担い、国治めを支えるために尽力した大祭司なのです。
これら天孫降臨に関する古文書の記述は、前述した通り、イスラエルの民が西アジアから日本に移住する際の史実を神話化したものであると考えられます。それ故、饒速日命の神話にも、そのモデルとなったイスラエル人が実存し、おそらく祭司の任務を与えられたレビ人ではないかと推察されます。こうして阿刀氏の始祖は、イスラエル人であるという可能性が浮かび上がってきたのです。つまり、阿刀氏である母親を持つ空海は、神の民イスラエルの末裔であり、イスラエルの部族の中でも祭司の任務を与えられたレビ人の血統を持つ、大祭司の子孫だったのです。