まず、空海の活躍と同時期に法相宗を隆盛に導いた興福寺の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立つ玄ほうの愛弟子であり、しかも玄ほうが護身を勤めた藤原宮子との間にできた子なのです。善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄ほうも「玄ほう姓阿刀氏」と書いていることから、共に阿刀氏の出であることが伺えます。更に「東大寺要録」を参照すると、玄ほうの師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄ほう、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて頂点を極めました。
平安初期、朝廷が悩まされた早良親王の怨霊問題についても法相宗は積極的に関わり、特に善珠は、早良親王の「怨霊」を語るだけでなく、霊力をもって鎮めることもできたため、天皇の厚い信任を得ました。南都六宗の影響下から逃れるために遷都に踏み切った経緯からして、これまで一見、対立関係にあったと思われていた朝廷と南都六宗との関係ですが、実際には朝廷と法相宗のリーダーは緊密な関係を保っていたのです。朝廷は怨霊を恐れるあまり、藁をも掴む思いで霊力を有する者であれば躊躇せず登用しており、最澄ら地元で活躍する宗教家だけでなく、奈良を拠点とする善珠らにも声が掛けられました。こうして法相宗は、多くの優れた宗教学者を輩出し、霊力をもって朝廷に仕え、祭祀役割を担う人材にも恵まれました。
その法相宗の流れを汲む学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それ故、空海は南都六宗の在り方を批判することはあっても、友好的な関係を保ち、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。阿刀氏であるが故、天皇を初めとする朝廷と南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、いつしか天皇の信任を得て、それまで誰も手がけることができなかった極秘調査に着手するよう朝廷より命を賜ったのです。