久世物語
久世孝宏(たかひろ)ってどんな人?
~久世が描く幸せな半田の未来~
勉学とテニスに励む学生生活
1974年名古屋市生まれ、名古屋市育ち。
子供の頃から真面目な性格だという自覚があった。取り立ててコレ!と言えるものはなかったが、ものづくりが好きで名古屋大学工学部へ入学した。テニスが好きで、ほぼ毎週、多い時には週3回のサークル活動をしながらの学生生活を送った。
十人十色 “自分の幸せ”
大人になったらできなくなることを若いうちにと考え、大学院の時には1年休学をして、半年間はアルバイトに励み、その後半年間はアメリカに滞在した。やはり異国、日本とは違う社会の仕組みや生活スタイルを体感した。
4ヶ月間のホームステイの中で、日本人との価値観の違いを肌で感じた。ホストファミリーの主人は、学士を7つぐらい持っていて、転職も当たり前で、最後は医者になっていた。多忙そうでも、夕方には家にいて、家族との時間をとても大切にしていた。自分の「幸せ」という価値観の下、自分が楽しく生きていくというライフスタイルについても学ぶ貴重な経験であった。
実社会での経験。
物事の本質を見出すことの大切さ
大学を卒業後、(株)東海理化に入社した。初めの2、3年は、自動車部品など実際に設計する仕事を担当させてもらった。その後は、取引先との関係をつくっていくことや、社内での人間関係を誠実に築くことに尽力した。仕事をする中で、「物事の本質を見出す」ということを常に頭の片隅におく癖が身についた。常になぜに?なぜに?なぜに?と5回は繰り返しながら、毎日深夜に及ぶまで仕事に明け暮れていた。
優しさと地域愛を
28歳のとき、現在の妻となる三央子と知り合い、結婚することになる。ほぼ毎日深夜までの仕事、妻に寂しい思いをさせまいと、人生の転機となる半田市への移住を決めた。子供にも恵まれ、週末には運動公園へ子供を連れていって遊んだ。
半田に住み始めてしばらくすると義理の父から、「祭りに参加しないか」と声を掛けられる。それまでは強く「半田市」を意識するわけでもなかったが、お祭りをきっかけに半田市という地域性を強く感じる様になる。自分にとって、ここまで地域愛ある人々の情熱を感じることは初めてのことだった。
議員としての経験をふまえ
お祭りを通じ、「地域愛」が溢れる半田に惹かれていた。半田育ちじゃないからこそ、この地域のために役立てるのではないか…そんな思いを抱くようになった頃、地域の先輩議員が勇退することになり、その後任を受けてみないかと勧められた。自分にしかできないことがあるはずだ。やってみようじゃないか!と思い切って、勤めていた会社を辞めて議員に出ることを選んだ。
始まってすぐは目の前のことで精一杯だった。地域の人からの「側溝を直して」という声や「街路灯をつけて」というような声を聴いては、市役所の人に届け、「ゴミ捨て場が汚い」とあれば、掃除を手伝ったりもした。地域の人の声を届けて改善されることは、議員生活の喜びでもあった。
議員として4期目14年。「故郷」半田をもっとよくしたい。教育・経済・文化・・・・・。
市民一人ひとりがもっとそれぞれの価値観で幸せを感じてもらいたい。もっと自分たちの価値を高めていかなければならないと強く感じるようになる。
半田市の未来を描くようになってくると、議員は行政をチェックする立場、もどかしさを覚えた。
「半田の未来」と「自分の使命」
そして、コロナで先行きが見通せない今。
議員としての経験を生かしつつ、このまちのリーダーとして、住む人、働く人が幸せを実感する半田市を作り上げていく必要があると決意に至った。
自分にあるのは、人の声を聴く力。このまち育ちじゃないからこその、このまちの声を聴いて判断していくことは議員生活を通して実践してきた。そして、真面目な性格だからこそ、市民の声を真摯に受け止め、施策に反映していける。やれない理由を並べるより「こうしたらやれる!」という道筋を未来のためにつくりたい。
とことん人に寄り添い、人の意見や気持ちに寄り添い、聴く。集まってきた膨大な情報をまとめ、着地させる。魅力ある半田を作り上げるためには、「育てるべきモノ」「切り込むべきコト」があり、毅然とした決断力が必要だと知っている。今まで以上に住む人、働く人が主役、幸せを感じられる半田市を自分だからこそ作り上げられる。
米国留学で感じた「人それぞれの幸せのかたち」。仕事の中で身に付けた「本質を見出すこと」。祭りに関わる中で感じている強い「地域愛」。………これらを大切にし、未来へ高めるべき半田市という価値を設計していきたい。だからこそ、今ここに、自分は幸せを実現するかじとり役として勤めあげたい。そんな思いを強くしている。