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: 頭の中の機械 : 『アサイラム・ピース』より6編 : アサイラム・ピース 4   目次

夜に

冬の夜の一刻一刻はなんとゆるやかに過ぎていくのだろう。 それなのに、時そのものはさほど長いようにも思えない。教会の大時計は早くも鈍重な田園風の声音で再び時を告げており、その響きは、寒さのために半ば麻痺しているようだ。わたしはベッドに横たわり、充分に訓練を受けた古顔の囚人のごとく、不眠といういつものパターンに身を任ねる。これは、わたしが隅々まで充分に知りつくしている日常事である。

わたしの看守はこの部屋に共にいるが、反抗したり厄介事を起こしたりということでわたしを責めることはできない。わた しは看守の注意を引きたくなく、静かに身を横たえている。あたかもベッドがわたしの棺であるかのように。もし、わたしが一時間動かなかったとすれば、おそらく、彼はそのままわたしを放置して眠らせてくれるだろう。

当然ながら、わたしにはあかりをつけることができない。部屋は暗く、黒ビロードで縁取られた箱を、誰かが凍った井戸の中へ落としてしまったかのようだ。全てが静まりかえったそごで、時おり、霜に覆われた家の骨組がきしみ、屋根から雪の塊がすべり落ちてひそかな溜息のような音だけを残す。わたしは 闇の中で眼を開く、目蓋は、涙が氷結して白霜化してしまったかのように硬ばっている。もし、看守を見ることさえできれば、それもたいして悪いものではないだろう。彼がそこで監視をつづけているのを知るだけで、安らぎとなろう。最初、わたしは、彼が黒いカーテンのように扉の陰に立っているような気がする。天井が箱の蓋のごとく部屋の上に持ちあげられ、彼の背が伸びてゆく。楡の樹を越えてなお高く、月の凍れる山々に向かってそびえたっていく。だが、次の瞬間、わたしは思い違いをしているように感じ、彼はわたしのすぐ横の床の上にうずくまっているように思えてくる。

鉄の帯がわたしの頭をしめつけている。そして、ちょうどいま、この瞬間に看守が冷え切ったその金属に音高く響く一撃を加え、わたしの眼窩に疹痛の針を送りこむ。彼はわたしの探求的な思考を承認しない旨を表明しているのだ。あるいは、ただ単に、わたしに対する権威をみせつけたいだけなのかもしれない、ともあれ、わたしはあわてて再び眼を閉じ、息をする勇気すら失せて掛布の下で身を硬くする。

心を動かさないでおくために、わたしは初めて診察を受けに来た時に外国人の医師が教えてくれた処法を一通り試みはじめる。わたしは繰り返し、自分に言い聞かせる。不眠の犠牲になるような音などはしないのだと。わたしが眼を覚ましているのは、思考を継続させておきたいという、ただそれだけの理由によるものなのだと。わたしは、未来も過去もない新生児の皮膚 に包まれた自分を想像しようと試みる。いま、看守がわたしの心の中を覗いたならば、とわたしは思う、彼は、そこで生起している事に対していかなる異議を唱えることもかなうまい。船長の顔のようにいかめレく、細く鋭いオランダ人の医師の顔が、わたしの前を通りすぎていく。不意に、近くで鶏が鬨を告げる――この世のものとも思われぬ夢幻的な声で、いまだ闇と霜に閉ざされているこの世界に向けて。鶏の鬨は鋭く開いて燃えあがる三枚の尖がった花弁と化し、夜の黒い荒野の中に、瞬時、赤く輝くイチハツの花を咲かせる。

ようやくわたしは眠りの淵の際に立つ。身体の力が抜けていくのが感じられ、思考が混濁しはじめる。様々な想念は、これといって際立った色彩もない雑草を編んだ糸となって、ゆるやかに波打ちながら無色の水の中にとけこんでいく。

左手がひきつり、わたしは再びはっきりと目覚める。看守の前にわたしを呼び戻したのは、教会の大時計の音だ。五つ打ったか、それとも四つだったろうか? 疲れきっているわたしには確信が持てない。ともかく、夜はもうすぐ明けてしまう。頭の鉄帯はさらにきつく締まり、ずれおちて眼球を圧迫している。 それでも、この苛酷な圧迫がもたらす苦痛も、頭蓋内部のどこかから、脳皮質からわきおこってくる疼痛に比べれば、さほどのものとは思えない。病み苦しんでいるのは脳その心のなのだ。その時不意に、わたしは孤独を、腹立ちを感じる。なぜわたし一人が苦悶の夜を過ごすよう定められているのか。世界中の 人々が安らかに眠っている時に、不可視の看守を横に置いて。 いかなる法によってわたしは審判を受け、有罪の宣告を与えられたのか。身に覚えはなく、さらに、誰がいかなる罪状で告訴したかということさえ知らないというのに、これほど重い判決を受けようとは。荒々しい衝動が突き上げる。抵抗せよ、証言審理を要求せよ、これ以上、こうした不当な扱いを受けることを拒否せよ。

だが、裁判官の居場所すらわからないのに、いったい誰に対して控訴できるというのか。いかなる罪で告訴されたのか、それも全くわからないというのに、どうして自分の無罪を証明しうる希望が持てよう、いや、われわれのような人間に対する審判の場はこの世には存在しない。われわれにできることは、ただ、可能な限り雄々しく苦しみを甘受し、迫害者に恥を知らしめることしかないのだ。



hiyori13 平成18年7月6日