初老の男とその妻が主任医師の書斎に立っている。夫のほうは背が高く大柄で、少しばかり腰が曲がりはじめている。しかつめらしく、もったいぶった顔に長い灰色の口髭をはやし、眼の下にたるみがある。ボタン穴に細い赤のリボンをつけている。 男は年令にふさわしく堂々たる風采で、明らかに、人を指揮す る立場にあることに慣れている人物であるらしい。一方、妻のほうは、漠然とした印象の薄い容貌の女性だ。一見しただけで、彼女が結婚以来、夫の支配下にあり、それ以前は両親の支配下にあったことがわかる。
暑い夏の日の正午過ぎ。会見が終わったところである。デス クの後の主任医師が立ち上がる。医師は訪問客と同じくらい長身だが、整った顔だち、華奢な体つき、そして男盛りといった年代で、灰色の条が適度に走りはじめたばかりの豊かに波打つ髪をかなり長く伸ばしている。美しいシルヴァーグレイのスーツを着て、褐色と白の靴をはいている。広々とした天井の高い部屋には贅沢な家具が並んでいるが、フランス窓に引かれたカーテンのおかげで室内はかなり暗い。オー・デ・コロン・アンブレの明瞭な香りが漂っているが、それは医師そのひとから、発している。訪問者に強い印象を与えるために、どこか神秘的な雰囲気をかもしだす努力が払われているような印象を受ける。花があり、暖昧でアレゴリカルな大きな絵が何枚も並んでいる。
二人連はゆっくりとドアの方に向かう。妻のほうは心にかかっていることがあるらしく、立ち去りかねている。言いたいことがあるのだが、この部屋の雰囲気と、そして映画俳優のように彼女をみつめている医師におびえているのだ。彼女はようやくのことで質問を口にする。
「お願いです、先生、帰る前にほんのちょっとだけでも、あの娘に会わせていただけないものでしょうか。こんなにも遠くから来たのですし――それに、前にあの娘と会ってから、とても長い時が……」その声はまさに予想にたがわず、自己卑下的な憶病さにみちている。哀れな老婦人は長旅に疲れきっていて、今にも泣きださんばかりといった様子で立ちつくしたまま、形 のくずれた黒いハンドバックを神経質に握りしめ、探るような眼を医師長に向ける。
「奥様、それは大変な誤ちとなるかもしれません。お嬢さんの心を乱して再発を引き起こすとも考えられます。個人的にはたいへん残念に思いますが、我々は何よりもまず、患者にとって最も益があることを考慮せねばならないのです。違いますかな? これだけは保証いたしますが、お嬢さんは極めて満足すべき状態に落ちついておられる。お嬢さんの回復ぶりにはわたしも大いに感嘆しており、他の医師たちからも同様の喜ばしい報告が届いております。我々の手に任せていただければ、これっぽっちも心配されるには及ぴません。お嬢さんは元気で幸福で、この共同生活にも驚くほどよく溶けこんでおられます」
医師の教養盗れる声は絹よりも柔らかに響いているが、母親にはこの演説の後半部はほとんど聞こえていない。彼女が理解したのはただ、わが子に会うことを許されないというその点だけである。これほど近くに、おそらく声をかければ聴こえるほど近くにいながら、医療上の権限やら規律やらといった眼に見えない厚い防壁の陰に隠されてしまっているのだ。眼の前に霞がかかり、彼女はもはや、自分の進む方向すらはっきりと見定めることができないが、それもたいしたことではなく、夫が腕を取って安全に彼女をドアの外へ導いていく。
「何事も、先生の言葉に従わなくてはならん」夫はそう言う。それから、彼女にば、主任医師の私宅での昼食の招待を断る夫 の声が聞こえる。「たいへん有難い御申し出ですが――申しわけありません。ローザンヌ発の特急に間に合うよう、急がなければなりませんもので」
彼女は震えながら、夫の冷厳な腕に支えられて、磨きぬかれた通廊を歩いていく。二人を案内する白い外衣姿の付添人の姿も眼に入らない。この熱気にもかかわらず、彼女は凍りつくような寒気と、そして老いを感じている。いまや、彼女の前には空虚な家に戻る退屈で疲労にみちた汽車の旅以外には何も残されていないのである。
医師長は、年配の二人連から逃れることができて安堵している。当然、昼食をもてなさなければならないことになるだろうと予想していたのだ。二人を乗せた車の音が消え去ると同時に彼はフランス窓を開いて陽光の中に歩みだす。彼の家は少し離れた湖畔にある。そこに向かって歩いていく途中、すれ違う誰もが足を停めて頭を下げ、優雅で機敏な歩調で歩いていく彼に、この整った容貌の頭脳明析な成巧者たる礼儀正しい医師に敬服の眼差しを贈る。
一方、マドモワゼル・ゼリは自分の部屋で昼食の仕度にかかっている、二十代前半の肥満した鈍重な容貌の娘で、どちらかといえば、巨大にふくれあがった子供という感じである。彼女の身体は幼ない子供のように扱いにくく見え、顔にはある種の狡猜さをひめた子供っぽい単純な表情が浮かんでいる。顔色は青白く不健康で、髪はシャンプーの必要がある。どこから見 ても相当にだらしない格好で、ストッキングには雛がより、背中のところで自いリネンのスカートから水玉模様のブラウスがはみ出して、下着が覗いている。看護婦は窓際に坐って刺繍に專念していたが、ふと眼を向けると跳び上がって、苛立たしげに彼女の服を直す。
「どうして身なりをきちんとしておけないんです「マドモワゼル」看護婦は口やかましく叱りつける。「わたしがちゃんとしてあげたかと思うと、あなたは二分とたたないうちに元通りのひどい格好に戻ってしまう。髪もそう――まだ櫛を入れてないんでしょう。それに、その手――昼食前なのに洗ったの? 見せてごらんなさい――まあ、やっぱりね.さあ、ブラシでよくこすってらっしゃい。爪も真黒じゃないの」そう言って娘を軽くこづき、洗面台の方に追いやる。
ゼリはおとなしく蛇口をひねる。水が洗面台に流れこむ間、彼女は不快げにこの同室者を一瞥する。新しい看護婦である。これまで彼女のもとに長く居ついた看護婦は一人もいない。
「どうしてこの人は、あんなふうにがみがみ言うんだろう?」 彼女は考える。「こんな間抜けどもを一日中わたしといっしょにしておくなんて。昼も夜も……いつもいつも間抜けな声ばかり……それも、何もわからないただの田舎女じゃないの――もう我慢できないわ。母さんさえ来てくれたら……母さんに話すことさえできたら……決してごんなことを許すはずがないわ」
水に手をつけて立ちつくしたまま、彼女は何をせよと言われ たのかすっかり失念してしまっている。看護婦は、憤慨して当然の状況下でなおも自己を抑制するという悲愴なる表情を浮かべて近づいてくると、水を流してタオルを渡し、きびきびと手際よく髪をととのえる。「さあ、さあ、急がなくては。銅鑼が鳴ったわ――聞こえなかったの?」
ゼリはうれしそうに食堂に入っていく。彼女は食べ物が大好きなのだ。だが、今日は、日頃から嫌っている若いイタリア人の隣に席が定められており、その事実によって彼女の楽しみは損われる。若者と看護婦の間に腰を降ろしたゼリは、斜めから疑念の眼差しを向ける。この細い眼のモジャモジャ頭の若者は意地悪な悪ふざけで彼女を悩ませ困らせるのである。
今日の彼は、ゼリを平穏の内に置いておくつもりであるかのように見うけられる。最初の料理を食べ終えて皿が運び去られるまで、若者は全く何も言わない、そして、ウェイターがおさえた音で新しい皿を並べはじめたその時、彼はゼリの方に身を乗り出して耳もとに囁きかける。「ところで、今日の母上と父上の御気嫌はいかがでした? マドモワゼル」
「わたしの母と父ですって? 二人ともここに来たこともないわ」彼女は空虚な、だが疑念だけは残した輝きのない眼で若者を見る。
「おや、嘘じゃありませんよ――今朝、ここに来ておられましたよ。ぼくが廊下にいると、お二人がドクターの書斎から出てきたんです。ドクターはさよならを言ってました。ぼくはこの 眼で見たし、名前もはっきりと聞きました」イタリア人の青年は食物だけにしか関心がないといった様子だが、実は全身、油断なき好奇心の塊と化しているのだ。
ゼリは皿の仔牛肉を一口飲べる。不意にいま若者が言ったことの意味を把む。言葉の内容がようやく理解できたのだ。彼女の手からナイフとフォークが落ちる。「母さんがここに来た……そして行ってしまった……わたしに会わずに!」
彼女の席は二重扉に最も近いテープルにある。ドアは彼女の椅子のほぼ真後だ。ただ席を立って二、三歩進むだけでいい。こうして、彼女は部屋の外に出る。一瞬、全てが未決状態に留めおかれる。ウェイターたちは皿を差しだしたままの姿勢で立ちつくす。騒めきも混乱も起こらない。その間、誰一人として何が起こったのか理解していないようだ。そののち、娘の看護婦が跳び上がって後を追う。同時に、部屋のあちこちで他の者たちが立ち上がり、外に出ていく。若いイタリア人は自分の皿の上に覆いかぶさるように身を屈めている。口にはいっぱいに食物が詰めこまれ、顎は厳粛に咀嚼運動をつづけている。だが、彼の眼尻には悪戯っぽい喜ぴの皺が現れている。彼は幸福なのだ。
ゼリはホールを駆けぬけて主任医師の書斎に向かう。牝診療所の玄関の扉は大きく開かれていて、追手たちは当然、彼女がそこから出ていったと思うだろう。ゼリが書斎へ向かったのは追手から逃れようと考えたからではなく、ただ単に、イタリア人 が彼女の母をそこで見たと言ったからである。むろん、その部屋には、いまは誰もいないが、フランス窓は医師が出ていった時のまま開け放してあり、ゼリはそこを通りぬける。やがて松林に向けて下っていく草の土手に出る。彼女は、足によくあっていないハイヒールのおかげでつまづき、よろめきながら、ぎこちない足取りで急な斜面を駆け降りていく。林に入ると、彼女はいっそう走りにくくなったことに気づく。松葉は滑りやすく、不安定な根が絶えず足をすくおうとするのだ。彼女は調子を乱し、疲労を感じる。静まりかえった林に彼女の息が悲痛なすすり泣きのように響きわたり、心臓の鼓動が滝のように途切れなく、激しく轟く。もつれた髪が垂れかかっている顔は汗で光り、片方の靴はどこかへ行ってしまっていて、いまや彼女は心身ともに乱れきっている。彼女はもう、自分がなぜ走っているのか、また、どこへ向かっているのかもわからない。ただ一言「母さん! 母さん!」それだけを頭の中で叫びつづけている。
突然、彼女は急停止を余儀なくされる。野獣の群を閉じこめておけるほど頑丈な四メートル近くもある鉄条網が地所の境界としてめぐらされていたのだ。盲滅法に走っていたゼリはこの鉄条網に気づかず、激突してしまう。細かな網目に両手を叩きつけながら、彼女の無様な肉体は揺らぎ、地面に崩れ落ちていく。無表情な樹の下に積もった松葉の山に、ゼリは死んだように横たわる。彼女の粗暴な闘入によって破られた木立のささやかな調和が、ゆっくりと戻ってくる。野鳩が頭上でクークーと鳴きはじめる。その穏やかな夏の音、子供時代にはいつも母親のミシンを思い起こさせたその音も、いまのゼリにはもはや耐えがたい。心臓が高鳴り、彼女は皮膚を刺す鋭い松葉をひとすくい掴み取る。そしで、唾液と口紅で汚れた厚い唇の間から発せられる陰鬱な孤独の叫び、この叫びが、まもなく追手たちを正しい方角へ導くことになるだろう。