ハンスはエレベーターを出て診療所のホールを横切る。テープルに置かれたサーモン・ピンクのグラジオラスの大花瓶の真横まで来て、エレベーターの扉を開けたままにしてきたことを思い出す。あともどりしてごく慎重に扉を閉め、それから改めて広大なホールをゆっくりと歩いていく。彼は小柄な痩せた男 でかなり若く、耳が尖がっており、黒髪が額の中ほどまで伸びている。褐色の眼は、本来ならば穏和で悪戯っぽいところがうかがえるのだが、今は穏やかで悲しげだ。全体の印象はいわば辛うじて不安を押さえつけているという感じで、それは、輝く黒い靴の優柔不断な動きにも現れている。彼は、幾分場違いで あるとはいえ、暗い色のタウン・スーツをスマートに着こなしている。
白い制服姿の女性が、中央扉の脇のデスタから朝の挨拶の言葉をかける。彼はそちらを見ることもなく、機械的に答える。 扉の前で彼はしばしためらう。扉は開いたままなのだが、彼にとってそこを通り抜けるのは難業なのだ、ようやく彼は抑制を克服して外に出す。階段の上で、今度はどの方向に向かうべきか決断しかねて、再度、躊躇する。
太陽は眩しく輝いている。眼前には公園を思わせる緑の拡がりが開け、小さな木立やそれぞれ単独にそびえる見事なウェリントニア樹が点在している。人の姿はない。午前十一時、回復期にある患者はみな工芸室かあるいは種々の庭園で働いている時刻だ。
ハンスは落ち着かなげにあたりに眼を配る。この時刻に工芸室で働くことは彼の日常生活の一部でもある。数日前までは、必ず誰かが彼の不在を調べにきたものだが、今は誰も彼に近づこうとしない。彼が自分の時間をどのように過ごしているか誰も気にしていないようである。この事実は彼に異常に不吉な印象を与える。「兄が手紙を寄こしたに違いない。これ以上ぼくをここに置いておくだけの余裕がない、と。まもなくぼくはこの診療所から追い出されるだろう――そうしたら、いったいぼくはどうなるんだ?」
彼は溜息をつき、この数日間もちあるいてしわくちゃになっ てしまった手紙をポケットから取り出す。中部ヨーロッパにいる兄からのもので、書かれてあるのは、家族の将来がかかっている工場に関する悪いニュースばかりだ――ストライキ、解雇、原材料の価格高騰。全村がこの工場に依拠しており、従って全村が困窮しているのである。
ハンスは再ぴ深い溜息をついて手紙を折りたたみもせずにポケットに戻す。彼は黒眼鏡を取り出し、漠然とした恐慌をもたらす陽の輝きから自らを隠すため、それをかける。
不意に彼の顔色が変わる。二十歳くらいの若い女性が自転車に乗って近づいてくる。彼女は体操の教官で、数日前までハンスが邪気のない恋愛遊戯を楽しんでいた相手だ。今の彼は強い不安感に捕えられていて、恋愛など考えるどころではないが、それでも無意識のうちに、陽にやけた彼女のあらわな腕と脚の美しい黄金色を嘆賞している。自転車のハンドルに黒い水着がかかっている。
「いっしょに泳ぎに行こうと誘ってくれないものだろうか……」 心の内でそう思うと、熱っぽい期待の微笑が顔に浮かぷ、実際に湖で泳ぎたいわけではない。この時、彼が何よりも強く切望しているのは笑いと親交と友情ある言葉なのだ。
娘は彼に並びかける。豊かな縮れ毛が陽をあびて白雲のようへにふくらむ。砂利がきしみ、砂粒の小片がタイヤの下から弾ねあがる。挨拶ときらめく歯と速やかな回転音。彼女は行ってしまう。
ハンスはしばらく立ちつくしたまま、去っていく体操の女教師の姿をみつめている。笑いがゆっくりと顔から消えてゆき、やがて彼は歩きはじめる、当てのなさそうな歩きぶりだが、当然のごとくそれは工芸室の方に向かっている。やがて、幾人かの患者が働いている野菜園にさしかかる。青いオーバーオールを着た患者のうちの二人が、ハンスの歩いてい為小道に接した乾いた地面に鍬を入れている。傍らにいる一人の男は園丁のように見えるが、実は患者たちを監視している看護人だ。ハンスが立ちどまってみつめても作業者たちはその視線に応じない。 地面は焼かれ乾ききっていて、その重労働に、彼らの顔には汗が流れ落ちている。二人の男は互いに話を交わすこともなく、幸福であるようにも見えない。だがハンスは、重労働を嫌っているにもかかわらず、ほとんど羨望に近い気持を抱く。規格的生活という確定した秩序の内にある彼らに対して、ハンスは今やアウトサイダーである自分を感じる。彼はゆっくり歩きはじめ、黒イチゴを摘んでいる別の男の前にさしかかる。黒イチゴの繁みは針金に絡みつくよう植えられてあり、その患者はハンスに背を向けて厄介な作業に専念し、注意深くイチゴを摘んでは籠に入れている。ハンスは話しかけたいと思ったが、男の背の無反応な表情に思いとどまり、沈黙したまま、ぼんやりと小道を眺めながら歩きつづける。
ハンスの思考は、いつもの惨めなパターンヘと後退していく――金銭問題、回復しない健康、不安定な現状。いま一度、彼 は指先でポケットの手紙を探る、そう、あの貧相な老いぼれ工場の状態は確かに思わしくない――おそらくもはや臨終といってもいいだろう。父さんがいたら、どんなに心を痛めたことか! 幸せなことに、老人はこうした恐るぺき時代を眼のあたりにするまで生きながらえずにすんだ。だが、ハンス自身の事業はいったいどうなっているのか? ささやかな個人事業ではあるけれど、彼一人の力で築き上げてきた仕事。共同経営者がこれほど長い間、なぜ連絡してこないのか、ハンスがその理由を考えてみるのももう百回目にもなる。前に手紙を寄こしてから既に一か月以上たっている。「病気にでもなったのだろうか? ぼくを裏切るつもりなのか? それとも彼は実際に手紙を寄こしているのに、もっと悪いニュースが書かれているために、連中がぼくらに渡してくれないのだろうか? 本当はぼくが出かけて行って、何が起こっているのか見届けてくるべきなのだ。 すぐに――明日にでも出発すべきなのだ。これ以上待っていたら手遅れになってしまうかもし札ない」しかし、長時間ひとりきりで汽車旅をし、見知らぬ人と話をし、仕事上の問題に専念する、そういった考えは、哀れなハンスには過大にすぎるものである。「ぼくにはできない。無駄なことだ。ぼくのいまの状態では、連中だってぼくにそんなことができるのは考えないだろう。ぼくは病気だ――眠れない、食べられない、決断することもできない。もう、適確な思考をすることさえできないのだ……」彼は絶望的なしぐさで黒い髪を払うように眼鏡を取った が、すぐに目がくらんで、急いで鼻の上に戻す。
やがてハンスは工芸室に到着する。内部から活気にみちた混然たる騒めきが聞こえてくる。大工作業室で誰かがハンマーをふるっている。またどこか別の部屋の機械が雀蜂の羽音のような微かな捻りをあげている。それら種々の仕事場は全て、ハンスが歩いている小道から幾つかの階段によって通じるヴェランダに向けて開いているが、見上げるだけで、窓や扉の付近にたくさんの顔が見える。その幾人かとハンスは頷きかわす。誰もが製本や革細工や籠編に忙しそうだ、工芸室の担当宮がハンスにいい日好だというだけのために、ヴェランダに出てくる。まるで、診療所内の全員が作業に勤しんでいる時でもハンスが戸外をぷらついているのは全くあたりまえだといわんばかりの振舞である。監視者側のこの態度が若者の最悪の疑念に確信を与え、彼はいそいでその場を立ち去る。
一番端の開いた扉の横に、少女が一人で座って画架のスケッチと取り組んでいる。「あら、ハンス!」彼女は愛らしく呼ぴかけてくる。
ハンスは足を停めてヴェランダの石壁に寄りかかる。彼女が描いているものを見たいとは思ったのだが、階段を登るのに要求される労力はあまりに大きく、彼はそこに留まったまま、ものほしげな眼差しを向ける。
「あなた、どうしていつもそんな黒い服ばかり着ているの?」彼女が訊ねる。「とても暑苦しそうだし、陰気だわ――まるでお葬式か、退屈な商談の約束にでも出かけるところみたい」
「そう、まあ、そのようなものだね」ハンスは両の掌に石の温りを感じながら、説明しはじめる。「ぼくは、何を着たらいいのか、絶対に決断できないんだ。毎朝、着換えようという時になっていつもありったけのスーツを出して並べでみるんだけれど、心を決めるのに三十分か、もう少し長いか、とにかくそれくらいかかってしまう。靴の場合も全く同じ――ネクタイも――本当に恐ろしいことだった。こんな馬鹿げたことで悩んでいるなんて、考えられないだろうね。こうして、ぼくはとうとう、選択を回避する方法を思いついた。毎日、同じスーツを着ることにしたんだ。これは、ジュネーブでの例のコンサートに連れて行かれた時に着ていた服。あれ以来、ずっとこれを着ている」
少女はもう何も言おうとしない。彼女はハンスの見捨てちれた表情を見ようとしない。おそらく、興味がないのだろう。おそらく、ちょうどその時、絵のほうに心を奪われてしまったのだろう。おそらく、ただ単に、夢の中に落ちこんでいっただけのことなのだろう。
ハンスはそこを離れる。不意に彼は憎悪のまざった羨望を感じる。「彼女は元気だ――少くとも、ばくの病状とは比べものにならないほどだ。それなのに、彼女は好きなだけここに留まっていられる。一方、ぼくはといえば、一、二日のうちに追い出されて、この現実世界に直面しなければならない」
これまでハンスは無為な引き延ばしをつづけてきたのだが、 ようやく心を決めて勢いよく歩きはじめる。もう一度、共同経営者に電報を打とう。今度こそ、必ず返事をくれるように書いておこう。ハンスは村に至る埃っぽい公道に出る。外に出る権利は彼にはないのだが、それでどうなるというわけでもない、以前も何度も出ていっているこどではあるし、どのみち、この数日間は彼が何をしようとも誰も気にかけたりはしていないようなのである。
ほどなく、熱気のために戸を閉めきった、みすぼらしく薄汚ない家の立ち並ぶ通りにさしかかる。ほとんどの家が牛小舎か馬屋とひとつづきになっている。一軒の家の正面に積まれた堆肥の山に陽があたり、ゆるやかに湯気がたちのぼっている。堆肥の強烈な臭いと熱気、それに急いで歩いてきたことが重なって、ハンスはしばしば目まいを感じる。頭を垂れて静かに立ちつくし、靴を見降ろすが、それは埃のおかげでいまや浮浪者の靴のように真白になってしまっている。無器用な指使いで、上着のボタンをはずす。シャツの正面の小さな裂け目が眼にとまる。「だが、ぼくはボロを着て歩きまわってやる――完全なボロ服で! 次に待ちうけているのは貧民窟だろう」ハンスは乱れた呼吸の下で、一種しいたげられた穏やかな驚きをこめて、そう眩く。
やがて郵便局の前に来る。ハンスは自らを引きずるようにして中に人る。空っぽの部屋には息がつまるような乾いたインクの匂いが漂っていて、窓のすぐ外では、うすぎたない痩せ細っ た数羽の雌鶏が、伸びほうだいの昼顔の絡みついた針金の囲いの中で地面をついばんでいる。ハンスは既にこのうえもなく近しいものとなってしまったその場所の隅から隅までを嫌悪の念をこめてあらためてみつめる。局長が現れる。前白頭で年配の大鼓腹の田舎者だ。ハンスは慎重に考えぬいたあげく、ようやく用件を書いて、カウンター越しに電報を局長に手渡す。
若者が立ち去った後、局長は巨大な腹に電報を押しつけたまま立ちつくして、半ば発信人が戻って来るのを期待しているがごとく、扉をみつめている。それからようやく、彼は慣れた手つきで電報用紙を細かく引き裂く作業にかかり、やがてひとにぎりの紙きれとなってしまったそれを、開いた窓から無造作に投げ出す。貧欲に眼を光らせた雌鶏どもが、うろこのついた頑丈な脚を動かして殺到し、引き裂かれた細片にとぴかかる曾だが、すぐにその紙くずが食べられないものであることに気づくと、不快げにそれを見捨て、再び固い大地をついばむ無益な労働に戻っていく。