わたしには友人が、恋人がいた。あるいは夢に見ただけなのだろうか? 数えきれないほどの夢が押し寄せてきて、いまやわたしには真実と虚為とを判別することもおぼつかない。輝く鉱物の洞窟に閉じこめられた光のような夢。熱く重い夢。氷河期の夢。頭の中の機械のような夢。わたしは小人のようなグラスの底に苦い澱の沈んだ薬と裸の壁との間に体を横たえて、夢を想い起こそうとする。
誰かと手をつないで歩いているわたしが見える。感情と精神とがわたしのそれと溶け合って一つとなった人間だ。わたしたちはいっしょに様々な通りを歩いた。陽光に照らされた古いオリーブの樹林の傍らを、雲雀の歌声と共に泉の水飛沫を浴びる 丘の斜面を、冷ややかな葉から雨滴がこぼれおちる小路を。わたしたちの間には無条件の理解と破壊しえない平安があった。 それ以前は孤独で未完成だったわたしがいまや完全に充足されていた。わたしたちの思考は等しい速度のグレイハウンドのように並んで走っていく。音楽のような完壁さがわたしたちの融合した思考には存在していた。
どこか南の国の宿屋を覚えている。忘却の彼方に去って久しいが、ある危機がわたしたちの生活に訪れたのだ。わたしはただ風にあおられている糸杉の黒い炎と蒼い金属板のような硬質の空を覚えている、そして静かで揺ぎなく完全に安定したわたし自身の確信。「どんなことが起ころうど、わたしたちがいっ しょにいるかぎり、それは取るに足りないことでしかない。どんな状況にあろうと、互いを見捨てたり、互いを傷つけたり、互いに誤まちをおかしたりするはずがない」
緩やかな悲しむべき心の冷化を、いったい誰が表現できるだろう? ほんの小さな傷口がやがて地獄よりも深い淵となることに初めて気づくのは、いったいいつの日のことなのだろう? 年月は一歩また一歩と階段を降りていくように過ぎていった。わたしはもはや陽の光の中を歩くことも、空に向けて囀る水晶の泉のような雲雀たちの歌を聞くこともなかった。わたしの手を包む愛のぬくもりにみちた手はどこにもない。わたしの思考は再ぴ孤絶した断片的な調和なものとなり――音楽は消え去ってしまった。わたしは一人きりで快適な部屋で生活し、退屈な時と共と入生があてもなく流れすぎていくのを感じていた、指先からこぼれ落ちていく年老いた娘の人生。わたしは幾つもの花瓶に花を生けた。
それでもなお、わたしは時おり彼と会った。かつてその心も頭脳もわたしと溶け合っていたように思えた友と。わたしはみつめることもなく彼と会った。同じ人物でありながらもはや同じではない彼と。わたしにはまだ、何もかもが救済の希望すら届かない失われた存在になってしまったとは信じられなかった。わたしはまだ、いつの日か世界が色を失い、カーテンが引き裂かれて全てが元通りになるはずだと信じていたのだ。
しかし、いまわたしは孤独の床に横たわっている。体力は衰 え、困惑している、筋肉はわたしに従おうとせず、思考は窮地に追いこまれた時の小動物のように異常な迷走を続ける。わたしは置き去りにされた迷子だ。
わたしをこの場所に連れてきたのは彼だった。彼はわたしの手を握った。カーテンの裂ける音が聞こえたように思ったほどだった。この長い月日を通じて初めてわたしたち二人は平安に包まれて共に休んだ。
そののち、わたしは彼が行ってしまったことを告げられた。 長い間、わたしにはそれが信じられなかった。しかし、時はたち、一通の便りも届かない。もはや自分自身を欺きつづけることはできない。彼は行ってしまった。わたしを置き去りにして二度と戻ってはこないだろう。わたしはただ一人、永遠にこの部屋にいるのだ。一晩中あかりが灯っているこの場所、専門職の顔をもつ他人の群が半開きの扉からわたしを一瞥していく。 わたしは待つ、待っている。グラスに入った苦い薬と壁とにはさまれて。いったいわたしは何を待っているのか? 鍛造鉄の網戸が窓を覆い、わたしの部屋の扉は開いているが、玄関の扉には錠が下りている。あかりは一晩中、その偏見のない眼でわたしを注視している。夜中に何度も奇妙な物音がする。わたしは待つ、待っている。おそらく、今やわたしの真近にまで迫っているはずの数々の夢を。
わたしには友人が、恋人がいた。それは夢だった。