でね、続きね。
なんでこれを書いてるかと言うと、それを知らないと自分を騙し、あっという間に何十年もロスしちゃう。
それが気の毒だなと思って書いています。
まあね、時節因縁と言う言葉があるようにそれも必然かも知れません。
あなたの最終の到達すべきポイントに向かって歩む、そこでの必然性の故かも知れないけどね。
まあ、この文章に触れるのも因縁と言うことで・・・^^;
SRKWブッダさんという自称ブッダさんがいらっしゃいます。
わたしは彼の書いたものを幾つか読んで、確かにお悟りになっていると確信しました。
でも、仏教のブッダじゃないよ。
飽くまでも彼の定義ではブッダであるのでしょう。
わたしが彼が悟ったと思った記述は数行なのですが
「何があってもドキッとしない」
「他人の顔が数センチに迫っても、不快な感じがしない」
「すでに、怒りがどんな感情か忘れた」
これは感覚、表象の停止が起こっているのね。
(五蘊が停止してるようです。色、受、想、行、識ね)
彼は頓悟禅で悟ったのね。
何か公案になる課題を解いたのです。
ところがここ1年以内のTwitterの彼の呟きを見ると、明らかに落ちています。
というか、元々その辺のステージなのかも知れません。
発言を比較すると、エックハルト・トールさんや、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシの方が遥かに高いです。
かれは自分を如来、修行完成者と自称するし、9人ほどお弟子様がいらっしゃいますが、既に何人かは如来に仕立て上げたそうです。
奥様の涼風如来様は虚心坦懐になって六祖壇経を読んだら解脱されたと。
これはちょうど慧能が金剛経の一節、「応無所住、而生其心」を聞いて悟ったというのを追体験したと言いたいのでしょう。
白隠も確かに大悟したんだけど、晩年おかしな行動に出てます。
一番弟子が可愛くて300両出してお寺の格式を買って上げたり、印可を誰彼なしに乱発したり。
これは大乗のブッダではステージをキープ出来るけれども、阿羅漢は社会と接すると落ちるからだと思うのね。
だから、古代の仏教徒はサンガや伽藍に籠もったと考えています。
白隠は自分を大乗だと言うけれど、今の日本の仏教家は全て大乗を「人を教化するのが大乗」と間違った理解してます。しかし、本当は阿羅漢です。
あ、逸れた!
そこでね、先程書いたように
まず自我の消失を初めに経験します。
心がぱっと消えちゃう。
すると明鏡止水(これは莊子)という表現がぴったりな心の寂静を感じます。
水面の波紋が停止して、心が鏡のようだと言うの。
次に五蘊の停止していることに気が付きます。
- 色 身体はわたしではない(SRKWブッダさんはこれを身解脱と言っています)
- 受 感覚に左右されない
- 想 イメージも生じない
- 行 意志も生じない
- 識 好き嫌いも消滅
これが名色の停止と言われるものです。
名色とは五蘊を心の要素と物質の要素で分けた概念で、同じことだと思っていいよ。
これをね、心解脱と言って主に止観の瞑想のうち、止(シャマタ)集中ね。これで行くぞと釈尊は言っています。公案は集中なので、悟って理論通りだと思います。
慧解脱は観照ね。
ヴィパッサナーのことなんだけど、テーラワーダの人が主にやってるマインドフルネスは違うと思うんだね。
前に書いたので参照してみてね。
分かるよね?
悟ったと思いこむのと、本当に悟った状態の違いね。
悟りは観念の気づきや、哲学的な発見じゃないのね。
「お米は色んな要素、タネになるお米を田に蒔いて、水をやり手間を掛けて、秋には収穫される。人は一人では生きていけないのだ。この服だって、スマホだって多くの人の努力の上に依存し合って助け合い生きているんだ。それを感謝して精一杯生きていこう!」ってのはもう、全然悟りでも何でも無いからね。
それを言って印可貰う人は多いようですが。
印象としてはね、自分の目の前で生じていることが紙芝居・・・わかるかな?
或いは影絵芝居を見ているような感じにあなたの感覚が全て一変します。
虚像に感じるのね。
ま、映画でもいいんだけれど、アカデミーを取るような質の高い作品は心と連動して、感情移入を起こすでしょ?輪廻に落ちるのと変わんないねこれじゃ。
曹洞禅のお坊さんが瞑想はいかんが禅はいいと言うのは、これも馬鹿げた話でね。
彼らが只管打坐とか禅と言ってるのは「全て無視」する心の操作を言ってるの。
心に生じたものを全て無視するのね。
ところが彼らは瞑想は対象を認知する心の働きだから悟れないと言ってる訳ね。
これは心解脱だけが解脱と思い込んでる狭量な考えなのです。
即身成仏の為の、真言宗の月輪とか五相成身観や五字厳身観、阿字観とかね何だと思っているのかなと思いますね。
ブッダの説いた四念処とかね。
このように慧解脱、心解脱、信解脱を経験しないと偉そうにしちゃ駄目だよ。
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コメントありがとうございます。
先程の件は該当のブログに追記で書きました。
調べたのですが、やはり仏教タントラではサハスラーラに真我、空洞ではありませんが、アナハタに法身が存在するとわたしの奥義書には記してありました。
>なにがしかのお役にたてればと思っています。
お心遣い、感謝いたします。
わたしの修行はチベット仏教に属する、生起と究竟の瞑想が主です。全体として半分はクンダリーニ・ヨーガも混じっています。
ホワイト・ターラー
2021-06-04 06:44:55
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