2012/7 素晴らしいこと探し
多方面に渡って拾い集めてます
2012/3 天才血管外科医 Dr.大木隆生
天才血管外科医。Dr.大木隆生(おおき たかお) 米アルバートアインシュタイン医大病院の血管外科教授を兼務(2007/5)血管外科診療部長⇒東京慈恵会医科大学付属病院 東京都港区新橋3-25-8 TEL:03-3433-1111(代表)
首や脚の血管がつまる動脈硬化症や、大血管が膨れる大動脈瘤などの治療を専門にする血管外科医だ。95年に米国に渡り、以後11年間、米国で外科専門医になるに厳しいトレーニングを5年間受ける。成績が悪いと、切り捨てられる。新卒の医学生約3万人中、外科研修医の枠は1/30の1000人。日本と米国(ニューヨーク州)にて医師免許取得。米国アルバートアインシュタイン医科大学研究員を経て、同大学部長、同大学教授。現在、東京慈恵会医科大学血管外科学教授、同大学外科学講座チェアマン(統括責任者)。 所属学会: 米国血管外科学会、国際血管内治療学会、国際脈管学会(第50回会長)、日本外科学会(代議員)、日本心臓血管外科学会会員、日本血管内治療学会、日本血管外科学会(評議員)、日本脈管学会(評議員)ほか。 専門医: 日本外科学会指導医、日本心臓血管外科学会専門医。
膨らんだ血管の壁に負担をかけないようにステントグラフトで血液の流れを淀まないようにする・・
ステントグラフトを患部へもっていく技術が名人芸に近いワザだ。
これは一箇所だけの単純な場合だけではない。
東京慈恵会医科大学病院 外科学講座 統括責任者 血管外科 教授・診療部長 大木隆生先生に「閉塞性動脈硬化症」について解説していただいています。
2012年6月27日アップ
(プロフィール)
1987年東京慈恵会医科大学医学部卒業
1994年東京慈恵会医科大学大学院卒業、医学博士取得
1995年米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科研究員
1998年米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管内治療科部長
2002年米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科部長
2005年米国アルバートアインシュタイン医科大学血管外科学教授
2006年東京慈恵会医科大学血管外科講座教授、診療部長
2007年東京慈恵会医科大学外科学講座Chairman(統括責任者)
住まいは、通勤の時間を節約するため、病院から歩いて1分の所にあります。外来診察は、いつも深夜までかかります。ときには午前4時過ぎに帰ることもあり、休みは年2回、医局のゴルフコンペという「公務」のときだけという凄さです。
大木先生は“1日20時間におよぶ診察・手術を365日休むことなく続ける、世界で一番喜ばれる人”とも呼ばれており、自らの体をボロボロにしてまで、患者の治療にあたると言う姿勢を貫いています。
大木隆生は32歳で無給医としてアメリカに渡り、生まれて間もないステントグラフトの開発に携わりました。以後手術不可能と言われた患者たちを次々と救い続け、「ベスト・ドクター・イン・ニューヨーク」の血管外科医部門に4年連続で選出されました。
渡米後わずか10年で、名門医科大学の教授となり、年収も1億円を超える待遇を得ていましたが、同胞である日本人の命を救うため、その地位と名声を捨てて、日本に帰って来ました。
大木隆生先生は、最先端の人工血管「ステントグラフト」を用いた治療の世界随一の使い手で、他に治療法がない患者にとって“最後の希望”と言われています。
大動脈瘤(りゅう)・頸動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)症・閉塞性動脈硬化症などを人工血管「ステントグラフト」で治療する大木先生の手腕はもはや匠の業の域に達しています。
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慈恵医大病院血管外科の大木隆生教授は、米アルバートアインシュタイン医大病院の血管外科教授を兼務する。
大木教授が卒後7年目の医師の待遇を両病院で比較したところ、大きな差があった。 ア大の年収は約2500万円で慈恵医大の5倍強。労働時間はア大の週50時間に対し、慈恵は80時間。
ア大では、個室と専属秘書がつき、当直もない。「腕に差はない」(大木教授)のに、なぜこれほど違うのか。
日本の医療費は年間総額約32兆円。国内総生産(GDP)に占める割合を経済協力開発機構(OECD)30か国で比較すると、日本は8%で、21番目。米国(15.3%)、スイス(11.6%)に比べ低く抑えられている。
「米国の大学病院では、ベッド数当たりの看護師が(日本の)5倍はいる。事務職員も同程度。日本では、医師が看護師や事務職員の仕事の多くを担うことで医療費を切り詰めてきた」と、大木教授は指摘する。
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日本の医者は低能な者が多く、ヤブなのには、
エリート構想というものがないせいもあると思う。
アメリカは成功の国、努力した者にはそれなりの待遇がある。
ところが、日本の場合は、権威の国。
多くの医師は医局の犬として生きるしか能がなく、まさに媚を売り続ける無様な人間が多かったわけである。媚を売ることに終始するから、能力が低い医師が多いのかもしれない。
実際、T大ではこう治療するのだ、K大ではT大とは違うこう治療するのだ・・・と教授や医局の意向が治療方針まで影響を与える。医局の権威のぶつけ合いで、患者は治療上不利益を受けることも多いのだ。これが日本の医療の現実である。
誇り高き狼達がうまい思いをする国と、
プライドのかけらもない下僕犬達が大人しく群れている国の違いである。
日本の医師は、人間としてレベルが低すぎる。
その結果、医療のレベルも低いものになっていると言わざるを得ない。
日本人医師が優秀ならば、米国に渡り、そこで名を上げ成功者となり、米国の医療システムを日本に持ち帰らなければならない。しかし、日本人医師が今行っていることは、医療崩壊である。
エリートとしてのプライドをもち、成功者になり、世の中の発展に寄与する・・・という考えが日本の医師には無い。医局の中でまわりの人間と同じような汁をすすりながら何の疑問も持たず、持ったとしてもそれをすぐに心の底にしまい、生きていくしか能がないのが
米国のような弱肉強食主義から離れすぎている日本の医師は、何と甘い環境にいることだだろう。実に甘えた奴らだ。年収3000万欲しければ、甘えてないで働け。
私の勤める会社だが、私には、個室と専属秘書がついている。
さらには、専属税理士までついている。
秘書は司法書士であり、法的文書の手続きやスケジュール管理など全て行ってくれる。税理士は確定申告のとき、毎年計算して書類を作ってくれる。また、会社には顧問弁護士もおり、法的闘争の準備も万全だ。
これは、弱肉強食の世界を生き抜いてきたからもらえる待遇である。
はっきり言っておくが、努力もせずにもらえるわけがないのだ。
米国の医師の7年目で年収2500万+個室+専属秘書という待遇も全員がもらえるわけではない。優秀だからもらえるのだ。
日本人医師の多くは、渡米してもこの待遇を得ることはできないだろう。なぜなら、日本人医師の多くは無能だからだ。
有能ならとっくに米国に行っており、年収2500万+個室+専属秘書の地位を得て、米国でプール付き豪邸を買っているだろう。
日本の医師は自分達の地位は不遇だと嘆く。
しかし、それは大きな勘違いをしている。
有能だと思うのなら、今すぐ米国に行って、年収2500万を得ればよい。
それもせずに、日本の医師は年収が低いなどと嘆いても、それは自分が無能なだけなのだ。
大体、日本の医師全員に年収2000万以上などもってのほかである。
一部の有能な医師だけが年収2000万以上を得るべきであって、無能な医師は年収500万以下で充分である。
今、会社でも同じことが起こっている。
優れたマネジメント能力やマーケティング・営業ができる一部の人間が年収1000万以上を得て、誰でもできる作業労働しかできないものは、常勤ではなく、フリーターたちの仕事になっている。
医師も採血や点滴しかできない研修医は、フリーター並の年収300万が当然であるし、その後成長しない医師は、年収500万もあれば上等である。
血管外科では6人の外科医で毎年、1800件以上血管外科手術をしている。秘書、専属看護師、保険事務員、臨床検査技師、実験補助員ら計40人のスタッフが配置されている。
6人の外科医は、手術記録やカルテなど雑用はないので、手術と診察、研究開発、論文執筆や講演活動などに専念できる。彼らの平均年収は5000万円で、当院の内科医の約4倍だ
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大木先生は病院の目の前に住んでいます。
理由は、「やることが多いので。1分1秒を無駄にしたくないから。」
朝食もエレベーターの中でカロリーメイトで済ませます。
他の病院で手術ができないと言われた患者さん・・
外来には全国から大勢の人が来ます。
大木先生は、全員の診察が終わるまで、休憩・食事を一切とらないそうです。
大木先生が、この日に病院に来たのが午前6時40分、そしてすべての患者さんの診察が終ったのが翌日の午前4時過ぎ・・・
大木隆生先生は、「休憩なしでやったほうが早く終わる。そして、空腹時の集中力を利用して診る方法を身につけてた」とおっしゃってました
また、預かった命を早く助け出すために、大木先生は週4日、手術室に立ちます。そして、1日4件の手術をぶっ通しでやるそうです。年間にすると800件の手術を行います。このステントグラフトを用いた手術では年間件数が、桁違いで世界一だそうです。
そして手術の後も、論文の作成や230名の外科医を束ねる教授としての仕事が山ほどあるそうです。
そんな生活をしているので、大木先生の身体は満身創痍(まんしんそうい)。首から腰にかけて、鈍い痛みがずっとあるそうです。麻酔科の先生に、痛み止めを打ってもらい、仕事をしています。
麻酔科の先生からは、「1ヶ月ぐらい仕事を休まなきゃダメだよ」と言われていますが、まったくそういう気はないそうです。
大木先生には奥様と二人のお子さんがいますが、お子さんたちと会えるのは、月に数回あるかどうか、だそうです。
なぜここまで医療にすべてを捧げるのか?2009/4当時
まかせてください。
ステントグラフトの手術をはじめ、血管病のスペシャリストとして知られる大木のもとには全国各地から患者が訪れる。なかにはほかの病院で「手術不能」とされ、大木に最後の希望を託そうとやってくる患者も少なくない。
大木は手術がどんなに難しかろうと、可能な限り引き受ける。そしてリスクを伝えた上で「まかせてください」と伝える。医師にとっては勇気のいる言葉だが、医師としての覚悟を示すことが、患者との信頼関係を醸成する第一歩と考えるからだ。
世界一喜ばれる人になりたい
預かった命を1日でも早く助け出すために、大木は週4日、手術室に立ち、年間およそ800件の手術を行う。大動脈瘤(りゅう)・頸動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)症・閉塞性動脈硬化症など、脳と心臓を除く全身の血管が対象だ。 朝から晩まで手術台に向かい続ける日常を支えるのは「ただ、人に喜ばれたい」という想いだ。劣等感を抱いて育った幼少期、人から感謝されることの喜びを痛感し、大木は「世界一喜ばれる人になりたい」と目標を立て、医師になった。今もその想いを胸に患者と向き合い続ける。1日4件、年間800件の手術を行う大木。その日常は壮絶だ。
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掲載:2007年12月
デバイスラグの背景に各国との“ラベル(適応)”の違い
私は東京慈恵会医科大学を卒業の後米国のアルバート・アインシュタイン医科大学病院に12年間勤め、昨年慈恵会に戻ったのですが、現在も1か月のうち1週間程度は米国で治療にあたっています。この経験から日本と米国をはじめとする他の先進国との医療機器の導入時期の違い、いわゆるデバイスラグについて説明します。
デバイスラグは日本における医療機器承認の遅れが原因と指摘されていますが、それだけではなくて「ラベリング(適応)」と呼ばれる保険制度全般にかかわる違いがあります。
1例をあげますと、原因不明の腎不全、高血圧となり、透析療法を受けられていた女性の患者さんのケースです。検査の結果、両方の腎臓への動脈が閉塞していることがわかり、ステント治療によって腎臓の機能は大幅に改善し透析治療が不要となったうえに元の仕事に復帰することができました。このように腎動脈ステントは、とても有用な医療器具ですが、日本で保険診療の枠内で使用できるのは、太くて硬くて使いづらい、旧式のものです(Palmazステント)。このモデルは米国で6年前に販売中止になったもので、現在はそれから3世代進んだ細くて、しなやかなステントが使われています。この新世代のステントは日本でも販売されていますが、腎動脈に使用した場合は保険で支払われず、ステント代金は病院の持ち出しとなります。その理由は、新世代のステントは、米国では胆管用の「適応」しか取っていませんでしたので、そのデータをもとに日本での承認を得た際には当然のことですが「胆管」用という制限がついたのです。
この胆管用という「ラベル(適応)」が米国では日本のように臨床現場において問題にならない理由は、米国での病院に対する治療費、入院費は診断名によって一定額が支払われる“マルメ(DRG)”制度だからです。すなわち、DRGによって支払われた診療報酬をどのように使うかは(ステントの種類も含め)病院の裁量に任されているのです。
一方日本では、ステントなどは特定保険医療材料と呼ばれ、出来高払い方式ですので、保険算定(請求)するたびに、その器具の「ラベル(適応)」とその患者の診断名、手術方式が一致していない場合は保険から支払われないのです。なぜメーカーが米国で腎動脈用の適応ではなく胆管用の適応を取ったのかと言えば、胆管用のデバイスの申請をすれば、必ずしも臨床試験が要求されず、審査のハードルが腎動脈や血管用ステントの場合に比して低いからです(510k承認)。
小さなマーケットに特有の審査ハードルの日本
米国ではこのような器具の承認パスウェイを510kとよんでおり承認取得のためには必ずしも臨床試験が要りません。従って、先の新世代の腎臓用ステント(ラベルは胆管)に関する臨床試験データがありません。腎臓に使用した際のデータがあればそれを和訳して日本の厚生労働省に提出すれば、腎動脈用のラベル・適応を得られるのですが、和訳するデータがないために日本でも胆管という適応しか取れなかったのです。日本で独自に腎動脈用の臨床データを集めようとすると多大のコストがかかり、日本だけの小さなマーケットではまったく採算が取れないということになってしまいます。腎動脈や脚(大腿動脈)のステントは効果が高いのですが、日本では“ラベルが合わない”のでほとんどの場合、使えない、これは患者さんにとって不幸です。
こうした保険制度の違いに加えて、日本では審査期間が長くかかるということが、デバイスラグ問題を一層複雑化しています。なお、審査期間に関しては米国の356日に対して日本は1,083日というデータもあります。審査期間が長くかかる原因はいくつもありますが、臨床試験を行う病院のインフラ不足、メーカーの薬事スタッフの経験・能力不足、審査機関のスタッフの不足などは大きな障害と言えるでしょう。
総医療費削減政策では解決しないデバイスラグ
日本では国民医療費の削減が政府で検討されていますが、まず日本の医療費は決して高くない、総医療費も対GDP比では先進国中最低で、米国の約半分です。また医師の報酬も、診療科により違いますが、外科系勤務医では、大雑把に言って米国の1/3~ 1/5と低く抑えられています。その上、日本の医師は少ない人数で(先進国と比較して)安い給料でしかも激務についているといえます。私自身のケースでいえば、米国での年収と日本での報酬には約10倍の違いがあります。対GDP比の総医療費や実際の診療現場の現状からみて医療費の削減という方向は不適切でしょう。
デバイスラグについても同様で、先進医療機器の導入を早くするためには機器の価格を上げる(償還価格を高くする)ことが有用です。日本の医療機器のマーケットは世界の10%程度で、世界が日本のマーケットに合わせて制度を作るということはありえません。前述したような特異な日本の審査・保険制度を抱える日本にいち早く先進機器を導入するには、まず機器メーカーが日本にいち早く申請してこなければなりません。
日本をメーカーの目から見て魅力ある市場とするのにもっとも大切なのは償還価格です。近年は医療費抑制政策の延長で、償還価格が低く抑えられる傾向が続いていますが、現行レベルでは採算が取りにくく、したがって、海外メーカーの日本離れ、はずしが進んでいるのです。性能のよい、先進的機器が日本に入ってこないという事態は日本の患者にとって不幸なことです。償還価格をもっと引き上げて、日本をデバイスメーカーにとって魅力的な市場にすることが重要でしょう。十分な償還価格がつけば、日本が抱える前述した様々な課題、すなわち、審査機関の審査人員増強や臨床試験を行うインフラ整備、有能な薬事スタッフの採用(企業サイド)などが可能となり、デバイスラグは徐々に解決するでしょう。
慈恵医大では現在、寄付講座として「医療器具評価学講座」を立ち上げる準備をしています。医療器具評価の教科書を作成し、行政の審査官、企業薬事スタッフの教育を進めていく計画で、これらの活動もデバイスラグの解消に役立つと期待しています。
医療に経済的インセンティブはそぐわない
なお、日本の医療制度に関してですが、勤務医に経済的インセンティブがない上に給与が低く、診療科によらず一定であることが特長としてあげられます。このことは私の給与が、米国から帰国したことにより約1/10になったことからも見て取れます。慈恵医大に赴任してから、一日の平均労働時間が19時間程度の激務を通して、私の担当分野である血管外科の売り上げを3年前に比べ10,000%(100倍)にしました。
もともとはマイナーな診療科であった血管外科は、現在、循環器内科、心臓外科、脳外科、泌尿器科、肝臓外科などの売り上げを凌駕しています。しかし、こうした業績に伴う賞与等の経済的インセンティブは一切ありません。でも、私はこれでいいと思っています。そもそも医療に競争原理や経済的インセンティブはそぐわないと思います。医師は消防署の消防士と同じでいいと思っています。すなわち、火消しが上手な消防士があちこちから出動要請されても、それは消防士の使命であるから当然のことであり、それに対して経済的インセンティブをつける必要はないのと同じです。何でもインセンティブで人や組織を動かしている米国で実際に見られていることですが、医師に経済的インセンティブを与えると、過剰診療を招きます。消費者とサービスを提供する側に情報量において圧倒的な差がある場合には、特段の消費者(患者)を保護するシステムが必要です。
そもそも日本の医師の大多数は、患者の命を救いたくて、社会貢献がしたくて医師になっているわけですから、その志を矮小化する経済的インセンティブには抵抗があります。とはいえ、勤務医が不当に低い給与水準と激務に耐えているにもかかわらず、日本にある病院の43%が赤字という事態を招いた低医療費政策は改善し、医師の使命感に頼り過ぎない環境を創出する必要があります。すなわち、経済的インセンティブはなくとも、給与水準を改善し、医師数を増やすことにより、一人当たりの負担を軽減する措置が急務です。
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大木氏はかつて著名であった医師としての父の存在にコンプレックスを持ち続けていたが、その父の仕事の関係で外国生活で得た英語力をきっかけに高校時代に友人の英語の勉強を手伝い喜ばれたことで「人に喜ばれる」ことの嬉しさに目覚め、医師としての道を歩き始めたのだそうです。
この分野の先進国であったアメリカで血管外科医師として天才と呼ばれるほど能力を止められ、年収がかるく一億円を超えていたのに、母校である慈恵医大病院に乞われて、収入が数分の一になるのを分かっていて帰国し現職についた
週4日、手術室に立ち、自ら腰痛の麻酔薬を打ってもらいながら明け方まで仕事を続け、年間およそ800件の手術を行うそうです。大動脈瘤(りゅう)・頸動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)症・閉塞性動脈硬化症など、脳と心臓を除く全身の血管の手術が専門で、この大木氏のところに来る患者は多くが他の病院でさじを投げられた難病の方ばかりなのだそうです。
実際、番組の中での80歳半ばの患者さんが、10時間にわたる手術で、手術自体は完ぺきだったのに合併症で亡くなってしまったのですが、家族は先生を訪ねてこられ、心から感謝し、先生はお返しにその自分が全力で戦った手術の際に着用していた白衣を遺族の方に渡されていました。みな患者さんも家族も、この先生が「最後の砦」で、それを知りながら先生が全力で火中の栗を拾おうとしてくださっているのだということを分かっていて「命」を預けているということ
朝から晩まで手術台に向かい続ける彼の日常を支えるのは「ただ、人に喜ばれたい」という想いだけなのだそうです。
劣等感を抱いて育った幼少期、人から感謝されることの喜びを痛感し、大木氏はひたすら「世界一喜ばれる人になりたい」という思いを持ち続け、医師として、患者と向き合い続けているのです。
インタビューでの最後の言葉
「プロフェッショナルとは・・経済的動機づけではなく、使命感ややりがいをその原動力として事に当たる。それでいて、自己の利害、ときには命もかえりみない、いわばアマチュアリズムの極致がプロフェッショナルではないでしょうか。」
かれこそ本当のエリートですよね。霞が関近辺を中心にたむろするあのパラサイト官僚どもに爪の垢を飲ませるのももったいないと思うのです。高学歴でも、彼らにはこの先生の言葉の意味はまったく理解できないでしょうね。
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記事提供:株式会社メディカル・プリンシプル社
2008年11月号より
■ ステントグラフトで 世界を牽引する 誇るべき日本人
東京慈恵会医科大学血管外科学教授の大木隆生氏から目の前に差し出された円筒形のステントグラフトは、長さにして15センチ以上、直径も3センチはあるだろうか、想像以上に大きい。文字どおり金属製のステントと布でできた人工血管(グラフト)は、実に素朴なつくりで、これをいかにして血管内に入れ動脈瘤の患者を救うのか説明してくれる大木氏の話を聞きながら、こんな物体が血管の中に入るのかと感嘆するばかりだった。
つい最近まで大動脈瘤手術のほとんどは、胸や腹を切開して動脈瘤を切除し、その部分を人工血管に置き換える方法が用いられてきた。長期の成績が確立しているものの、侵襲が大きく合併症の確率も高いこの人工血管置換手術の短所を克服する術法として開発されたのがステントグラフト術。脚のつけ根の動脈からカテーテルを入れ、その中にステントグラフトを通して動脈瘤の部位まで運んで開く。ステントグラフトは、金属バネの力によって広がり血管内壁に張りついて固定される。大動脈瘤に内張りをすることにより瘤の破裂を防ぐのだ。大動脈瘤が高齢者に多い動脈硬化を原因とするだけに、切開部を小さくでき患者の負担がきわめて少ない術法の出現は、大きな福音だろう。
新しい術法は1990年代に欧米で生まれ育ち、我が国での普及はまだ端緒についたばかり。だが、アメリカにおいて同術法の著しい進歩を導き、世界でもこの分野の頂点にいると認められているのは、誇らしくも日本の大木氏である。
彼は、現在もアメリカのアルバートアインシュタイン医科大学外科学教授を務め(兼任)、2004年から4年連続でBest Doctors in NYに選出、『Newsweek Japan』では2002年に「アメリカで認められた日本人10人」に、また2006年の同誌では「世界で尊敬される日本人100人」のひとりに選ばれた。これまでに世界13ヵ国で招待手術を行い、多数の欧米の権威ある外科学会雑誌の編集委員である傍ら、『Endovascular Today』誌の編集委員長も務め、過日は第50回国際脈管学会を東京慈恵会医科大学(以下、慈恵医大)で主宰した。特筆すべきは、これらの栄誉すべてを彼が40代半ばの若さで手にした点だろう。
ここまで読み進んで、疑問を抱く読者がいるかもしれない。「では、なぜ今、彼は日本の大学教授になっているのか?」。大木氏ほどの実力があり、働き盛りの医師ならば、名声を得るにも、経済的にも、アメリカにいたほうが圧倒的に有利だろうと誰もが思う。実際、日本に来て、彼の年収はアメリカ時代の月収とほぼ同額になったそうだ。大木氏自身も「帰国しなければならない外的要因は何ひとつなかった」と述べる。では、なぜ──疑問は深まるばかりだが、彼には戻る以外の選択肢はなかった。
■ 各地を転々としつつ 幼心に芽生えた 「本拠地」への渇望
少々乱暴だが、彼のこれまでの人生は、大きく2つに分けられるだろう。つい最近、現職に就くまでの流転の人生と、それ以降。「流転」の表現はオーバーに聞こえるかもしれないが、大木氏は、どこが自分の落ち着くべき場所なのかわからないまま、必死で「本拠地」探しをつづけてきた。
小学校6年のときの大木家。ブリュッセルの自宅で(右端がご本人)↓
「僕の流転生活は日本に生を受けて産声を上げた瞬間から始まっていたように思います。母の実家は高知県にあったのですが、次男の僕が生まれる際、祖父が、『長男は東京で育てているのだから、次男は高知で産み、高知に置いていけ』と、旧家の家長ならではの強権を発動した。3歳のときに、さすがに不憫に思った両親が引き取りに訪れ、東京へ転居して5歳までは東京に住みました」
しかし、それは流転生活のほんの序章。商社マンだった父について小学校入学のタイミングにはロンドンへ。言葉もわからない子どもたちの中に放り込まれてもみくちゃにされた。4年半後にはブリュッセルに転居、フランス語の学校に入れられてゼロから再スタート。その後は、ベルギーとイギリスの都市を転々としながら中学生になるまで合計8回の転校を繰り返す。言葉と環境の変化は、感受性豊かな幼少期の子どもにかなりのストレスを与えたのだろう。必然のように彼の中には本拠地を渇望する気持ちが芽生えた。
「中学2年のとき帰国が決まったのですが、僕の心の中ではベルギーが本拠地になりかけていた時期で、『いい加減にしてくれ、ここにいたい。ベルギーを自分の本拠地にしたい』と、主張しました。結局、父に『これが最後だから』と説得されたのですが、説得を受け入れると同時に心に決めました。もう絶対に動かない。僕の本拠地は、日本なのだと」
■ どうしたら人に 喜んでもらえるのか 探しつづけた半生
「振り返れば、僕の半生は、本拠地と『どうしたら、人に喜ばれるか』を探す日々だったように思います」
大学時代に熱中した硬式テニス
微笑交じりに自らの歩みを総括するが、10代の少年が本拠地を探す姿は悲壮と言えなくもない。大木氏は、特殊な境遇の中で、葛藤と自己分析を繰り返した結果、医師の道を選んだように感じられる。
「小さいころ僕の家は、たぶん経済的には恵まれていました。高知の実家は元造り酒屋で、祖父も伯父も政治家。父は総合商社の重役で、ヨーロッパ赴任時代の車は運転手つきのロールスロイス。いつも日本から来る政治家や著名人を招き、食事をしたりパーティを開いたりしていました」
大人に交じって華やかな世界に触れながら育った早熟な少年が自分の将来像を探し始めたとき、思い浮かんだのは「楽しい仕事」。そして、自分は何をしたら楽しいのかを突き詰めてみると、人に喜ばれる、人の役に立つことだった。
大学時代に所属するテニス部が3部リーグで優勝して2部リーグ昇格が決まったとき。「今でも人生でもっともうれしかった日」(中央、上半身裸で立っているのがご本人)↓
「当時通っていた暁星中学の先生に人に喜ばれる職業を問うと、『窮地を救ってくれる弁護士か医師』と言われ、僕は、瞬間、医師になろうと決めました。しかもメスを握って己の技量で治せる外科医になろうと決めた。子どもだったんです(笑)。それからは左手でお箸を使ったりと、子どもながらに外科医をめざして懸命でした」
経済的に恵まれた境遇が、同時に満たされた境遇とは限らない。本拠地を渇望しつつ、「人に喜ばれる」ことを仕事に求める大木少年の心。そこに本人にしかわからない虚空があったと推測するのは考えすぎか。
■ 流れに流れて 行き着いたのが 血管外科の世界
華やかだった両親の交友関係
大木氏は「人に喜ばれる」道をめざして慈恵医大に入学、専門には紆余曲折を経て血管外科を選ぶ。
「最初は、整形外科医を志して2年間をすごしましたが、上司との外科医観の食い違いから一般外科に転向し、今度は身近にいた先輩の姿に憧れ、呼吸器外科を専攻する希望を出しました。でも、定員オーバーで教授に断られてしまった。その様子を見ていた血管外科医の先輩が、いっしょにやらないかと誘ってくださったのです。先輩の気持ちがうれしくて、何もわからないまま、まさに二つ返事で専門を決めました。とにかく外科系であればなんでもいいと、流れに流れて行き着いたのが血管外科でした」
しかし、血管外科を学び始めるとすぐに、大木氏は将来に横たわる運命の皮肉の存在を知る。同科を真剣に学ぼうとするなら、決して離れないと心に決めた日本、最後の本拠地と決めた母校慈恵医大を離れなければならなかったのだ。
医学部5年生のとき、同級生と
「血管外科は、日本ではまだ診療科として独立もせず症例数も少なかった。たとえば、頚動脈の内膜剥離術の手術症例は日本全国でせいぜい年間500~600例でしたが、アメリカでは15万例に達していた。血管外科では、とにかくアメリカがナンバーワン。いかに海外嫌いの僕でも、アメリカで学ぶ以外に道はなかったのです。
泣く泣く図書館に行き、どこに留学するか探索を始めました。ちょうどアルゼンチンのパロディ氏が世界初のステントグラフトの論文を発表したばかりで、どうせ行くなら海のものとも山のものともしれない分野を手がけようと考えた。調べていくと、アルバートアインシュタイン医科大学にパロディ氏が行き、アメリカで第1号となるステントグラフト術を行ったという。ならば、アルバートアインシュタインしかない。とてもシンプルな動機で行き先を定めました」
■ 珍道中の末 アメリカでの 学びの場を確保・・
抵抗感を持ちつつも、ひとたび覚悟を決めてからの行動は速く、精力的でもあった。大木氏は、ロサンゼルス/UCLAで若手外科医対象に1週間の講習会が開催され、自分が属していた血管外科症例検討会から若手医師3名が選出されるのを知り、留学のコネクションをつくろうと応募、首尾良く参加メンバーに選ばれる。
そして、その講師陣の中に血管外科の論文で何度も目にしていた「アルバートアインシュタイン医科大学/ビース教授」の名前を見つけ、大胆にも直談判して彼の研究室に入れてもらおうと計画した。
まだ無給研究員だったころ奥様の美佳さん、長男の将平さん、長女の理世さんとニューヨークのセントラルパークで。「貧しかったけれど幸せな日々でした」
「論文には、名前はあっても写真は掲載されていません。いったい誰がビース教授なのかわからない。眼を皿のようにしてプログラムを眺め、『よし、こいつがビース教授だ』と確認して待ち構えました。狙いは講演後です。ところが演壇を降りた教授は、あっという間に他の受講生に取り囲まれてしまった。本当のスターだったのですね。群衆に交じった東洋人が、教授に話しかける隙などありませんでした」
諦めない。エレベーターに乗り込み、ホテルの部屋の前までついて行く。
「『日本から来た大木と申します。無給でかまいません。勉強をさせてください』と頭を下げたのですが、慌しく『すぐにシカゴに旅立つので荷づくりしなければ。明日シカゴで講演が終わったら話そう』と言われました」
勇躍、米国外科学会が開催されていたシカゴへ飛び、再びビース教授の講演が終わるのを待ち構えると──。
「やはり、教授は人垣の中で(笑)。タクシー乗り場でやっと捕まえると『これからニューヨークに帰る。明日、そこで話そう』。心の中で舌打ちしました(笑)」
世界的な外科医がつきまとってくる相手に対して言った「明日会おう」は「たぶん、君がわざわざ足を運べるところではないだろうが」が織り込まれた拒絶だったのかもしれない。ただ、頼むべき相手の顔も知らずに海を渡る行動力を持った東洋の青年は、その程度でアプローチを終わらせたりはしなかった。
「シカゴの宿へ戻り、すぐに翌朝、朝いちばんのニューヨーク行きの飛行機を予約しました。そして、アルバートアインシュタイン医科大学でやっと教授と面会。依頼の主旨を説明すると、『なんだ、無給ならもちろん、ウェルカムだよ』──。最初からそう言っているでしょうという言葉は、飲みこむしかなかったですね(笑)」
笑われては当人の立つ瀬はないだろうが、珍道中の末に大木氏のアメリカにおける学びの場は確保された。
1995年、急ぎ心を寄せる女性と結婚し、挙式の20日後にはニューヨークの新居へ。立場は無給医なので当然住まいは安アパート、荷物はスーツケース2つだけという貧しい新生活がスタートした。
■ 高まる評価とは 関係なく募っていった 祖国への思い・・
アメリカ初の塞栓防止フィルターを用いた頸動脈ステントを成功させた際のテレビインタビュー↓
「僕は、ゴルフでも、テニスでも、高校時代に熱中した柔道でも、人に教わるより独学で試行錯誤する性分。中途半端に教わると、独自の発想が鈍くなるような気がします。ただ、医学、特に外科学にあっては、試行錯誤するわけにもいかず、アメリカで学ぶしかないと思いました。
しかし、いざ学びの場に身を置いてみるとバイパスや頚動脈内膜剥離術などの外科手術のレベルは高かったが、アメリカのステントグラフトは思ったほどではないとわかりました。『なんだ』という感じでした(笑)。そこで自分の流儀に従って、組織の最下層が任される実験動物の世話などをしながら、まだ稚拙だったステントグラフトの改良に取り組みました」
とはいえ最初は、無名の東洋人で誰にも相手にされなかった。底辺から出発した大木氏は半年間、沈黙を守る。
「僕が初めて会議などで発言をしたのは、アメリカに行って半年をすぎたころ。相手は花形血管外科医たちですので、半年間は1回も発言できませんでした。周囲の人も僕には挨拶もしてくれませんでしたし(笑)。6ヵ月目にカンファレンスで『あの……すみません』と発言すると、みんなが『おおっ、大木がしゃべるよ』と振り返った。みんなが驚いて僕に注目した光景が脳裏に焼きついています」
↓アルバートアインシュタイン医科大学で率いていた血管外科グループ。ニューヨークらしく人種のるつぼであることが見てとれる、
以降、ステントグラフトの独自改良や破裂性大動脈瘤への世界初の応用、頚動脈ステント術の塞栓防止フィルターやワイヤーレス動脈瘤圧センサーの開発などヒットを重ねるうち、大木氏への評価は高まっていく。だが、高まる評価とは関係なく、彼は本拠地と決めた日本と母校慈恵医大に早く帰りたいと願っていた。
「1年たったころ、慈恵医大から帰国の打診がきました。血管外科の通常の手術も見学し尽くし、ステントグラフトの勉強に来たけれど僕のほうがいいものをつくれるとわかったので、ビース教授に帰国の意向を伝えた。
すると数日後に映画『ゴッドファーザー』のセリフをまねて“I will give you an offer that you cannot refuse.”と言う。『あまりに好条件で断れるはずのないオファー』とはどんなものか──身構えてつづきの言葉を待つと、『月10万円の給与だ』でした(笑)。
アルバートアインシュタイン医科大学でのレジデントに対するベッドサイドティーチング。レジデントも学生も真剣そのもの↓
でも、妻に告げると、『すばらしいじゃない』と喜んでくれた。確かに無給から有給になったのだから、たいへんな進歩です。とりあえずはアメリカで評価を勝ち取った記念程度の気持ちで、半年帰国を延ばしました」
結局、その後1年いて、いくつもの新しい手術や器具を開発。ますます大木氏の評価は上がっていく一方だったが、当然、再度、慈恵医大から帰国要請がきた。今度は「留学に際し大学の援助金を受けているのだから、帰国しないなら慈恵に辞表を出してもらう」とのただし書きがついて──。
「やっと見つけた本拠地である慈恵医大を手放すわけにはいきません。迷わず帰国の意思を固めました。すると、今、大木に抜けられるのは困ると言われ、また“I will give you an offer that you cannot refuse.”です(笑)。次は月給20万円くらいかなと思っていたのですが、僕の眼前に提示されたのは、合衆国の医師免許と永住権と年収2500万円、秘書つきの講師という破格の条件でした」
本拠地への帰還は大木氏の切望。しかし、両親から怒気さえこもった反対を受ける。
「『日本に帰ったら何が待っているっていうんだ。無給医で生活はアルバイトで支えるのだろう。女房も子どももいる立場で、己の志とか、気持ちとかを振りまわすのはやめろ』。これには参った。慈恵医大への辞表を書いたときの喪失感は今でも鮮明に覚えていますし、後の原動力にもなりました」
意外なところから説得の手が伸びなければ、このとき彼は間違いなく帰国していたはずだった。(2009/12/3 YOMIURI ドクターインタビュー)
■ 人間はつまるとこ 衣食足りて 「ときめき」を求める
「アメリカンドリーム」と、よく言われる。実力主義のアメリカでは、力ある者はどこまでも上っていけるチャンスがあることを意味する。大木氏はアメリカンドリームに憧れて海を渡ったわけでないが、結果的に彼の身にはアメリカンドリームが舞い降りた。
第108回日本外科学会(長崎)での東京慈恵会医科大学外科同門会で。皆さんの笑顔からも慈恵医大外科が盛り上がっていることが見てとれる)。↓
断腸の思い、母校の慈恵医大に辞表を提出した大木氏。以降10年、講師から助教授、教授へとステップを上がり、前出の大スター、ビース教授の後継者の地位に同大最年少記録で就く。アメリカで屈指の血管外科施設の教授となり、年収は円換算で1億に届き、無給医時代の上司たちを全員自らの部下に。絵に描いたようなアメリカンドリームを成し遂げたのである。
ただし、彼のアメリカンドリームは結局のところ10年ほどで終焉した。慈恵医大の血管外科の教授選出馬の要請を受け入れ、帰国したのだ。辞意表明には当然のごとく、さらに好条件を用意しての引き止めがあったが、このとき大木氏は交渉のテーブルそのものに着きさえしなかった。
「アメリカにとどまると決めた瞬間から予想していたのですが、仕事が充実し、社会的評価が高まり、収入が増えれば増えるほど、虚しさは膨らみました。自分はいったい今、何をしているのか──。
高い地位と億に近い収入を得て確信したのは、人間は地位やお金で満足は得られない、衣食足りて『ときめき』を求めるのだということ。自分がときめくのは、本拠地で人に喜ばれる仕事をしたとき。アメリカは、どう考えても本拠地ではなかった。アメリカで手術によって快癒した患者から感謝の言葉を贈られても、日本人だったらもっと良かったのにと感じてしまう。アメリカでは大勢の後進を育てもしましたが、これが母校の後輩だったらと感じていました。それに、高額な報酬を得るようになっても、渡米時に借りた安アパートに12年間住みつづけ、贅沢をしませんでしたので、高収入を得ているありがたみもありませんでした」
一度は親族からの反対で鞘に納めた「本拠地探しと人に喜ばれること」。しかし、母校の危機を知るにいたり、思いに蓋をしつづけるのはもはや無理だった。2003年ごろ、慈恵医大青戸病院事件や科学研究費の不正流用疑惑など、メディアでは慈恵医大のスキャンダルが連日のように取り上げられ同大は社会から叩かれていた。
「我が本拠地、慈恵医大」のピンチ。外科学講座においても求心力が失われ人が辞めている状況をかつての同僚や後輩から聞かされるとともに、危機打開のために血管外科の教授選に出てほしいと求められれば、黙っていられるわけがない。
「慈恵医大での年収を知って腰が抜けましたが(笑)、他人の赤ちゃんのベビーシッティング(外国人の治療や育成)をして高額な収入をもらうのと、年収は10分の1でも我が子(日本の患者や慈恵の後輩)の育児をするのと、どっちにやり甲斐を感じるか?収入が減ったと言っても衣食は足りる。帰国を決めるのに、迷いはありませんでした。アメリカの大学は、お金は積めても僕に祖国と母校は与えられません」
■ 人間の持つ普遍的な 欲望は、人から感謝されること
2006年,当時43歳の大木氏は前職同様、慈恵医大の臨床系教授としては最年少で同大の血管外科学教授に、そして翌2007年には消化器外科や呼吸器外科などを含む6診療部、医局員200余名を擁する東京慈恵会医科大学外科学講座統括責任者(チェアマン)に就任。足かけ2年で同学の血管外科を躍進させる。30ある診療科のうち、就任時に診療報酬ベースのランキングで最下位であった同科は一気にトップへと躍り出た。もちろん手術件数でも圧倒的な日本一を誇る。また、並行して胸腹部大動脈瘤に対する枝つきステントグラフト術や下肢閉塞性動脈硬化症用の薬剤溶出ステント術など数多くの本邦初となる手術も成功させた(詳細は、慈恵医大外科ホームページ http://www.jikeisurgery.jp)。
「『日本はアメリカの10年あとを追っている』と言われますが、疾病構造においても同様。現在アメリカでは国民の約10人にひとりが血管病とされ血管外科が外科学の王道になっています。日本もこれから、戦後、欧米化した食生活をしてきたベビーブーマーが血管病年齢に入ってくれば、あっという間に血管病大国になるでしょう。
症例数日本一を達成した現在の慈恵医大血管外科チーム。「彼らを含め、慈恵医大外科の医局員を外科学のリーダーにすることが、僕の使命であり夢です」↓
確実に血管病の患者が増えているのに、日本では血管外科教授を擁する医科大学は80のうち5つしかない。当院の血管外科盛況の背景には、ニーズに対して供給体制が追いつかないために患者が当院に集中している点が挙げられます。手術は6ヵ月先まで予約でいっぱい。これまで、47都道府県のすべてから患者の紹介を受けました。週1回の外来は6ブースと助手6人を使っても午前様になりますし、土日を含め1日20時間近く働きます。帰国して2年間、1日も休暇はとっていません。
でも、現状に不満はない。今、血管外科医は産科医や小児科医以上に不足しています。若手を育成し、欧米のようにすべての医科大学に血管外科の教授職があるようにすることが、夢のひとつです」
大木氏が帰国するまで慈恵医大の外科入局者は毎年3~4名であったが、彼の帰国後2年連続で入局者が2桁を超えた。来年は20名を超える外科希望者がいるという。若手の外科離れがつづく中で、すばらしい快挙だ。
入局者の増加には、医学部を志した若者に外科医療のダイナミズムとやり甲斐を説くのに時間を惜しまず、他大学卒業者でも慈恵医大で後期研修をしたならば一生面倒を見ようとの大木氏の確たる方針が、大きく影響しているのであろう。
さて、大木氏はやっとたどり着いた本拠地で、これから何をしようと考えているのか。
「近年、世界はアメリカを中心に動いているように見え、残念ながら日本にも否応なく彼らの考え方、価値観が入り込んでいます。
資本主義の宿命とも言えますが、アメリカは、すべての側面で短期決戦の国。そのため、企業においては成果主義、経済的インセンティブで社員に競争をさせ、近視眼的な成果を求める。その結果、社員同士の連帯感は薄れ、個人主義がはびこる。社員は評価対象とならない仕事からは『Not my job』と言って手を引き、組織への帰属意識の薄れも手伝い、会社を転々とすることでキャリアアップを図ります。
このように本拠地を持たない社会、自己中心がまかり通る社会がアメリカです。人間の普遍的な欲望は人から感謝されることなのに、彼らは短期決戦で富を得るのと引き換えに、仲間からの感謝や社会への貢献による満足感を捨ててしまった。ですから経済的に恵まれていても、アメリカ人で本当に幸せで、心穏やかに暮らしている人は驚くほど少ないのです。
個人の利害関係でつながっているゲゼルシャフトたるアメリカ。その集団の虚しさを知っているからこそ、利害とは無縁の友愛をベースにつながっているゲマインシャフト、いわば村社会を、慈恵医大の外科講座で形成していきたいと思っています。それは、アメリカの指向する物質主義や個人主義に対する僕のアンチテーゼであり、生涯を懸けて求めるものでもあります。
医療は公共財。経済的インセンティブはなじみません。そんな医療の世界で働く者には、──互いを慮り、悲しみや喜びを分かち合う、強い者がそうでない仲間をかばう、構成員が心から組織の発展を願う──『村社会』がいっそう必要だと確信します。損得勘定抜きの村は無限大のパワーを発揮しますし、何より個々の構成員を幸せにします。
まず、慈恵の外科でめざす村づくりを試み、次には慈恵医大全体で──。いつしか日本全体がひとつの村になってほしいと願います」
幼少期から各地を転々とし、渇望しながらも本拠地にとどまることは許されなかった。経済的に大いに恵まれたときもあったが、バブル崩壊で実家が財産を失った。アルバートアインシュタイン医科大学では日本人がたったひとりの中、無給医から這い上がって教授にまで上りつめ、世界的な血管外科医になった。後に、約束された富と名声を捨て、本拠地と定めた日本に戻ってきた。
そんな一切合切を踏まえて今、大木氏は、めざす目標を「“ときめき”と“安らぎ”のある村づくり」と言い切る。そんな一切合切があったからこその思い。彼が、日本の医療界につくり上げる村を見てみたい。
取材:中村敬彦
文:及川佐知枝
撮影:田口昭充
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首や脚の血管がつまる動脈硬化症や、大血管が膨れる大動脈瘤などの治療を専門にする血管外科医だ。95年に米国に渡り、以後11年間、米国で外科専門医になるに厳しいトレーニングを5年間受ける。成績が悪いと、切り捨てられる。新卒の医学生約3万人中、外科研修医の枠は1/30の1000人。日本と米国(ニューヨーク州)にて医師免許取得。米国アルバートアインシュタイン医科大学研究員を経て、同大学部長、同大学教授。現在、東京慈恵会医科大学血管外科学教授、同大学外科学講座チェアマン(統括責任者)。 所属学会: 米国血管外科学会、国際血管内治療学会、国際脈管学会(第50回会長)、日本外科学会(代議員)、日本心臓血管外科学会会員、日本血管内治療学会、日本血管外科学会(評議員)、日本脈管学会(評議員)ほか。 専門医: 日本外科学会指導医、日本心臓血管外科学会専門医。
ステントグラフトを患部へもっていく技術が名人芸に近いワザだ。
これは一箇所だけの単純な場合だけではない。
東京慈恵会医科大学病院 外科学講座 統括責任者 血管外科 教授・診療部長 大木隆生先生に「閉塞性動脈硬化症」について解説していただいています。
2012年6月27日アップ
(プロフィール)
1987年東京慈恵会医科大学医学部卒業
1994年東京慈恵会医科大学大学院卒業、医学博士取得
1995年米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科研究員
1998年米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管内治療科部長
2002年米国アルバートアインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科部長
2005年米国アルバートアインシュタイン医科大学血管外科学教授
2006年東京慈恵会医科大学血管外科講座教授、診療部長
2007年東京慈恵会医科大学外科学講座Chairman(統括責任者)
住まいは、通勤の時間を節約するため、病院から歩いて1分の所にあります。外来診察は、いつも深夜までかかります。ときには午前4時過ぎに帰ることもあり、休みは年2回、医局のゴルフコンペという「公務」のときだけという凄さです。
大木先生は“1日20時間におよぶ診察・手術を365日休むことなく続ける、世界で一番喜ばれる人”とも呼ばれており、自らの体をボロボロにしてまで、患者の治療にあたると言う姿勢を貫いています。
大木隆生は32歳で無給医としてアメリカに渡り、生まれて間もないステントグラフトの開発に携わりました。以後手術不可能と言われた患者たちを次々と救い続け、「ベスト・ドクター・イン・ニューヨーク」の血管外科医部門に4年連続で選出されました。
渡米後わずか10年で、名門医科大学の教授となり、年収も1億円を超える待遇を得ていましたが、同胞である日本人の命を救うため、その地位と名声を捨てて、日本に帰って来ました。
大木隆生先生は、最先端の人工血管「ステントグラフト」を用いた治療の世界随一の使い手で、他に治療法がない患者にとって“最後の希望”と言われています。
大動脈瘤(りゅう)・頸動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)症・閉塞性動脈硬化症などを人工血管「ステントグラフト」で治療する大木先生の手腕はもはや匠の業の域に達しています。
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慈恵医大病院血管外科の大木隆生教授は、米アルバートアインシュタイン医大病院の血管外科教授を兼務する。
大木教授が卒後7年目の医師の待遇を両病院で比較したところ、大きな差があった。 ア大の年収は約2500万円で慈恵医大の5倍強。労働時間はア大の週50時間に対し、慈恵は80時間。
ア大では、個室と専属秘書がつき、当直もない。「腕に差はない」(大木教授)のに、なぜこれほど違うのか。
日本の医療費は年間総額約32兆円。国内総生産(GDP)に占める割合を経済協力開発機構(OECD)30か国で比較すると、日本は8%で、21番目。米国(15.3%)、スイス(11.6%)に比べ低く抑えられている。
「米国の大学病院では、ベッド数当たりの看護師が(日本の)5倍はいる。事務職員も同程度。日本では、医師が看護師や事務職員の仕事の多くを担うことで医療費を切り詰めてきた」と、大木教授は指摘する。
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日本の医者は低能な者が多く、ヤブなのには、
エリート構想というものがないせいもあると思う。
アメリカは成功の国、努力した者にはそれなりの待遇がある。
ところが、日本の場合は、権威の国。
多くの医師は医局の犬として生きるしか能がなく、まさに媚を売り続ける無様な人間が多かったわけである。媚を売ることに終始するから、能力が低い医師が多いのかもしれない。
実際、T大ではこう治療するのだ、K大ではT大とは違うこう治療するのだ・・・と教授や医局の意向が治療方針まで影響を与える。医局の権威のぶつけ合いで、患者は治療上不利益を受けることも多いのだ。これが日本の医療の現実である。
誇り高き狼達がうまい思いをする国と、
プライドのかけらもない下僕犬達が大人しく群れている国の違いである。
日本の医師は、人間としてレベルが低すぎる。
その結果、医療のレベルも低いものになっていると言わざるを得ない。
日本人医師が優秀ならば、米国に渡り、そこで名を上げ成功者となり、米国の医療システムを日本に持ち帰らなければならない。しかし、日本人医師が今行っていることは、医療崩壊である。
エリートとしてのプライドをもち、成功者になり、世の中の発展に寄与する・・・という考えが日本の医師には無い。医局の中でまわりの人間と同じような汁をすすりながら何の疑問も持たず、持ったとしてもそれをすぐに心の底にしまい、生きていくしか能がないのが
米国のような弱肉強食主義から離れすぎている日本の医師は、何と甘い環境にいることだだろう。実に甘えた奴らだ。年収3000万欲しければ、甘えてないで働け。
私の勤める会社だが、私には、個室と専属秘書がついている。
さらには、専属税理士までついている。
秘書は司法書士であり、法的文書の手続きやスケジュール管理など全て行ってくれる。税理士は確定申告のとき、毎年計算して書類を作ってくれる。また、会社には顧問弁護士もおり、法的闘争の準備も万全だ。
これは、弱肉強食の世界を生き抜いてきたからもらえる待遇である。
はっきり言っておくが、努力もせずにもらえるわけがないのだ。
米国の医師の7年目で年収2500万+個室+専属秘書という待遇も全員がもらえるわけではない。優秀だからもらえるのだ。
日本人医師の多くは、渡米してもこの待遇を得ることはできないだろう。なぜなら、日本人医師の多くは無能だからだ。
有能ならとっくに米国に行っており、年収2500万+個室+専属秘書の地位を得て、米国でプール付き豪邸を買っているだろう。
日本の医師は自分達の地位は不遇だと嘆く。
しかし、それは大きな勘違いをしている。
有能だと思うのなら、今すぐ米国に行って、年収2500万を得ればよい。
それもせずに、日本の医師は年収が低いなどと嘆いても、それは自分が無能なだけなのだ。
大体、日本の医師全員に年収2000万以上などもってのほかである。
一部の有能な医師だけが年収2000万以上を得るべきであって、無能な医師は年収500万以下で充分である。
今、会社でも同じことが起こっている。
優れたマネジメント能力やマーケティング・営業ができる一部の人間が年収1000万以上を得て、誰でもできる作業労働しかできないものは、常勤ではなく、フリーターたちの仕事になっている。
医師も採血や点滴しかできない研修医は、フリーター並の年収300万が当然であるし、その後成長しない医師は、年収500万もあれば上等である。
血管外科では6人の外科医で毎年、1800件以上血管外科手術をしている。秘書、専属看護師、保険事務員、臨床検査技師、実験補助員ら計40人のスタッフが配置されている。
6人の外科医は、手術記録やカルテなど雑用はないので、手術と診察、研究開発、論文執筆や講演活動などに専念できる。彼らの平均年収は5000万円で、当院の内科医の約4倍だ
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大木先生は病院の目の前に住んでいます。
理由は、「やることが多いので。1分1秒を無駄にしたくないから。」
朝食もエレベーターの中でカロリーメイトで済ませます。
他の病院で手術ができないと言われた患者さん・・
外来には全国から大勢の人が来ます。
大木先生は、全員の診察が終わるまで、休憩・食事を一切とらないそうです。
大木先生が、この日に病院に来たのが午前6時40分、そしてすべての患者さんの診察が終ったのが翌日の午前4時過ぎ・・・
大木隆生先生は、「休憩なしでやったほうが早く終わる。そして、空腹時の集中力を利用して診る方法を身につけてた」とおっしゃってました
また、預かった命を早く助け出すために、大木先生は週4日、手術室に立ちます。そして、1日4件の手術をぶっ通しでやるそうです。年間にすると800件の手術を行います。このステントグラフトを用いた手術では年間件数が、桁違いで世界一だそうです。
そして手術の後も、論文の作成や230名の外科医を束ねる教授としての仕事が山ほどあるそうです。
そんな生活をしているので、大木先生の身体は満身創痍(まんしんそうい)。首から腰にかけて、鈍い痛みがずっとあるそうです。麻酔科の先生に、痛み止めを打ってもらい、仕事をしています。
麻酔科の先生からは、「1ヶ月ぐらい仕事を休まなきゃダメだよ」と言われていますが、まったくそういう気はないそうです。
大木先生には奥様と二人のお子さんがいますが、お子さんたちと会えるのは、月に数回あるかどうか、だそうです。
なぜここまで医療にすべてを捧げるのか?2009/4当時
ステントグラフトの手術をはじめ、血管病のスペシャリストとして知られる大木のもとには全国各地から患者が訪れる。なかにはほかの病院で「手術不能」とされ、大木に最後の希望を託そうとやってくる患者も少なくない。
大木は手術がどんなに難しかろうと、可能な限り引き受ける。そしてリスクを伝えた上で「まかせてください」と伝える。医師にとっては勇気のいる言葉だが、医師としての覚悟を示すことが、患者との信頼関係を醸成する第一歩と考えるからだ。
世界一喜ばれる人になりたい
預かった命を1日でも早く助け出すために、大木は週4日、手術室に立ち、年間およそ800件の手術を行う。大動脈瘤(りゅう)・頸動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)症・閉塞性動脈硬化症など、脳と心臓を除く全身の血管が対象だ。 朝から晩まで手術台に向かい続ける日常を支えるのは「ただ、人に喜ばれたい」という想いだ。劣等感を抱いて育った幼少期、人から感謝されることの喜びを痛感し、大木は「世界一喜ばれる人になりたい」と目標を立て、医師になった。今もその想いを胸に患者と向き合い続ける。1日4件、年間800件の手術を行う大木。その日常は壮絶だ。
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掲載:2007年12月
デバイスラグの背景に各国との“ラベル(適応)”の違い
私は東京慈恵会医科大学を卒業の後米国のアルバート・アインシュタイン医科大学病院に12年間勤め、昨年慈恵会に戻ったのですが、現在も1か月のうち1週間程度は米国で治療にあたっています。この経験から日本と米国をはじめとする他の先進国との医療機器の導入時期の違い、いわゆるデバイスラグについて説明します。
デバイスラグは日本における医療機器承認の遅れが原因と指摘されていますが、それだけではなくて「ラベリング(適応)」と呼ばれる保険制度全般にかかわる違いがあります。
1例をあげますと、原因不明の腎不全、高血圧となり、透析療法を受けられていた女性の患者さんのケースです。検査の結果、両方の腎臓への動脈が閉塞していることがわかり、ステント治療によって腎臓の機能は大幅に改善し透析治療が不要となったうえに元の仕事に復帰することができました。このように腎動脈ステントは、とても有用な医療器具ですが、日本で保険診療の枠内で使用できるのは、太くて硬くて使いづらい、旧式のものです(Palmazステント)。このモデルは米国で6年前に販売中止になったもので、現在はそれから3世代進んだ細くて、しなやかなステントが使われています。この新世代のステントは日本でも販売されていますが、腎動脈に使用した場合は保険で支払われず、ステント代金は病院の持ち出しとなります。その理由は、新世代のステントは、米国では胆管用の「適応」しか取っていませんでしたので、そのデータをもとに日本での承認を得た際には当然のことですが「胆管」用という制限がついたのです。
この胆管用という「ラベル(適応)」が米国では日本のように臨床現場において問題にならない理由は、米国での病院に対する治療費、入院費は診断名によって一定額が支払われる“マルメ(DRG)”制度だからです。すなわち、DRGによって支払われた診療報酬をどのように使うかは(ステントの種類も含め)病院の裁量に任されているのです。
一方日本では、ステントなどは特定保険医療材料と呼ばれ、出来高払い方式ですので、保険算定(請求)するたびに、その器具の「ラベル(適応)」とその患者の診断名、手術方式が一致していない場合は保険から支払われないのです。なぜメーカーが米国で腎動脈用の適応ではなく胆管用の適応を取ったのかと言えば、胆管用のデバイスの申請をすれば、必ずしも臨床試験が要求されず、審査のハードルが腎動脈や血管用ステントの場合に比して低いからです(510k承認)。
小さなマーケットに特有の審査ハードルの日本
米国ではこのような器具の承認パスウェイを510kとよんでおり承認取得のためには必ずしも臨床試験が要りません。従って、先の新世代の腎臓用ステント(ラベルは胆管)に関する臨床試験データがありません。腎臓に使用した際のデータがあればそれを和訳して日本の厚生労働省に提出すれば、腎動脈用のラベル・適応を得られるのですが、和訳するデータがないために日本でも胆管という適応しか取れなかったのです。日本で独自に腎動脈用の臨床データを集めようとすると多大のコストがかかり、日本だけの小さなマーケットではまったく採算が取れないということになってしまいます。腎動脈や脚(大腿動脈)のステントは効果が高いのですが、日本では“ラベルが合わない”のでほとんどの場合、使えない、これは患者さんにとって不幸です。
こうした保険制度の違いに加えて、日本では審査期間が長くかかるということが、デバイスラグ問題を一層複雑化しています。なお、審査期間に関しては米国の356日に対して日本は1,083日というデータもあります。審査期間が長くかかる原因はいくつもありますが、臨床試験を行う病院のインフラ不足、メーカーの薬事スタッフの経験・能力不足、審査機関のスタッフの不足などは大きな障害と言えるでしょう。
総医療費削減政策では解決しないデバイスラグ
日本では国民医療費の削減が政府で検討されていますが、まず日本の医療費は決して高くない、総医療費も対GDP比では先進国中最低で、米国の約半分です。また医師の報酬も、診療科により違いますが、外科系勤務医では、大雑把に言って米国の1/3~ 1/5と低く抑えられています。その上、日本の医師は少ない人数で(先進国と比較して)安い給料でしかも激務についているといえます。私自身のケースでいえば、米国での年収と日本での報酬には約10倍の違いがあります。対GDP比の総医療費や実際の診療現場の現状からみて医療費の削減という方向は不適切でしょう。
デバイスラグについても同様で、先進医療機器の導入を早くするためには機器の価格を上げる(償還価格を高くする)ことが有用です。日本の医療機器のマーケットは世界の10%程度で、世界が日本のマーケットに合わせて制度を作るということはありえません。前述したような特異な日本の審査・保険制度を抱える日本にいち早く先進機器を導入するには、まず機器メーカーが日本にいち早く申請してこなければなりません。
日本をメーカーの目から見て魅力ある市場とするのにもっとも大切なのは償還価格です。近年は医療費抑制政策の延長で、償還価格が低く抑えられる傾向が続いていますが、現行レベルでは採算が取りにくく、したがって、海外メーカーの日本離れ、はずしが進んでいるのです。性能のよい、先進的機器が日本に入ってこないという事態は日本の患者にとって不幸なことです。償還価格をもっと引き上げて、日本をデバイスメーカーにとって魅力的な市場にすることが重要でしょう。十分な償還価格がつけば、日本が抱える前述した様々な課題、すなわち、審査機関の審査人員増強や臨床試験を行うインフラ整備、有能な薬事スタッフの採用(企業サイド)などが可能となり、デバイスラグは徐々に解決するでしょう。
慈恵医大では現在、寄付講座として「医療器具評価学講座」を立ち上げる準備をしています。医療器具評価の教科書を作成し、行政の審査官、企業薬事スタッフの教育を進めていく計画で、これらの活動もデバイスラグの解消に役立つと期待しています。
医療に経済的インセンティブはそぐわない
なお、日本の医療制度に関してですが、勤務医に経済的インセンティブがない上に給与が低く、診療科によらず一定であることが特長としてあげられます。このことは私の給与が、米国から帰国したことにより約1/10になったことからも見て取れます。慈恵医大に赴任してから、一日の平均労働時間が19時間程度の激務を通して、私の担当分野である血管外科の売り上げを3年前に比べ10,000%(100倍)にしました。
もともとはマイナーな診療科であった血管外科は、現在、循環器内科、心臓外科、脳外科、泌尿器科、肝臓外科などの売り上げを凌駕しています。しかし、こうした業績に伴う賞与等の経済的インセンティブは一切ありません。でも、私はこれでいいと思っています。そもそも医療に競争原理や経済的インセンティブはそぐわないと思います。医師は消防署の消防士と同じでいいと思っています。すなわち、火消しが上手な消防士があちこちから出動要請されても、それは消防士の使命であるから当然のことであり、それに対して経済的インセンティブをつける必要はないのと同じです。何でもインセンティブで人や組織を動かしている米国で実際に見られていることですが、医師に経済的インセンティブを与えると、過剰診療を招きます。消費者とサービスを提供する側に情報量において圧倒的な差がある場合には、特段の消費者(患者)を保護するシステムが必要です。
そもそも日本の医師の大多数は、患者の命を救いたくて、社会貢献がしたくて医師になっているわけですから、その志を矮小化する経済的インセンティブには抵抗があります。とはいえ、勤務医が不当に低い給与水準と激務に耐えているにもかかわらず、日本にある病院の43%が赤字という事態を招いた低医療費政策は改善し、医師の使命感に頼り過ぎない環境を創出する必要があります。すなわち、経済的インセンティブはなくとも、給与水準を改善し、医師数を増やすことにより、一人当たりの負担を軽減する措置が急務です。
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この分野の先進国であったアメリカで血管外科医師として天才と呼ばれるほど能力を止められ、年収がかるく一億円を超えていたのに、母校である慈恵医大病院に乞われて、収入が数分の一になるのを分かっていて帰国し現職についた
週4日、手術室に立ち、自ら腰痛の麻酔薬を打ってもらいながら明け方まで仕事を続け、年間およそ800件の手術を行うそうです。大動脈瘤(りゅう)・頸動脈狭窄(けいどうみゃくきょうさく)症・閉塞性動脈硬化症など、脳と心臓を除く全身の血管の手術が専門で、この大木氏のところに来る患者は多くが他の病院でさじを投げられた難病の方ばかりなのだそうです。
実際、番組の中での80歳半ばの患者さんが、10時間にわたる手術で、手術自体は完ぺきだったのに合併症で亡くなってしまったのですが、家族は先生を訪ねてこられ、心から感謝し、先生はお返しにその自分が全力で戦った手術の際に着用していた白衣を遺族の方に渡されていました。みな患者さんも家族も、この先生が「最後の砦」で、それを知りながら先生が全力で火中の栗を拾おうとしてくださっているのだということを分かっていて「命」を預けているということ
劣等感を抱いて育った幼少期、人から感謝されることの喜びを痛感し、大木氏はひたすら「世界一喜ばれる人になりたい」という思いを持ち続け、医師として、患者と向き合い続けているのです。
インタビューでの最後の言葉
「プロフェッショナルとは・・経済的動機づけではなく、使命感ややりがいをその原動力として事に当たる。それでいて、自己の利害、ときには命もかえりみない、いわばアマチュアリズムの極致がプロフェッショナルではないでしょうか。」
かれこそ本当のエリートですよね。霞が関近辺を中心にたむろするあのパラサイト官僚どもに爪の垢を飲ませるのももったいないと思うのです。高学歴でも、彼らにはこの先生の言葉の意味はまったく理解できないでしょうね。
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記事提供:株式会社メディカル・プリンシプル社
2008年11月号より
■ ステントグラフトで 世界を牽引する 誇るべき日本人
つい最近まで大動脈瘤手術のほとんどは、胸や腹を切開して動脈瘤を切除し、その部分を人工血管に置き換える方法が用いられてきた。長期の成績が確立しているものの、侵襲が大きく合併症の確率も高いこの人工血管置換手術の短所を克服する術法として開発されたのがステントグラフト術。脚のつけ根の動脈からカテーテルを入れ、その中にステントグラフトを通して動脈瘤の部位まで運んで開く。ステントグラフトは、金属バネの力によって広がり血管内壁に張りついて固定される。大動脈瘤に内張りをすることにより瘤の破裂を防ぐのだ。大動脈瘤が高齢者に多い動脈硬化を原因とするだけに、切開部を小さくでき患者の負担がきわめて少ない術法の出現は、大きな福音だろう。
新しい術法は1990年代に欧米で生まれ育ち、我が国での普及はまだ端緒についたばかり。だが、アメリカにおいて同術法の著しい進歩を導き、世界でもこの分野の頂点にいると認められているのは、誇らしくも日本の大木氏である。
彼は、現在もアメリカのアルバートアインシュタイン医科大学外科学教授を務め(兼任)、2004年から4年連続でBest Doctors in NYに選出、『Newsweek Japan』では2002年に「アメリカで認められた日本人10人」に、また2006年の同誌では「世界で尊敬される日本人100人」のひとりに選ばれた。これまでに世界13ヵ国で招待手術を行い、多数の欧米の権威ある外科学会雑誌の編集委員である傍ら、『Endovascular Today』誌の編集委員長も務め、過日は第50回国際脈管学会を東京慈恵会医科大学(以下、慈恵医大)で主宰した。特筆すべきは、これらの栄誉すべてを彼が40代半ばの若さで手にした点だろう。
ここまで読み進んで、疑問を抱く読者がいるかもしれない。「では、なぜ今、彼は日本の大学教授になっているのか?」。大木氏ほどの実力があり、働き盛りの医師ならば、名声を得るにも、経済的にも、アメリカにいたほうが圧倒的に有利だろうと誰もが思う。実際、日本に来て、彼の年収はアメリカ時代の月収とほぼ同額になったそうだ。大木氏自身も「帰国しなければならない外的要因は何ひとつなかった」と述べる。では、なぜ──疑問は深まるばかりだが、彼には戻る以外の選択肢はなかった。
■ 各地を転々としつつ 幼心に芽生えた 「本拠地」への渇望
少々乱暴だが、彼のこれまでの人生は、大きく2つに分けられるだろう。つい最近、現職に就くまでの流転の人生と、それ以降。「流転」の表現はオーバーに聞こえるかもしれないが、大木氏は、どこが自分の落ち着くべき場所なのかわからないまま、必死で「本拠地」探しをつづけてきた。
小学校6年のときの大木家。ブリュッセルの自宅で(右端がご本人)↓
「僕の流転生活は日本に生を受けて産声を上げた瞬間から始まっていたように思います。母の実家は高知県にあったのですが、次男の僕が生まれる際、祖父が、『長男は東京で育てているのだから、次男は高知で産み、高知に置いていけ』と、旧家の家長ならではの強権を発動した。3歳のときに、さすがに不憫に思った両親が引き取りに訪れ、東京へ転居して5歳までは東京に住みました」
しかし、それは流転生活のほんの序章。商社マンだった父について小学校入学のタイミングにはロンドンへ。言葉もわからない子どもたちの中に放り込まれてもみくちゃにされた。4年半後にはブリュッセルに転居、フランス語の学校に入れられてゼロから再スタート。その後は、ベルギーとイギリスの都市を転々としながら中学生になるまで合計8回の転校を繰り返す。言葉と環境の変化は、感受性豊かな幼少期の子どもにかなりのストレスを与えたのだろう。必然のように彼の中には本拠地を渇望する気持ちが芽生えた。
「中学2年のとき帰国が決まったのですが、僕の心の中ではベルギーが本拠地になりかけていた時期で、『いい加減にしてくれ、ここにいたい。ベルギーを自分の本拠地にしたい』と、主張しました。結局、父に『これが最後だから』と説得されたのですが、説得を受け入れると同時に心に決めました。もう絶対に動かない。僕の本拠地は、日本なのだと」
■ どうしたら人に 喜んでもらえるのか 探しつづけた半生
「振り返れば、僕の半生は、本拠地と『どうしたら、人に喜ばれるか』を探す日々だったように思います」
大学時代に熱中した硬式テニス
「小さいころ僕の家は、たぶん経済的には恵まれていました。高知の実家は元造り酒屋で、祖父も伯父も政治家。父は総合商社の重役で、ヨーロッパ赴任時代の車は運転手つきのロールスロイス。いつも日本から来る政治家や著名人を招き、食事をしたりパーティを開いたりしていました」
大人に交じって華やかな世界に触れながら育った早熟な少年が自分の将来像を探し始めたとき、思い浮かんだのは「楽しい仕事」。そして、自分は何をしたら楽しいのかを突き詰めてみると、人に喜ばれる、人の役に立つことだった。
大学時代に所属するテニス部が3部リーグで優勝して2部リーグ昇格が決まったとき。「今でも人生でもっともうれしかった日」(中央、上半身裸で立っているのがご本人)↓
経済的に恵まれた境遇が、同時に満たされた境遇とは限らない。本拠地を渇望しつつ、「人に喜ばれる」ことを仕事に求める大木少年の心。そこに本人にしかわからない虚空があったと推測するのは考えすぎか。
■ 流れに流れて 行き着いたのが 血管外科の世界
華やかだった両親の交友関係
「最初は、整形外科医を志して2年間をすごしましたが、上司との外科医観の食い違いから一般外科に転向し、今度は身近にいた先輩の姿に憧れ、呼吸器外科を専攻する希望を出しました。でも、定員オーバーで教授に断られてしまった。その様子を見ていた血管外科医の先輩が、いっしょにやらないかと誘ってくださったのです。先輩の気持ちがうれしくて、何もわからないまま、まさに二つ返事で専門を決めました。とにかく外科系であればなんでもいいと、流れに流れて行き着いたのが血管外科でした」
しかし、血管外科を学び始めるとすぐに、大木氏は将来に横たわる運命の皮肉の存在を知る。同科を真剣に学ぼうとするなら、決して離れないと心に決めた日本、最後の本拠地と決めた母校慈恵医大を離れなければならなかったのだ。
医学部5年生のとき、同級生と
泣く泣く図書館に行き、どこに留学するか探索を始めました。ちょうどアルゼンチンのパロディ氏が世界初のステントグラフトの論文を発表したばかりで、どうせ行くなら海のものとも山のものともしれない分野を手がけようと考えた。調べていくと、アルバートアインシュタイン医科大学にパロディ氏が行き、アメリカで第1号となるステントグラフト術を行ったという。ならば、アルバートアインシュタインしかない。とてもシンプルな動機で行き先を定めました」
■ 珍道中の末 アメリカでの 学びの場を確保・・
抵抗感を持ちつつも、ひとたび覚悟を決めてからの行動は速く、精力的でもあった。大木氏は、ロサンゼルス/UCLAで若手外科医対象に1週間の講習会が開催され、自分が属していた血管外科症例検討会から若手医師3名が選出されるのを知り、留学のコネクションをつくろうと応募、首尾良く参加メンバーに選ばれる。
そして、その講師陣の中に血管外科の論文で何度も目にしていた「アルバートアインシュタイン医科大学/ビース教授」の名前を見つけ、大胆にも直談判して彼の研究室に入れてもらおうと計画した。
まだ無給研究員だったころ奥様の美佳さん、長男の将平さん、長女の理世さんとニューヨークのセントラルパークで。「貧しかったけれど幸せな日々でした」
「論文には、名前はあっても写真は掲載されていません。いったい誰がビース教授なのかわからない。眼を皿のようにしてプログラムを眺め、『よし、こいつがビース教授だ』と確認して待ち構えました。狙いは講演後です。ところが演壇を降りた教授は、あっという間に他の受講生に取り囲まれてしまった。本当のスターだったのですね。群衆に交じった東洋人が、教授に話しかける隙などありませんでした」
諦めない。エレベーターに乗り込み、ホテルの部屋の前までついて行く。
「『日本から来た大木と申します。無給でかまいません。勉強をさせてください』と頭を下げたのですが、慌しく『すぐにシカゴに旅立つので荷づくりしなければ。明日シカゴで講演が終わったら話そう』と言われました」
勇躍、米国外科学会が開催されていたシカゴへ飛び、再びビース教授の講演が終わるのを待ち構えると──。
「やはり、教授は人垣の中で(笑)。タクシー乗り場でやっと捕まえると『これからニューヨークに帰る。明日、そこで話そう』。心の中で舌打ちしました(笑)」
世界的な外科医がつきまとってくる相手に対して言った「明日会おう」は「たぶん、君がわざわざ足を運べるところではないだろうが」が織り込まれた拒絶だったのかもしれない。ただ、頼むべき相手の顔も知らずに海を渡る行動力を持った東洋の青年は、その程度でアプローチを終わらせたりはしなかった。
「シカゴの宿へ戻り、すぐに翌朝、朝いちばんのニューヨーク行きの飛行機を予約しました。そして、アルバートアインシュタイン医科大学でやっと教授と面会。依頼の主旨を説明すると、『なんだ、無給ならもちろん、ウェルカムだよ』──。最初からそう言っているでしょうという言葉は、飲みこむしかなかったですね(笑)」
笑われては当人の立つ瀬はないだろうが、珍道中の末に大木氏のアメリカにおける学びの場は確保された。
1995年、急ぎ心を寄せる女性と結婚し、挙式の20日後にはニューヨークの新居へ。立場は無給医なので当然住まいは安アパート、荷物はスーツケース2つだけという貧しい新生活がスタートした。
■ 高まる評価とは 関係なく募っていった 祖国への思い・・
アメリカ初の塞栓防止フィルターを用いた頸動脈ステントを成功させた際のテレビインタビュー↓
しかし、いざ学びの場に身を置いてみるとバイパスや頚動脈内膜剥離術などの外科手術のレベルは高かったが、アメリカのステントグラフトは思ったほどではないとわかりました。『なんだ』という感じでした(笑)。そこで自分の流儀に従って、組織の最下層が任される実験動物の世話などをしながら、まだ稚拙だったステントグラフトの改良に取り組みました」
とはいえ最初は、無名の東洋人で誰にも相手にされなかった。底辺から出発した大木氏は半年間、沈黙を守る。
「僕が初めて会議などで発言をしたのは、アメリカに行って半年をすぎたころ。相手は花形血管外科医たちですので、半年間は1回も発言できませんでした。周囲の人も僕には挨拶もしてくれませんでしたし(笑)。6ヵ月目にカンファレンスで『あの……すみません』と発言すると、みんなが『おおっ、大木がしゃべるよ』と振り返った。みんなが驚いて僕に注目した光景が脳裏に焼きついています」
↓アルバートアインシュタイン医科大学で率いていた血管外科グループ。ニューヨークらしく人種のるつぼであることが見てとれる、
「1年たったころ、慈恵医大から帰国の打診がきました。血管外科の通常の手術も見学し尽くし、ステントグラフトの勉強に来たけれど僕のほうがいいものをつくれるとわかったので、ビース教授に帰国の意向を伝えた。
すると数日後に映画『ゴッドファーザー』のセリフをまねて“I will give you an offer that you cannot refuse.”と言う。『あまりに好条件で断れるはずのないオファー』とはどんなものか──身構えてつづきの言葉を待つと、『月10万円の給与だ』でした(笑)。
アルバートアインシュタイン医科大学でのレジデントに対するベッドサイドティーチング。レジデントも学生も真剣そのもの↓
結局、その後1年いて、いくつもの新しい手術や器具を開発。ますます大木氏の評価は上がっていく一方だったが、当然、再度、慈恵医大から帰国要請がきた。今度は「留学に際し大学の援助金を受けているのだから、帰国しないなら慈恵に辞表を出してもらう」とのただし書きがついて──。
「やっと見つけた本拠地である慈恵医大を手放すわけにはいきません。迷わず帰国の意思を固めました。すると、今、大木に抜けられるのは困ると言われ、また“I will give you an offer that you cannot refuse.”です(笑)。次は月給20万円くらいかなと思っていたのですが、僕の眼前に提示されたのは、合衆国の医師免許と永住権と年収2500万円、秘書つきの講師という破格の条件でした」
本拠地への帰還は大木氏の切望。しかし、両親から怒気さえこもった反対を受ける。
「『日本に帰ったら何が待っているっていうんだ。無給医で生活はアルバイトで支えるのだろう。女房も子どももいる立場で、己の志とか、気持ちとかを振りまわすのはやめろ』。これには参った。慈恵医大への辞表を書いたときの喪失感は今でも鮮明に覚えていますし、後の原動力にもなりました」
意外なところから説得の手が伸びなければ、このとき彼は間違いなく帰国していたはずだった。(2009/12/3 YOMIURI ドクターインタビュー)
■ 人間はつまるとこ 衣食足りて 「ときめき」を求める
「アメリカンドリーム」と、よく言われる。実力主義のアメリカでは、力ある者はどこまでも上っていけるチャンスがあることを意味する。大木氏はアメリカンドリームに憧れて海を渡ったわけでないが、結果的に彼の身にはアメリカンドリームが舞い降りた。
第108回日本外科学会(長崎)での東京慈恵会医科大学外科同門会で。皆さんの笑顔からも慈恵医大外科が盛り上がっていることが見てとれる)。↓
ただし、彼のアメリカンドリームは結局のところ10年ほどで終焉した。慈恵医大の血管外科の教授選出馬の要請を受け入れ、帰国したのだ。辞意表明には当然のごとく、さらに好条件を用意しての引き止めがあったが、このとき大木氏は交渉のテーブルそのものに着きさえしなかった。
「アメリカにとどまると決めた瞬間から予想していたのですが、仕事が充実し、社会的評価が高まり、収入が増えれば増えるほど、虚しさは膨らみました。自分はいったい今、何をしているのか──。
高い地位と億に近い収入を得て確信したのは、人間は地位やお金で満足は得られない、衣食足りて『ときめき』を求めるのだということ。自分がときめくのは、本拠地で人に喜ばれる仕事をしたとき。アメリカは、どう考えても本拠地ではなかった。アメリカで手術によって快癒した患者から感謝の言葉を贈られても、日本人だったらもっと良かったのにと感じてしまう。アメリカでは大勢の後進を育てもしましたが、これが母校の後輩だったらと感じていました。それに、高額な報酬を得るようになっても、渡米時に借りた安アパートに12年間住みつづけ、贅沢をしませんでしたので、高収入を得ているありがたみもありませんでした」
一度は親族からの反対で鞘に納めた「本拠地探しと人に喜ばれること」。しかし、母校の危機を知るにいたり、思いに蓋をしつづけるのはもはや無理だった。2003年ごろ、慈恵医大青戸病院事件や科学研究費の不正流用疑惑など、メディアでは慈恵医大のスキャンダルが連日のように取り上げられ同大は社会から叩かれていた。
「我が本拠地、慈恵医大」のピンチ。外科学講座においても求心力が失われ人が辞めている状況をかつての同僚や後輩から聞かされるとともに、危機打開のために血管外科の教授選に出てほしいと求められれば、黙っていられるわけがない。
「慈恵医大での年収を知って腰が抜けましたが(笑)、他人の赤ちゃんのベビーシッティング(外国人の治療や育成)をして高額な収入をもらうのと、年収は10分の1でも我が子(日本の患者や慈恵の後輩)の育児をするのと、どっちにやり甲斐を感じるか?収入が減ったと言っても衣食は足りる。帰国を決めるのに、迷いはありませんでした。アメリカの大学は、お金は積めても僕に祖国と母校は与えられません」
■ 人間の持つ普遍的な 欲望は、人から感謝されること
2006年,当時43歳の大木氏は前職同様、慈恵医大の臨床系教授としては最年少で同大の血管外科学教授に、そして翌2007年には消化器外科や呼吸器外科などを含む6診療部、医局員200余名を擁する東京慈恵会医科大学外科学講座統括責任者(チェアマン)に就任。足かけ2年で同学の血管外科を躍進させる。30ある診療科のうち、就任時に診療報酬ベースのランキングで最下位であった同科は一気にトップへと躍り出た。もちろん手術件数でも圧倒的な日本一を誇る。また、並行して胸腹部大動脈瘤に対する枝つきステントグラフト術や下肢閉塞性動脈硬化症用の薬剤溶出ステント術など数多くの本邦初となる手術も成功させた(詳細は、慈恵医大外科ホームページ http://www.jikeisurgery.jp)。
「『日本はアメリカの10年あとを追っている』と言われますが、疾病構造においても同様。現在アメリカでは国民の約10人にひとりが血管病とされ血管外科が外科学の王道になっています。日本もこれから、戦後、欧米化した食生活をしてきたベビーブーマーが血管病年齢に入ってくれば、あっという間に血管病大国になるでしょう。
症例数日本一を達成した現在の慈恵医大血管外科チーム。「彼らを含め、慈恵医大外科の医局員を外科学のリーダーにすることが、僕の使命であり夢です」↓
でも、現状に不満はない。今、血管外科医は産科医や小児科医以上に不足しています。若手を育成し、欧米のようにすべての医科大学に血管外科の教授職があるようにすることが、夢のひとつです」
大木氏が帰国するまで慈恵医大の外科入局者は毎年3~4名であったが、彼の帰国後2年連続で入局者が2桁を超えた。来年は20名を超える外科希望者がいるという。若手の外科離れがつづく中で、すばらしい快挙だ。
入局者の増加には、医学部を志した若者に外科医療のダイナミズムとやり甲斐を説くのに時間を惜しまず、他大学卒業者でも慈恵医大で後期研修をしたならば一生面倒を見ようとの大木氏の確たる方針が、大きく影響しているのであろう。
さて、大木氏はやっとたどり着いた本拠地で、これから何をしようと考えているのか。
「近年、世界はアメリカを中心に動いているように見え、残念ながら日本にも否応なく彼らの考え方、価値観が入り込んでいます。
資本主義の宿命とも言えますが、アメリカは、すべての側面で短期決戦の国。そのため、企業においては成果主義、経済的インセンティブで社員に競争をさせ、近視眼的な成果を求める。その結果、社員同士の連帯感は薄れ、個人主義がはびこる。社員は評価対象とならない仕事からは『Not my job』と言って手を引き、組織への帰属意識の薄れも手伝い、会社を転々とすることでキャリアアップを図ります。
このように本拠地を持たない社会、自己中心がまかり通る社会がアメリカです。人間の普遍的な欲望は人から感謝されることなのに、彼らは短期決戦で富を得るのと引き換えに、仲間からの感謝や社会への貢献による満足感を捨ててしまった。ですから経済的に恵まれていても、アメリカ人で本当に幸せで、心穏やかに暮らしている人は驚くほど少ないのです。
個人の利害関係でつながっているゲゼルシャフトたるアメリカ。その集団の虚しさを知っているからこそ、利害とは無縁の友愛をベースにつながっているゲマインシャフト、いわば村社会を、慈恵医大の外科講座で形成していきたいと思っています。それは、アメリカの指向する物質主義や個人主義に対する僕のアンチテーゼであり、生涯を懸けて求めるものでもあります。
医療は公共財。経済的インセンティブはなじみません。そんな医療の世界で働く者には、──互いを慮り、悲しみや喜びを分かち合う、強い者がそうでない仲間をかばう、構成員が心から組織の発展を願う──『村社会』がいっそう必要だと確信します。損得勘定抜きの村は無限大のパワーを発揮しますし、何より個々の構成員を幸せにします。
まず、慈恵の外科でめざす村づくりを試み、次には慈恵医大全体で──。いつしか日本全体がひとつの村になってほしいと願います」
幼少期から各地を転々とし、渇望しながらも本拠地にとどまることは許されなかった。経済的に大いに恵まれたときもあったが、バブル崩壊で実家が財産を失った。アルバートアインシュタイン医科大学では日本人がたったひとりの中、無給医から這い上がって教授にまで上りつめ、世界的な血管外科医になった。後に、約束された富と名声を捨て、本拠地と定めた日本に戻ってきた。
そんな一切合切を踏まえて今、大木氏は、めざす目標を「“ときめき”と“安らぎ”のある村づくり」と言い切る。そんな一切合切があったからこその思い。彼が、日本の医療界につくり上げる村を見てみたい。
取材:中村敬彦
文:及川佐知枝
撮影:田口昭充
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