こんちは(^^)
わたしみたいな修行嫌いによくあんな事が起こったなあと言うのは、つまり、前に言ったようにわたしの努力でも、才能でも何でも無くて、信仰するブッダや、ターラー女神や、ヨーガや瞑想を伝授して下さった様々な師や仏教を支えていらっしゃる神々の恩寵だった訳ね。
そこでね・・・あ、続きですよ。
実は心解脱、つまりいわゆる「悟り」についてお話したいのです。
それは悟ってもいないのに「自分は悟った」と言い出す人が多いことと、「わたしは悟ったのだろうか?」と迷うのは、やはりスッキリしないでしょ?
指針となるものがちゃんと分かれば、(まだまだだなあ)と、更に真面目に修行に向かえますよね?
本当に悟ったら紛れもなく判りますが、悟ってない人も「わたしは紛れもなく悟った」と言うからね。
またそんな人に振り回される事が無いように自分で知る事は出来ますよ。
そこで、悟りについてみなさんは初めからバイアスを持ってんのね。
先入観のことね。
これが却って悟りを邪魔しますし、悟っても居ない人を師と仰ぐ事が有ります。
何かと言うと、日本語の慣用的な表現に、「単に気づくこと」を「やっと悟ったか、愚か者め」てな言い方をします。或いは、単に「気を回す」ことを「それくらい悟れよ」と促します。
このような習慣の影響で、わたしたちは「哲学的な発見や、思考上の盲点に気がつくこと」を悟りと誤解しやすいのね。
更に良くないのは、ちょっとばかし仏教用語を知ってると、本人も周囲の人も本物かと思っちゃう。
ところが実際はそうじゃないのね。
簡単に言うと、突然自分が無くなっちゃう。それは今までの自分ね。
すると求めるものもみな消滅します。
よって、貪瞋痴が消滅し、心に嘗て経験したことの無いような安らぎが生じ、これがその先ずーっと続きます。
そのような経験を悟りと呼びます。
ここのところをブッダは
「我というものはない。また、我が物というものもない。已に我なしと知らば何に依ってか我が物があろうか?このように理解するならば、人は良く解脱するであろう」
ね、今まであなたの心を専有していた欲望も、怒りも、寂しいとか楽しいことは無いかという衝動もみな消滅し、平和と安らぎだけが残る。
素晴らしいでしょ?
以前、mixiの禅のスレッドでね、あるインフルエンサーがいたの。
でこの人は自分自身も「わたしは大悟しているものだ」と主張し、周囲の人もその言葉を信じて、かしずいてたのね。
質問などをする時は、恐る恐る「わたしは、公案と長く格闘していますが全然悟れません、どんな工夫が足りないでしょうか?」みんなそんな調子。
「悟ろうというそれも欲なんだよ、それも捨てろ」と大抵、みんなに同じような返事をしていました。
しかし、彼は映画好きなのです。
「今度、何々の映画レビューしてやるから待っとけ」と同じ日に書き込みがあるの。
で、わたしが別の人を応援して励まして上げたら、この人はそれが大層癪に触ったらしく、わたしにこう言ったのね。
「お前みたいなやつはどんなに時間がかかっても、いくら修行しても絶対悟れん」
わたしは
「おや?妙な発言をなさいますね。なんだかお怒りのようですがそれは自我が怒っていらっしゃるのではありませんか?大悟されていらっしゃるのですよね?わたしはあなたにどうやって悟れますか?などと問うていませんが」
つまり、煩悩も我もありありなのです。
また、今から10ヶ月ほど以前のことなのですが、あるユーチューバーがね、悟りを開いたわたしがブッダの悟りを説明するという動画がありました。
よせばいいのにわたしはこれに干渉したの。
「それはネガティブな思考から、ポジティブに考えるようになったのであって、悟りとは違うんじゃ無いでしょうか?」と書いちゃった。
その時は
「コメントありがとうございます。あなたの意見は聞く気がありません。あしからず」と返信頂きました。
しかし、何故か急に今頃になって
・・・・と^^;
でも、自分は悟ったと仰るの。
他にはご自分で調理したものを肴に晩酌をされているか、カラオケが大好きなようでよくカラオケを楽しまれていらっしゃいます。またペットの猫ちゃん(アイコン)の動画が多々有ります。
彼らはみな一様に「自分なりの哲学的な発見」を悟りと誤解されていらっしゃるのです。
だからそれは先入観によって悟りを誤解しているんですね。
後半に続く・・・