慧解脱って言うのは、サマディに入ると完全な心の静止を経験します。
すると宿命通の始まる直前に思考の驚異的なスピードにびっくりします。
「心が止まっているのに、どうして思考があるのだ?」と思うでしょ?
それがPCみたいにね、心は連動しないんだけど、データ処理だけが驚異的に始まります。
脳機能学者の苫米地英人さんもこれを経験したらしく、「脳におけるCPUのハイパースレッディング状態」と表現されています。
ハイパースレッディングって判ります?
CPUはクロック数というタイミングで動作しているんだけど、そのうちの半分は待機しています。
この待機にもタイミングをずらして働かせると、見かけ上は連続でCPUは動作します。
つまり、仮想的にCPUを倍に増やすのね。
これを脳の驚異的処理スピードの増大に説明原理として苫米地博士は仮説を建てていらっしゃる訳です。
この仮説が正しいか間違っているかは別にして、とても上手い比喩です。
この体験を具体的に言うと「答えが先にぱっと出てきて後から数式や理論を考えるような不思議」な事が起こります。
同じことが地橋秀雄先生の「ブッダの瞑想法」の9~10ページにも書かれています。
するとその後、どんどん脳の情報が整理され自分の過去の思い出が一気にわーっと生起します。
これは死の直前「走馬灯のように記憶が蘇る」という現象そっくりなのね。というよりきっとこれがそうです。
サマディを擬似死と呼びますからね。
で、その後、光源を突破するとどんどん自分の過去世の状況が詳細に生起します。
これが宿命通ね。
「あ、これか・・・」とすぐに誰でも分かるよ。
ついでに言うと、いいですか?
耳の穴をかっぽじって聞いて欲しい。
輪廻と非我の理論は両立しない、矛盾すると皆言います。
非我ならば一体、輪廻や業を相続する主体は何なのか?と
盲点に引っかかっているのね、それはみんな。
今のわたしたちはあなたもわたしも幻影です。
ところが皆、そうは思ってない・・・常識的に思えないからね。
真我が無明におかれた状態、これを真我が夢を見ていると思って下さい。
だから今、この瞬間も夢なのよ。
死んで転生したと言う現象は、実は正しくは真我が次の夢に移行しただけなんですよ。
強烈な印象が残ると、その続きの夢とか、次に見る別の夢に影響を及ぼすのね。
この影響こそをサンスカーラ(意欲)とか業と呼んでいる。
いいかな?
夢から次の夢に移り変わる時にさ、「夢が幻影なら何が次の夢を相続するのか?その主体は何か?」って言ってそれが矛盾だと言っている。
理解できないと。
ねえ、みなさん。
昨日見た夢とその前に見た夢は何が相続しているんですか?
夢の中の自分をどう認知していますか?
そんなもん敢えて何が相続するって言ったって「印象」とか「情報」と言うしかないじゃない?
これが唯識のいう「アーラヤ識が相続する」という意味なんだね。
「何の説明にもなっていない、霊魂、ブドガラ、アーラヤ識と単に名称を変えただけじゃないか!実質的にどう違うんだ?」怒る人もいますが、判りたけりゃ解脱しろと言うしか無いね。
観念的に理解しようとするから仕方ないけどさ。
なんでそれが理解出来ないかと言うと、今の自分の存在(我ね)を(わたしは居る、わたしはある)という煩悩に由来する盲点なの。
(だって、わたし前世の記憶ないもの)と思っている。
だとしたら何が輪廻を相続しているのだと。
一応これは死後ショック、死後気絶により記憶を失うんだと云われているけどね。
あのね、例えば悟りを観念的に理解したって嬉しいかも知んないけど、意味ないでしょう?
人に自慢できるのが嬉しいの?
本当に悟りを得て、残りの人生、苦は滅し安らぎに生きるのと、高々何度か自慢するのとどちらがいい?
そういう訳で、非我と輪廻の関係性に矛盾が無いことが理解できました?
非常に単純なことなのね。
他にも重要な仏教の基本はここで経験されます。
例えば無数の前生を知ると誰でも次のことに思い至ります。
現世は、無常であり、一切は思い通りにならないものであり、夢のわたしは本当のわたしではない。
無常、苦、非我ね。いわゆる三相だけど、わたしは如実知見と呼んでいます。
これが理解できて初っめて、覚醒しなきゃ駄目だ、これは幻影なんだ!となります。
これは苦諦とも言います。
つまり、それを厭離(現世否定)、離貪(この世のものに、興味を失う経験)離愛著、そして解脱と来ます。
これが慧解脱の内容ね。
自慢するようで恐縮ですが、覚醒者以外に、ここの話を具体的に言えるお坊さんは何処にも存在しないと思うよ。そしてこれはブッダや、直弟子の聖者のみなさんと同じ経験です。
わたしはこれを持って、他のセクトやお坊さんを「それは違う」と言うのね。
ここからはわたしは未経験で人から聞いた話。
そして、煩悩が視覚的に見えて、これが自分から離れているのをちゃんと目に見ます。
で、その後自分が巨大な暗黒に包まれていることに気づき、そこで裂け目が生じ無明が撃破されたらそこが涅槃だということね。
真の自己に到達するのね、ここで。
これが阿羅漢です。
ここから四無量心を手始めに様々な能力を獲得していきます。
ブッダの三身や五身(スワジスターナから全てのチャクラに身体が格納されています、サハスラーラには真我)活動する場所がそれぞれ異なるのね。
実は、今のわたしたちも化身なのです。
活動場所とは、つまりそれは様々な天界だとご理解ください。
これが大乗仏教の正しい意味合いです。
大勢を救済するから大乗なのではありません。それくらいの功徳や覚悟は要るよと言う程度の話ね。
小乗は自分が救済されたらいいと言うのも馬鹿げた大嘘です。
ティク・ナット・ハンのドキュメンタリー映画を見てご覧なさい。
出家の誓に「全ての衆生を救済します」と初めに誓っているからさ。
ね、ヒーナヤーナは基本で、そこからマハーヤーナに入ると。
その必然性は、阿羅漢のままだと確定が弱くて、下向しやすいほど弱いのね。
ヒーナヤーナの目的は自己の完成であって、それは煩悩という余計なものを削ぎ落とす過程なのだと。
ところがマハーヤーナでは今度逆に、加味してくプロセスなのね。
で、マハーヤーナは宇宙の寿命よりも長時間必要なので、これを一気に短縮する為にタントラが生み出されたのね。
いや、今日はそんな話じゃない^^;
悟りの自覚はどんな自覚が生じるかと言うことを言いたかったの!
続くぞ!
追記で・・・
サハスラーラには真我はないとコメントを頂戴しました。
ヨーガ・スートラには真我は心臓内の空洞に存在すると説かれています。
ところが、仏教系タントラではアナハタ・チャクラには法身が存在すると説かれています。
そしてサハスラーラには金剛身とあるんだけども、この金剛身はヨーガで言う真我なのです。
おそらく、サハスラーラは解脱の門なので、解脱の際には真我はそこからニルバーナに行くのでそのように説かれているのではないかと思います。