「僕からすれば『受けたら入っちゃった』という感じだったんですが、彼らが怒るのも当然ですよね。『大学を解体するために入った』と説明しても理解はされず、しばらく相手にしてもらえなかった。浪人を経て、塩崎は東大、馬場は早大に進みます」

アウトローな芸大生活、ガラスケースを壊して逮捕

――東京芸大作曲科、同大学院ではどんな学生生活を送っていたんですか。

東京芸術大の音楽学部作曲科、同大学院に進むが、アウトローな学生生活を送っていた

「アウトローな生活です。小泉文夫先生の民族音楽学を除くと、授業にはほとんど出ていません。小泉先生は、先住民族の音楽を収集するフィールドワークを続けていた研究者ですごく憧れていた。大学では音楽学部よりも、面白いやつが多かった美術学部の方によく出入りしていました。学生運動は続けていましたが、肉体労働をしたり、バーでピアノ弾きをしたり、アングラ劇団を手伝ったりしているうちに、スタジオミュージシャンとしての日雇い仕事が増えてきた。でもバイト感覚が強くてまだ職業という意識はない。自然に気持ちもすさんできます」

「こんな出来事がありました。新宿でライブをした後、翌朝まで飲み明かし、甲州街道のあたりを酔っ払って歩いていたら、喫茶店のガラスケースがふと目に入った。その中にあるスパゲティやパフェなどの食品サンプルがホコリだらけで汚れていたので、僕にはどうしても許せず、いきなりガラスを蹴りつけて壊してしまった。『よし、これで世の中から醜いものを消し去ったぞ』なんて意気揚々と歩いていたら、器物損壊で警官に捕まったんです。不起訴になったので前科はついていませんが……。よく飲み、よく遊んでいた時代でした」

■YMO誕生時の経緯、細野・高橋さんとの人間関係は?

――YMOはどんな経緯で誕生したんですか。

海外進出を発表するYMOの記者会見(1979年、右から高橋幸宏さん、坂本龍一さん、細野晴臣さん)

「メンバーとなる細野晴臣さんや高橋幸宏さんとは、音楽活動を通じて知り合いました。YMO結成の構想は細野さんの家で聞かされました。3人でミカンが置いてあるコタツに座り、細野さんがノートを開くと、そこに富士山が爆発する絵と400万枚という文字が書いてあった。高橋さんは素直にやる気を見せていたようです。でも僕は『まあ、時間があるときはやりますよ……』みたいな感じで半身の態度だった。生意気でとんがっていましたからね」

――細野さんとは緊張関係があるようですが、馬が合わないのですか。

「いえ、そういうわけではありません。ただ、何かと一番年下の高橋さんが、僕と細野さんの間を取り持とうと、右往左往する場面が多かった気がします。細野さんからは『君は日本刀の抜き身のようで危ないから、その刃をサヤに収めてくれないか』なんて助言されたこともある。YMOの活動は5年ほどで終わり、僕の音楽人生は新たな局面に入ります」

「ものの音」にひかれる、時間をテーマにオペラ作曲へ

――最近はどんなことに取り組んでいますか。

シンバルを弓でこするなど「もの自体が発する音」に耳を傾ける(ニューヨークの個人スタジオで)

「もの自体が発する音にひかれています。プラスチックのバケツをステッキでたたいたり、シンバルやドラを弓でこすったり……。楽器だって本来は木や鉱物だったわけで、もの自体のプリミティブな音に発見がある。今はエレキギターにも凝っています。和音の弾き方はよく知りませんが、適当に弦を指ではじいたり、鉄でこすったりしていると、思わぬ音が出るので面白い」

「がんになった影響でしょうか、時間についても興味があります。九鬼周造やハイデガーなど時間に関する哲学書を読んでいます。今後は時間をテーマにした新しいオペラを作曲したいですね」

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