ヤフーニュース個人」をクビになった私が見た「個人発信ニュース」の歴史的な意義(後編)

メディアなのか? プラットフォームなのか?

「個人」で発信する“こわさ”。

それは記事を書く時にいつもつきまとうものだった。

「Yahoo!ニュース個人」の場合、発信する「場」が提供されているものの、発信の責任は最終的に自分自身に返ってくるという“こわさ”があった。

そこが従来のメディアとは決定的に違う点だった。

従来のメディアであれば「編集部」が原稿などの記事内容を「事前」にチェックする。たとえば新聞やテレビ、雑誌では「編集者」「デスク」「プロデューサー」などという役割の人間が事前に原稿に目を通してチェックして最終的にOKを出したものだけが世の中に出る。 何か問題があった場合の「責任」も編集部が引き受けてくれる。

そうした行為がそれぞれの媒体における「編集」という役割だが、それが「Yahoo!ニュース個人」には事実上は存在しなかった。責任を組織ではなく、書き手が一人で引き受ける。

毎回、記事を自分で発信する瞬間には“こわさ”を実感し、胃が痛くなるようなときも少なくなかった。

「個人」で発信するということはこれまで述べてきたような醍醐味があると同時に、この“こわさ”を引き受けることでもある。

このため、私の場合は事実を伝えるにあたってできるだけ正確にそのままで伝えることに心がけた。

私の記事はテレビ番組の引用部分も多く、引用や紹介の文字数が全体的に多い傾向にある。誰かの発言やテレビなどで表現されたことについては丸めて表現することはせず、なるべく長く引用していたことも理由のひとつだ。

クレームが来ないように冗長でも、なるべく正確にそのまま表記しようと考えていた。

「編集部」から連絡があるのは決まって「事後」ばかりだった。私の記事は「原稿が長い」「読む側の生理を考えてもっと短めに書いてほしい」などと発信した後から担当者からいろいろと注文がついて注意されるようになった。

この「事後」の注意や注文は「編集」の仕事なのかどうか。そもそも「Yahoo!ニュース個人」には通常の意味での「編集」という作業があるのかは当初から疑問な点だった。

「Yahoo!ニュース」自体が、様々の報道機関や個人などからのニュースを載せる「プラットフォーム」なのか、それとも編集機能をきちんともった「メディア」なのかは様々な識者が指摘している点だったが、当初からここは不明だった。

もしも自分が書いた記事について訴訟を起こされたりした場合には「Yahoo!ニュース」は責任をとってくれるのか。書き手としてこの点が気になったが、おそらく「Yahoo!ニュース」は自分たちはメディアではないとして、著者自身が責任を負わされて対処しなければならない可能性が高いのではないかという疑念を感じていた。この問題はずっと曖昧な点だった。

「ヤフーニュース編集部」の変質

2018年になってから「ヤフーニュース個人編集部」からオーサー宛に毎月一斉メールが届くようになった。そのあたりから「Yahooニュース個人」は会社の一部署のように管理的な色彩が強いものになったような実感がある。

メールは「月間MVA(Most Valuable Article)」と「月間MVC(Most Valuable Comment)」が決定しました、というような内容だ。毎月、編集部が選んだ優秀記事や優秀コメントが表彰されるようになった。

実は私が以前勤めていた組織でも同じような表彰制度があったことを思い出す。そもそも、「ジャーナリズム」における優秀な記事とは何だろうか。いったいどんな尺度で評価できるのだろうか。この頃から、それぞれのオーサーが「Yahoo!」という会社によってランキングされ、誘導されていくような傾向が強まっていったように思う。オーサーという書き手たちが日本最大のプラットフォーム企業に尻尾を振ってついていくような、そんな違和感を覚えた。

この頃から「Yahoo!ニュース」が「プラットフォーム」ではなく、「メディア」としての自覚を強めていったことは間違いないだろう。この頃から「Yahoo!ニュース」としての特集記事なども増えていったが書き手の一人として見れば、「今後の方針がこうなった」などという一方的な連絡事項がどんどん増えていった印象だ。

時々、電話などで連絡してきたり、「編集部」の方針を伝えたりしてくる「担当者」はかつて新聞社やテレビ局などで働いた人も少なくないが、話した感じでは報道の仕事にすごく精通しているとは思えない。時に体を張って取材するような調査報道のギリギリの現場を経験しているような印象はまったくない。それなのに記事を発信した「後」になってから上から目線で、マニュアルのような「口出し」や「注意」をするようが

になってきた。

TBSの情報番組「ビビット」の発信で…

2017年のTBS「ビビット」が多摩川の河川敷にテントを張って暮らしているホームレス男性のことを取り上げた際、「犬男爵」「人間の皮をかぶった化け物」という表現をしたことがあった。犬を多頭飼いしていて近隣の人々に迷惑をかけているという報道だった。番組では河川敷のホームレスの人たちを「多摩川リバーサイドヒルズ族」という名称で揶揄していた。この男性は顔にボカシを入れられていたが、たまたま私のゼミ(ビデオカメラで社会を取材してドキュメンタリー作品をつくるゼミ)の女子学生がこの男性を少し前に取材をしたことがあって、TBSの報道を見て「テレビの報道はひどい。Sさんはやさしい人なのによってたかっていじめるような報道ばかり」と怒って訴えてきた。彼女が制作したドキュメンタリーは捨てられていた犬と猫を育てて10匹ほどで一緒に暮らす心やさしいホームレス男性Sさんと動物たちの物語だった。彼女に案内されて当のSさんを訪ねて話を聞くと、SさんはTBSのディレクターから「怒鳴ってそこに出てきてほしい」などと頼まれてカメラの前で要望通りに振る舞い、撮影されたなどと怒りながら話し出した。

もし事実であればテレビの取材でやってはいけない「やらせ取材」ではないのか。そう考えてSさんが手に持っていた当のディレクター氏(制作会社所属)の携帯番号に電話して事実を確認したところ「自分は答えられない」という返事。

私は「ビビット」のこの回の放送を見ていてボカシを入れられたSさんが怒鳴って登場する場面を視聴していた。このためSさんが「怒鳴って出てくる場面」の存在を知っていたのだが、当のSさんはホームレスでテレビがあるわけでも見ているわけでもない。このため「怒鳴って出てくる」場面のエピソードは、もし自分で体験していない限りはSさんの口から出てくることはないはずだ。

Sさんの「TBSに怒鳴って登場してくれと頼まれた」という証言はTBSが放送した「怒鳴って出てくる場面」の映像と突き合わせてみるととても信憑性が高いことがわかった。Sさんは実際に体験したことは間違いない。そう判断して記事として発信した。

「TBS『ビビット』にやらせを頼まれたとホームレス男性が証言」というタイトルで。あくまでSさんという実在の人物が証言した内容を元に書いた内容だ。

ところがこの記事に対して「ヤフーニュース個人編集部」から電話があり、「どのように裏付けをとったのか」「TBSはやらせだと認めているのか 」などと確認があった。

この頃には「Yahoo!ニュース個人」がニュースの場を提供するだけの「プラットフォーム」だけでなく、自らも発信に関与する「メディア」だという自覚を強めていた時期なのかもしれない。ただ、通常のメディアの編集部では「事前」に責任者に相談して確認しながら報道内容を吟味していくのに対して、発信した「事後」になって一方的に「連絡」が来る「Yahoo!ニュース個人」の仕組みは、こうした独自のデリケートな報道をする時にはかなり無理があると感じたのも事実だ。

「報道の正しさ」は証明されたが…

けっきょく、この多摩川河川敷のホームレス男性をめぐる報道はホームレスなど生活困窮者の支援活動をしている他のオーサーも問題視する記事を発信してくれて、TBSが社内調査を経て、「不適切な放送があった」と番組内で謝罪したことで私の見立てが正しかったことが証明された。

ただ発信した後になってから担当者からの電話やメールで「注意」などを告げられることは次第に多くなっていった。

通常の報道機関の編集部の場合を想定してみよう。編集者と記者、あるいはディレクターとプロデューサーなどとの比喩で考えてみると、「Yahoo!ニュース個人」での編集部と書き手であるオーサーとの関係はかなり異質なものだったと言える。

通常の報道機関の場合、進め方は次のようになる。

まず記者の側から「こういう事実が新たに見つかった。これはこういう社会問題を表していると考えるので取材を進めたい」などと提案する。すると編集者が「この点がないと報道としては不足しているのでここは補強取材をした方がいい」などとアドバイスをする。その上で考えられる様々な角度から事実の裏付けをした上で、伝えるべき事実を精査した上でメディアとしての「ニュース」の報道につながっていく。このプロセスで編集者と記者、あるいはディレクターとプロデューサーは「双方向」で「相談」して話し合い、目的意識を「共有」して、「同じ気持ち」をもっていることが大事だ。

だが、「事後チェック」のような体制だと「一方的」な注意などになりがちで「相談」したり、この意識を「共有」して「同じ気持ち」をもつことは難しい。

「専門性にそった記事を発信して!」という注文

「Yahoo!ニュース個人」はその後も次第にオーサーの表彰制度を整え、インタビュー録音などを書き起こしてくれるサポートサービスや発信した記事の校閲チェック、取材費のサポートなどを充実させるようになった。

「個人」を「Yahoo!ニュース」のシステムに組み込む体制が進んでいった。それとともに編集部がオーサーの「専門性」の重視する傾向が強まっていった。つまり、専門以外の分野で記事を書かないようにという注意喚起のメールが届いた。私の場合、専門は主として「テレビ」で「報道(ジャーナリズム)」全般だ。報道の分野では生活保護や社会保障制度、児童福祉制度などもくわしい。だが、事後に担当者から「注意」を受けることが多くなり、以前のように本来の専門からは外れるドラマなどについて自由に書くことははばかられるような雰囲気になってきた。

2020年になって新型コロナウイルスをめぐるテレビ報道をめぐっても、テレビ各社や個々の番組の報道を解説してテレビジャーナリズムが果たす役割を考察するような記事を書いてきたが、この「専門性」を逸脱していると指摘されて、それを守るようにという注意されるようになった。

テレビ朝日「モーニングショー」の出演者である玉川徹さんがスタジオで独自情報として発言した内容を「スクープ?」と疑問符付きで記事で紹介したところ、玉川さん自身の事実誤認があって後に彼は番組内で発言を撤回して謝罪した。

「このケースでは発信時に当局に問い合わせるなど裏を取るべきだった」「ヤフーとしても間違えた報道になりかねなかった」と担当者から厳しく注意された。「担当者」は事後にチェックしてマニュアルのような「安全策」を指導するだけだった。

こうなってしまうと人間は積極的にはならなくなってしまうものだ。

通常のメディアの「編集部」のように現場で汗をかく人間と一緒になって問題を発見したり、伝え方を考えたり、記事をつくったりしながら発信していこうという姿勢とは違っていた。

当局などに問い合わせるにしても、新聞やテレビなどのメディアと違って、個人では相手にされない場合も多い。「編集部」がサポートすべき仕事だという意識はないようで「個人」でやるべきことだという姿勢だった。

本当なら事前に相談し、一緒に記事をつくっていくような関係をつくりたかったが、それはできなかった。

「後出しジャンケン」では? 事前に何も関与しないのに…

前述したように報道において「編集者」「デスク」「プロデューサー」と「書き手」「記者」「ディレクター」は調査報道などで互いに相談し、「同じ気持ち」や「信頼関係」をもつことが大切だと私は考えてきた。それが通じない状態になっていった。

「後出しジャンケン」で、もし何かあった時の責任は個人のせい。それでは編集部として無責任というものではないか。

「この人たちには話が通じない」。

そう考えてあきらめてしまっている自分がいた。

もし、もっと積極的に相談や提言をしていたら、違う展開もありえたのだろうか。

発信の「前」については書き手であるオーサー個人にほとんどを委ね、「後」になって編集部がチェックするという作業の流れ。

「ニュース編集部」の担当者とも、(その上司からの)「間接話法」のようなやりとりが続いてコミュニケーションが次第に難しいものになっていった。

そのうちに自分もクビを言い渡されるのだろうなと覚悟していたら、実際その通りになったというのが現状だ。

「自分のクビ」について発信することができる「自由さ」も

以上の経緯があって私は外されることになった。

とはいえ「Yahoo!ニュース個人」には、初期の頃に私が感じたような柔軟性や自由さ、可能性は今も少し残っていると信じている。このメディアが「マスメディア」からの一方通行の情報発信一辺倒だった時代から、「個人」が発信する時代へと流れを作ったのは揺るぎのない事実だ。それゆえにその長所をもっと活かしていくことができるなら、もっと多様で幅の広いジャーナリズムの可能性をこの国で見出すことができると思う。

私が「自分のクビ」について、この「Yahoo!ニュース個人」でこうして書いているのも、このメディアがもつ柔軟性、自由、そして可能性をまだ信じているからだ。

最初に声をかけられた時の言葉は忘れられない。

「思うテーマを何でも自由に書いてください」

こう言っていた時の「Yahoo!ニュース個人」のコンセプトそのものは今も変わっていないはずだ。

ネット時代における「ジャーナリズム」の実験場。

ネットニュースでは様々な「問題」について左右の両論からのニュースが流れ続けている。言論そのものが分断されている状況のなかで、忘れられがちな「羅針盤」の役割を誰かが、どこかが担わなければならない。

Yahoo!という日本を代表するネットメディアがその道筋をつけるのなら、今のような「名ばかり」の編集部ではなく、書き手にきちんと向き合って相談作業が恒常的に行われる実体のある「編集部」をつくってほしい。

Yahoo!が本気で「メディア」として責任を果たしていく心意気があればそれはできるはずだ。毒にも薬にもならないような「こたつ記事」を並べておいてPV数を稼ぐ現在のようなビジネスをやっていては、まともな意味での「メディア」への道は、おそらく永遠にやって来ないだろう。

「Yahoo!ニュース個人」には、記者や書き手の「自由」を尊重するかたちでこの国の「ジャーナリズム」の歴史の中でキラリと輝く役割をずっと果たしてほしいと思う。

そのためには「編集部」のあり方も含めて「メディア」として責任をとるかたちに変えていく必要がある。

その役割を忘れず、これからもこのユニークな試みをさらに発展させてほしいと心の底から願っている。

そのことが「ネットジャーナリズム」の新境地を、日本のジャーナリズムの新境地を切り開くことにつながるはずだ。

私は6月29日で「Yahoo!ニュース個人」から外れて、これまで書いた記事もその日以降は読めなくなってしまうが、この8年間、個人の視点から発信させてもらったことには深く感謝していることを最後につけ加えてこの原稿を終えたい。

お世話になりました。そして読んでくださったみなさん、ありがとうございました。

2021年6月1日  水島宏明