「ヤフーニュース個人」をクビになった私が見た「個人発信ニュース」の歴史的な意義(前編)

2013 年7月から書き手を務めてきた「Yahoo!ニュース個人」のオーサーから外れることになった。

「Yahoo!ニュース」編集部による決定事項だとしてメールで連絡を受けた。契約の終了に伴って6月下旬に発信はすべて終了する。オーサーから外れるということは個人的なことではあるものの、少々大げさに表現すれば日本のネットニュースの発展にかかわり、「ジャーナリズムの歴史」とも密接に関係があると考えるので、丸8年間におよんだ「Yahoo!ニュース個人」での発信の経験について書き残しておきたい。

画期的だった「個人発」の“ジャーナリズム

テレビという「マスメディア」の世界で長いこと報道の現場で働いてきた私が、ネットニュースという新しいメディアで、しかも「個人」という立場で発信する機会を得られたことは新鮮な体験の連続だった。

メディアをめぐる環境はこの間に大きく変化し、大半の日本人はまずネットニュースによって世の中の動きを知るようになった。そのネットニュースの中に「個人発」のニュース発信を入れたのが「Yahoo!ニュース個人」だった。

ネット時代の加速とともにメディアの発信の流れがこれまでのマスから個へ、という流れだけでなく、個からマスへ、という逆の流れも加わった。一方向だった情報の流れから双方向の情報の流れへと変わりゆく時代への変化のなかで、「ジャーナリズム」が目指すべきものは何なのか、自分なりに模索し試行錯誤を繰り返してきた。

振り返ると、この「Yahoo!ニュース個人」というメディアはこれまでのジャーナリズムの歴史のなかでかなり刺激的でユニークな存在だったということが言える。

「何でも思うテーマについて自由に書いてほしい」

そう誘われて書き始めた「Yahoo!ニュース個人」。

少なくとも書き手として参加した当初は、面白さやワクワク感に満ちていたと思う。

ネット時代に「個人」から発信して社会全体に問題提起するジャーナリズム。その新しい可能性を感じていた。新聞やテレビなど既存の「マスメディア」が抱える様々な問題についても「個人の視点」からの「気づき」をクローズアップし、改善を促すような報道を発信することができたと思う。

いつでも記事を書いて発信できて間違えなどを見つければすぐに修正もできる−ネット特有の自由さや柔軟性があった。

ひとたび発信すれば瞬く間にニュースが広がって、その拡散力はとても大きなものだった。

発信したことに関連して、詳しい情報をもつ人から内部告発などの情報も寄せられ、それを追加取材することで双方向性のある報道も実現することができた。

かつて自分がいたテレビでも経験したことがなかったジャーナリズムの「新しいかたち」を体験することができた。

たまたま私と同じ頃に「Yahoo!ニュース個人」のオーサーを長く続けてきた山本一郎さんが昨年2月に契約を打ち切られたが、彼のインタビューなどが東洋経済オンラインに掲載されているので関心がある人はそちらを読んでいただければ幸いだ。https://premium.toyokeizai.net/articles/-/27007

私自身の「Yahoo!ニュース個人」での発信を振り返れば、初期の頃はこのメディアが「個人の視点」を社会に提示するという目的が明確で、それを実践しながら面白がり、ワクワクしながら発信させてもらっていたという実感がある。

柔軟で迅速、自由な言論空間

それは言論空間としてとても「自由」だった。

書き手は「記事管理ツール」と呼ばれる「Yahoo!ニュース個人」の投稿システムを使って、いつでも原稿を発信できる。発信したとたんに自分の名前で「Yahoo!ニュース」に載る。そのスピード感は書き手にとって大きな魅力だった。

通常、他のネットメディアの場合、原稿を送ってから実際に原稿が掲載されるまでに2、3日、下手をすると4、5日かかることもある。編集者が原稿を組み直したり校閲からのチェックなどが入ったりする。

紙の媒体と同じで慎重に二重三重にチェックを経る作業だとミスは少なくなる。だがそれでは原稿を書いたタイミングから実際に記事が世の中に流通するまでの間にタイムラグが生じてしまう。

一方で「Yahoo!ニュース個人」ではそうしたタイムラグがいっさいない。記事を書いて自分で確認して発信すればその瞬間に記事が全世界のネット空間に流通する。

このライブ感はとてもスリリングなものだった。誤字脱字などのミスがあっても自分ですぐに修正すればその場で反映されていく。ネット媒体ゆえの柔軟さを感じさせるものだった。

「個人の発信」からリアルタイムで社会が動く!

私は自分の専門である「テレビ報道」について主に書いてきた。

NHKがニュース番組の中で政権に忖度するような「不自然なニュース」を放送したとき。

テレビ局で「やらせ」などの不祥事があったとき。

テレビの制作現場でなぜこの種の問題が繰り返されるのかを考察して記事を書いた。

新聞社や通信社、週刊誌などの記者から取材を受けることもたびたびあったが、活字メディアの人がどんな場合に「やらせ」なのか、不確かなままに記事を書いている現状がわかった。NHK「クローズアップ現代」の“出家詐欺”の「やらせ疑惑」では週刊誌の報道で知った後に映像を見直してみると、隣りのビルから窓越しに撮影された会話の音声がクリアに録られていることなど、取材者がその会話のすぐ横で仕込みを行っていないと取材できないような「不自然さ」が明らかだったので指摘した。

2013年9月、2020年夏季オリンピック大会の招致活動で安倍晋三首相(当時)が最終プレゼンテーションで原発事故後の福島について「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされている」と胸を張って発言した時も、福島第一原発の現状を取材した経験から、「福島の人たちや原発事故のその後に注目している人たちからみれば、明らかな『ウソ』がある」と指摘する記事を発信したところSNSで拡散されてかなり大きな反響があった。

時々刻々と変わっていくニュース。それについてリアルタイムで発信して、その反響をすぐに肌で実感するというのは、「報道」の仕事を長年やってきた私自身もあまり経験したことがないシビれるような醍醐味だった。

対応を迫られた大手テレビ局

「Yahoo!ニュース個人」での私の発信がきっかけで大手メディアが対応を迫られたケースはかなりある。

2014年に日本テレビが放送した「明日、ママがいない」というドラマ。これは児童養護施設を舞台にしたものだったが、児童養護施設が「恐怖の場所」としてかなり誇張されて描かれていた。

児童養護施設はかつて自分でも取材したことがあるが、虐待された経験をもつ子どもたちが入所者の大多数を占めるなど、とてもデリケートな場所だ。このドラマでは児童養護施設の現状についてかなりバイアスをもって描き、誤解を招く描写が数多かった。単純で表面的な描写。子どもの命を救うために特別養子縁組をはじめ新たな絆を探すことなどに取り組んできた団体や人々、様々な事情を抱える子どもたちへの誤解や偏見を増大しかねない危険なドラマだと感じて、ネットニュースで注意を促した。

施設出身の若者がこのドラマを見て施設での体験がフラッシュバックする発作を起こしてリストカットした、という連絡が知人からあった。ごく普通に育った人間が見てもどうということがない描写でも、施設出身者など過去に過酷な経験をした人にとっては心の奥をわしづかみにされるような加害性。それを感じたので「問題があるのでは?」と発信した。全国の児童養護施設や里親の関係者、子どもの精神的な状況にくわしい専門家らもこの番組を見て「問題」だと考えていることが分かり、それぞれの見解をまとめて記事にした。

それまで直接知らなかった施設関係者や専門家からSNSを介して連絡があり、見解を確認して記事として発信した。この「明日ママ」の問題をきっかけに親に捨てられた子どもたちの深刻な実態について情報を集めることができて発信できたと思う。

この「明日ママ」については「赤ちゃんポスト」を運営している熊本の慈恵病院なども抗議の声を上げて反発の輪が広がり、スポンサー企業もこうした動きを無視できずにコマーシャルの放送が自粛された。ドラマの放送で企業のCMが流されない事態にもなった。「Yahoo!ニュース個人」からの発信がなければこうした展開にならなかっただろう。ネット時代の個人発ジャーナリズムの影響の大きさを改めて実感させる出来事だった。

(続く)