けんきゅうのはなし

研究の話

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アメリカは車なしでは暮らせません。

最初はサンディエゴ空港で借りたレンタカーで用を足していましたがレンタカーは割高ですし、免許も取らなければなりません。
私たちは早速車を買いにでかけました。
アメリカでとにかくびっくりしたのが中古車の値段が高いことです。
特に日本製の中古車の高さは目がくらむほどで10年落ちのシビックが100万円を超える値段で売っています。
アメリカ人は神様よりホンダの車を信用していて、日本の中古車と言っても日本で作られた日本車かアメリカ製の日本車かで値段が違うほどでした。隣の研究室に留学に来た日本人外科医は安さに目がくらんでアメリカ車を購入しましたが、研究室の事務のオバサンから「気でも狂ったのか?お前は本当に日本人か?」と叱られていました。
私たちがアメリカに到着後初めて入ったガソリンスタンドで「My car is on fire!」と叫んで走ってくるアメリカ人を見ました。見るとアメリカ車がエンジンから火を吹いています。幸い、スタンドに消火器があって火は無事消し止められましたが隣の研究室の外科の先生の車もそれに似たような信じられないトラブル続きで、アメリカ人がアメリカ車を買いたがらないのも仕方がないのだと思います。
また、燃費の良さも日本車がモテる理由です。アメリカは産油国であり、ガソリンは確かに安く日本の三分の一から四分の一です。しかし、買い物にしても遊びに行くにしてもとにかく距離が離れており、ひとつの用事を済ませるためのガソリン代は結局日本と同じぐらいかそれ以上かかってしまいます。

そんなわけで私たちも日本車のディーラーでアキュラ・インテグラを購入しました。

食事

アメリカに行くと食事に苦労すると思われるかもしれません。
しかし少なくとも私たちが留学した1990年後半ではほとんどその苦労はありませんでした。

当時、アメリカはすでに日本食ブームでアルバートソンズやボンズといった現地のスーパーマーケットでも普通に「Sushi」や「Teriyaki」が売っていましたし、パスタの横には現地生産の蕎麦が、お米はジャポニカ米によく似た「錦」という銘柄の米が売っていました。そしてスーパーマーケットの出入り口では海苔巻きをきれいに切ることができるスシカッターなる包丁を実演販売していたのです。それでも日本の食材が必要なときには日系のスーパーマーケットもありました。

当時ヤオハンと呼ばれたスーパーマーケット(現ミツワ・マーケットプレイス)。
アメリカでは手に入りにくい漫画が売っていて、とんねるずの「皆さんのおかげです」や月9のドラマを録画したビデオを有料で貸し出していた。今考えると明らかに違法だけど現地にはやっぱり日本語に飢えた人たちがいて、いつも盛況だった。

私たちが飢えたのは食事よりむしろ日本語でした。
西海岸は米国の中では東洋人の多い地域です。それでもネットがほとんど普及していない時代、現地で日本語を目にすることは殆どありませんでした。そんな私たち夫婦の一番の楽しみは文藝春秋。とにかく日本語がたくさん読めることが何よりの娯楽でした。

研究室

研究室は免疫学ビルディング半地下1階にありました。自分に与えられた研究スペースは奥行き50センチ、幅1.5メートルぐらいのスペースで実験をしながら昼食もそこで食べました。日本の研究室では考えられない生活でしたが実験をしながら食事ができるのは便利なのでつい放射能を使った実験をしながらその隣でランチを食べていました。

余談ですが私は結構大量の放射線を使用する実験をしていました。放射能(β線)の被爆を避けるため体の前にアクリルの遮蔽板を 3 枚たて、乳母車を引く老婆のような格好で実験をしていましたが、それでも放射線技師が私の背中に放射線カウンターを当てると針が振り切れました。
そんな実験をしていると体にも変化が現れ、米国滞在中の2年間で手の平にずいぶんとたくさんのホクロができてしまいました。子ダネも焼ききれて、もう子供なんかできない、と考えていましたが帰国後にあっさりと下の子供ができてしまいました。
ただ、大量の放射能を浴びたせいで出来が悪いです。
とりあえずスクリプス研究所の一角に自分の研究スペースを持ったわけですが、スペース的には日本と比べでずいぶん貧相でした。愛知医大の私の研究スペースは机も含めてその4倍ぐらいあったからです。
しかし JD に言わせると「業績の悪い研究室とはそういうものだ。」そうです。
「ここなんか、まだましだ。東海岸の毎年のようにトップジャーナルに論文を発表している研究室などは研究員の肘と肘、背中と背中がぶつかる距離で仕事をしている。今お前の座っている長椅子に 3 人が腰掛けている。本当に生産性の高い仕事をしようと思ったら、その人口密度じゃないとダメなんだ。」

さらに研究室を見渡すとおよそ日本では使われないような古い実験機材ばかりです。
例えば恒温槽。材料を 37 度に温める実験には無くてはならない機材ですが温度計をみると 39 度になっている。温度調節ツマミを回そうとすると慌てて JD が止めました。
「お前がそのツマミを回したとたん、その恒温槽はもう何度になるかわからない。
50 度になるか 19 度になるか誰もわからない。39 度なら上出来なんだ。ぜったいに触るな。」

なんとスクリプス研究所から発表される研究論文は「37 度で 1 時間反応させた」と記載されていますが、実は 39 度で反応がおこわれていたのです。

なかに水を入れて 37 度に温める恒温槽。
24 時間稼働していて、中の水が腐らないようにときどきメンテナンススタッフのジョンが水を入れ替えていた。
ジョンはとても親切な男だった。気さくに話しかけてくるので適当に相槌をうっていたけど南部訛りがひどくて何を喋っているか2年間ついにわからなかった。

他にも冷却機能のない遠心分離機、昭和の香り漂う滅菌装置などおよそ一流の研究室というよりは第二次大戦中の潜水艦の中のような体裁です。
たまに同じ免疫学ビルディングで大きな研究費を獲得した研究室があると、新しい研究装置を買ってこういった古い装置を捨てるのでお下がりをもらうのです。
しかしそれらの中古研究機器は常に誰かが使っていてメンテナンススタッフもついているためずっと壊れずに稼働していました。

システムの力(ちから)

スクリプス研究所で働いてみてすぐに気がついたことがあります。抜群に働きやすいのです。
例えば、日本でひとつの実験をしようとすると研究に必要な材料を問屋に注文するところから始めなければなりません。材料が届くまでに 1-2 週間かかり、やっと実験を始めたら研究機器が故障していて使用できなかった、などということが頻繁にあります。
日本の研究室では私学助成で買った1億もする高額な研究機器が並んでいましたが、それを使用する研究者もほとんどおらず、メンテナンスするスタッフもいないためイザ使おうとするとだいたい壊れています。助成金には機械を買うお金は含まれていますがメンテナンススタッフを雇うための人件費は含まれていないからです。

スクリプス研究所初代所長リチャード・ラーナー
大胆でエゴイスト。
スクリプスを世界一流の研究室に育て上げたのはこの男が造ったシステムの力(ちから)だ。

しかしスクリプス研究所では全てのシステムが躍動していました。実験材料は配達を待つ必要がありません。
各フロアには「ベーリンガーフリーザー」「ギブコフリーザー」と呼ばれる冷蔵庫がおいてあり、必要な試薬をとったあと伝票に書き込んで冷蔵庫の横にある箱に入れるだけです。田舎にある野菜の無料販売所のような仕掛けですが、こんなレトロな仕組みのおかげで納期を気にする必要なく研究者は好きなときに実験を始めることができます。
また、全ての実験機器にはメンテナンススタッフがおり、研究者が実験に使おうと思うと適切なアドバイスが得られます(また、研究者が横着な使い方をしないか見張っています)。そして全ての機械がフル稼働しており、実験で使おうと思うと順番待ちのノートに時間と自分の名前を書いておかなければなりません。

そしてこれが一番すごいことなのですが、いろんな研究室にいろんな実験のエキスパートがいるのです。
我々は一つの論文を書くときにたくさんの実験とそこから得られたデータを用意する必要があります。私が留学した1990年代ですら分子生物学の実験手法は猛烈な分量があり、実験の指南書だけでも電話帳3冊分はありました。日本でひとつの論文を書き上げるために10個のデータが必要だとすると10通りの実験系をゼロから組み立てなければなりません。スクリプス研究所では自分が不慣れな実験系があると必ず何処かにその実験に精通したスペシャリストがいるのです。そのスペシャリストには必ず友達がいますから私の友達に聞いて伝手を辿っていくとその人にたどり着きます。友達の友達のそのまた友達にお願いしてその人に実験を手伝ってもらうことができます。実験をやる人にとっては毎日やっている実験が少し増えるだけのことですから「論文に君の名前をのせてあげる」と言えば気軽にやってくれます。こうして10 個のデータが必要だとするとそのうちの半分ぐらいは他人にやってもらうことができるのです。

研究の世界では自分と同じテーマで、自分と同じゴールを目指して同じ実験をしている人が常に何人もいると言われています。そうなると良い業績をあげるために大切なことはゴールに到達するまでのスピードです。スクリプス研究所ではこのような競争に打ち勝つ仕組みがあり、それは偶然できたものではなく創始者のリチャード・ラーナーの構想によって造られたシステムの力(ちから)なのです。スクリプス研究所に特別優秀な研究員が集まっているわけではありません。夕方 5 時になるとみんな集まって1ドル札を出し合ってコロナビールを飲んでいました。しかし研究スタッフを支える優れたシステムがあるためにスクリプス研究所は昔も今も一流の研究所なのです。