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辿りついたのは、築年数が経っていそうな二階建てのアパートだった。クリーム色と思しき壁は薄汚れて灰色に近くなり、一階の玄関前のコンクリートには一部ヒビが入っている。
「うち二階なんだ」
兵伍は錆びた鉄製の階段を登り、短い間隔で並んだ五つのドアの一番端、205と書かれたドアの鍵を開けた。
「ボロくて狭ぇけどまぁ二人しかいないしな。上がれよ」
「お、お邪魔します……」
申し訳程度のスペースしかない玄関から、台所、居間、寝室の全てが見える。1LDKの家なんて、伊織には初めてだった。こんな狭い所に二人も住めるのかと驚きと共に感心する。
「前は――あぁ悪い、なんでもない」
兵伍は余計なことを言いそうになった自分に舌打ちした。
本来、兵伍の父親、健伍の給料なら、もう少し広くて新しい部屋を借りることができる。このアパートに越さざるをえなくなったのは、このあいだ健伍が連れ込んだ女が、隠してあった通帳と印鑑を盗っていったからだ。しかも健伍は警察に届けようとすらしなかった。紛失届だけ出して、「きっと凄く困ってたんだよ」とへらへら笑うのだ。いつものことなので兵伍はため息をつくだけで終わらせたが、初対面の少女にまで愚痴りそうになるとは実は相当鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
伊織から手を離し、ランドセルを机の上に置きに行く。
じんわりと残るぬくもりを逃したくなくて、伊織はそっと自分の手を握り締めた。結局家に着くまで振りほどくことはできなかったのだ。自らの浅ましさを自覚して酷い自己嫌悪に陥る。
「麦茶しかねぇけど飲むか?」
戸棚からグラスを取り出し訪ねる兵伍に、伊織は遠慮がちに頷いた。
「お、お構いなく」
「気にすんな、安もんだし。で、どうする」
「……どうするって」
「なんか俺も勢いで連れて来ちまってあれだけどさ、あんた、ほっといたらまた死のうとするだろ」
核心をついてくる兵伍から顔を反らし、伊織は右斜め下の床を見る。安っぽい木目調の塩化ビニールだが、綺麗に掃除されて塵一つ落ちていない。
「……別に、私などどうなっても」
「だからそれが問題なんだって。ふらふら車の前に飛び出すし、公園連れてっても全然動かねぇじゃん。あんたはそれで終わりでいーかもしんねぇけど、掃除する人の気持ち考えたことあんの? 見ちまった奴も下手したらトラウマもんだぜ」
「……」
言われてみればそうだな、と伊織は思った。死んだ後のことなど考えもしなかった。日常の中に突如として出現した死体はさぞかし人々をぎょっとさせることだろう。しかし、もはやそんな気遣いができる余裕などない。何もかもが厭わしくて煩わしかった。
息が詰まるような毎日。味気ない生活。ただ息をして歩き食べ寝る。機械のように同じことを繰り返すだけ。誰にも近づかないようにして、誰とも触れないようにして。灰色の世界に乱暴に押し入ってきた男は最後の希望を砕き、大きな傷を残して消えてしまった。傷はじくじくと痛み伊織を消耗させる。お前はここでずっと一人で汚れを自覚し生きて行けと苛む。――だからもう、いいのだ。いなくなってしまった方がいい。どうせ生きていても人に迷惑をかけ続けるのだから死ぬときの少しの迷惑などどうということはない。
それでも、目の前の正しさの塊のような少年に対して申し訳なさは感じたので、伊織は謝った。せっかく気にかけてくれたのに。優しくしてくれたのに。手を繋いでくれたのに。私は本当はあなたに近づく資格がない人間で、どうしたって死ぬしかないのだ。
「……ごめんなさい」
「俺に謝らなくてもいーよ。家帰る気はねぇんだよな?」
「ない、です……」
家に帰ることを考えただけで伊織の胸は引き絞られるように痛み、全身に寒気が走って嫌な汗が噴き出た。母親、ばあや、叔父、従兄妹、浮かんでは消える家族の顔は、どれも伊織を責めるものだ。触れられないことも、蔑むような目も罵倒もいつものことなのに、何故か今はその一つ一つが怖くて堪らなかった。脳内の母親が伊織を冷たくねめつけ言う。「伊織さん、おとなしくしていたでしょうね?」――駄目だ、とても耐えられる気がしない。
項垂れている伊織を、兵伍はじっと眺める。伊織に対する同情心は、自分でも戸惑うほどに大きい。伊織が男だったら、さして気にせず家に招いただろう。いっそ目つきの鋭い大男だったなら。
伊織は儚げで、傷ついているのが似合う少女だ。人を騙すようには見えない。だから警戒してしまう。外見が当てにならないということを、今まで散々思い知らされてきたのだ。
ぐだぐだ言ってね―で助けてやれよ、という内なる声を無視して、兵伍は考える。感情とは別の部分で頭を巡らせる。この少女との出会いは作為的だったか、少女が自分と関わることで得られるものはあるか、少女に何か奪われる可能性はあるか。
少年の直感は、伊織の挙動は演技ではないと告げている。しかし彼は自分の直感を信じていなかった。故に考え、そしてしばらくしてから躊躇いを振り切るように首をぐるりと回し、伊織に声をかけた。
「……あのさ」
「はい」
「行くとこないならうち泊まれ」
「……え?」
思わず顔を上げて、伊織は兵伍を凝視した。
今、この少年はなんと言った?
「一応客用布団あるし、一晩だけならいい。ボロアパートだけど公園よりましだろ」
冷静に言う兵伍に、伊織は目を見開いて後ずさった。
「そ、そん、そんなわけには」
「なんで」
「あの、ご迷惑ですし、それに最初に申し上げた通り、私は汚いです、から……」
あまり近づかないほうが、と徐々に小さくなる伊織の言葉に兵伍はまた苛立ちが募るのを感じる。
「汚いってどこがだよ」
険のある声で尋ねると、伊織は体を竦ませて「血が」と言った。
「血が、
「はぁ?」
よくわからない言いようだ。伊織の体に流れる血はその父親と母親に由来するはずだ。それなのに母親が血が汚いと言う? よっぽど夫が嫌いだったのだろうか。
「お前、親父はいんの?」
聞いてから、あ、これ簡単にしちゃいけない質問だったかな、と兵賀は気づいたが、すぐに、いやこんなめんどくせーことに巻き込まれてんだからこのぐらい聞く権利はあるだろ、と開き直った。今さら気まずい空気も何もない。
伊織は特に気にしたふうもなく、素直に答えた。
「父は、私が生まれてじきに交通事故で他界しました」
「へぇ」
それでは夫婦間に確執があったのかどうかはわからない。それに、伊織に冷たくするのが母親だけでなくほかの家族共々というのが、どうにも腑に落ちない話だった。
兵伍は伊織に歩み寄り、右手を取って両手で握り締める。途端に顔を引き攣らせた伊織が必死で抜き取ろうとするが、構わずますます力を込めた。
「俺が汚いって思うのは、
薄く涙の膜が張った伊織の目をしっかりとみつめ、言い聞かせるように言う。
「三日風呂入ってない奴は汚いと思う。でも親父が仕事で徹夜してそんぐらい風呂入んなかったことあるけど、風呂入った後まで汚いと思い続けたりしない。洗ったら綺麗になる。汚れってそーいうもんだろ?」
兵伍は現実主義者だ。怨念だの呪いだの祟りだのは全く信じていない。あんなのは、女が怖がるふりしてか弱いアピールをするための口実のようなものだ。当然、血が汚れているなんて言われても「ふーん」としか返せない。どうやって判別するんだそんなの。
「……私も、よくわからないんです」
伊織は兵伍の強い視線から顔を逸らし、ぼそぼそと言った。
「ほかの方とどう違うのか、何が違うのかはっきりしなくて、でもお母様の仰ることはいつも正しいので」
「あのなぁ」
兵伍は眉をひそめた。
何故この少女はそんなに母親を絶対視しているのか。何もかも正しい奴などこの世にいるものか。兵伍からすれば、娘を自殺にまで追い込んでいる時点でその母親はちっとも正しくなんかない。だがほかのことなら簡単に流されるくせに、こと自分が汚いという前提についてだけは、伊織は頑なに考えを変えようとしなかった。物凄く面倒くさいが、その面倒くささはこいつのせいじゃないのだと、兵伍はぐっと我慢する。
「お前がどう思おうと俺の感覚ではお前は汚くない! だから気にすんな! 泊まれ!」
「はい!」
怒鳴り声に反射的に返事してしまった伊織は、一瞬後にはっとして撤回しようとするが、既に兵伍は伊織に背を向け、押し入れから伊織用の布団を引っ張り出しているところだった。
正確に言うと健伍の彼女用の布団である。だが兵伍は、今日健伍がどんな女を連れ込んでこようと布団を貸す気はないのでこれでいい。大体ほとんどの場合女は健伍の布団で一緒に寝るのだ。この布団は、稀に清純ぶって「男の人と同じ布団に寝るのって良くないと思うな……」とかほざく女のために購入された。健伍は惚れた女には本当に弱いので、許可が出るまでは絶対に手を出さず、隠しきれない悲しみを笑顔でカバーして女に別の布団を薦める。その光景を横目で見ながら兵伍は常々馬鹿じゃねーのかと思っていたのだが、今回ばかりは余分な布団に感謝した。居間に一つだけあるソファは小さくて、とても人が寝られるような形状ではない。かと言って自分の布団に伊織を入れるのは御免だった。
「お前位置どの辺がいい? あんま選ぶ余地ねーけど」
無造作に畳の上に布団を敷きながら兵伍は尋ねる。
なにせこの家は狭い。なるべく自分の布団とも健伍の布団とも離してやりたいが、六畳一間にそこまでのスペースはないのだ。
伊織はあっというまに今夜の宿泊先を決められてしまったことをまだ受け入れられていない様子だったが、兵伍に答えを促され、おずおずと言った。
「どこでも、あの……そういえば、ご家族は」
「親父には絶対何も言わせねーから安心しろ」
間髪いれずにきっぱりとした答えが返ってくる。親に対してこんな口が利けるなんて凄い、と伊織は怖いような羨ましいような気持ちで思った。クラスメイト達もそうだ。会話に加わったことはないが、授業の合間や給食の時間などに、気軽に親のことを話しているのが聞こえることがある。「昨日母さんにゲーム機取られちゃってさー」「マジ? 隠し場所知らねーのお前。こっそり取ってこいよ」「ばあちゃんに頼むほうが早い」「お父さんの服一緒に洗わないでって言ってるのに全然覚えてくんないの!」「え~かわいそぉ」「キモいよねぇ」「小遣い上げてって交渉してみた」「いくら上がったん?」「期末で二十位以内入ったらだって」「お前それぜってぇ無理っしょ」……。
彼らにとっては、両親というのは畏怖すべきものではなく親しみと甘えを向けられる存在であり、場合によっては逆らったり意見したりすることもあるらしかった。きっとそれが本来の家族の姿なのだろう。伊織の家だって、娘が伊織でさえなければ和やかな会話が交わされていたに違いないのだ。
ぼんやりと突っ立ってまた思考の泥沼に落ちていく伊織をよそに、兵伍はてきぱきと布団を敷き終えた。壁にかかっていた青いエプロンをひょいと取って身につけ、冷蔵庫から野菜と海老のパックを取り出し食事を作り始める。手慣れた様子で包丁を使う姿に伊織は目を見張り、何か手伝った方がいいのだろうかと台所に近づいたものの、まったく勝手がわからず途方に暮れた。
「……あの、あなたが料理を?」
「おう。親父と交代。うち母親いねーし」
「あ、そうですか……すみません、私家庭科以外で作ったことがなくて」
あぁ、お嬢さんなんだっけな、と兵伍は伊織の傷一つないほっそりした手を思い出し、おざなりに頷いた。
「別にいい、期待してない。一応客だし、飯作らせたりしねーよ」
「ありがとうございます」
礼を言って、うろ、と所在無げに少し彷徨ったのち、近くの椅子にそっと腰掛ける。堅めのクッションに体重を乗せると、どっと疲れが押し寄せてきた。地の底に引きずり込まれるような感覚だ。もう歩きたくない、と全身が訴える。歩きたくない。生きたくない。何もせず眠りたい。そのまま起き上がらないでいたい。
目を閉じる。タンタンタンタン、と小気味いいリズミカルな音が静かな空間に響く。何かを切っているのだろう。正しい料理を作り上げるための作業。伊織は家にいるとき、そんな音を聞くことすらできなかった。離れに運ばれる料理は冷めて、魚は焦げ付き味噌汁にはゴミが浮く。それが当たり前だと思って暮らしていたが、学校で初めて給食を食べた時に違うとわかった。本当はご飯はこんなに美味しい。でもきっとこれを食べるのはいけないことなんだろうな、と伊織は思った。伊織は汚れている。だから綺麗な料理を食べてはいけない。母はそう言うに違いない。
しかし幸い、学校での食事について母親は何も言いつけなかった。なので伊織は周りに合わせて給食を食べ、家で出る食事の味気なさを知った。それは単に味だけの問題ではなく、場の雰囲気も影響している。
吐息も凍るような冷たく張り詰めた家の静けさよりも、騒がしく慌ただしい学校の賑やかさの方が気が休まる。例え自分が喧騒の一部になれずとも、楽しげな周囲を見ているのが楽しかった。
そして今いるここ、この狭い食卓は。
喋り声も物がぶつかる音も上履きが擦れる音もスピーカーから聞こえる音楽もなく、かと言ってそっけないわけではない。回る換気扇、水音、じゅうううと煮立つ油の音。どうということもない生活音。それがじんわりと心に染みて、不思議と気持ちが落ち着いた。見えない枷が外されるような開放感。
鼻孔を擽る香ばしい匂いに食欲が刺激され、伊織はうっすら目を開ける。ちょうど振り向いた兵伍が、とん、とテーブルの上に何かを置いた。
「できたぞ。お前、寝てんの?」
「……あ、いえ、すみません」
ぱちりと瞬きし、居住まいを正す。目の前には、ほかほかと湯気を出すどんぶりが置かれていた。武骨な入れ物の中には、つやつや光る白米、きつね色の天ぷら、たっぷりたらされた茶色のタレ。とても美味しそうだった。
「天丼。あ、嫌いなもんとかあったか?」
「ないです」
本当はセロリが少し苦手だが、このどんぶりには入っていないようだし、もし入っていたとしてもそれを口に出すなんてとんでもないことだ。
兵伍は伊織の丼の前に割り箸を一膳置き、エプロンを外して椅子に座った。
「どーぞ」
「い、いただきます」
自分のために作ってもらった料理なのだと思うと、嬉しさと恐れ多さで胸がいっぱいになって、食道がきゅうと縮まった。お腹は空いているのに、ご飯が喉を通る気がしない。
伊織は手を合わせ、少し頭を下げた。箸を手に取り、一番上のピーマンの天ぷらを口に運ぶ。端を少しだけ齧ると、さくさくした衣とほろ苦いピーマン、甘いタレが合わさって絶妙な旨味が口に広がった。
「食える?」
兵伍の問いかけに何度も頷き、伊織は急いで口の中のものを咀嚼した。無理やりごくりと呑み込み、「おいしい、です」囁かな声で言う。
「そっか」
その返答に少しほっとして、兵伍は頬を緩めた。自分の料理が下手だとは思わないが、特別上手いわけでもない。食材も近くのスーパーで買ったありふれたもので、しかもエビフライは特売のやつだ。お嬢さんぽい伊織の口に合わない可能性もあった。もし食べられないと言われても代わりを用意することはできないので、「黙って食え」としか言いようがないが、美味しく食べてもらうに越したことはない。上品な所作でじれったくなるほどゆっくりと、だが着実に伊織は食べ進めている。その和らいだ表情に安心し、兵伍は自分の分のどんぶりに箸を突っ込んだ。
食事中話す習慣がなく、なおかつ食べることに専念している伊織と、元々口数多くない兵伍が向かい合って取る食事は、大変静かなものだった。
後から食べ始めた兵伍の方が先に箸を置き、どんぶりを流しに持っていこうと立ち上がったところで、伊織が躊躇うように声をかけた。
「……あの」
「ん?」
「どうして、こんな色々、してくれるんですか。私みたいな人間に」
俯いてばかりで自分からはろくに合わせなかった目線を、初めて真っすぐ兵伍に向ける。期待も、感謝も、他意もない、ただ純粋な疑問がそこにはあった。
「……さぁな」
そんなん俺が知りてぇよ、と内心一人ごちながら兵伍は顔を背ける。
「家系だ、多分」
吐き捨てるように言って、ゴム手袋をはめ、食器を洗いだす。拒絶するようなその背中に、伊織はそれ以上何も聞くことができなかった。