昭和30年代の国内ミステリーが面白い 成吉思汗の秘密(高木彬光)
昭和30年代国内ミステリーの代表的な作品をレビューする6回目は、高木彬光の歴史ミステリー、昭和33年刊「成吉思汗の秘密」を挙げる。高木彬光については、こちらのコラムで紹介したので参照されたい。
本書には事件、犯罪の類は登場しない。純然たる歴史ミステリーだ。高木彬光の諸作で探偵として活躍している東大医学部法医学教室助教授の神津恭介が急性盲腸炎で入院。探偵作家の松下研三が病院に見舞いに訪れ、退屈しのぎに源義経と成吉思汗の同一人説について、ベッドディテクティブよろしく推理を展開してはどうかと提案。これに乗った神津恭介は文学部歴史学教室井村助教授の助手・大麻鎮子の協力を得て推理を進めていくというのが本書の流れ。
兄の源頼朝に追われ呆気なく非業の死を遂げた義経と、生い立ちが謎に満ちた成吉思汗。この二人の同一人説はもともと江戸時代にも議論され、義経は衣川で自害せず蝦夷地へ渡ったという説がたびたび唱えられていたが、その後シーボルトが義経・成吉思汗説を主張、さらに大正時代に小谷部全一郎という研究者が成吉思汗=義経説を大々的に発表し、民衆に知らしめたことがある(学者らの猛反論を浴びたが)。本書は、これらすでに定説化した歴史的な事柄に新しい考証を加え、それを小説的に構成した作品ということになる。
派手な事件が起こるわけでもなく、推理というか考証を進めていくだけで動きの少ない物語ゆえ、全体に地味な印象の作品だが、大麻鎮子という紅一点を加えて、神津恭介との将来の仲を匂わせ、小説的なアクセントにしている。同一人説にいくつかの証拠(?)が示されるわけだが、名前を音読みしたり、多分にこじつけめいたものもあったり、史学的に明白なものとなっていないながらも全否定もできない類のものも出てくる。しかし傍証も多く出されるとなんとなく信憑性が出てくる。突拍子もないようでいて、でももしや、と思わせてしまう神津恭介の推理の流れが面白い。物語の後半には同一人説に否定的な井村助教授と神津恭介との丁々発止のやりとりが読みどころになっている。
なお、昭和33年の初出時、本書は全15章で構成されていたが、2年後のカッパノベルズ版で第16章が加えられた。これは作家・仁科東子の研究による『神津恭介への手紙---成吉思汗という名の秘密』という題で雑誌「宝石」に発表されたものを、この物語に合うように改め加筆して採録したもの。初出時はちょっとロマンぽい、やや物足りない終わり方だったが、この16章の追加によってもう一段考証を加え、本作は完成したと言える。これから本作を読む方は、15章での終わりと16章での終わりを比較して読むと、また面白いかもしれない。
カッパノベルズ版のあとがきで高木彬光は、「この作品は魂で書いた。たとえ批評家の言葉がどうであろうとも、これを自分の代表作の一つだと信念をもって言い切れる。」と書いている。