再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(1)重なる記憶/正解見えない逃避行
福島第1原発事故の避難区域が広がる福島県の阿武隈の山里は、旧満州(現中国東北部)で死線をさまよった引き揚げ者が再起を賭けた開拓地でもあった。戦後既に68年がたち、苦難の歴史を語る人は少ない。旧満州移民と原発。2度も国策に裏切られ、暮らしを奪われた人々は避難先で何を思う。(福島総局・中島剛)
<まず検査の列>
避難者は、まず検査の列に並ばなければならなかった。ガイガーカウンターが放射性物質の付着を調べていく。あの時もそうだった。すぐには入れなかった。いろいろと調べられてからだった。
2011年3月16日、二本松市東和の体育館。原発事故で福島県浪江町津島から避難してきた伊東千代子さん(83)に、遠い逃避行の記憶がよみがえった。
旧満州を逃げて耐えて1年3カ月。1946年11月にたどり着いた長崎県佐世保港で、船内に1週間留め置かれた。検疫を受け、殺虫剤のDDTを頭から掛けられた。
旧満州引き揚げと原発事故避難。70年近い時を挟み、この身を襲った大難はどこか似通う。原発が異常事態になった後、津島の混乱ぶりは、1945年夏、日本人の流民があふれた旧満州に重なるようだった。
浜通りと中通りを結ぶ幹線の国道114号は避難する車で埋まった。店からは食料品が消えた。「水が飲みたい」「トイレを貸してください」。沿道の民家には避難途中の人が次々と訪れた。
伊東さんも受け入れた。せめてもの心尽くし。食事を提供し、横になって休んでもらった。
原発事故をめぐる情報は入り乱れた。避難した方がいいのか。とどまるべきなのか。一般住民に正解は見えない。それもあの夏と同じ。日本が負けるとは想定外だったし、その後、どうなるかも開拓団の誰にも分からなかった。
<苦労、死ぬまで>
伊東さんは1942年10月、福島県旧上川崎村(現二本松市)から黒竜江省訥河(ノウホウ)県下学田に集団入植した。13歳の時だった。
6人家族だったが、父と母を大陸で失った。親代わりになり、きょうだい3人を守り抜き、帰国した。その後は旧満州で知り合った夫と結婚し、49年3月、津島の山中に再入植した。
厳しく貧しい開墾生活に耐え、3人の子を育て独立させた。夫とは97年に死別したが、体が利く限り津島で土を耕し、一人で暮らしていくつもりだった。
原発が次々と爆発したのは周りから聞かされた。避難しようとは思わなかった。放射能は怖くなかったし、怖さが分からなかった。
3月16日の昼すぎ、集落の世話役がやってきた。「津島はもう住めない。逃げてくれ」。毛布1枚と着替え数着を持ち、近くに住むおいの車で避難した。
「アネさまは満州でも避難しているから2度目だな」。再会した親類に言われた。80歳を過ぎて何でこんな目に遭うのか。死ぬまで苦労しないといかんのかな。東和の体育館で初めて過ごした夜、布団をかぶると涙が湧いてきた。
横浜市の娘夫婦宅への避難を経て、今は二本松市岩代の仮設住宅に暮らす。津島を去って間もなく2年。逃避行の期間は1度目をはるかに超えた。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130225_01.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(2)国策の下に/「偽りの楽土」もろく
<分村して進出>
旧満州(現中国東北部)はある意味、確かに「王道楽土」だったのかもしれない。
「あんないい所はないな。肥えた黒土が背丈くらいの層になっていた。肥料をさほどまかなくても、何でも大きく育った。コメも最高の出来だった。ずいぶん内地に送った。戦争に負けなければ、今ごろ大尽になっていた」
福島県三春町の仮設住宅。福島第1原発事故で同県葛尾村から避難している岩間政金さん(87)から聞いた旧満州の日々は、夢のような暮らしだった。
出身は長野県旧上久堅村(現飯田市)。1937年3月、吉林省吉林市郊外の白山子に父母と姉妹の5人で入植した。
長野県は基幹産業の養蚕、製糸が29年からの世界恐慌で大打撃を受け、旧満州へ全国最多の3万7000人を送り出した。大陸進出と食糧増産が叫ばれた時代。移民は国策で推進され、協力した市町村には補助金が出た。上久堅村は分村を決め、人口3600の2割が海を渡った。
「土地は10町歩もらった。中国人や朝鮮人の田畑を、日本が取り上げて俺たちに配ったんだ。耕すのも現地の小作人任せ。開拓とは名ばかりで楽だったわい。早い時期の入植だから場所も良かった。おやじは開拓団の事務所に詰めて、農作業はほとんどしなかった」
川では大きなコイがいくらでも捕れた。馬に乗り、カモやノロジカをよく撃ちに行った。中国語や朝鮮語を覚え、現地の知り合いも増えた。日本の威令はとどろき、治安は極めて良かった。
国策に支えられた理想の農村生活。それは敗戦で一変する。
44年夏に現地召集された岩間さんはソ連国境での激戦を生き抜き、所属部隊の解散で入植地に戻る。帰途の各所で見たのは、中国人が暴徒と化し、日本人が逃げ惑う姿だった。岩間さんの家も跡形なく壊された。全ての財産を失った。
「もともとは向こうの土地。日本は好き放題威張っていたのだから仕方がないわ。ただ同胞が病気や栄養失調で大勢死んだのはかわいそうだった」。幸い家族は無事で、46年9月に帰国できた。
古里には耕地も仕事もない。国と福島県のあっせんで47年5月、地縁血縁の全くない葛尾村に父母と入植した。一坪の畑もない山中。旧満州とは違い、真の開拓だった。
<「見誤ったわ」>
それから六十数年。牛の肥育に取り組み、県家畜商組合の副組合長を務めるまでに成功した。自宅以外に隣の浪江町の中心部に別宅も構えた。両方とも原発から20キロ圏内の警戒区域にあり、帰宅もままならない。
盤石に見える国策も時としてあっという間に崩壊する。偽りの楽土で得た教訓のはずだった。
「見誤ったわ。福島の浜通りは原発で息をしてきたようなもの。国の手のひらで生きていた満州と同じだったかもしれない。ひっくり返ったら全部駄目になった」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130226_01.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(3)地獄の果て/寒さと飢え、家族奪う
<配られた毒薬>
旧満州(現中国東北部)への移民の結末が、いかに悲惨だったか。墓誌の名前が訴えかけてくる。
福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市岩代の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)と、自宅近くの共同墓地を訪れた。
トメ34歳、文男1歳、満子4歳、亥和雄22歳、作蔵63歳、咲子8歳、キク60歳、ヒデ子22歳、峯男12歳。
母、弟、妹、おじ、祖父、妹、祖母、おば、弟。命日は全て違う。1945年から46年にかけ、旧満州と帰国直後に亡くなった。
大内さんは42年3月、福島県旧新殿村(現二本松市)から黒竜江省訥河(ノウホウ)県下学田に入植した。県人130戸でつくる開拓団だった。
戦争の激化で働き盛りの男は根こそぎ動員され、残ったのは年寄りと女、子ども。終戦で団は大混乱に陥った。生きて虜囚の辱めを受けず。敵の手に落ちる前に自決することを申し合わせた。
毒薬が配られた。白っぽい粉だった。「夜、これのんで死ぬのかと星を見た時の思いは何とも言えない」。12歳だった。
「ソ連兵が来た」と知らされたのは9月5日。集団自決が始まった。
毒薬をのむと唇が腫れ上がり、呼吸困難になる。苦しみを短くしようと、子どもののどが切り裂かれた。深井戸は身投げする人で埋まり、死にきれない声が響いた。家に火を付ける人もいた。母が子を、祖父母が孫を手に掛け、自らも果てた。
<1年の逃避行>
大内さん一家は、隣組の長老が「いつでも死ねる。まだのむな」と指示。自決の列には加わらなかった。ただ、それから帰国までの1年も、地獄と呼ぶのも生ぬるい、つらい逃避行だった。
生存者はソ連に捕らわれ、近くの学校に収容された。旧満州の冬は早い。氷点下30~40度の中、食糧の配給は日に生豆が30粒。水だけで1週間過ごしたこともあった。
寒さと飢えが命を次々と奪った。雑魚寝の夜、体温を求めて隣からシラミが移ってくる。それで家族や友の死を知った。自決を止めた長老も亡くなった。
食糧を得るために子を中国人に売る親がいた。死んだ子を背負い続ける親もいた。性的暴行や略奪の被害は日常だった。46年9月、帰国の船でも死者は続出し、祖国を目前に遺体は海に投げ込まれた。
「300人いて200人以上死んだ。きょうだい5人で残ったのは俺だけ。よく気が狂わなかった。いや半分狂っていたんでないかな」
大内さんは復員した父と2人で48年9月に南津島に開墾へ入った。94年、木の墓標だけだった墓を石造りに新装した。肌身離さず持ち帰った遺髪や爪を納めた。「生き残った者の役目を何とか果たせた」と思った。
今、墓地は原発事故で計画的避難区域となった。近く帰還困難区域に指定される。手持ちの簡易線量計で毎時8~10マイクロシーベルト。雪をかき分け花を供えた大内さんが漏らす。
「何でこんなことになったんだ」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130227_02.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(4)新しい古里/終着地のはずだった
<生きるために>
生まれ故郷を貧困で去り、移民先の旧満州(現中国東北部)は敗戦で追われた。今、福島第1原発事故で家に帰れない。
「つくづく古里と縁がない」。福島県浪江町南津島から二本松市に避難する大内孝夫さん(79)は考え込む。大内さんにとっての古里は単に移り住んだ場所ではない。ゼロから築いた精根の結晶だった。
1946年9月、大内さんは九死に一生を得て帰国した。待っていたのは食糧不足にあえぐ敗戦国の厳しい現実。親類に身を寄せたが、いつまでも甘えられない。生きるために再び新天地を探さなければならなかった。
家具職人などをした後、48年9月、父と旧津島村南津島に入植した。一面の深い森。自力で小屋を建てた。板は作れず、細い木を敷き、むしろを掛けて床にした。ササでふいた屋根は空が透け、雨が降ると大変だった。
まきを売り、見よう見まねで炭焼きを覚えた。食べ物もろくにない。キノコ中毒で1週間起きられないこともあった。
根っこだらけで、くわの入らない荒れ地との闘い。妻の五月さん(81)が嫁いできた51年には、ようやく5アールほどの畑を開くことができた。
五月さんは鮮明に覚えている。「しゅうとさまが『育った』と喜んでいる。見ると指の先ぐらいのジャガイモ。気を付けて皮をむかないとなくなる。とんでもない所に嫁いだとがっかりした」
<安定した日々>
子は53年、54年、58年、63年と4人生まれた。助産師もいない開拓集落での自宅出産。貧しく、7キロ先の医者に診てもらうこともなかなかできなかったが、みんな元気に育った。
沢からてんびん棒で水を運び、雑穀や山菜で腹を満たす暮らしだった。それを体一つの努力で少しずつ整えていく。
畑は3ヘクタールまで増やした。用水路は引けなかったが、離れた場所に水田40アールを買い求め、コメをたっぷり食べられるようになった。運送業にも携わり、現金を得た。
子は下の3人が家を離れて独立。同居の長男は大工となり、自宅隣の作業場を木造建築では関東や北海道から仕事が来る評判の工務店に育てた。
息子を手伝い、妻と土を耕し、孫と語らう。安定した日々がやって来た。家はササ小屋から新築を重ね、建面積260平方メートルの屋敷になった。ついのすみかだと、自他ともに考えていた。
入植から63年。戦争で失った古里を大内さんは完全に取り戻したはずだった。
2011年3月、25キロ離れた場所で福島第1原発が爆発した。
福島県農地開拓課の「福島県戦後開拓史」によると、全農家のうち、旧津島村は50.7%、葛尾村は50.1%、飯舘村は34.7%が戦後の入植だった。県全体の比率は5%だから非常に高い。
現在、そこは全て避難区域となった。開拓者の魂が放射能に古里を奪われ、さまよう。
大内さんは二本松市岩代の仮設住宅で五月さんと暮らす。「津島にはもう帰れない。この年だ、諦めた。ここが最後の家になる」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130228_01.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(5完)未来の人へ/「新天地開く気概を」
<苦難生き抜く>
「長生きしなさいよ。あんたは命の限り『津島を元に戻せ』と国や東京電力に叫び続けなければならん。国策被害の生き証人だ」
福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)を、同市に住む友人の佐藤常義さん(80)が訪ねてきた。
旧満州(現中国東北部)開拓団での幼なじみ。苦難の逃避行を一緒に生き抜いた。帰国後、大内さんは津島に再入植した。佐藤さんは10年ほど職を転々とした後、バス運転手に落ち着いた。
以前から会っては戦中戦後の苦労や近況を語り合う仲だった。最近、話題はどうしても原発事故に結び付く。
「関東軍も満鉄(南満州鉄道)も頭がいいのはソ連参戦前に家族を帰国させた」「残った連中も特別列車ですぐ逃げた。官舎や社宅はガラガラだった」「原発事故も同じだ。関係者の家族にまず情報が入った」
「日本は満州でひどいことをした。俺たち子どもでさえ、腹が減ると中国人の家に乗り込んで『ギョーザ出せ』だもの」「中国の恨みは百年じゃ消えん。平謝りすることはないが、反省しないと」「あんたも原発で家を取られた。もっと怒れ」
二人の会話が続く。佐藤さんが語気を強めた。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発…。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。孝夫君、気をつけろ」。大内さんは笑って聞くだけだ。
旧満州引き揚げと原発事故避難、どちらが大変なのか。「原発だな」。福島県葛尾村から同県三春町に避難する岩間政金さん(87)は答えた。
なぜだろう。原発事故では避難所があり、食事が提供された。仮設住宅も建てられた。賠償もある。旧満州では寒さと飢えが多くの命を奪った。
岩間さんも「避難自体は今の方がずっと楽だ」と認める。「だがな」と語り始めたのは、原子力災害の特殊性だ。
<終わり見えぬ>
「山の木一本、菜っ葉一枚採れないのが悔しい。放射能は厄介だぞ。戦後はやる気さえあれば何でもできた。今度は避難がいつ、どう終わるか見当もつかん」と嘆く。
犠牲者も実は多いと言う。「仮設では年寄りがずいぶん死んでる。冬になると連日葬式だ。葛尾で日なたぼっこしていれば、もう少し長生きできたろう。かわいそうに」
カネやモノだけで人は生きていけない。開拓者の岩間さんにとって、仮設住宅の生活は「芸が使えない」不完全燃焼の場だ。若者には「早く新天地を探せ」とよく話す。
「世界は広い。放射能があるだけに村に帰れとは言えない。新しい仕事も1、2年根詰めれば一人前だ。俺たちの苦労を思えば簡単だわい」
自身は一日も早く葛尾に帰るつもりだ。「もう人生は終わり。何をしようにも間に合わない」。国策の過ちで2度、すみかを追われた。もはや消えゆく身。多くは望まない。願わくは現在の避難者が将来、再び流民にならないことを。(福島総局・中島剛)
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神話の果てに・東北から問う原子力も お読みください
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1098/index.htm
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福島第1原発事故の避難区域が広がる福島県の阿武隈の山里は、旧満州(現中国東北部)で死線をさまよった引き揚げ者が再起を賭けた開拓地でもあった。戦後既に68年がたち、苦難の歴史を語る人は少ない。旧満州移民と原発。2度も国策に裏切られ、暮らしを奪われた人々は避難先で何を思う。(福島総局・中島剛)
<まず検査の列>
避難者は、まず検査の列に並ばなければならなかった。ガイガーカウンターが放射性物質の付着を調べていく。あの時もそうだった。すぐには入れなかった。いろいろと調べられてからだった。
2011年3月16日、二本松市東和の体育館。原発事故で福島県浪江町津島から避難してきた伊東千代子さん(83)に、遠い逃避行の記憶がよみがえった。
旧満州を逃げて耐えて1年3カ月。1946年11月にたどり着いた長崎県佐世保港で、船内に1週間留め置かれた。検疫を受け、殺虫剤のDDTを頭から掛けられた。
旧満州引き揚げと原発事故避難。70年近い時を挟み、この身を襲った大難はどこか似通う。原発が異常事態になった後、津島の混乱ぶりは、1945年夏、日本人の流民があふれた旧満州に重なるようだった。
浜通りと中通りを結ぶ幹線の国道114号は避難する車で埋まった。店からは食料品が消えた。「水が飲みたい」「トイレを貸してください」。沿道の民家には避難途中の人が次々と訪れた。
伊東さんも受け入れた。せめてもの心尽くし。食事を提供し、横になって休んでもらった。
原発事故をめぐる情報は入り乱れた。避難した方がいいのか。とどまるべきなのか。一般住民に正解は見えない。それもあの夏と同じ。日本が負けるとは想定外だったし、その後、どうなるかも開拓団の誰にも分からなかった。
<苦労、死ぬまで>
伊東さんは1942年10月、福島県旧上川崎村(現二本松市)から黒竜江省訥河(ノウホウ)県下学田に集団入植した。13歳の時だった。
6人家族だったが、父と母を大陸で失った。親代わりになり、きょうだい3人を守り抜き、帰国した。その後は旧満州で知り合った夫と結婚し、49年3月、津島の山中に再入植した。
厳しく貧しい開墾生活に耐え、3人の子を育て独立させた。夫とは97年に死別したが、体が利く限り津島で土を耕し、一人で暮らしていくつもりだった。
原発が次々と爆発したのは周りから聞かされた。避難しようとは思わなかった。放射能は怖くなかったし、怖さが分からなかった。
3月16日の昼すぎ、集落の世話役がやってきた。「津島はもう住めない。逃げてくれ」。毛布1枚と着替え数着を持ち、近くに住むおいの車で避難した。
「アネさまは満州でも避難しているから2度目だな」。再会した親類に言われた。80歳を過ぎて何でこんな目に遭うのか。死ぬまで苦労しないといかんのかな。東和の体育館で初めて過ごした夜、布団をかぶると涙が湧いてきた。
横浜市の娘夫婦宅への避難を経て、今は二本松市岩代の仮設住宅に暮らす。津島を去って間もなく2年。逃避行の期間は1度目をはるかに超えた。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130225_01.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(2)国策の下に/「偽りの楽土」もろく
<分村して進出>
旧満州(現中国東北部)はある意味、確かに「王道楽土」だったのかもしれない。
「あんないい所はないな。肥えた黒土が背丈くらいの層になっていた。肥料をさほどまかなくても、何でも大きく育った。コメも最高の出来だった。ずいぶん内地に送った。戦争に負けなければ、今ごろ大尽になっていた」
福島県三春町の仮設住宅。福島第1原発事故で同県葛尾村から避難している岩間政金さん(87)から聞いた旧満州の日々は、夢のような暮らしだった。
出身は長野県旧上久堅村(現飯田市)。1937年3月、吉林省吉林市郊外の白山子に父母と姉妹の5人で入植した。
長野県は基幹産業の養蚕、製糸が29年からの世界恐慌で大打撃を受け、旧満州へ全国最多の3万7000人を送り出した。大陸進出と食糧増産が叫ばれた時代。移民は国策で推進され、協力した市町村には補助金が出た。上久堅村は分村を決め、人口3600の2割が海を渡った。
「土地は10町歩もらった。中国人や朝鮮人の田畑を、日本が取り上げて俺たちに配ったんだ。耕すのも現地の小作人任せ。開拓とは名ばかりで楽だったわい。早い時期の入植だから場所も良かった。おやじは開拓団の事務所に詰めて、農作業はほとんどしなかった」
川では大きなコイがいくらでも捕れた。馬に乗り、カモやノロジカをよく撃ちに行った。中国語や朝鮮語を覚え、現地の知り合いも増えた。日本の威令はとどろき、治安は極めて良かった。
国策に支えられた理想の農村生活。それは敗戦で一変する。
44年夏に現地召集された岩間さんはソ連国境での激戦を生き抜き、所属部隊の解散で入植地に戻る。帰途の各所で見たのは、中国人が暴徒と化し、日本人が逃げ惑う姿だった。岩間さんの家も跡形なく壊された。全ての財産を失った。
「もともとは向こうの土地。日本は好き放題威張っていたのだから仕方がないわ。ただ同胞が病気や栄養失調で大勢死んだのはかわいそうだった」。幸い家族は無事で、46年9月に帰国できた。
古里には耕地も仕事もない。国と福島県のあっせんで47年5月、地縁血縁の全くない葛尾村に父母と入植した。一坪の畑もない山中。旧満州とは違い、真の開拓だった。
<「見誤ったわ」>
それから六十数年。牛の肥育に取り組み、県家畜商組合の副組合長を務めるまでに成功した。自宅以外に隣の浪江町の中心部に別宅も構えた。両方とも原発から20キロ圏内の警戒区域にあり、帰宅もままならない。
盤石に見える国策も時としてあっという間に崩壊する。偽りの楽土で得た教訓のはずだった。
「見誤ったわ。福島の浜通りは原発で息をしてきたようなもの。国の手のひらで生きていた満州と同じだったかもしれない。ひっくり返ったら全部駄目になった」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130226_01.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(3)地獄の果て/寒さと飢え、家族奪う
<配られた毒薬>
旧満州(現中国東北部)への移民の結末が、いかに悲惨だったか。墓誌の名前が訴えかけてくる。
福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市岩代の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)と、自宅近くの共同墓地を訪れた。
トメ34歳、文男1歳、満子4歳、亥和雄22歳、作蔵63歳、咲子8歳、キク60歳、ヒデ子22歳、峯男12歳。
母、弟、妹、おじ、祖父、妹、祖母、おば、弟。命日は全て違う。1945年から46年にかけ、旧満州と帰国直後に亡くなった。
大内さんは42年3月、福島県旧新殿村(現二本松市)から黒竜江省訥河(ノウホウ)県下学田に入植した。県人130戸でつくる開拓団だった。
戦争の激化で働き盛りの男は根こそぎ動員され、残ったのは年寄りと女、子ども。終戦で団は大混乱に陥った。生きて虜囚の辱めを受けず。敵の手に落ちる前に自決することを申し合わせた。
毒薬が配られた。白っぽい粉だった。「夜、これのんで死ぬのかと星を見た時の思いは何とも言えない」。12歳だった。
「ソ連兵が来た」と知らされたのは9月5日。集団自決が始まった。
毒薬をのむと唇が腫れ上がり、呼吸困難になる。苦しみを短くしようと、子どもののどが切り裂かれた。深井戸は身投げする人で埋まり、死にきれない声が響いた。家に火を付ける人もいた。母が子を、祖父母が孫を手に掛け、自らも果てた。
<1年の逃避行>
大内さん一家は、隣組の長老が「いつでも死ねる。まだのむな」と指示。自決の列には加わらなかった。ただ、それから帰国までの1年も、地獄と呼ぶのも生ぬるい、つらい逃避行だった。
生存者はソ連に捕らわれ、近くの学校に収容された。旧満州の冬は早い。氷点下30~40度の中、食糧の配給は日に生豆が30粒。水だけで1週間過ごしたこともあった。
寒さと飢えが命を次々と奪った。雑魚寝の夜、体温を求めて隣からシラミが移ってくる。それで家族や友の死を知った。自決を止めた長老も亡くなった。
食糧を得るために子を中国人に売る親がいた。死んだ子を背負い続ける親もいた。性的暴行や略奪の被害は日常だった。46年9月、帰国の船でも死者は続出し、祖国を目前に遺体は海に投げ込まれた。
「300人いて200人以上死んだ。きょうだい5人で残ったのは俺だけ。よく気が狂わなかった。いや半分狂っていたんでないかな」
大内さんは復員した父と2人で48年9月に南津島に開墾へ入った。94年、木の墓標だけだった墓を石造りに新装した。肌身離さず持ち帰った遺髪や爪を納めた。「生き残った者の役目を何とか果たせた」と思った。
今、墓地は原発事故で計画的避難区域となった。近く帰還困難区域に指定される。手持ちの簡易線量計で毎時8~10マイクロシーベルト。雪をかき分け花を供えた大内さんが漏らす。
「何でこんなことになったんだ」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130227_02.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(4)新しい古里/終着地のはずだった
<生きるために>
生まれ故郷を貧困で去り、移民先の旧満州(現中国東北部)は敗戦で追われた。今、福島第1原発事故で家に帰れない。
「つくづく古里と縁がない」。福島県浪江町南津島から二本松市に避難する大内孝夫さん(79)は考え込む。大内さんにとっての古里は単に移り住んだ場所ではない。ゼロから築いた精根の結晶だった。
1946年9月、大内さんは九死に一生を得て帰国した。待っていたのは食糧不足にあえぐ敗戦国の厳しい現実。親類に身を寄せたが、いつまでも甘えられない。生きるために再び新天地を探さなければならなかった。
家具職人などをした後、48年9月、父と旧津島村南津島に入植した。一面の深い森。自力で小屋を建てた。板は作れず、細い木を敷き、むしろを掛けて床にした。ササでふいた屋根は空が透け、雨が降ると大変だった。
まきを売り、見よう見まねで炭焼きを覚えた。食べ物もろくにない。キノコ中毒で1週間起きられないこともあった。
根っこだらけで、くわの入らない荒れ地との闘い。妻の五月さん(81)が嫁いできた51年には、ようやく5アールほどの畑を開くことができた。
五月さんは鮮明に覚えている。「しゅうとさまが『育った』と喜んでいる。見ると指の先ぐらいのジャガイモ。気を付けて皮をむかないとなくなる。とんでもない所に嫁いだとがっかりした」
<安定した日々>
子は53年、54年、58年、63年と4人生まれた。助産師もいない開拓集落での自宅出産。貧しく、7キロ先の医者に診てもらうこともなかなかできなかったが、みんな元気に育った。
沢からてんびん棒で水を運び、雑穀や山菜で腹を満たす暮らしだった。それを体一つの努力で少しずつ整えていく。
畑は3ヘクタールまで増やした。用水路は引けなかったが、離れた場所に水田40アールを買い求め、コメをたっぷり食べられるようになった。運送業にも携わり、現金を得た。
子は下の3人が家を離れて独立。同居の長男は大工となり、自宅隣の作業場を木造建築では関東や北海道から仕事が来る評判の工務店に育てた。
息子を手伝い、妻と土を耕し、孫と語らう。安定した日々がやって来た。家はササ小屋から新築を重ね、建面積260平方メートルの屋敷になった。ついのすみかだと、自他ともに考えていた。
入植から63年。戦争で失った古里を大内さんは完全に取り戻したはずだった。
2011年3月、25キロ離れた場所で福島第1原発が爆発した。
福島県農地開拓課の「福島県戦後開拓史」によると、全農家のうち、旧津島村は50.7%、葛尾村は50.1%、飯舘村は34.7%が戦後の入植だった。県全体の比率は5%だから非常に高い。
現在、そこは全て避難区域となった。開拓者の魂が放射能に古里を奪われ、さまよう。
大内さんは二本松市岩代の仮設住宅で五月さんと暮らす。「津島にはもう帰れない。この年だ、諦めた。ここが最後の家になる」
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1090/20130228_01.htm
再び流民となりて 旧満州移民と原発避難(5完)未来の人へ/「新天地開く気概を」
<苦難生き抜く>
「長生きしなさいよ。あんたは命の限り『津島を元に戻せ』と国や東京電力に叫び続けなければならん。国策被害の生き証人だ」
福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)を、同市に住む友人の佐藤常義さん(80)が訪ねてきた。
旧満州(現中国東北部)開拓団での幼なじみ。苦難の逃避行を一緒に生き抜いた。帰国後、大内さんは津島に再入植した。佐藤さんは10年ほど職を転々とした後、バス運転手に落ち着いた。
以前から会っては戦中戦後の苦労や近況を語り合う仲だった。最近、話題はどうしても原発事故に結び付く。
「関東軍も満鉄(南満州鉄道)も頭がいいのはソ連参戦前に家族を帰国させた」「残った連中も特別列車ですぐ逃げた。官舎や社宅はガラガラだった」「原発事故も同じだ。関係者の家族にまず情報が入った」
「日本は満州でひどいことをした。俺たち子どもでさえ、腹が減ると中国人の家に乗り込んで『ギョーザ出せ』だもの」「中国の恨みは百年じゃ消えん。平謝りすることはないが、反省しないと」「あんたも原発で家を取られた。もっと怒れ」
二人の会話が続く。佐藤さんが語気を強めた。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発…。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。孝夫君、気をつけろ」。大内さんは笑って聞くだけだ。
旧満州引き揚げと原発事故避難、どちらが大変なのか。「原発だな」。福島県葛尾村から同県三春町に避難する岩間政金さん(87)は答えた。
なぜだろう。原発事故では避難所があり、食事が提供された。仮設住宅も建てられた。賠償もある。旧満州では寒さと飢えが多くの命を奪った。
岩間さんも「避難自体は今の方がずっと楽だ」と認める。「だがな」と語り始めたのは、原子力災害の特殊性だ。
<終わり見えぬ>
「山の木一本、菜っ葉一枚採れないのが悔しい。放射能は厄介だぞ。戦後はやる気さえあれば何でもできた。今度は避難がいつ、どう終わるか見当もつかん」と嘆く。
犠牲者も実は多いと言う。「仮設では年寄りがずいぶん死んでる。冬になると連日葬式だ。葛尾で日なたぼっこしていれば、もう少し長生きできたろう。かわいそうに」
カネやモノだけで人は生きていけない。開拓者の岩間さんにとって、仮設住宅の生活は「芸が使えない」不完全燃焼の場だ。若者には「早く新天地を探せ」とよく話す。
「世界は広い。放射能があるだけに村に帰れとは言えない。新しい仕事も1、2年根詰めれば一人前だ。俺たちの苦労を思えば簡単だわい」
自身は一日も早く葛尾に帰るつもりだ。「もう人生は終わり。何をしようにも間に合わない」。国策の過ちで2度、すみかを追われた。もはや消えゆく身。多くは望まない。願わくは現在の避難者が将来、再び流民にならないことを。(福島総局・中島剛)
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神話の果てに・東北から問う原子力も お読みください
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1098/index.htm
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