福沢諭吉
中津市學校之記
竪18.5×横13cm
[此度学校取立ニ付キ教師ノ著セシ学問スゝメノ文アリ]
[修身開知独立自主ノ趣旨ヲ知ラシメン]
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福沢諭吉/中津市學校之記。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」は、明治5年に出版された。その前年の11月に「中津市学校之記」は刊行されている。
(大分県)中津藩主の奥平昌邁(まさゆき)公は、方向の見えない混沌の時間の中にあって、俸禄を失った旧士族や、もとより窮乏を極めた一般町民に対して、ヨーロッパの見聞と会話と翻訳が次なる一歩であろうと、やや調子はずれと思われてしまいそうな洋学校設立の趣意を「中津市学校之記」で提言した。
同記の中に [此度学校取立ニ付キ教師ノ著セシ学問スゝメノ文アリ] とあり、何と「学問のススメ」はこの洋学校設立の為の趣意書であった事がわかる。
整理をするとと、明治4年中津市学校設立の為に「学問のスゝメ」が起稿され、明治4年11月中津市学校之記が成り、明治5年「学問のすゝめ」が公刊された。
慶應義塾の記録を整理している西澤直子氏によると、
① 文久2年、遣欧使節随行中の諭吉の書簡から、諭吉が中津に洋学校設立の必要を説いていること。
② 明治4年、昌邁公はまだ17歳で、諭吉の門生であり、近々アメリカ留学が決まっていたこと。
③ [中津市学校之記]の、諭吉の筆法と推察される加筆原稿が現存すること。
これらの事柄から、当趣意書は奥平昌邁の著述ではなく、当初より諭吉の著作であると同氏は断定している。
更に考察をすれば、昌邁公が①他藩からの養子である事、②若年である事、③公の俸禄の2割を学校運営に拠出させた事、④当分昌邁公を外国留学させる事等を推測すると、洋学校設立の全てが諭吉の計画であり、その趣意書「中津市学校之記」が諭吉の著作であっても何の疑問もない。
更にこの記の最終部分に[修身開知独立自主ノ趣旨ヲ知ラシメン]なる箇所もあり、[独立自尊]への胎動が始まっている。