帰還困難区域の中での展覧会
2011年3月中旬の風に乗った放射性物質は、原発から北西方向に刻印を残した。その結果、福島県は放射線量によって区別され、最も汚染されたエリアは現在「帰還困難区域」とされて簡易式のフェンスで閉ざされている。住民や事業従事者は許可を得れば立ち入ることができるが、それ以外の人の自由な出入りはほぼ不可能だ。
現在、この帰還困難区域の中では、12組の芸術家による展覧会「Don't Follow the Wind(以下DFW)」が開催されている。
参照ニュース記事http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/47460/
DFW展はウエブサイトや美術雑誌などで告知され、図録も販売されている。だが、展覧会に興味を惹かれたとしても、フェンスの内側の展覧会場に足を運ぶことはできない。
2015年1月初旬、私は参加アーティストである竹内公太に、DFW展のための竹内の作品づくりへの協力を依頼された。
正月休みが明けたばかりの快晴の昼下がり、人混みの秋葉原のなかの、穴場的に空いている喫茶店で、竹内は展示のおおまかな説明をしてくれた。
DFW展はアーティスト集団のchim↑pomが発案し、実現に向けていろんな人を巻き込んで作りこんでいるところなのだという。竹内から、このグループ展の計画を聞いた時には、あっなるほど、すごいアイディアだなと思った。
私は、そのまま放置すれば100年後には多分確実にこの世から蒸発したように跡形もなく消えてしまうであろう人や場所のことを文字にして、少しでもその痕跡を残すことを一生の仕事にすると決めている。福島県双葉郡楢葉町にこだわるのもそれが理由だ。人が住まなくなってしまった場所は、土地も歴史も風化してしまうから記録される必要がある。そして、文字にした記憶や記録は誰かに読まれなければ「再生」されない。人や土地の記憶を効率的に喚起する方法について考えていた時に、私はこの計画を聞いた。そして、この人達は、すごくロマンチックなことを考えるのだな、と感じたのだ。
計画を聞いた時、私は「作品の展示」がDFW展の主眼ではないのだろうと思った。帰還困難区域の中からフェンスの外側の人たちに向けてDFW展を告知する、つまり「メッセージを送ること」がこの企画のねらいなのだろう。フェンスの外側の人がその「メッセージ」に触れた時、立ち入りを制限されている「あの場所」が想像のなかで立ち上がる。そういった作用を目論んでいるのだろうと思った。
なにしろ、行くことができない場所で行われている展示なのだ。誤解を恐れずに言えば、それだけで人の興味を惹く。
フェンスの中で荒廃していく帰還困難区域の町。設置された作品群は、フェンスが開放される時を静かに待っている。しかし開放の時がいつになるのかは、誰にもわからない。その時は来るかもしれないし来ないのかもしれない。
DFW展を知った人は、いろんなことを考えるだろう。3.11から時間的に遠く離れて、もう生活の中であまり思い出すことがなくなった福島についての情報を改めて検索するきっかけになるかもしれない。もしくは、30年とか、50年とか、そのぐらいの長い年月をかけても自由にならない場所そのものについて考えるかもしれない。福島に限らず、歴史的に、惨禍にあった場所について思いを馳せる人がいるかもしれない。場合によっては、「被災地を舞台にして展示を行うなんて、不謹慎だ」と憤る人もいるかもしれない。
この告知は紙やウエブサイトや口コミによって拡散される。そして、任意の時間の任意の誰かにたどり着く。その誰かはどんな反応を示すのだろうか。この展示のやり方は、手紙を入れたボトルを海に放つような感じがして、私はとても良いと思った。
DFW展は、帰還困難区域に設定されている自治体の許可を得て、住民の有志の皆さんに協力してもらいながら場所の選定や調査などを進めていて、すでに竹内自身も作品を設置する場所は決定しており、あとは計画を練って実行するだけなのだという。
竹内の説明で、私はこの展示のねらいを自分なりに理解し、彼に協力することにした。
DFW展のオープンは2015年3月11日なのでそれまでに間に合うように作品づくりを行って設置をしたいと竹内に言われた。だが、私と竹内の間で意見がかみ合わずに作品制作の「落としどころ」を見つけるための話し合いが長く続き、作品の設置は8月9日にずれ込んだ。
最終的に、竹内公太作品はこのようなものになった。
まず、帰還困難区域の住民Aさんの協力を得て、Aさん所有の建物内の寝室に私たちは立ち入った。2015年6月9日のことだ。
竹内と私はその場で着ていた服を脱ぎ、代わりに部屋に置き去りにされた部屋の持ち主の衣類を拾い上げて着た。
現場に遺された衣服を着た私たちの姿を写真に撮り、後日、等身大の大きさに引き伸ばした写真を部屋に設置した。
竹内はこの作品に「タイムトラベラーズ」というタイトルを付けて、以下のようなステートメントを発表した。
Don't Follow the Wind出品作について
異なる立場・考えの人とどう協同できるか、このプロジェクトに関わるようになってからいつも頭を悩ませている。顔も見えない相手を言い負かせばそれで済むということは、現実社会では少ない。
私は放射性物質の付着を気にする人に、靴カバーについたゴミを車内に入れないように脱ぐ方法を注意深く教えた。しかし別の日に同じ場所で、半そで半パンでおにぎりをほお張って談笑している。
衣服・ふるまいの政治性がこれほど強調される場はない。
原子力災害による立入制限区域内の住宅には災害時から部屋に残されたままの服がある。持ち主から引き離された服は、かつて誰かが着た服であり、いつか誰かが着る服でもあろうか、どこか生々しい気配がある。
私はある部屋に置き去りにされた服を着て同行者と写真を撮影し、その写真を部屋に置いてきた。これから写真と出会う人は我々の服装をいつのものと見なすだろうか。
防護服とマスクをガチガチに着込んだ人が、区域全体が除染された後(未来)に着るべき時期尚早の服装と見なすかもしれない。防護を必要とせず半袖で飲食しながら訪れた人が、事故以前(過去)への憧憬と見るかもしれない。訪問者を前にして写真は過去と未来を行ったり来たりする。
時間が経って立入制限が解除され、ほとんど誰も防護服を着る必要性を感じなくなった時に、写真は時間旅行を終え何の変哲も無い記念写真になれるだろう。
(防犯上の都合から、作品図版の掲載を控えます)
タイムトラベラーズ / 2015 / W2500mmH1850mmの写真(ターポリンにインクジェット)、部屋
最初の計画
竹内公太は兵庫県で1982年に生まれた。3.11当時は兵庫県にいたが、その後福島県いわき市湯本に移り住んだ。
私は2012年8月に初めて竹内に会った。楢葉町の警戒区域が解除されてすぐ、私は楢葉町の町会議員(当時)の松本喜一さんとともに町のランドマークである天神岬での慰霊祭と、町内の視察を企画した。竹内はFacebook経由で連絡をくれ、慰霊祭に参加してくれた。海を見下ろす崖の上で僧侶とともに祈りをささげる参加者たちの背後から、竹内は小さなビデオカメラを構えてじっと撮影していた。法要が終わって話しかけると、竹内はごく物静かだが、とくに「コミュ障」というわけでもなく、思慮深い青年という感じがした。福島にわざわざ居住地を移すほどだから、原発の是非になにか主張があるのかもしれないと思ったが、そういう話には全然ならなかった。帰り際、自転車を曳いて現れたので、「どこから来たの?」と聞くと、湯本の自宅から来ましたと言われて驚いた。いわき市の南に位置する湯本からは距離にして片道40キロぐらいある。しかも8月の炎天下だ。「ああそうか、事故で常磐線がこっちまで通っていないから、自転車なのね。大変だったでしょう」と言うと、「ええ」と表情を変えずに竹内は答えた。
2013年、14年の夏も慰霊祭を行い、竹内は同じように慰霊祭に参加してくれた。だが、私は慰霊祭の運営の裏方に回っていたので、竹内とはあまりじっくりは話したことはなかった。だから、秋葉原での面会が、竹内とまともに話をする初めての機会だった。
秋葉原で竹内は、計画をラフに描いた紙を取り出して自分の作品のアイディアを話してくれた。
私は2012年8月に初めて竹内に会った。楢葉町の警戒区域が解除されてすぐ、私は楢葉町の町会議員(当時)の松本喜一さんとともに町のランドマークである天神岬での慰霊祭と、町内の視察を企画した。竹内はFacebook経由で連絡をくれ、慰霊祭に参加してくれた。海を見下ろす崖の上で僧侶とともに祈りをささげる参加者たちの背後から、竹内は小さなビデオカメラを構えてじっと撮影していた。法要が終わって話しかけると、竹内はごく物静かだが、とくに「コミュ障」というわけでもなく、思慮深い青年という感じがした。福島にわざわざ居住地を移すほどだから、原発の是非になにか主張があるのかもしれないと思ったが、そういう話には全然ならなかった。帰り際、自転車を曳いて現れたので、「どこから来たの?」と聞くと、湯本の自宅から来ましたと言われて驚いた。いわき市の南に位置する湯本からは距離にして片道40キロぐらいある。しかも8月の炎天下だ。「ああそうか、事故で常磐線がこっちまで通っていないから、自転車なのね。大変だったでしょう」と言うと、「ええ」と表情を変えずに竹内は答えた。
2013年、14年の夏も慰霊祭を行い、竹内は同じように慰霊祭に参加してくれた。だが、私は慰霊祭の運営の裏方に回っていたので、竹内とはあまりじっくりは話したことはなかった。だから、秋葉原での面会が、竹内とまともに話をする初めての機会だった。
秋葉原で竹内は、計画をラフに描いた紙を取り出して自分の作品のアイディアを話してくれた。
紙には寝室のベッドに腰かけた人物が描かれていた。
ひとりは、防護服を着て全面マスクを装着している。もうひとりは、裸だ。
「ジョンレノンと、オノヨーコの<ベッドイン>っていう作品知ってますか?」
と、竹内は私に聞いた。
と、竹内は私に聞いた。
「ああ。ホテルの部屋を借りて、ふたりでパジャマ姿でベッドに入ってるやつ?」
「そうです」
「え、竹内くんのこのプランって、ベッドインのオマージュなの? この、防護服着てるのが私ってこと?」
「はい、窓ガラスには、<ベッドイン>では<HAIR PEACE>と書いた紙が貼ってありますが、僕は<AIR PEACE>と書いて貼るつもりです」
「で、竹内くんはここで脱ぐわけ?」
「そのつもりです」
「えー」
「で、竹内くんはここで脱ぐわけ?」
「そのつもりです」
「えー」
ジョンレノン・オノヨーコ<ベッドイン> |
説明を聞いて、私は絶句した。
「うーん……。というか、帰還困難区域で<ベッドイン>のオマージュをする意図がぜんぜんわからないな。そもそも、なぜこういう作品を作ろうと思ったんですか?」
もし、異論があったら遠慮しないで教えてほしい、と前置きして竹内は説明を始めた。
「うーん……。というか、帰還困難区域で<ベッドイン>のオマージュをする意図がぜんぜんわからないな。そもそも、なぜこういう作品を作ろうと思ったんですか?」
もし、異論があったら遠慮しないで教えてほしい、と前置きして竹内は説明を始めた。
「そうですね……。まず、帰還困難区域の中にいる人って、完全に防護している人もいるし、全くの普段着で立ち入りしている人もいますよね」
「そうだね。区域内を見回りしてる警察官は普通の制服姿でマスクもしていないけど、除染の作業員は完全防護だったりして、仕事で中に入ってる人の服も極端だよね。一次立ち入りの住民も、町の指導をちゃんと守って防護服着てたり、普段着のままだったりバラバラ」
「その、極端に分かれている服装をめぐる状況って、たぶん放射線量がいくつ以上じゃないと防護しないとダメとか、内部被ばくの人体の影響とか、まだ誰も何も言えないところから発生していると思うんですよね」
「科学的根拠だけじゃなくて信念みたいなものがそうさせてる人もいるよね。あと政治的な立場とか。安全側のひとは、本能で怖いと思っていても防護服は着れないし」
「そうかもしれないですね」
「なるほどね。この土地に対する考え方の違いが、はっきり表れるのが服装だから、そこを作品のメインにしたいってことなのかな。だから、裸と防護服なのか。ベッドインするのは、立場の違う人が和解するみたいなイメージなのかな」
私なりに、竹内の作品の意図を理解しようとした。
「もし、何か制作について意見があったら、何でも言ってください」
竹内はそういってくれてその日は別れた。
まず、私自身は帰還困難区域に立ち入る際には、普段着のままであり、マスクもしていない。また、帰還困難区域で裸になっている人を見たこともない。
つまり、私にとっては防護服を着ることは不自然だし、あの場所で裸というという選択肢も現実にはあり得ないのに、「立場の違い」を表現するために、このような演出をするのが受け入れられない点。
また、私と竹内は「ヨーコとレノン」ではなく、個人的な関係性が希薄であること。本作が完成した時に、<ベッドイン>のオマージュであることは解釈の余地を許さないものになることが予測される。その際に「ただの顔見知りに協力してもらった」というほどの関係で、オマージュ作品を作っていいのかどうか。実際、私が当時交際していた男性は、この計画を見て、私が竹内と<ヨーコとレノン>になることにかなりの拒絶反応を示して計画に協力することを強く反対した。余談だが、私は自分のやることに対して「あれをしろ、これをするな」と言われることがぜったいに我慢ならないので、結局この男性とは別れた。
なにより、私は2012年から防護服を着ていないのに、2015年の制作時に「防護服」を作品中で着用することは私にとってはコスプレ以外の何物でもなく、家に帰って考えれば考えるほど全く気が進まなくなった。赤の他人である避難者の家に上がりこんで、アーティストの協力のためとはいえ、防護服のコスプレをしている自分というのはどうにもグロテスクに感じて、絶対にやりたくないと思ってしまった。
竹内自身は、この私の違和感を理解してくれ、柔軟に作品のプランを練り直してくれた。
計画は二転三転したが、竹内には大きな方針として「帰還困難区域外で作った作品を中に持ち込んで設置して終わりにはしたくない。中で制作して、それを残すということにこだわりたい」ということをまず考えていたようだ。
プランを煮詰めていく過程で、竹内はこんなことを私に言っていた。
「この場所で作品を作ることって、どの立場で何を言うかのバランスがすごく難しいですよね。難しいですね、っていうのもなんか言いたくないんですけど。作品作るのにそういうのはつきものだし」
「そうだねえ。うーん、例えば、ここが放射能に汚染された場所だ、ということが分かるような表現だけをしてしまえばラクだけどね。でもそれをするとやっぱり、<福島危険>、<原発反対>みたいな、よくあるスローガンに回収されちゃうからね」
「言えないこととか、使ってはいけない表現とか、配慮しなければいけないこととか、そういうものが多すぎるんですよね」
その時、私は「指さし作業員」のことを思い出した。
竹内が言うには、竹内はこの「指さし作業員」の代理人なのだそうだ。作業員本人とどこで知り合い代理人になったのか経緯は不明だ。
2011年の夏、「ふくいちライブカメラ」のカメラの前に突如現れたこの「指さし作業員」の存在はテレビでも取り上げられ、インターネット上でも話題になった。彼が何者なのか、なぜ指をさしているのか、何を伝えたくてこんなことをしたのか、など、Twitterにはいろいろな疑問が書き込まれた。やがて、この「指さし行為」はアート活動であるらしいことが分かってきた。我々がパソコン画面のこちら側でふくいちを「見ている」ことに対して、「見返す」こと。カメラを介在した「目つき」をめぐる状況について注意を喚起したかった、というのが「指さし作業員」の意図だったらしい。
となるとこの作業員はアートに関心があり、もしかしたらアーティストかもしれない。これまで、第一原発には作業員として、漫画家や写真家、映画監督や物書きが表現のために潜入しているのだから、ひとりぐらいアーティストがいたとしても不思議ではない。
だとしたら、この作業員は今、何をしているのか。その後、新作が発表されたという話は聞いたことがない。たった一度のパフォーマンスで引退したのだろうか? なぜアーティストとして名乗り出ないのか。なぜ今もって、竹内を代理人としているのか。
これは、代理人の竹内にも、「指さし作業員」本人にも確かめていないので、あくまでも私の推測だが、「指さし作業員」が匿名の存在でいる理由は、この「指さし行為」というアートの本質とは多分関係がない。
この場特有の「制限」にのっとった表現をしているからこうなっているのだろう。
まず、指さし作業員が名乗り出た場合、所属している会社は、第一原発への出入りが禁じられてしまう。出入り禁止になれば売上が立たなくなり会社が倒産するかもしれない。
東京電力の内規として、第一原発の構内の情報を外部に漏らした場合、その社員が所属している会社への発注は停止となる。これは、第一原発での作業を開始する前に、作業員全員が受ける講習でも徹底して指導されている。その際は、2011年8月頃、第一原発に作業員として潜入して「ヤクザと原発」を上梓したライターの鈴木智彦氏のケースを例にして、強く釘を刺されるのだという。
講習を受けたことで、表現者に「現場の仲間や会社に迷惑をかけられない」という意識が働いた場合、素性を明かさずに表現活動をするしかなくなる。
結果、このように、指さし作業員は匿名のままで居続け、「代理人」がステートメントをするということになっているのではないだろうか。
さらに大胆な推測をしてみる。もしこの指さし作業員が、竹内本人が作り出した「架空の人物」であるとするならば、ということを考える。
その場合この作業員は、アーティストが表現行為を完遂するために、東京電力の内規による「制限」の回避のためだけに作り出された人物ということになる。つまり、「配慮」の象徴が彼なのだ。そのために造型された人物というのは、ある意味、制限をかいくぐるために、アーティストに便利に使われる「捨て駒」的に思える。私はこういう「配慮」が、事故の5年後である今よりもっと先、例えば30年後になにか作品そのものに意味与えるだけの影響力を持つのかと言うことを考えてしまう。ひとつの私企業でしかない「東京電力」の内規に則ること自体が表現においては負けなのではないか、とか、前提が私の「大胆な推測」である以上、そこまで言うと言い過ぎだろうか。
そして、「制限」と「表現」のはざまで、新たな作品を作ることになり、そこで竹内が葛藤しているのはよく伝わってきた。
私自身は竹内から自由な意見を出していいと言われていたので、「福島県の帰還困難区域に存在している<放射能>というものへの立場表明をするのはやめよう」というようなことを言った。「放射能」というものに対して何かを企んだ作品を作った時に、どうやっても、ここで流通している「フクシマ的言葉」に回収されてしまうからだ。
私はこんなことを考えた。
私は、人の痕跡を後世に残すための仕事を一生の仕事にしたいということはすでに書いた。私はそれを、主に日本語というツールを用いて行っている。
だが、文字を使わないで、こういう方法は考えられないだろうか。例えば、人が消えてから4年経った荒廃した町のある家の寝室に私達が現れて、そこにあるものに触れるとする。
打ち捨てられ<廃棄物>になってしまっているものを、本来の用途で使用する。手にふれるものをよみがえらせる。そうすることで、この部屋だけ、時間から自由になる。
「よみがえらせる方法」として、具体的には、残置されている服を着ることを提案した。
「残置された服を着る」行為に竹内は同意し、そしてこの行為について竹内は別の捉え方をして、ステートメントを作り、作品は完成した。
先日、このブログを書く際に、作品の経緯について簡単に振り返ってもらったところ、このような返事をもらった。
作品制作への協力を終えてみて、これは、ものを書くのにキーボードの「A」のキーは使ってはいけない、というぐらい制限のある場所での作品作りであったが、総じて楽しいやり取りで終えることができた。竹内は今後も、いろんな人とともに帰還困難区域で「タイムトラベラー」になる予定であるという。
あらためてことわるまでもないことだが、岡映里の文責のもとで本記事を書いた。竹内本人またDFW関係者はブログの内容に関して事前チェックを行っていない。以上。
「その、極端に分かれている服装をめぐる状況って、たぶん放射線量がいくつ以上じゃないと防護しないとダメとか、内部被ばくの人体の影響とか、まだ誰も何も言えないところから発生していると思うんですよね」
「科学的根拠だけじゃなくて信念みたいなものがそうさせてる人もいるよね。あと政治的な立場とか。安全側のひとは、本能で怖いと思っていても防護服は着れないし」
「そうかもしれないですね」
「なるほどね。この土地に対する考え方の違いが、はっきり表れるのが服装だから、そこを作品のメインにしたいってことなのかな。だから、裸と防護服なのか。ベッドインするのは、立場の違う人が和解するみたいなイメージなのかな」
私なりに、竹内の作品の意図を理解しようとした。
「もし、何か制作について意見があったら、何でも言ってください」
竹内はそういってくれてその日は別れた。
制限され、表現できないもの
結局、帰宅した後ももやもやしたものが収まらず、私は竹内にメールを書いた。まず、私自身は帰還困難区域に立ち入る際には、普段着のままであり、マスクもしていない。また、帰還困難区域で裸になっている人を見たこともない。
つまり、私にとっては防護服を着ることは不自然だし、あの場所で裸というという選択肢も現実にはあり得ないのに、「立場の違い」を表現するために、このような演出をするのが受け入れられない点。
また、私と竹内は「ヨーコとレノン」ではなく、個人的な関係性が希薄であること。本作が完成した時に、<ベッドイン>のオマージュであることは解釈の余地を許さないものになることが予測される。その際に「ただの顔見知りに協力してもらった」というほどの関係で、オマージュ作品を作っていいのかどうか。実際、私が当時交際していた男性は、この計画を見て、私が竹内と<ヨーコとレノン>になることにかなりの拒絶反応を示して計画に協力することを強く反対した。余談だが、私は自分のやることに対して「あれをしろ、これをするな」と言われることがぜったいに我慢ならないので、結局この男性とは別れた。
なにより、私は2012年から防護服を着ていないのに、2015年の制作時に「防護服」を作品中で着用することは私にとってはコスプレ以外の何物でもなく、家に帰って考えれば考えるほど全く気が進まなくなった。赤の他人である避難者の家に上がりこんで、アーティストの協力のためとはいえ、防護服のコスプレをしている自分というのはどうにもグロテスクに感じて、絶対にやりたくないと思ってしまった。
竹内自身は、この私の違和感を理解してくれ、柔軟に作品のプランを練り直してくれた。
計画は二転三転したが、竹内には大きな方針として「帰還困難区域外で作った作品を中に持ち込んで設置して終わりにはしたくない。中で制作して、それを残すということにこだわりたい」ということをまず考えていたようだ。
プランを煮詰めていく過程で、竹内はこんなことを私に言っていた。
「この場所で作品を作ることって、どの立場で何を言うかのバランスがすごく難しいですよね。難しいですね、っていうのもなんか言いたくないんですけど。作品作るのにそういうのはつきものだし」
「そうだねえ。うーん、例えば、ここが放射能に汚染された場所だ、ということが分かるような表現だけをしてしまえばラクだけどね。でもそれをするとやっぱり、<福島危険>、<原発反対>みたいな、よくあるスローガンに回収されちゃうからね」
「言えないこととか、使ってはいけない表現とか、配慮しなければいけないこととか、そういうものが多すぎるんですよね」
その時、私は「指さし作業員」のことを思い出した。
指さし作業員 |
2011年の夏、「ふくいちライブカメラ」のカメラの前に突如現れたこの「指さし作業員」の存在はテレビでも取り上げられ、インターネット上でも話題になった。彼が何者なのか、なぜ指をさしているのか、何を伝えたくてこんなことをしたのか、など、Twitterにはいろいろな疑問が書き込まれた。やがて、この「指さし行為」はアート活動であるらしいことが分かってきた。我々がパソコン画面のこちら側でふくいちを「見ている」ことに対して、「見返す」こと。カメラを介在した「目つき」をめぐる状況について注意を喚起したかった、というのが「指さし作業員」の意図だったらしい。
となるとこの作業員はアートに関心があり、もしかしたらアーティストかもしれない。これまで、第一原発には作業員として、漫画家や写真家、映画監督や物書きが表現のために潜入しているのだから、ひとりぐらいアーティストがいたとしても不思議ではない。
だとしたら、この作業員は今、何をしているのか。その後、新作が発表されたという話は聞いたことがない。たった一度のパフォーマンスで引退したのだろうか? なぜアーティストとして名乗り出ないのか。なぜ今もって、竹内を代理人としているのか。
これは、代理人の竹内にも、「指さし作業員」本人にも確かめていないので、あくまでも私の推測だが、「指さし作業員」が匿名の存在でいる理由は、この「指さし行為」というアートの本質とは多分関係がない。
この場特有の「制限」にのっとった表現をしているからこうなっているのだろう。
まず、指さし作業員が名乗り出た場合、所属している会社は、第一原発への出入りが禁じられてしまう。出入り禁止になれば売上が立たなくなり会社が倒産するかもしれない。
東京電力の内規として、第一原発の構内の情報を外部に漏らした場合、その社員が所属している会社への発注は停止となる。これは、第一原発での作業を開始する前に、作業員全員が受ける講習でも徹底して指導されている。その際は、2011年8月頃、第一原発に作業員として潜入して「ヤクザと原発」を上梓したライターの鈴木智彦氏のケースを例にして、強く釘を刺されるのだという。
講習を受けたことで、表現者に「現場の仲間や会社に迷惑をかけられない」という意識が働いた場合、素性を明かさずに表現活動をするしかなくなる。
結果、このように、指さし作業員は匿名のままで居続け、「代理人」がステートメントをするということになっているのではないだろうか。
さらに大胆な推測をしてみる。もしこの指さし作業員が、竹内本人が作り出した「架空の人物」であるとするならば、ということを考える。
その場合この作業員は、アーティストが表現行為を完遂するために、東京電力の内規による「制限」の回避のためだけに作り出された人物ということになる。つまり、「配慮」の象徴が彼なのだ。そのために造型された人物というのは、ある意味、制限をかいくぐるために、アーティストに便利に使われる「捨て駒」的に思える。私はこういう「配慮」が、事故の5年後である今よりもっと先、例えば30年後になにか作品そのものに意味与えるだけの影響力を持つのかと言うことを考えてしまう。ひとつの私企業でしかない「東京電力」の内規に則ること自体が表現においては負けなのではないか、とか、前提が私の「大胆な推測」である以上、そこまで言うと言い過ぎだろうか。
そして、「制限」と「表現」のはざまで、新たな作品を作ることになり、そこで竹内が葛藤しているのはよく伝わってきた。
私自身は竹内から自由な意見を出していいと言われていたので、「福島県の帰還困難区域に存在している<放射能>というものへの立場表明をするのはやめよう」というようなことを言った。「放射能」というものに対して何かを企んだ作品を作った時に、どうやっても、ここで流通している「フクシマ的言葉」に回収されてしまうからだ。
私はこんなことを考えた。
私は、人の痕跡を後世に残すための仕事を一生の仕事にしたいということはすでに書いた。私はそれを、主に日本語というツールを用いて行っている。
だが、文字を使わないで、こういう方法は考えられないだろうか。例えば、人が消えてから4年経った荒廃した町のある家の寝室に私達が現れて、そこにあるものに触れるとする。
打ち捨てられ<廃棄物>になってしまっているものを、本来の用途で使用する。手にふれるものをよみがえらせる。そうすることで、この部屋だけ、時間から自由になる。
「よみがえらせる方法」として、具体的には、残置されている服を着ることを提案した。
「残置された服を着る」行為に竹内は同意し、そしてこの行為について竹内は別の捉え方をして、ステートメントを作り、作品は完成した。
先日、このブログを書く際に、作品の経緯について簡単に振り返ってもらったところ、このような返事をもらった。
当初は極端な服装の違い(裸、防護服)を事故影響についての意見や政治的立場の違い、隔たりの象徴として扱おうとしていた
↓
極端に演出的なことは辞め、服装は元住人のものを着ることにした
これは岡さんに頂いたアイデアで、置き去りにされた街の気配、雰囲気の印象、感触を大事にしたいという意見だった
それはボルタンスキー(古い写真や器具や服を使う作家)に似た発想だけれど、竹内はそのアイデアを頂きながら、その写真が必ずしも過去を偲ぶだけのものではなく、写真に写っているのが未来人かもしれないというコンセプトで捉えたいと言った
僕は、特別でない普段着は、防護の必要があるので時期尚早(未来に着るべき服)と見る人もいれば、防護の必要無しだから過去への憧憬と見る人もいるだろうから、人によって写真が過去と未来を行ったり来たりするイメージがある……などと口走っていて、ウェブサイトにそのようなことを書いている 写真は等身大に引き伸ばし、撮影されたその場所にはめ込む形で設置されたらしい
作品制作への協力を終えてみて、これは、ものを書くのにキーボードの「A」のキーは使ってはいけない、というぐらい制限のある場所での作品作りであったが、総じて楽しいやり取りで終えることができた。竹内は今後も、いろんな人とともに帰還困難区域で「タイムトラベラー」になる予定であるという。
あらためてことわるまでもないことだが、岡映里の文責のもとで本記事を書いた。竹内本人またDFW関係者はブログの内容に関して事前チェックを行っていない。以上。