【根本陸夫伝】 「絶対に群れるな」と自軍スカウトに厳命した男
根本陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第14回
証言者・行澤久隆(3)
根本陸夫が1981年に西武の監督を退き、管理部長としてチームをまとめるようになってから、チームは黄金期を迎えた。広岡達朗監督時代の82、83年に日本一連覇を達成すると、森祇晶が監督になった86年からも3年連続で日本シリーズを制した。根本が掲げるチーム強化のひとつにドラフト戦略があった。アマチュアの有望選手を次々と獲得し、チームを完成させていった根本。はたして、根本のドラフト戦略とは? 現役引退後、根本の命令によりスカウトに転身した行澤久隆が語った。
■自分の判断で評価するのがスカウトだ!
1988年、西武はリーグ4連覇を成し遂げ、森祇晶が監督に就任してから3年連続で日本一を達成した。黄金期が築かれていく中、内野陣はファーストに清原和博が固定され、セカンドは辻発彦、ショートは田辺徳雄が主力級となり、サードにはチームリーダーの石毛宏典。ベンチには笘篠誠治や清家政和らが控えるようになって、ユーティリティプレイヤーである行澤の出番は年々減っていた。84年には105試合に出場した行澤だったが、88年はプロ入り最少となる24試合にとどまり、打席に立ったのはわずか7回。そして、その年のシーズンオフに管理部長の根本から通告を受けることになる。
「根本さんに呼ばれて行ってみると、たったひと言、『来年、契約しないから』と。まあ、プロ野球の世界は結果が出なければ辞めなきゃいけない。ただ、しばらくして根本さんから、『あとはオレに任せろ』って言われたんです。これもひと言でしたけど、そんなこと言われたら『この人のためなら!』って思うじゃないですか」
同じころ、行澤には、古巣の日本ハムから「西武を辞めるんだったらウチに来い」と声が掛かっていた。選手として契約するという話だったが、根本の「ひと言」が胸に響いて、現役引退を決意し、西武に残る道を選んだ。
選手としてプロで13年間プレイした行澤の第二の野球人生の始まりはスカウトだった。根本自身、現役引退後にスカウトを務めた経験者だが、就任にあたって、あまり事細かに指導されることはなかったという。
「スカウトとしての心得は教わりましたけど、それもごく短い言葉です。まず、『自分の判断で何でもやれ、動け』ということ。『他人がいたら一緒に見るな。ひとりで行動しろ。絶対に群れるな』とも言われました。一緒に見ていると、どうしても同じ見方になってしまう。とにかく『ひとりで見て、自分の判断で評価しろ』と。それがスカウトだと言われました」
プロ野球選手から転身したばかりのスカウトがアマチュア選手を見るとき、まず大事になるのが「目線を下げること」と言われる。プロの技術と体力を基準にしてしまうと、アマチュア選手のプレイが一様につたなく見えてしまうからだ。その点についても、経験豊富な根本から特別な指導はなかったのか。
「それも特になかったです。目線の上げ下げにしても、『全部、自分の判断でやればいいんだ』と。失敗しても、いちいちとがめる人じゃない。少なくとも僕は、とがめられたことはありません。すべてスカウトたちに任せて、もし失敗したとしても、ちゃんと裏でフォローしてくれる。そういうところでも、根本さんの器の大きさを感じました」
その「器の大きさ」によって、スカウトの失敗も織り込み済みの根本ではあったが、失敗を未然に防ぐためのヒントは与えていたという。
「たとえば、根本さんが知っている選手をチラッと教えてくれたことがあります。『ここにこういう選手がいるよ』と。何かの事情で僕はその選手を見に行けなかったのですが、のちにその選手は西武に入団しました。そこで初めて、『あっ、獲るつもりでいたんだな』と気づくわけです。根本さんとすれば『ウチはこういう選手を獲るんだから見ておけ』という意味合いだったんでしょうね。そういう優しさもあった人でした」
スカウト1年目、行澤は母校であるPL学園高の内野手、野々垣武志を担当した。その時、同校監督の中村順司(当時)から、「野々垣はプロに行かなきゃ野球をやめると言っている」と聞く。「ならば、ぜひウチに」ということで根本に報告すると、ドラフト外で獲ることになった。
「(野々垣を)獲っていただくことになって、根本さんに契約金について電話で話をしました。野々垣の事情を聞いたスカウトとしては、できるだけ多くあげたかった。それで『契約金、もうちょっといいですか?』と相談したら、『ああ、わかった』と。余計なことは一切言わないですし、理由も聞きませんでした。スカウトの意見を第一に尊重してくれました。そういう人って、なかなか野球界では出会えないと思いますね」
■見ていないようで、実はちゃんと見ている
スカウトを務めて3年が経ったシーズンオフ、行澤のもとに根本から電話が入った。またしても、たったひと言だった。
「いきなり『お前、来年からコーチやれ』と命じられました。何の前ぶれもありませんでした。こっちは『えっ?』としか言えない。確かに、人事については、多少、話を伏せることもありますが、何の説明もなしです。しかも二軍ならまだしも、『一軍に行け』ですから(笑)。本当に驚かされました」
1992年、行澤は一軍守備・走塁コーチに就任。チームの3年連続日本一に貢献したが、翌年には二軍へ配置転換される。選手の指導法をめぐって、指揮官とぶつかったことが原因だった。根本の「選手を育てる野球」を信奉してきた行澤とすれば、「勝つ野球」の森体制に対して、全面的に迎合することはできなかった。
「ファームのグラウンドにはよく根本さんが来られて、選手の指導もしていました。特に若手には付きっきりでアドバイスして、ずっと教えていることもありました。ある時、根本さんが若手を指導している時にバッティング練習の打球が勢いよく飛んできたんです。普通だったら、かがんだり、よけたりしますよね。でも、根本さんは微動だにしない。指導している間も、ちゃんと周りは見ている。あの時はびっくりしましたね」
見ていないようで、実はしっかり見ている。だから、ボールが近くに飛んできても当たらない打球だと思えば逃げない。行澤はそんな根本の姿に戦慄を覚えたそうだが、同じようなことはゴルフの時にもあったという。
「球団のゴルフコンペでたまたま根本さんと一緒の組になった時のことです。普通は、打つ前に1回スイングして、アドレスをとって、ボールを見て、前を見て、またボールを見てから打ちますよね。根本さんはその動作がないんです。ティーグラウンドに行ったら、すぐに打っちゃう。全部のホールがそうなんです。おそらく、打つ前にどこに打てばいいのか、ちゃんと頭の中に入れていたのでしょうね。歩きながら計算していたんだと思います」
行澤によれば、根本のゴルフの腕前は普通で、特別上手くはなかったそうだが、すぐにスイングしても正確に打っていたのには驚かされたという。仕事のみならず、すべてにおいて「先見の明」があったということなのか。
「絶えず先を見ることを実践していた方ですよね。それは根本さんが現役の時から始まって、スカウトとしてはもちろん、監督として、フロントとしてもそう。役職が変わっても、先を見ることだけは変わらなかったと思います。だから、チームが優勝したらそれ以上に戦力アップする、という補強をしていました。そうしないと勝ち続けられないとわかっていて、実際に実践したからこそ、西武は強い時代を維持できたんだと思います」
■二軍監督をしてわかった「大人になれよ」の意味
根本がダイエー(現・ソフトバンク)に移った1993年以降も西武はしばらく強い時代を維持していた。根本が去った西武で寂しさを感じながらも、行澤はダイエーでの根本の動向を意識的に見ていた。いつかまた、もっといろんな勉強をさせてもらえたらと思い続けていただけに、1999年の逝去は早すぎた。
西武の二軍守備・走塁コーチを務めていた行澤は、2007年からフロント入りして編成部に3年、そして2010年から再び現場に戻り、二軍監督に就任した。
「ファームの監督になった時、自分が根本さんの影響を受けていると実感しました。将来、一軍の中心メンバーになる可能性がある選手がいたら、我慢して、我慢して使い続けている自分がいましたから。たとえ打てなくても、ストライクが入らなくても、何点取られたとしても、ひたすら我慢しました。たとえば、浅村栄斗なんかも、打率でいったらファームでずっと1割台でしたけど、1年目からレギュラーとしてずっと使い続けました」
我慢してファームで指導を続けている途上、ふと行澤の頭の中で「大人になれよ」という根本の言葉が浮かび上がってきたという。
「若い選手を指導していると、野球に限らず、いろんな問題が出てきます。だから、そういう時は、拒絶したり、それは違うとはねつけたりするのではなく、一度、こちらがしっかりと受け止めなければいけない。そのことに気づいた時、『大人になれよ』とはこれか、と自分なりにわかったんです」
現在、福岡六大学リーグの日本経済大学で指揮を執っている行澤は、視線をグラウンドに向け、言葉を続けた。
「でも、まだまだですね。今の自分は、大学生、子どもたちの前に立つ人間ですからね、もっともっと大人にならなきゃダメだなと思うんです。大学野球部といっても、今はいろんな選手がいて、僕らの時代には考えられなかったような感覚の子もいます。そういう子どもたちを相手にして、時々、拒絶するようなこともありますから、まだ自分は大人になり切れていないなと、しみじみ思うんですよ」
監督時代の根本が、口ぐせのように発していた「大人になれよ」という言葉が、初めてアマチュア野球で指導する行澤にとって支えになっている。その支えを基盤にして、どんなチームを作り、どんな野球を目指していくのだろうか。
「監督としては、センターラインがしっかりしたチームを作りたいですが、まずは野球をやる以前の問題。『整理、整頓からやらないとダメ』という話はよく言って聞かせています。そういう姿勢の大事さは根本さんから教わったことです。それを少しでも、野球を通して子どもたちに伝えていきたい。そうして、どんな形でもいいから野球界に貢献できる人になってもらいたいし、世の中に出て、どこででも通用するような人を育てられたら、僕は本望です」
根本がこの世を去って15年が経ったが、"根本の教え"は今もなお脈々と受け継がれている。
(=敬称略)
つづく
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki