欝蒼としげつた森林の樹木のかげで/
ひとつの思想を歩ませながら/
仏は蒼明の自然を感じた/
どんな冥想をもいきいきとさせ/
どんな涅槃にも溶けいるやうな/
そんな美しい月夜をみた。/
「思想は一つの意匠であるか」/
仏は月影を踏み行きながら/
かれのやさしい心にたづねた。
さて、 「秘法十八」と題してつまらぬ日々のよしなしごとを 書きつらねてきたこのページも今月でひとまず終了としたい。 お気付きの方は少ないと思うが、 その理由は大アルカナのカードがなくなってしまったからである。 そういうわけで、あと半月は日々の日記ではなく、 日誌として書くことがない時のためにとっておいたネタを 時間がある内に書いておくことにする。
今日は短い旅行記である。
僕は一週間ほどパリに遊んだことがある。
AirFrance と JAL の共通便とやらで関西新空港を発ち、
シャルル・ドゴール空港についた。
忘れてしまったが、十時間くらいの空路だったのだろうか。
まあ、どうでもいい。兎に角、着いたのは夕方だった。
ドゴール空港は滅茶苦茶に分かり難いと聞いていたのだが、
信じられないくらい単純明解であり、
そこがいかにもフランス的であると一人合点した。
しかし、実はドゴール空港には二つあり、
ドゴール1の設計の不可解さは有名で、
僕が着いたのはその反省にたっての明解が売りのドゴール2だったのである。
空港からは RER という列車でパリ市内に入った。
「ぷーる、りゅくさんぶーる。うぃー。あんびえ、しるぶーぷれ」
と切符を買う時に初めてフランス語をしゃべったが、
それが滞在中二度きりのフランス語会話のうちの一つであった。
さらにメトロに乗りかえて、ホテルの近所までいった。
サンジェルマンデプレにある小さなホテルで、
僕が宿泊した部屋は、
上下二室が室内の階段でつながっていて、
下の部屋は居間と浴室、上の部屋が寝室、
寝室には広いテラスがついているといった具合で
(そのテラスに食事をサーブしてもらうこともできる)、
やたらに広いのだが値段は安かった。円高だったのだろうか。
日本でこんな所に一週間も泊まっていたら破産してしまう。
食事については、 宿泊に朝食がついていたし、ホテルが果物の類を差し入れてくれるので、 夕食だけをどこかで取ればよかった。 しかし、一人で食事できる所があまりなかったので、 カルチェラタンの学生街のような所にいって、 カフェでオムレツなどの簡単な食事とワインを飲んで済ませた。 パリにいる友人を誘って、一日だけ普通のレストランに行ったが、 味つけが濃厚過ぎるのと、デザートが巨大過ぎるのに閉口した。
パリでは何をしていたのか、と申しますと、
実は何もしていなかった。
ルーブル美術館にも行かなかったし、エッフェル塔にも昇らなかったし
(昇れるんだっけ?)、オペラも見なかったし、音楽会にも行かなかった。
おおむね、ぶらぶらと街中を歩いていたのである。
パリは非常に狭い。おそらく端から端まで歩けるのではないだろうか。
別に大きなビルがあるでもなく、それほど華やかな所でもない、
古ぼけた小さな、しかし非常に美しい街であった。
ただし道の上は煙草の吸いがらと犬の糞だらけでとても汚ない。
ああ、そういえば、散歩のし過ぎでパリ内のセーヌ川にかかった橋を
ほとんど全て渡った。ポンヌフも芸術橋もプチポンも、両替橋も、
アレクサンドル三世橋(だったか?)も渡った。
シテ島かサンルイ島の二つの橋の間に巨大な温室のような花屋があった。
薔薇だけの部屋や、蘭だけの部屋もあって美しかった。
プチポンとノートルダム橋の間だったかな。
思えば、橋を渡りに行ったようなものであろうか。
滞在中の事件と言えば、 一日夜遅くまでぶらぶらしていたら、 メトロがなくなってしまった。時間を調べてあったのだが、 多分ストだったのではないかと思う。 昼間なら歩いてでも帰れるが、 流石に真夜中に長い距離を帰るのは恐い。 しょうがないので、友人を頼って朝まで時間をつぶすことにした。 ホテルが心配しているかもしれないので、連絡を入れたいと思ったが、 外国語で事情を伝える自信がなかったので、電話の前で迷っていると、 友人が電話をかけてくれた。 フランス語で、おそらくは、 「今日はうっかり遅くなってしまったので、ホテルに帰れないと言っている」 というようなことを伝えたのだろうが、 友人が言うには、ホテルのフロントがそれを聞いて笑っていたそうだ。 次の日の朝、ホテルに帰ってフロントで、 昨日は帰れなくて申しわけなかった、 もっと早く連絡すべきだったのだが、と英語で言うと、 お爺さんのコンシェルジェが「うんうん、わかっているよ」 というような笑顔で "No problem, Sir" と言うので、 なんだか誤解されているような気がしたが、 きちんと説明する語学力がなかったので、 なんとなく後ろめたいような気持ちで部屋に戻った。 まあ、兎に角、良かった。 電話をしてもらったおかげで心配をかけずにすんだのだから。 ちなみにもちろんのこと、 友人宅には同居人もいたし、複数人で一緒に泊めてもらっただけなので、 後ろめたいようなことは全くなにもなかった。
ああ、一つ書き残したことがあった。 私はこのホテルでうまれて初めて、本物の暖炉というものを見た。
そうこうしている内に一週間などはあっという間にたって、 結局何をすることもなく帰国した。 これが私の若かりし日の華麗なる巴里滞在記である。
遊佐未森の "Diary" に描かれている優雅に暮らす有閑人は 一体何ものであるか? そは森の賢人にあらず、物乞いにあらず。 それらに似て非なるもの、彼女は愛人もしくは大学生である。
さて、私は大学生となって東京に出てきた。 最初に住んだのは、井の頭線沿線である三鷹台にある まかない付きの下宿であった。 一階には大家さんとその家族が暮らしていて、 二階にある六つの部屋に下宿生が住んでいた。 その内、三つが僕と、僕の高校の同級生二人で、 僕達は同じ年に東京大学に入学し一緒に東京に出てくることになったのだった。 あとの三人は、灘中から文Iに入ったいかにも優秀な官僚になりそうな M 君、 いかにもマッドな化学者になりそうな理Iの Y 君、 そして部屋に膨大なエロ本のコレクションを持つ理2の謎の先輩だった。 そのコレクションは本棚には収めきれず、 部屋に山のように積み重ねられており、 先輩は文字通りその山の上に暮らしているのだった。
私はその先輩の斜め向かい、 L 字型の奇妙な形をした最も狭い部屋に、 一つの家具を置くこともなく暮らしていた。 これは嘘ではない。本当に一つの家具も持つことなく暮らしていた。 部屋にあるのは本だけで、本は既に数百冊はあった。 もちろん本棚もないので、それを積木かブロックのように、 並べたり積んだりしてテーブルやら部屋の仕切りやらにして、 その山の隙間に寝ていたのである。 テレビもなにもないので、 部屋で出来ることは、(1)読書(2)ぼうっとする(3)寝る、 の三つしかなかった。
私は基本的にはあまり大学に行かなかったが、 体育と実験だけは出席必須なのでかろうじて出ていた。 出席必須ではないものの、 かなり重視される語学はぎりぎりの平均点合格だった。 ちなみに平均点合格とは留年を防ぐ温情ある制度で、 ある学期の語学の単位を落としていても、 語学の通年または二通年の平均点が合格点ならば全体としても合格にして、 進学を許すというざっくばらんなルールである。 他の講義科目においては、なにをかいわん、 午後の講義で暇かつ面白そうなら出る、といった具合であった。 そんなわけで僕の教養課程においての成績は惨憺たるありさまであった。
では何をしていたのか、と申しますと、 何もしていなかったのである。 昼近くまで寝ていて、正午に下宿のまかないの朝食を食べる。 六人の下宿生の内、四人はとっくに大学に行っているので、 十二時頃に朝食を食べるのは謎の先輩と僕の二人だけであった。 その後、部屋で珈琲など飲みながら読書である。 先輩も部屋で読書、、、だったのだろうか。何をしていたのかは知らない。 夕方くらいから吉祥寺に出かける。 本屋を渉猟し、井の頭公園を散歩した後、 武蔵野珈琲店という店で読書である。 夜になると下宿に戻って夕食を食べる。 大学生というものは忙しいらしく、きちんと帰宅して毎日下宿で 夕食を取っているのは、僕と化学者 Y 君の二人だけであった。 Y 君は分子模型で遊ぶのが趣味の、ちょっと恐い感じの人だった。 先輩は夜になると消えるので、夕餉のテーブルでは出逢わなかった。
大体、そういう生活だったが、他にしていたことは、 大学生の本分の一つである麻雀である。 たまたま下宿に四人残っていると麻雀をやったものだ。 一度やりだすと半日くらい続けるものだから、 二年間でモーパイで伏せ麻雀が出来るくらいになった。 また、当時土曜の夜、 吉祥寺の某映画館で非常に趣味的なオールナイト四本立てが上映されていて、 それに毎週通っていた。 しらじらと明けていく日曜の早朝に井の頭線の始発を待って、 吉祥寺駅の丸井側出口近くの吉野屋で暇をつぶしていたものだった。 以上が私の19、20の頃の生活の全てであったから、 人との出会いなどというものは皆無であった。 サークルに入るでもなく、バイトをするでもなく、 こんな淡々とした生活をしていたらそりゃ誰にも出会わないだろう。 そういったことをおよそ二年続けた。 もちろん、僕は孤独であった。 しかるに、若さとは傲慢である。その孤独に耐えられるのだ。
それでも、青春とは不思議なもので、たった一度だけ出会いはあった。 中島みゆき的に夜明け間際の牛丼屋で、 化粧のくたびれたお姉さんにナンパされたのである。 それがたった一度の出会いらしい出会いであった。 彼女が今なにをしているのかは全く知らない。 そんな二年が過ぎ、 悪名高い進学振り分けを黒マジもくらわず切り抜けて、 三年生になり僕はゆっくりと大学に復帰した。 「進振り」と「黒マジ」について、 そして三年四年次の冒険譚についてはまた日を改めて。
ヨーヨー・マがタクシーに二億五千万円相当のチェロをうっかり置き忘れたそうだ。 すごい。おそらく、ジャクリーヌ・デュプレから譲りうけた、 ストラディヴァリウス「ダヴィドフ」だと思うが… チェロはヨーヨー・マの手に無事戻ったとのこと。 噂によると、ストラディヴァリをトランクに放りこんでおくなんて、 きっとそれより興味ある何かを隣りに乗せていたのではないか、 という。まあ下世話ですけど。
私の出身大学には悪名高い「進学振り分け」という制度があった。 入学時点では理科一類、二類、三類、とおおざっぱに分けておいて、 二年生から三年生になる段階で、進学先を希望によって 成績(教養課程科目の平均点)順に決めるというものである。 理念的には、 大学に入る時点で細かい専門に分けておくより、 大学に入ってから自分の進学学科をじっくり考えた方が良いだろう、 というものでまったくその通りだと思うのだが、 この制度、通称「進振り」をめぐって悲喜交々の物語があった。 当時でもかなり問題にされていたから、今では改正されているのかもしれない。
以下は私の進振りの時のルールを解説しよう。 学生は教養課程最後の夏学期に(普通は二回生のとき)、 自分の進学希望先を教務課に提出する。 すると、教務課が統計をとって、どの学科に何人進学志望者がいて、 今の所の合格最低点はいくらであるか、を掲示板に貼り出す。 学生はこれを見て、再度、進学希望先を提出する。 第三希望まで書けるんだったかな。 それで、最終的に進学先を成績順に振り分けるわけだ。 人気学科は当然、非常に高い平均点を取っていないと入れない。 つまり、第二外国語とか、社会思想史とか、 ありとあらゆる科目で高得点を取らないといけないのだ。 また、一回進学希望先の統計を発表するところがまた曲者で、 ここでやたらに高い最低平均点(これを「底」と言うが)が発表されると、 ああこりゃ希望しても駄目だ、ということになって、 進学希望先を変更する人が出てくる。 その結果、人気学科なのに希望者が定員を下まわってしまい結局誰でも入れた、 ということにもなりうる。これを「底割れ」と言う。 とすると、「底割れ」狙いの学生も出てくるし、 さらに極端に人工的に「底割れ」を作ってやろう、 という学生まで現れる。 どうするかというと、 やたらに成績が良くてどこでも進学できそうな友人達に頼みこんで (こういう学生は必ずいる)、 彼等に自分の志望先に第一回目の希望を出してもらい、 人工的に「底上げ」を試みるのである。 こういう通称「影武者」の活躍が結構盛んであったので、 第一回の統計発表もどれくらい信用してよいものか、 自分の平均点と掲示を睨みながらさまざまに思い悩むことになる。
さて、私の場合、 何をしたいのだがよくわからずにぶらぶらしていたものだから、 進振りと言われてもねえ、というような感じで第一回進学希望先調査を見ていた。 とその時、 「教養学部基礎科学科第一」という何をやるのか良くわからない学科名が 私の目に入った。「底」は非常に低かった。55点くらいだったかな。 これは留年さえしなければ誰でも入れるような、 事実上底割れといってもよい底の低さである。 ちょっと調べてみると、 基礎科学科というのは理系であるが、 理学部でも工学部でもなく教養学部という我が大学独特の学部に属し、 他の学部の学生が本郷キャンパスに進学するのに対して、 専門課程になってもずっと駒場キャンパスにいるという謎の学科であった。 カリキュラムは数学、物理、化学、生物の四部門全てにわたり、 結局、いつまでたっても教養課程みたいな変な学科なのである。 いかにもモラトリアムだった私は、 その焦点の定まりのなさ、漠然とした決意のなさに溢れた (と進振り時の私には見えた)、 究極の理系モラトリアム学科「基礎科学科第一」を志望し、 許された。
さて、第二回目の名前入りの進学決定先掲示が貼り出されても油断はできない。
進振りをくぐり抜けても、留年の可能性がある。
せっかく進学先が決定しても、教養課程の単位を揃えそこねると、
もちろん留年である。
この時には、
掲示されているこの進学決定先掲示に書かれた名前が、
黒マジックで塗りつぶされて消されてしまう。
これを「黒マジ」という。
大学側としても出来るだけ黒マジを出すまいと、
さまざまな温情ある制度を用意している。
例えば、語学の平均点合格とか、
取りこぼした教養科目の単位を進学した後で取るとか、
こりゃ駄目だろうというような感じでも教務課に相談に行くと、
謎な裏ルールがあって不思議と何とかなってしまったりするものだった。
にも関わらず、毎年掲示板に黒マジがたくさん現れ、
学生の恐怖感をさそっていた。
大学は基本的に自由放任主義だから、
教養課程でつぶれていく学生というのは山ほどいたのだろう。
僕もそれに限りなく近かった。
と、まあ、それでも無事に私は三年生になった。キャンパスは駒場のまま。
金曜、土曜と東京での「超平面配置の数学」の非専門家向けの レクチャーを聞きに行く。 非常に面白かった。特に九大の Y 先生の講義は名講義であった。 「先端的と言わず、枝葉末節的と言え」とか、 「スキームと言っても、言わゆるアブストラクトナンセンスのスキームではなく」、 「一般化や多変数化は恥ずかしい、あさましい所業である」、 などという大胆な意見が聴衆の笑いを誘う一方、 「黒鏡像原理(シュバルツの鏡像原理)」、 「表路地・裏路地(ホモロジー・コホモロジー)」 などの奇妙な訳語を宣伝するなど、落語みたいな気楽さであったが、 終わってみるとちゃんと超幾何関数がベキ関数の一般化であることの意味や、 超平面配置との関係などのイメージが掴めていたので、 かなり良く考えられた講義だったのではないかと思う。 一方、他の人の講義は、たまに思い出したように簡単そうな例を入れたり、 導入部だけは変に易しかったりと、 講演者としては気を使っているつもりなのだろうが、 基本的には同じ分野の専門家向けの講演と何ら変わるところがなかったと思う。 もちろん、素晴しい講義ではあったのだが。
非専門家向けの講義というのは非常に難しいもので、 数時間くらいの間に、 入門的な部分から最先端のテーマと結果にまで導かなくてはいけない。 きっとそういう講義をする人は随分苦労するのだと思うが、 大抵の場合、成功しない。 よくあるのは、導入部は簡単な具体的な例から入って、 ああわかりやすいなあ、と思っていたら、 その直後から急に高度な概念の定義に入って、 ますます急角度で難しくなり、 残りの全ての時間が意味不明という場合であろうか。 きっとこれは、 講演者は猛烈に易しい例から段階を踏んで講義しているつもりなのだが、 その段々に難しくなっていく加速度の感じ方が聴衆と全くずれているのである。 ある事柄の難しさの程度を見積もることはできても、 段々に難しくなっていく加速度を見積もるのが難しいのだろう。 講演者にとっては慣れ親しんだ概念だから、それをいとも簡単に使えるのだろうが、 聴衆にとっては初めて知る概念なのだから、 当然それを用いて考えるのも困難なのである。 そこの目測をつい誤ってしまうのだろうと思う。
と考えてきてふと思うと、 これは普段の学生相手の講義についてもまったくあてはまるのである。 こちらが随分、親切で分かりやすいと思っていても、 大抵は上のような誤ちをおかしている。 また、シンポジウムや学会の講演でも同じことだろう。 僕は講演が非常に苦手で、しかも年々苦手になっていくのだが、 宣伝活動も研究の重要な一環である以上、 コンサートドロップアウトというわけにも行くまい (でも、正直言って、そういう憧れはある)。 講演については、なかなか難しいことばかりですな。
朝から BKC へ。 「確率現象論」の講義。階段関数から確率積分の収束を示す。 マルチンゲール理論を使わないで、なんとか確率積分を説明できないか、 と考えていたのだが、残念ながら今日の講義には間にあわなかった。 結局、マルチンゲール理論の枠組を使った確率積分の構成は、 非常にうまく、綺麗にぴったりと出来ていて、 しかも適用範囲が十分一般的で広い。 すらすらと二乗平均の世界の収束の話に収まって、 過程の最終点でそれまでの最大値を評価する 一番重要な不等式がすぱっと一般のマルチンゲール不等式から出てしまい、 万事めでたし、めでたし、となる。 これだけ話がうまければ標準理論になるのももっともだ。 多分、被積分関数に二乗積分の意味で 確率1で十分速く収束する階段関数の近似列をとっておいて、 その階段関数の確率積分のコーシー列が確率1で収束することを言い、 マルチンゲール不等式に対応するような不等式が一つ用意できれば、 結局ボレル・カンテリの補題と具体的な確率の評価だけで 確率1での一様収束が言えると思うのだが、 定義の範囲をかなり狭くしても、 計算が繁雑で最後の一歩が詰まらなかった。 学生達には、 「来週までもう少し考えてみる」、 と謝って一部だけ証明抜きで事実として認めてもらい、 確率積分をなんとか定義する。
午後はゼミをして、経済学部の企画の講演会に出て、 学生委員の面接の仕事をして、くたくたになって帰宅。
今月中に色々書こうと思っていたのだが、 非常に多忙で全然更新できません…後、二三回くらいは更新したいなあ。
ようやく週末がやってきて、少しはのんびりした休日がおくれた。 土曜は昼まで寝て、さらに昼寝をし、 三条に出て十字屋で溝口肇氏の楽譜を買って、 Cafe Riddle でシナモンと生クリームの入った珈琲を飲みながら読書など。 日曜は掃除に洗濯をして、チェロを弾いたり。 午後は昼酒を飲みながら、本を読んだり。 夕方から近所に髪を切りに行く。肩よりも長くのびていたので、 随分とすっきりした。
忙しいといっても、本当にそれほど忙しくはないと思うのだが、
細々としたことがあって一日の時間が細切れにされてしまうと、
結局その日はまとまった時間をとる仕事は出来ないことになってしまって、
雑務で忙しかったという印象だけが残ってしまう。
それでも、そういって雑務だけで過していてはいけないので、
なんとか時間をやりくりして自分の時間を創り出さないといけない。
今週の間も、
ちょこちょこと時間を見つけてなんとか短いプレプリントを書いて、
今までの仕事に一段落つけてみたが、
こういう作業ならなんとかなっても、
数学の研究のような無駄な時間がたくさんいる仕事はどうやってやりくりしていくのか、
大学に勤めて三年目に入っているが、未だにその要領がつかめない。
世の中の数学者達には非常な多忙の中、
不思議なくらい精力的に研究されている方々がいるが、
いったいどうしておられるのだろうか。是非、そのこつを開陳願いたい。
集中力がない奴は数学者に向いていないのだと言うのももっともだが、
何かしら要領のようなものがあると思うのだ。
というわけで、出版社各社の編集者の方々、
「数学者の仕事術」というインタビュー集の企画はどうでしょう?
日本評論社あたりどうですか?
何という題名か忘れたのだが、村上春樹の短編である。 内容は、ある男が 「自分の人生の折り返し点は三十五歳の誕生日だ」と決め、 そしてその日を迎えるというだけの話である。 その男は学生時代に水泳選手だったことことから、 そういうことを思いついたのだというような設定だった。 僕はこの小説に非常に感じる所があった。 僕は村上春樹の小説がわりと好きだが、同時に大した小説家ではないと思う。 好き嫌いと評価は違う概念なので矛盾はない。 一方、村上龍は大嫌いだが、若い頃の小説はかなり良いと思う。 えっと、話が逸れてしまった。 そうそう、人生の「折り返し点」の話である。 僕はこの人生の折り返し点という概念にいたく心動かされたのであった。 僕がこの小説を読んだのは、二十一歳の頃、つまり今から丁度十年前である。 これは間違いない。わけあって確実にその時のことを思い出せるのだ。 そして、その時、僕は自分の人生の折り返し点を設定した。 まあ、だからどうという話でもないのですが。
月末になったので、これでこの「秘法十八」は終了いたします。 今の所、新しい企画は考えておりませんが、 機会がありましたら、またの御贔屓を。