45話に出てきたチャーブル女史、再び
統一歴1975年3月
連合国首都ロンディニウム フォックスフォード大学文学部
とある教授の研究室
「…参ったね、こりゃ」
「お疲れ様です、教授」
資料の山から顔を上げて、若き教授はぼやいた。
ゼミの女学生はその労をねぎらいつつ、教授のカップに飲み物を注ぐ。礼を言いながらそれを口に運ぶ男だったが、一口飲むや顔を顰めた。
「…コーヒーは嫌いだから紅茶にしてくれたほうがよかったんだけど」
「えっ!?シェーンコップ助教が、教授はコーヒーがお気に入りだと仰っていたのでてっきり…」
「はぁ…、よく覚えておくと良い。彼の発言の3回中2回は嘘か冗談だ」
「…ちなみに、残る1回は?」
「飲み屋のお嬢さんの話だよ。それも日替わりでね」
「……それでよく助教になれましたね」
「遺憾なことに、彼の右手とペンだけは実に勤勉かつ優秀なのさ」
「まぁ!」
思わず笑い声をあげる女学生だったが、気を取り直して教授に問いかける。
「それで、何があったのです?」
「どうもこうも無いよ、これさ」
「拝見いたします…。これは……!」
教授から手渡された紙を見て、ゼミ生であるところの女学生は呆れというよりもはや感嘆符のような声をあげた。そこに書かれていた言葉はただ一つ。
『不許可』
「まぁ、ダメ元ではあったけどね。やっぱり連邦の秘密主義は筋金入りかぁ…」
「…あの、宜しいのですか?連邦政府に資料開示請求など送って――」
「女王陛下の情報部に目を付けられると?それについては問題ないさ」
「それなら良いのですが――」
「とっくの昔に目を付けられているからね」
「駄目じゃないですか!?」
女学生は思わず叫んだが、さもありなん。
表向き連邦と連合王国は「通常の外交関係」にある。
つまり、『東西冷戦』の真っただ中である。
そんな状況下、歴史学の研究のためとはいえ、度々ルーシー連邦に足を運んでいれば当局に目を付けられるのはむしろ当然のことといえた。
手に持ったティーポット――なんといじらしいことだろう、彼女は紅茶党である教授のために淹れなおそうとしていたのだ!――をわなわなと震わせる女学生に、はっはっはっと笑いながら教授は続ける。
「なぁに、歴史探求を前にしては、些細な問題さ」
「…些細……?そ、それで、そんな危険を冒してまで何をお調べになろうとしていたのです?察するに、先の大戦に関することだと思いますが」
「ご明察。そう言えば君の専攻もそこだったね」
歴史は、今を生きる人にとっての『
そもそも「現在」というものは「過去」の延長線上にあるのだから、現下の諸問題の根本を解き明かそうとすれば、答えはおのずと歴史の中に求められる。
過去に何があったのかという「真実」を解き明かし、その「原因」を探求し、そこから学ぶことこそよりよい「未来」を掴む手掛かりとなる。それこそが歴史を探求する意義といえよう。
……もっとも、過去に学ばない――もしくは自分に都合よく解釈する――からこそ『歴史は繰り返す』のだが。
そう断言する教授からしてみれば、あの大戦にはあまりに謎が多い。
しかも、あの大戦前夜の世界情勢と、現下の「冷戦」にはあまりに共通項が多い。このままでは、欧州を地獄の業火で焼いたあの大惨事が繰り返されかねない。
現に――
『ここで臨時ニュースをお知らせします。
昨日開始された、わが連合王国領フォークランド諸島
――今だって、戦争の芽は絶えることがない。
ゆえに、元々興味のあった時代ということもあり、研究を進めていくなかで、彼の灰色の脳細胞は
「…あの戦争において、帝国の戦争指導をしたのが誰か、君は知っているかい?」
「ハイ、先生。『統合作戦本部』と陸海空軍の参謀本部、軍令部であります」
「素晴らしい。大学入試時点であれば満点をあげただろう。しかし――」
「一次資料が
「――なんだ、知っているじゃないか。さすが首席入学というだけはあるね」
「ふふふ、ありがとうございます」
そう、そこに大きな問題がある。
当時の統合作戦本部資料が、綺麗さっぱり失われているのだ。
「確か、統合作戦本部の置かれていたベルン王宮の
「そのとおり。でも、妙だとは思わないかい?」
「…確かに。仮にも政府の文書です。原本が失われたと言っても、写しや控えはどこかに残っていそうなものですが」
「まさにそこだよ」
教授は大いに頷いた。
この『不自然な消失』に気付いてしまえば、芋づる式にあることに気付けてしまう。
「当時の帝国の資料には、統合作戦本部に限らずあらゆる分野で『奇妙な欠落』がある。
それこそ、
「…いったい、誰がその様な事を」
「状況から言って、当時の帝国政府、帝国軍だけとは考えにくいね。なにしろ
「と、いうことは同盟国側でしょうか?…しかし、ますます理由が分かりません。戦犯訴追を免れるためならいざ知らず、同盟国側がそのような…」
「問題は『何が』隠されたのか、だろうね。それが分かれば、自ずと隠蔽した犯人にも目星が付くと思うよ。…そう思って、今回は『回廊の戦い』に関する資料を請求したんだが…」
「『回廊の戦い』?……あぁ、あの謎の多い戦いですか」
『回廊の戦い』。
またの名を、『霧に包まれた戦い』。
それは統一歴1926年10月末に惹起した、帝国軍と連邦軍の戦いであるが、両者の主張内容はまるで別物。
帝国陸軍参謀本部はその作成した資料でこう主張する。
「10月21日未明、我が帝国陸軍東部方面軍中央管区は『回廊計画』に基づき、スモレースクより後退中の連邦軍を捕捉。その撃滅に成功せり。
然るに10月25日より東部一帯にて降雪を認め、全戦域において後退計画『白の場合』を発動せるがため、戦果確認不十分。
しかしながら、当該後退時における連邦軍の追撃低調なりしことから、与えたる損害大にして、連邦首脳部に多大なる衝撃を与えたるものと確信す」
ところが、連邦軍の公式資料では、こうだ。
「10月21日未明、我が連邦軍スモレースク守備隊は大規模な戦域移動を実施。
途中、帝国軍より追撃を受けるも損害軽微にして、爾後の反撃に備うる。
そう、両者とも自分こそが勝者であると主張し、その見解は真っ向から対立する。
確かに、スモレースクは11月には奪回されているから、それだけ見れば連邦の主張が正しいように思える。
一方で、この冬季後退において帝国軍は損害らしい損害を受けていないことをみると、帝国側の主張が正しいように見える。また、ルーシー連邦政府が外国人の立ち入りをかたくなに拒むエリアがスモレースク東部にあることから、帝国側主張が正しいのではないか、とは言われているが…。
なにしろ『秘密の国』で名高い連邦国内のことである。現地調査も出来ない以上、『霧の中の戦い』というほかない――二人は知る由もないが、謎が解き明かされるのは冷戦終結後のことである――のであった。
「おかげで研究は行き詰まりだよ。歴史学と推理小説は別物だからね」
「…もしや、何かしらの推論があるのですか?」
「妄想の域に突入してるけどね。…聞くかい?」
「是非」
可愛らしくお願いする女学生に興が乗ったのか、はたまた当分日の目を見ることが出来ないであろう自分の説を開陳できる喜びからか、教授は満更でもない風でその「妄想」を語り始める。
「まず、推理の出発点となるのは海軍だ」
「か、海軍ですか?また急に飛びますね」
「突飛な妄想と思ってくれていいよ」
出発点となるのは、この年の8月ごろに出されたとされる『大型艦建造中止命令』。
その内容は実に衝撃的だ。
まず、予算措置まで進んでいた新型戦艦4隻の建造取りやめ。
次に、当時改装中だった比較的新しい戦艦8隻を除いた既存戦艦の廃艦――もっとも、ドックの都合上解体までは行かなかったようだ――。
さらに、「時間がかかりすぎる上に、基地航空隊で事足りる」としてグラーフ・ツェッペリン級航空母艦4番艦も建造取りやめとなっている。
そうして浮いた資材や人員は、
「思い切った決断だと思わないかい?」
「確かに、戦艦の建造取りやめとは先見の明がありますね」
「正にそこだよ」
「はぃ?」
「『戦艦の時代は終わりつつあった』というのは、
あの時代、戦艦こそが海の覇者だった。
厳密には、誰もがそう信じ切っていた。
実際には、恐竜的進化を遂げ過ぎてコストパフォーマンスがすこぶる悪い、「使えない兵器」になっているなど、誰が思っただろうか。
浮いているだけで燃料をバカ食い――艦内の各種機材を維持するため、機関が完全に止まる時はない――し、ひとたび出撃となれば国家予算の数パーセントを消費する戦艦だが、しかし、それに見合うだけの威力があると海軍のみならず、皆が信じて疑わなかった。
あるいは「戦艦を撃沈できるのは戦艦だけだ」と信じていたのだ。
そう信じられていたソレを、あっさり切るなど、普通ならばありえない。
何より、当時帝国が対峙していたのは世界に冠たる
保有戦艦数、実に50余隻という当時世界最強の彼らを前に、大陸国家とはいえ、帝国が戦艦を8隻まで減らしたのはあまりに危険な、否、無謀な行動といわざるを得ない。
「実際には、もはや戦艦は航空援護なしには戦えなくなっていたし、逆に制空権を取られた戦艦は『
「…でも、当時の人はそれを――」
「知る由もなかった。その通りだよ」
そんな状況で、それほどの無謀な賭けを断行できる人間、ゴーサインを出せる人間がいったいどこにいたのだろうか。
不思議なことはそれだけではない。
「浮いた資材の半分が陸軍に回されている。
そもそもいつの時代、どの国家にも言えるのだけれど、陸軍と海軍は大抵仲が悪い。予算を奪い合う永遠のライバルといっても良いだろう」
なのに、このときに限っては海軍から陸軍への資材提供が実にスムーズに進んだ。
加えるならば、この数か月前、海軍が試作していた
まるで、
「これだけのことを出来る時点で、それをやった人間はある程度絞られる」
「陸軍ならば参謀総長、海軍ならば軍令総長でしょうか」
「フム…。それを解くヒントもまた、『大型艦建造中止命令』の中にあるのさ」
多くの歴史学者、軍事研究者の視線は、建造中止、廃艦が決定した戦艦に向けられる。
だが、教授が着目したのは『グラーフ・ツェッペリン級航空母艦4番艦』。
「この空母はキール据え付け段階で建造が取りやめになったのだけれど、この時点で艦名は内定していたらしいんだ」
――その名は、『ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルン』。
「ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルン…、
「当時はまだ皇太女だったけどね。当然だが、帝室の内諾も得ていただろう」
そこまで進んでいた空母の建造取りやめがあっさり決まった時点で、
「…教授はツェツィーリエ帝が全てを解く鍵だとお考えなのですか?」
「さぁて…。けれど、彼女もまた謎が多い人物だ」
帝国最後の皇帝、ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルン。
その治世は、否、彼女にまつわるあらゆることが謎だらけだと教授は言う。
まず、信頼できる一次資料にほとんど名前が出てこない。
幾つか彼女がサインをした公文書は残されているが、逆を言えばそれくらいしかないのだ。
「大国の君主ともなればそういうものなのでは?」
「確かに。けれど、それだけじゃない」
「それは?」
「聞いて驚きたまえ。…なんと、写真がほとんど残されていない」
「えっ!?」
そう、王侯貴族が残して然るべき肖像画はおろか、彼女を写した写真が殆どないのだ!
集合写真に収まっているのが数点、伝わってはいる。が、彼女を単独で収めた写真は戦後50年近くたった今日でさえ見つかっていない。
その集合写真も宮廷関係のものが一つとしてなく、全て軍関係者と共に収まるという異様な有様である。
「…よほど容姿に問題があったのですか?」
「そう思うだろ?ところがどっこい、彼女を知る人は口を揃えて『傾国の美女』という言葉を使うんだ」
実際、集合写真で小さく写ったものでも、飛びぬけて優れた美貌であることが分かるほど。それだけに
「戴冠式はしてないのですか?」
「『時局を鑑み、無期延期とする』だったそうだよ。遂に開かれなかったが」
ゆえに多くの場合、『特に何もしていない』皇帝であり、『戦争という帝国の一大事にありながら何もなしえなかった』皇帝だといわれてきたのだが…。こうしてみるとその異常性が際立つ。そう――
「――まるで誰かが
「まさか…」
「勿論、全て仮説だよ。証拠は何一つない。
だが、逆にこう推測することも出来ないだろうか?
『欠落した資料』というのがつまり、『皇帝ツェツィーリエ』に関するものだったのではないか、と。
『皇帝ツェツィーリエ』の業績を覆い隠したい何者かが、彼女に関連する資料を根こそぎ隠滅したとすれば、その広範な『欠落』も説明できるのではないか?
逆を言えば――
「私の最初の質問を覚えているかい?」
「『あの戦争において、帝国の戦争指導をしたのが誰か、君は知っているかい?』ですよね……まさか!」
――『何もしなかった皇帝ツェツィーリエ』が実は、帝国の広い範囲を掌握していたがために、彼女に関する資料の隠滅が、そのまま『帝国に関する資料の広範囲にわたる欠落』を招いたのではないか?
「…先生、その様なことがあり得るのでしょうか?」
「すべては仮説…いや、妄想といってもいいだろう。けれども――」
「けれども?」
「…いや、何でもない。…おや、そろそろ講義に出なければいけない時間だね。この話はまた今度にしよう」
教授のこの推理が、実は正鵠を射ていたことが分かるのは、このおよそ数年後。
一連の『ツェツィーリエ文書』の発見を待たねばならなかったのだが、その話はまたいずれ明かされることもあるだろう。
第7章『戦闘団』了
言われる前に言っておきますが
教授の名前も女学生の名前も、ワタクシ、一度も出しておりませんのことよオホホ(