社会で存在しないことになっていること:とある心理系企業での話
あるところにオンラインカウンセリングの会社があった。
ある日、代表が出先におり、私はオフィスにいる時だった。頼まれたある業務について「この業務は~な点で不得意かもしれないです」とslackで相談したところ、代表はその申告を受けて不機嫌な返信を送ってきた。さらに「あの件も返事くれてないよね?」などと矢継ぎ早にslackに投稿があった。変な汗が出た。
他の社員は私と同じ空間にいたが、知ってか知らでかそのslackでの詰問については言及してこなかった。私も、自分のされていることの異常性に気づけず、社内の誰にも相談できなかった。
データ分析の業務にしばらく取り組んでいた時は、「分析してるだけじゃなくて提案を」といったことを言われた。「例えばこういうことですよね」と提案すると「そう、できるじゃん」のような反応をされた。かねてから分析の目的については自分なりに考えていたが、業務の〆切やアウトプットの形を指示されていなかったため、それまで提案をしていなかった。
この出来事があってすぐ、代表はSNSで私への批判とも取れるツイートをしていた。それと同時期に、私の同期の「やる気」「前向きさ」「成長」を褒め称える投稿もしていた。この時期を経て、仕事を引き受ける時には、要件を聞き出すフレームワークを使っていかないと無理だなと思うようになった。これを「成長」と見る人もいるかもしれないが、自分の身を守るための行動だったので喜ばしくはない。
https://twitter.com/marisakura/status/924291810632986624
https://twitter.com/marisakura/status/924840789108170753
公式SNSで配信する文面を考える業務を行っていた日。
進捗を聞かれたので、投稿文を多くは作れていないと言うと、代表は「○○さんは正解を探しすぎてる」と私のパーソナリティを決めつけ、隣の席へやって来て「○個作り終わるまで」と張り付いた。見えない鎖で椅子に縛られたかのようだった。なんとか完了させてすぐ、私は外に空気を吸いに行った。この頃にはもう辞意を伝えてあったためあとひと月の辛抱だったが、それでも頭痛がした。オフィスの中に私の酸素はなかった。
当時は今ほど言語化できなかったが、正解を探していたわけではなく、ユーザーやサービス利用を検討している人を追い詰めるような発信にならないようにしていて、時間がかかっていた。カウンセリングが普及していない日本では、これまで自責で頑張ってきて1人では限界を迎えたからこそ相談を検討している人が多いだろうと思ったし、あながち間違いではなかった。そうした人々に向けてSNSで配信する記事が、さらなる自助やセルフコントロールを推奨する内容なのはどうかと思ってのことだった。
代表はたまに「優秀」と言ってくることもあったが、何を優秀だと思っているのか分からなかった。少なくとも満足そうには言っていなかったので、「優秀」の後に「だけど~」が続くのかと怖かった。
他の社員は、私が代表とうまくいっていないことに気がついていたが、そのことについて退社後まで全く触れない人もいたし、言及しても「ディスコミュニケーションでは?」とパワーバランスを度外視した発言をする人もいた。代表に自分の考えが伝わっていないことは承知していたが、それまでに受けた振る舞いを思えば、「言ったら受け止めてくれる」などと悠長に信じられるフェーズではとうになかった。
同社員に「引っかかってあまり作業が進まないことがある」と言うと、「そういうことこそカウンセラーに相談したら?」と善意で言われた。どんな意味で言われたのか分からないが、「不適応」という言葉が頭をよぎった。
退社後、別の社員に「○○さんは自分や代表には見えない"ここから先"(の領域)が見えている」と言われた。認めてもらえているということなのかもしれないが、退社後にフォローされても悲しかった。
会社では、従業員や契約カウンセラーからの声を受け取るのでなく、相手の人格や心に問題を帰責するような発言が、代表だけでなく複数の社員から聞かれた。
例えば賃金のことで異議を申し立てた人がいた時には、その人のいない所で「(クライエントとは相性が良いけど問題のある人だから)境界的だね」と言っていたし、かつて働いていた人がSNSで会社について批判的な投稿を複数していた時には、「粘着質(意訳)」「気にしなくていい」といったことを言っていた。心理主義ってこういうことなのかな、と思う。
私もおそらく、「生きづらさにばかり目が向いている未熟な人」「選り好みをするワガママな人」「居場所のない可哀想な人」「頭でっかちで"分かって"いない残念な人」「"女の子らしい"かわいい悩みを持つ子」「素直に上司の言うことを聞けない可愛げのない若者」などと代表の頭の中で、都合よくラベルを貼り替えられていたのだろう。実際のところはたぶん証明できないが、そう取れるメッセージは色々と発されていたと思う。
https://twitter.com/marisakura/status/924511890352480256
過重労働や暴力、罵倒はなく、歓送迎会の開催や本・人の紹介などもしてもらっていたため、自分の身に起こったことがパワーハラスメント、そうでないとしても不当な行為であると思えるまで数年かかった。「"アメとムチ"を駆使した"適切な指導"」のつもりで抑圧するというのはDVや虐待でもよく行われることだと知ったのも、最近のことだ。
言葉にならず人にうまく説明できない期間が長かったし、人権やハラスメントに関する相談機関にもなかなかアクセスできなかった。
それでも、会社でのことで心身に不調をきたしていたのは間違いなかった。オフィスは息苦しく、勤務の休憩時間には公園で泣きながら家族に電話した。耐えがたさのために出勤できないこともあった。退社後も頻繁な希死念慮に悩まされ、身近な関係にもそれは波及した。「働くことが怖い」という感覚は数年続き、現在も完全にはぬぐいきれていない。
やさしい社会的企業、やさしいサービス、やさしい人たちとして業界では有名で、「やさしさ」というのを打ち出してもいる。そのようなテーマの記事にもしばしば出ていて、SNSで賞賛や敬意を表明する人も多く、それらを見かける度に苦痛だった。SNSでは機能を駆使して見えないようにしたが、SNSでの関係圏が少し被っているため、完全に見かけなくするのは難しかった。また、何も悪いことをしていないはずなのに、私は相手に自分のアカウントを見つけられてしまわないか気にしていた。
代表も社員も「人が去っていくのは悲しいし寂しい」というようなことをネット上で流していた。代表がビジネスSNSでつながり申請をしてきたこともある。何を言っているんだろう。
「ミスマッチが起きたが、半年足らずでそのことに気づくことができ、互いに道を分かっただけ」という見立てもありうるとは思う。けれど、だとしたらなぜあんなにも窒息しそうだったのか?退社後も希死念慮に苛まれたのか?働くことが何年も怖かったのか?重苦しい沈黙と攪乱に追いやられたのか?私の前にも後ろにも同じ会社で苦しんだ人がいるのか?
その見立てではこれらの答えにはならない。
当時は代表も心身不調で、それもあって他の社員は代表の八つ当たり的な言動を免責していたのかもしれないとも思った。その心身不調やストレスの背景には、ビジネス界隈のホモソーシャルや市場的価値観があったのではないかと思う。私たちは社会構造に引き裂かれたのかもしれないと。だが今となっては、代表はその構造の中で抑圧側に同化しきってしまった存在だと思わざるをえない。
この文は私怨や呪詛かと言われれば、そうではないと思う。私はあの後なんとかサバイブし、自分なりの人生を歩んでいる。私にはしたいことがあるし、自分の日常がある。謝罪にもあまり興味はない。どちらかと言えば、代表にはもう私の人生に近づかないでほしい気持ちが強い。
そのうえで、それでも社会的になかったことにされたくない、すべきではない、と思っている。似たことがそこかしこで繰り返し起こっていると少なくない人が感じているはずなのに、曖昧さゆえになかったことにされている。これは傷つきの話というより、抑圧と構造、社会の話なのだと思う。
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*会社側も私を「インターン」と認識していると思っていたが、以下ツイートによればインターンでなくアルバイトだったようだ。
https://twitter.com/marisakura/status/1024075287166738432
・代表が私の前職の上司に会いに行き、私のことを聞いて来たことがあったが、あれも怖かった。