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でまかせ叙事詩ヘベレケ

既読本の感想と未読本の妄想を主に綴ります。

感想/既読 ラヴクラフト全集 3 H・P・ラヴクラフト/著 大滝啓裕/訳 創元推理文庫

英題『THE SHADOW OUT OF TIME AND OTHER STORIES』
著者 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft)
訳者 大滝啓裕(おおたき けいすけ)
出版 創元推理文庫(東京創元社)

1984年3月30日初版
1989年6月23日11版

@ カバーイラスト Virgil Finlay © Lail Finlay

@ カバーデザイン 龍神成文

@ 裏表紙の惹句

二十世紀最後の怪奇小説作家H・P・ラヴクラフト。その全貌を明らかにする待望の全集――本巻には、アーカムやアヴドゥル・アルハザードが初めて言及される初期の作品や、ロバート・ブロックに捧げられた作者最後の作品をはじめ、ラヴクラフト宇宙観の総決算ともいうべき、時空を超えた存在<大いなる種族>を描く「時間からの影」など全八編を収録。

@ 扉の作品紹介

幼い頃から天文学に興味をもちつづけたラヴクラフトは、広大な宇宙においては人類の存在など儚(はかな)いという根本認識のもとに、死後オーガスト・ダーレスによりクトゥルー神話としてまとめられてゆく一連の小説群を執筆した。本巻には、時空を超えて存在する超知性体<大いなる種族>の姿を描く、まさにラヴクラフト宇宙観の総決算ともいうべき『時間からの影』をはじめ、アーカムやアブドゥル・アルハザードがはじめて言及される初期の作品から、ロバート・ブロックにささげた最後の作品まで全八編を収める。

△ ここまでの感想

 一九三七年に死んだラヴクラフトを持ち上げるのに『二十世紀最後の怪奇小説作家』とは大きく出たものだなあ、と思いました。広告のコピーなら、これぐらいやらないといけませんね。パンチが効いていて好きです。
 それに、大嘘だとは言い切れないな、と思います。
 ロバート・ブロックやスティーヴン・キング等のラヴクラフトより後輩の怪奇小説作家は、ホラー小説作家に分類される感じがするのです。
 怪奇小説とホラー小説の違いって何だよ! と言われると困るのですけど、うーん……人を驚かす幽霊とか怪物とか化け物が最終的に退治されてしまうのがホラー小説かな~と今、思いつきました。この定義、当たっているのでしょうか? キングの小説『キャリー』は自滅という気がしますけど……むう、キャリーは怪物なのでしょうか? もしかしたら、怪物や化け物の定義からスタートしなければならないような……うう、面倒だから棚上げしておきます(笑い)。

 不思議に思ったのは、名前の表記が一定していないことですね。

アヴドゥル・アルハザード
アブドゥル・アルハザード

 多分、どっちも正しいのでしょう。
 呼び方が不定なところが、実にクトゥルー的だと思います。

@ 目次

ダゴン
家の中の絵
無名都市
潜み棲む恐怖
アウトサイダー
戸口にあらわれたもの
闇をさまようもの
時間からの影

資料:履歴書

作品解題 大滝啓裕

△ 感想

・ダゴン Dagon

 ドイツ海軍の商船隊襲撃艇から単身逃亡した件(くだり)を読んで、不思議な感じがしました。
 脱走しなければ良いのに、と思ったのです。

 語り手が船荷監督として乗船していた定期船はドイツの商船隊襲撃艇に拿捕されました。
 場所は『広大な太平洋の、船舶の航行することきわめて稀(まれ)な、最も広びろとした海域だった(10ページ)』そうです。
 近くに陸地の無い大洋のど真ん中だと思います。
 そんなところで脱走して、そこから何処へ向かうつもりだったのでしょう?
 陸へ辿り着く前に遭難してしまうのではないでしょうか?

 いや、心配ない、大丈夫だ! と語り手は胸を張るでしょう。
 彼は述べています。
 ↓
 ドイツの軍人の規律は実におおどかで、それが証拠に、拿捕されてから五日後に、わたしは小さなボートに相当期間もちこたえられる水と食糧を積みこみ、単身逃亡することができたのだった。(10~11ページ)
 ↑
 水も食糧もたっぷりあっても安心材料にはならないと思います。積み込んだのは小さなボートです。好天に恵まれ波が穏やかな日々が続くなら安全かもしれませんが、嵐が来たらひとたまりもないでしょう。
 まして、退避できる島や港の無い海域です。
 脱出は無謀だと思います。

 語り手の無思慮無分別そして無鉄砲を示す記述は、他にもあります。
 ↓
 波間を漂い、ようやく自由になれたことを知ったとき、わたしは自分がどこにいるのやらさっぱりわからなかった。有能な航海長であるはずもないので、太陽と星によって、赤道の南のどこかにいるのだろうと、ぼんやり推測することしかできずにいた。経度については何もわからず、見渡すかぎり島も海岸線もない。晴天がつづき、幾日が経過したかもわからないまま、身をこがす太陽の下をあてもなく漂流したのだった。(11ページ)
 ↑
 遭難に近い漂流状態になることは十分に予測できたはずです。
 後に遭遇する事態は予測困難ですけど(笑い)。
 まあ、とにかく、超自然の恐怖にお出ましいただかなくても、大自然の猛威だけで手に余る状況だったのは間違いないと思います。

 反論はあるでしょう。
 敵の船から逃げ出すのは当たり前だ! 殺されるかもしれないじゃないか! という理由です。
 しかし捕虜だった語り手に差し迫った命の危険があったのかどうか、疑わしいです。
 ↓
 その頃、大戦は火蓋が切られたばかりで、野蛮なドイツ海軍もまだ後の堕落におちいってはいなかったので、わたしたちの船は正当な捕獲財産とされながらも、わたしたち乗組員は、海の捕虜に当然はらわれるべき公正さと敬意でもってあつかわれた。(10ページ)
 ↑
 拷問の事実や処刑の危険性を示唆する記述はありません。
 太平洋の只中に飛び出して遭難しかける……そんな愚かしい振る舞いをしなければならない切迫した事態ではなかったのです。
 それなのに、どうして語り手は逃走を企てたのでしょう。
 考えられる理由、その一。
 敵の捕虜でいることを潔しとしなかった。
 これは一応、ありえると思います。
 語り手は綴っています。
 ↓
 モルヒネの虜(とりこ)になっているからといって、腰抜けであるだの変質者であるだの考えないでいただきたい。(10ページ)
 ↑
 海の男に相応しい、荒々しいマチズモを感じます。
 つまり、語り手の行動は愛国心の現われだった、と申せましょう。
 ただし、語り手がモルヒネ中毒であったことを差っ引かなければなりますまい。
 無数の若者たちが祖国のために戦い傷つき斃れていく間、彼は麻薬に溺れていたのです。
 これが真の愛国者の振る舞いでしょうか?
 腰抜けであり、変質者である男の、恥ずべき振る舞い……そう言えるのではないでしょうか!
 むしろモルヒネ中毒は、自らが腰抜けの変質者であることをカモフラージュするためであるとも考えられます。
 あるいは、兵役を免れるためのエクスキューズ、とも考えられます。
 もしかしたら、そこには、徴兵検査で不合格になったコンプレックスが隠されているのかもしれませんが(注:ハワード・フィリップス・ラヴクラフトのWikipediaより)、これは私の邪推でしょう。

 考えられる理由は、他にもあります。
 創作上の都合です。
 戦時下の話にしたのは、なぜか?
 太平洋で遭難した。物語のオープニングの設定は、これだけで十分なはずなのに、どうして?
 それは恐らく、時代的なリアリティーを出そうとしたからだと思います。
 もしくは、従来の海洋恐怖小説と違う面をアピールしたかったからでしょう。
 ラヴクラフトは綴っています。
 ↓
「古いアトランティスやレムリアの伝説を基にした小説は、今日では目新しいものではありませんが、わたしは雰囲気に期待をかけ、新規さに等しいものをもちだそうとしたのです」(319ページ)
 ↑
 その意気は買いますが……この状況設定は無理がある、というのが率直な感想です。

 最後に、語り手の特殊な事情が考えられます。
 モルヒネ中毒は、いつから始まったのでしょう?
 モルヒネを使うようになったのは救助されてからである、といった風な文章が手記の17ページに記されていますが、これは眉唾だと思います。
 語り手がモルヒネ中毒になったのは、ドイツ海軍の捕虜になる前だったのです。
 敵に船を拿捕され、自由を奪われた語り手は、モルヒネを使うことが出来ず、禁断症状に苦しみました。
 無謀な脱走は、禁断症状によって理性的な判断能力が失われた結果として起きた、不幸な事故でした。
 もしも正常な判断力があったなら、逃走はありえなかったでしょう。
 単身逃亡したのは、他の捕虜たちが語り手を相手にしなかったからです。正気の船員たちにしてみれば、小さなボートで逃亡するなど考えられなかったでしょう。
 ボートに相当量の水や食糧を積み込めるくらい、ドイツ軍人の規律はおおどかだった、と書かれていますから、語り手は他の捕虜たちを率いて反乱を起こしても良かったと思います。
 ですが、仲間たちの賛同を得られなかったのでしょう。
 おおどかすぎるヤク中の戯言に耳を貸す者などいませんから。

 結論として、私は申し上げます。
 この『ダゴン』という手記風の掌編は、モルヒネ中毒患者の妄想に過ぎません。
 すべてが禁断症状の産物なのです。
 何もかもが幻覚なのです!
 それを真に受けて掲載した<ウィアード・テイルズ>の編集者は、ぷぷぷ、おおどかにもほどがありますよ! 失笑ものですよw 第一ですよ、あのラストは何ですか(笑い)。昔のテレビ番組、ドリフターズの『8時だョ!全員集合』のコントでやっていた「志村うしろうしろ」と変わりがないですよ(爆)。マジで笑っちゃいますよ……いや、そんな! あの手は何だ! 窓に! 窓に!

・家の中の絵 The Picture in the House

 田舎道をサイクリングするのは楽しいですよね。
 自然を満喫できるし、健康にも良い。最高です。
 でも、十一月の冷たい雨に降られるのは嫌ですね。
 濡れたら風邪を引いてしまいますから、薄気味悪い家でも諦めて雨宿り……よく考えたら、人の家に勝手に入っておいて「虫の好かない」とか「いい印象をあたえるものではなかった」とか「独特の不快な臭」とか「これ以上はないほど粗末なものばかり」とか散々なことばかりを言う人間の方が、雨に濡れるよりもっと不快! と思い至りました。
 冒頭から粘着的な文章がずっと続くのも気持悪いです。
 大人しく雨宿りしているならまだ許せますが、珍しいからと言って家の人の断りもなく貴重な書物を読みだすのは無作法に思えてなりません。
 自制しろ、と声を大にして注意したいです。
 しかし当人は、そんな風には考えていないようです。
 ↓
 戸口には、自分をおさえるという行儀作法を知らなかったなら、思わず声をあげただろうと思えるような、きわめて異様な風貌(ふうぼう)の人物が立っていた。
 ↑
 自分を抑えられないし、行儀作法もなっていない、極めて異様な人物。それが本作品の語り手だと実感しました。
 それにしても、この語り手は無用心ですね。泥棒と勘違いされて撃ち殺される危険があります。そうなったら、この家の今夜の夕食が少し豪華になることでしょう。

 それにしても、ラストが意味不明ですね。
 私の読解力が足りないのでしょうか。
 結局、二人はどうなったのでしょう。
 落ちた雷に驚いて抱き合ったことがきっかけとなって愛情が生まれ、一緒に暮らし始めるようになる――ってことで良いんですよね!(←恐らく違う)

 それはさておき。
 小説『サイコ』の構想を練るとき、ロバート・ブロックはきっと、本作品を思い浮かべたことと思います。
 それでは『サイコ』の題材となった事件の犯人エド・ゲインが、本作品からインスピレーションを得た可能性はあるのでしょうか?
 犯行現場である彼の家のテーブルの上に<ウィアード・テイルズ>が広げられており、開いたページには『家の中の絵』の悍(おぞ)ましい挿絵が……と思ったら、ラヴクラフトの自画像(310ページ、『資料:履歴書』参照)だった! ということは多分ないっすね(苦笑い)。

・無名都市 The Nameless City

 読んでいて笑えて、ほのぼのとした気分になったところ。
 ↓
 その通路が長いものであると見当をつけたわたしは、もがきながら急いで這い進んだ。(43ページ)
 ↑
 ラヴクラフト小説の主人公は誰もが物凄い勇者で、本作品の語り手も案の定、未知の領域へと突撃していく恐れ知らずのチャレンジャーなのですが、狭くて暗い通路を蛇のように匍匐前進していく姿は、他の語り手を圧しています。
 個人的には「明らかに変だろコイツ」と思ってしまいますけど、それは語り手当人も自覚しているようで、こんなことを書いています。
 ↓
 あの真暗(まやみ)のなかにわたしをながめる目があったなら、いかにも恐ろしげな姿に見えたことだろう。(43ページ)
 ↑
 閉所恐怖症の人だったらパニックに陥って絶叫する状況だと思いました。

 こんなことも書いてありました。
 ↓
 わたし以外の者なら、あのような下降は、精神錯乱か麻薬による恐ろしい幻想のなかでしかできないだろう。(41ページ)
 ↑
 自慢しているのか自虐的なのか判断に苦しむ文章です。
 まあ、事実を述べているだけなのでしょうね。
 語り手が描く自画像は、筆者であるラヴクラフト本人と重なり合うのかもしれません。
 呪われた無名都市の洞窟に降り真暗へ向かって這い進む語り手の姿は、陰鬱な怪奇小説の執筆に耽溺する作者とオーバーラップして見えるのです。

 こんなことも書かれています。
 ↓
 このわたしに地をさまよわせ、遥けき太古の禁断の土地へとむけさせる、奇怪なもの、未知なものを追い求めるあの本能のために、わたしは完全に心の平衡を失っていた。(41ページ)
 ↑
『奇怪なもの、未知なものを追い求めるあの本能』は筆者ラヴクラフトも濃厚に持ち合わせていました。
 無名都市を彷徨い歩いた語り手は、やはりラヴクラフトの分身なのだと思います。

 それはそれとして、文章の最後の部分『わたしは完全に心の平衡を失っていた』を読んだとき、ケイオシアム社のテーブルトーク・ロールプレイングゲーム『クトゥルフの呼び声(Call of Cthulhu)』(『クトゥルフ神話TRPG』)のSAN(正気度、sanity)チェックはラヴクラフトの世界を忠実に再現した好ルールだとあらためて思い知らされました。
 同作品のデザイナー、サンディ・ピーターセン(Sandy Petersen)とリン・ウィリス(Lynn Willis)に惜しみない賛辞を送ります。

・潜み棲む恐怖 The Lurking Fear

 この作品の語り手は『恐怖の究明を専門とするわたし』(61ページ)です。それが仕事のようです。研究機関の職員なのでしょうか、フリーの著述家なのでしょうか? あるいは、定職に就かず的確な資産運用で食べているのかもしれません。人を雇う金や調査費用に不自由していないようですから、金がふんだんにあるのは確かだと思います。仕事というより金持ちの道楽なのかもしれません。色々と書いてみましたが、どれも推測に過ぎません。一体、語り手は何者なんでしょう? テンペスト山の恐怖と同様に、私にとっては語り手も謎の存在です。

 不思議なことは他にもあります。
 連載第一回『1 煙出しを覆う影』で、語り手だけが助かったのはなぜか?
 連載第二回『2 嵐のなかを進むもの』でも死ななかったのは、どうして?
 連載第三回『3 赤い輝き』では危険な存在と単独で接触していますが、無事でした(這い回るのが余程好きなのでしょうか? 前作同様、狭い隧道の中に潜り込んでいるときの出来事です)。
 最後の連載『4 双眸の恐怖』に至っては団体さんを目撃していますけれども、結局は『無意識のうちにも人の住む地へと導いてくれた本能については、天に感謝しなければならない』(88ページ)とのことで、要するに何事も無かったわけです。
 幸運が続きすぎるだろ! と突っ込んでしまいました。
 超自然というより不自然と言うべきでしょう。

 語り手は理由を推察しています。
 ↓
 ひょっとすると、そいつはわたしが指揮をとっていることを知って、ふたりより恐ろしい運命に遭わせるためにこそ、わたしを残したのではないだろうか。(72ページ)
 ↑
 そうなのかもしれませんが、決定的な根拠に乏しく、仮定の域を出ないと思います。
 語り手が生き延びられたのは、単なる御都合主義だと私は考えました。

 無理のある説明だな~と私が感じた点は、他にもあります。
 ↓
 誰にも理解できるはずはないので、みんなにはマンローが道を見失って森のなかをさまよっているのだと思いこませた。(74ページ)
 ↑
 さらっと書いていますけど、物凄い力技だと思います。
『不運な祖先や愚かしい外界との孤絶のために、進化の段階をゆるやかに後退した、単純きわまりない人びと』(68ページ)だから言いくるめられた、という解釈は成り立ちます。しかしマンローの関係者が語り手に騙されるほど素朴な連中とは限りません。
 無邪気に信じる人間は大勢いるかもしれませんけれども、語り手によって殺されたのだと疑う者が一人ぐらいはいても、おかしくはないかな~と思います。

 もしも私が州警察の騎馬警官だったら、この語り手を重要参考人として警察署までしょっ引くと思いました。
 最初の事件はともかく、その後の惨劇の幾つかは、語り手の周辺で発生しています。
 重要参考人ではなく容疑者として語り手を逮捕しても無問題ではないか、とさえ思います。
 最後まで一緒にいた人間数名が姿を消しているのに、警察が語り手を放置しているのは、ちょっと解せないです。
 他に起こった大量殺戮の実行犯として逮捕・起訴するのは不当だと思いますけれども、少なくとも記者の失踪に関してなら立件しても責められないかな~と個人的には感じました。
 でも犯行を示す直接の証拠が無いですから、起訴に持ち込んでも無罪になりそうですね。
 やっぱり、そう簡単には起訴できないような気もします。
 人を雇う金がいっぱいある語り手のことですから、政治力があるのですよ、きっと。有力者の御曹司か何かで、警察に強い影響力があり、事件を揉み消すぐらい簡単、という裏設定が隠されているわけです(←ねーよ)。
 でもまあ、そんなのラヴクラフトっぽくありませんよね。
 ストーリーや設定の粗探しなんかしないで、純粋に恐怖を楽しむのが怪奇小説の正しい読み方だと思います。
 ありえない、こんなのは子供騙しだ! と難癖を付けるのは愚かしいことです。素直に読んで、みょうちくりんな場面に出くわしたら笑って流すのが大人の対応と申せましょう(これは怪奇小説に限らずフィクション一般に通じる心構えだと思います)。

 司法当局の対応が鈍いのは、この時代においては普通のことだったのかもしれませんね。大量殺人の被害者たちは貧しい人たちですし、語り手の仲間は得体の知れない余所者ですし、新聞記者は嘘八百ばかり書く詐欺師という偏見が警察にあるため、本腰を入れて捜査しないのです。
 そこまで酷くないだろ……とは思いますけど、現実はともかく小説内世界での警察は、捜査しているのかどうか、いえ存在しているのかどうか分からないくらい影が薄いのは事実です。
 警察に動き回られると語り手が活躍する余地が無くなるという創作上の問題がありますから、存在感が皆無なのは当然という意見はあるでしょう。
 その他に、筆者であるラヴクラフトの抱く差別意識が関わっていると思われます。
 大虐殺の犠牲者はオランダ人移民の子孫でした。作中では『貧しい混血』『堕落した者たち』『道徳が地に落ちた』『進化の段階をゆるやかに後退した、単純きわまりない』『あわれむべき』といった言葉で修飾されています。
 これらの言葉の中に、ニューイングランドで生まれたイギリス人移民の子孫にして没落した資産家の血を引くラヴクラフトが、オランダ人移民の子孫に抱く強固な差別感情が現れているのでは、と私は思いました。
 語り手が事件の捜査に熱中するのも、罪も無いオランダ人移民の子孫たちが殺されるのを防ぎたいという正義感や義侠心あるいは仲間の仇討ちというより、『その地に潜む恐怖を単独で究(きわ)めようと』(74ページ)する好奇心です(私は、そう読み取りました)。
 筆者のラヴクラフトにとっては、悍(おぞ)ましいオランダ人移民の子孫が何人殺されようとも知ったことではなく、彼の小説世界の警察組織は作者の差別意識を反映して犠牲者に対し特に哀悼の念を抱くことはなく、現代の警察がギャングや麻薬の売人が殺害された事件の犯人捜しに熱心になれないことと同様に、テンペスト山大虐殺の捜査もまた、御座(おざ)なりになっている――というのは、私の被害妄想でしょうかねえ(苦笑い)。

 ラヴクラフトの持つ根深い差別意識の話は自分でも無理があるかな~と思うのですが、語り手が生命の危険を華麗に(?)回避し続ける展開に関しては、御都合主義と言い切っても無問題かな? というのが本音です。
 連載小説だったようですので、毎回ラストを盛り上げて終わるクリフハンガー風のエンディングを意識したのでしょうが「もう少し上手くやれよ……」と編集者は思ったのではないでしょうか?
 作者自身も、語り手が生き延び得た理由を明示できなかったことに、後味の悪さを感じていたのだと思います。
 また、語り手が事件に関わる動機付けも上手く処理できているとは言いかねます。『潜み棲む恐怖をあばこうとする一途(いちず)な思い』(79ページ)は分からなくもありませんが、そこまで入れ込む神経は、私にはちょっと理解し難いです(自分の仲間を奪われたので復讐したいというなら納得ですが、そんな理由は本文中にはっきり書かれていないと思います)。
 本作品中に認められる、これらの突っ込みどころを改善したのが、後に執筆される『インスマウスの影』かな、と何となく思いました。
 あの話を読み終えたのは大昔ですので、筋はうろ覚えなのですが、読んでいる最中に「取り逃がすなよバカ! 手抜きするな、もっと気合を入れて追え!」となぜか憤った記憶があります。本作品の感想を書きながら、その事情を考察しますと、悪意で迫ってきたのではなく、迎えに来たのかな~と思えてきました。面構えが悪く粗暴な振る舞いをしたために、誤解されてしまったのです(現実でも起こりますよね)。
 語り手が抱く執拗なまでの探求心や怪奇への親和性も『インスマウスの影』では上手く説明が出来ていると思います。
 本作品の持つ二つの欠点が『インスマウスの影』で改良されているわけです。
 ついでに言うと、本作品で強調されている特殊な身体的特徴は、『インスマウスの影』においてより派手な形に発展しているような気がします。
 この小説の続編を書くとしたら、語り手の左右の目の色に違いが生じてきて、やがて語り手は自分にマーテンス一族の血が流れていることに気付き……という形になるのでは、と考えたのですが、それだと某マウス(何だそりゃっつーか、今更かよw)になってしまいますので、もうちょっと何かサプライズが欲しいところですね。
 自分が通常の人間とは違う存在、いうなればアウトサイダーだと気が付いた、今住んでいる土地ではもう暮らせない、生きていけるのは同胞の潜み棲むキャッツキル地方のテンペスト山だけ、しかしダイナマイトで木っ端微塵となった山の頂(いただき)には、もう潜み棲む場所は無い……という筋立てならば、某影(だから何だそれはっつーか、ラヴクラフトの作品のタイトルは『~の影』と『~もの』が定番なんですかそうですか)とは違う印象が残るかなっと納豆、うむ、ラヴクラフトが納豆を描写したら、凄いことになりそうだ(だからどうした)。

・アウトサイダー The Outsider

 作品解題で訳者の大滝啓裕は述べています。
 ↓
『アウトサイダー』はポオの影響を最も濃密にたたえた作品である。(中略)ナサニエル・ホーソーンの『孤独な男の日誌』から着想を得たのかもしれないが、それよりもポオの『赤死病の仮面』に刺激されたとみなすべきだろう。冒頭の部分はポオの『ベレニス』を思わせる。(328ページ)
 ↑
 ゴシック趣味が濃厚だな~と思いながら本作品を読みました。
 エドガー・アラン・ポーの影響があったのですね。
 読んでいるとき、カフカの『変身』が思い浮かびました。
 不条理な出来事とアウトサイダーを主題に取り上げていることが共通すると思います。
 ラストの印象は少し違いました。
 悪戯好きの幽鬼と夜風に乗って遊び、ニトクリスの名もなき饗宴に参加する。楽しそうです。
 少なくとも、家族に阻害されっぱなしでピクニックに連れて行ってもらえなかった可哀想なグレゴールよりは幸せそうです。
 グレゴールと同様に局外者(アウトサイダー)なのだけれども、友だちがいるぶんだけ本作品の語り手の方が幸福かもしれないと思いました。

 本作品に登場する語り手と愉快な仲間たちはラヴクラフトのペンパル(文通相手)だったロバート・E・ハワード、クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・ブロック等を連想させますね。
 怪奇と幻想を愛する小説家同士が空想の世界を共有し、お互いの想像力を刺激し、心の触れ合いを楽しみながら、作品を競い合っている光景が目に浮かびます。
 怪奇小説に理解の無い作家連中を避けて出版業界のアウトサイダーたちが細々と寄り集まっている、という感じもします(今ならネット住民と化すのでしょうか)。
 彼らアウトサイダーたちは、フィッツジェラルドがジャズ・エイジと名付けた時代に背を向け、同好の仲間たちだけで静かな時を過ごしていたのでしょう。しかし彼らは『絢爛(けんらん)と灯火が輝き、このうえもない陽気な歓楽のざわめきを外にもらす窓まど』(98ページ)を『格別の興味と歓喜を胸に眺めた』ように思います。
 もっとも、ラヴクラフトはプロヴィデンス生まれの江戸っ子ですから「てやんでえ、畜生め! 羨ましくなんかないやい!」と、減らず口を叩いていたに違いありません(←ないない)。
 チェコのプラハで生活していたユダヤ人フランツ・カフカには、自分はアウトサイダーだという意識があったんでしょうか? ラヴクラフトとカフカを並べて、そんなことを思いました。

 大げさで粘着的で回りくどくて読み難く、芸術性にこだわっているわりに「恐ろしい」「悍ましい」「いいようのない」「悪夢のような」「不快な」「グロテスクな」「憎むべき」「凶(まが)まがしい」「名状しがたい」等の言葉が何度も繰返されて変化に乏しいラヴクラフトの文章ですが、それもまた良いと認められるようになりました。
 本作品と訳者のおかげだと思います。
 一行目から古風な言葉遣いで度肝を抜かれました。難しい単語の数々に読み通せるか不安になりましたが、意外や意外、最後までスラスラ、とまではいきませんけれども読み進めることが出来ました。
 優れた訳文だと思います。
 でも、訳者自身が『異様な雰囲気に呑みこまれるばかりで、読めば読むほどわけがわからなくなってしまう』(329ページ、『作品解題』)と書いている通り、内容は難しいですね。
 ストーリーの流れや語り手の心情は理解できるのですが、建物と周囲の位置関係が名状しがたいです(すいません、この言葉を使ってみたかったんです)。
 しかし、だからこそ悪夢のような(笑い)異様な雰囲気に浸れるのだと思います。
 合法ドラッグや脱法ハーブに手を出すよりも健康的ですよね。
 マジックマッシュルームを食べた海猿のことはさておき(おい)、本作品を読んで私は「意味は分からないけれど、何だか凄い! 面白い!」とラヴクラフトを素直に褒め称えられるようになりました。
 言い回しに凝るあまり、文章が本来持っていた情報伝達機能を著しく損なっている、著述者の独(ひと)り善(よ)がりな美文・名文の類に、これまで私は嫌悪感を抱いていたのですが、そんなに目くじらを立てるほどではありませんよね。
 内容が高度であるがゆえに意味不明ならともかく、中身は無いくせに装飾過剰すぎて難解な文章なんか無価値! 福澤諭吉が言った(らしい)「猿が読むのだと思って書け」という発言は、表現自体は不適切だが言っていることは正しい! と思っていた私の蒙(もう)を啓(ひら)いてくれた、この作品に感謝です。
 実際の話、何が言いたいのか細かいところはハッキリしなくても、おおよその意味やストーリー展開が分かれば良いのです(小説や詩に限った話ですよ)。
 この真理を究めたからには、名文家と評される人間の書くような、修飾語に凝りすぎて難解な文章だって怖くありません。
 わけの分からない部分は適当に読み飛ばせば良いのです(おい)。

 突然ですけど三島由紀夫とラヴクラフトの文章って、目指す方向性が部分的に一致しているように思えてきました。両者とも貴族趣味の文章で、無駄な装飾が多く機能性に欠けると感じるのです。
 服に例えるなら、どちらの文体もフリルやお飾りだらけ、違っているのは三島が金ぴかでラヴクラフトが宇宙の深遠を切り取ったような暗黒の生地を使っていることでしょうか。
 ラヴクラフトは、カフカや三島由紀夫と小説の内容や文章の志向性において、大きな違いは無いと私個人としては思うのですけれど、その認識ってどうなんでしょう?
 文学者としてのレベルは、やっぱり圧倒的に格下なんでしょうかねえ、ラヴクラフトは。
 発表媒体が低俗なパルプ・マガジンだけで終わってしまった作家は、文壇のメインストリームからは全く相手にされないし、アカデミックな世界から絶対に認められないのでしょうかねえ?
 アウトサイダーの悲しみを今、噛み締めています。

・戸口にあらわれたもの The Thing on the Doorstep

 冒頭の一行に衝撃を受けました。
 ↓
 いかにもわたしは親友の頭に六発の弾丸を射ちこんだ。(104ページ)
 ↑
 余計な修飾語が無いことに驚きました。
 シンプルでありながらインパクトがあって、書き出しに相応しい一文だと思います。
 これは珍しい、一体どういうことなのだろう……と不思議に思っていたら、訳者が書いた『作品解題』に答えのヒントらしきものがありました。
 ↓
 四日間で書きあげられた作品であり、ラヴクラフトは必ずしも出来映に満足しておらず、(中略)結局このままの形で発表された。(330ページ)
 ↑
 デコレーションに費やす時間の無かったことが幸いしたようです。
 ラヴクラフトが文章に手間を掛けていたら、いつものように一本調子で要領を得ない悪文になっていたと思います(←おい待てw)
 とはいえ、毎度おなじみのパターン(自分がどれだけ恐ろしい体験をしたか、思わせぶりに語るものの、肝心の中身はなかなか話し出さない。こっちは忙しいんだ、要点を早く言え! と空腹時だったら怒鳴りたくなります)、実はそんなに嫌いじゃないんですよね。古き佳き時代の小説を読んでいる、という感じがして、楽しいです。それならラヴクラフトの文章にいちゃもんつけんなよ! と自分でも思いますけどね(笑い)。

 内容に関して。
 本作品を読んで連想したのは北九州連続監禁殺人事件と、尼崎の大量殺人事件です。
 本作品からオカルトの要素を取り除くと、マインドコントロールと家庭内暴力が鮮明に見えてくると思います。
 また、登場する女性の一人は父親から性的虐待を受けていた可能性があると、確たる根拠は無いのですけれど思いました。
 暴力による洗脳下に置かれていたら、起こり得ると感じたのです。

 私の推量の真否はともかく、ラヴクラフトは近親相姦を作中に採り上げることが度々あったのは事実だと思います。
 作品解題に以下の記述があります。
 ↓
 ラヴクラフトが三歳のときに、父親が不全麻痺により精神の異常をきたし、プロヴィデンスのバーラー病院に収容され、五年後に他界したこともあって、ラヴクラフトは母の実家で育てられているが、母方のフィリップス家は旧家で、かつては植民地としての孤立もあって、何度となく血縁結婚を繰返し、その弊害をかすかにたたえる家系だった。ラヴクラフトの母親が精神に異常をきたし、夫と同じバーラー病院に収容され、その二年後に他界したのは一九二一年五月二十四日のことだが、ラヴクラフトは母方の家系がどういうものであるのか強く意識していたに違いない。(326~327ページ)
 ↑
 意識していても直視は難しいですね。
 二親とも精神病院で亡くなっています。自分も同じ運命を辿るかもしれないという不安と恐怖は並大抵ではないと思います。
 想像力の豊かなラヴクラフトなら、なおさらでしょう。
『孤立と近親相姦が堕落と退化に通じる』(326ページ)という題材に執着した彼の胸中を想像すると、何とも言いようのない気分になります。

・闇をさまようもの The Haunter of the Dark

 家庭や仕事の面では不幸な部分が若干あったラヴクラフトですけれども、友人には恵まれていたと思います。
 ロバート・ブロックとの交友から生まれた本作品が、それを何よりも雄弁に物語っています。

 度胸があるな~と思ったところ。
 ↓
 人骨だった。(168ページ)
 ↑
 白骨死体を見つけた当初は驚いたものの、その後は冷静に遺品を調査しているんですよね。それから半狂乱になって逃げ出すんですけど、骸骨そのものに怯えたわけじゃありません。ロバート・ブレイクは物事に動じない人だな、と感じました。
 あるいは、鈍いのかもしれません(笑い)。
 警察には届け出ていないようです。ストーリーの都合上そうなったのでしょう。匿名で通報しても良さそうですけど、夢中になっていて気が付かなかったブレイクは、おっちょこちょいなお茶目さんですね。それとも、警察との関わりを避けたい事情があったのでしょうか? 建物への不法侵入以外の何かが? もしかして前科持ち?
 まあ、謎解きだけで頭がいっぱいになっていたのでしょうね(『潜み棲む恐怖』の語り手も視野狭窄に陥っていました)。あるいは、その後の彼の行動を考えますと、この段階から既に最終局面へのレールは敷かれていたのでしょう。よく考えたら、フェデラル・ヒルへ向かった段階で、ブレイクの運命は決まっていました。いや、そもそも『かくしてラヴクラフトはこの「お返しにブロックを殺す」ことに決め』(333ページ、『作品解題』より抜粋)て本作品を書き始めたわけで、何がどうなろうが最初からブロックっつーかブレイク(紛らわしいですね)はアウトだったのでしょう。

 脱字。
 ↓
(前略)背後には大理石造りの大学付属ジョン・ヘイ書館が位置している。(154ページ)
 ↑
 図書館が正しいと思います。

 本作品を読んでいる最中は気付かず、読了後に『作品解題』を見て判明した事柄。
 ↓
(前略)ブレイクが“闇をさまようもの”と融合していることを暗示しているわけである(336ページ)
 ↑
 合体してたんだ!
 でも、今までの作品からして、この結末になるのは納得かな~と思いました。
 語り手が謎や恐怖の対象に向かって猪突猛進する傾向は『家の中の絵』『無名都市』『潜み棲む恐怖』そして本作品『闇をさまようもの』で認められます。
 その理由は作中で色々と説明されています。
 探検家や科学者のような好奇心のため、あるいは恐怖の根源を探求したいから、というのが公式な理由ですけど、実際は自ら認めている通り『血迷った情熱』(82ページ)に突き動かされているためで、それというのも恐怖に対し『耐えられようもない恐ろしいほどの魅力』(162ページ)を感じているためです。
 恐怖を追い求める彼らは、卵子に向かって一心不乱に泳ぐ精子に似ています。
 その究極の目標は、どちらのケースも合体です。
 また、お化け屋敷や心霊スポットへ行きたがる子供っぽい心理に似ていますが、それよりも炎に飛び込む虫の本能により近いと思いました。
 どんなに恐ろしい結末を迎えようとも、彼らは決して後悔しない――のかどうか、分かりませんけど。

 恐怖を探し求める者の胸に秘められた甘美なる夢が成就して終わる本作品は、ロバート・ブロックへの最高の捧げ物だと思います。
 これが遺作であることを考えますと、陸上競技のリレーで走者ラヴクラフトが次の走者のロバート・ブロック――才能溢れる年下の友人です――に怪奇小説の真髄を込めた創作のバトンを手渡した……ような気もします。
 いずれにせよ、長年のテーマを最終作品で完成させたラヴクラフトは、その早すぎる死は惜しまれてなりませんけれども、怪奇小説作家として、ある程度は満足できたのではないかな~と、何となく思いました。

 もう一つ、何となく思ったこと。
“闇をさまようもの”に支配され最後には融合してしまうという展開は、統合失調症の一症状である自我意識の障害に雰囲気が少し似ているなあ、と感じました。
 ラヴクラフトは精神を交換するというアイデアも得意な持ちネタ(不思議な表現だ)です。
 これらは両親(と書きましたが、幼い頃に亡くなった父親の記憶は無かったと思います)の症状を参考にしたのかもしれない、とちょっと思いました。
 あるいは筆者自身にも、そういった異常感覚があったのかもしれません。

・時間からの影 The Shadow out of Time

 長くてウンザリ(おい)、じゃなかったビックリ。
 怪奇小説であると同時に空想科学小説でもあると思いました。
 掲載紙は<ウィアード・テイルズ>ではなく<アスタウンディング・ストーリイズ>だそうです。前者には採用されませんでした。後者の方がサイエンス・フィクションよりの編集方針だったのでしょうかねえ。

 内容は面白いのですけど、構成に難があるかな、と思いました。
 途中で語り手が事情説明をしているために、最後のオチが予想されてしまうかもしれません。
 対策として、記憶の蘇る経過の綴られた前半と西オーストラリアの発掘調査を描く後半に分割されている現行のスタイルを、一章毎に交互に配置する形へ変更するのはどうかな、と思いました。
 今のままでも、語り手の話を最初から疑って読むのならば、ラストで明かされる事実によって「嘘じゃなかったんだ!」と驚いて万事オッケーかもしれませんが、真実だと思ってページを捲る人間にとっては「時空を超えて存在する超知性体は記録をデジタル化しなかったんだ」という感想だけで終わってしまいかねません。
 個人的には『猿の惑星』みたいな仕上がりのエンディングが望ましいと思うんですけど、どうすれば良いんでしょうかねえ?
 それはともかく、開かれたままの揚げ蓋は怖かったです。
 怪奇の正体が姿を見せるパターンより、本作品や『闇をさまようもの』みたいに名状しがたい恐ろしい気配だけ、何かが起こりそうな兆しだけの方が、上品な感じがして私は好きです。
 可視の怪物だと鉄砲やダイナマイトで退治が出来そうですし、それだと何と申しましょうか、ラヴクラフトの創作理念に反すると思います。
 ↓
 ラヴクラフトが『闇をさまようもの』を執筆するにあたって念頭に置いたのは、主人公が受身であることに説得力をもたせることだった。一九三九年二月二十日付アーサー・ワイドナー宛書簡では、『闇をさまようもの』についてふれ、「わたしは小説の中心人物が来たるべき恐怖をまえに無力であるように描くことを好みますが、それは真の悪夢を見ているあいだ、人がもっぱらそういう状態であるからです」と記している。ここにうかがわれるのはラヴクラフトの小説作法の骨法である。ラヴクラフトは「悍(おぞ)ましい運命がせまっている主人公を無力で非活動的」な人間にすることほど、「現実の悪夢に似た恐怖小説を書く」うえで効果的なものはないといい、「事実、夢想文学の秘訣は、中心人物を受身にして(夢想家として象徴化して)、出来事を中心人物にはどうすることもできない超然とした状態で漂わせること」だと記している。“中心人物”を“人類”と読みかえるなら、ラヴクラフトの全作品を貫く姿勢がはっきりとうかがえるだろう。(334~335ページ、『作品解題』より抜粋)
 ↑
 事故とか病気とか天変地異とか迫害とか財布を落とす等の、どうすることも出来ない悪夢の如き不条理な現実の前では、人は誰でも無力だと思います。
 幽霊や怨念や怪物や邪神といった中二病的要素は無くとも、ラヴクラフトの恐怖小説は成立すると感じました。

 各種の生体システム型ハードウェアに時空を越えてデータ転送可能なソフトウェアの開発者<大いなる種族>の生態が面白かったです。
 ↓239~241ページ。
・細胞活動は特異なもので、疲労するということがほとんどなく、睡眠する必要はまったくなかった。
・しなやかな太い肢(リム)の一本についている、漏斗(じょうご)形の赤い付属器官で同化される滋養物は、多くの点で、現存するどんな生物の食物からもかけ離れた、半流動体のものに限られていた。
・<大いなる種族>はわれわれが知覚する感覚のうち、二つだけ――視覚と聴覚――をもっていた。
・頭部の上にある灰色の肉茎についた花のような付属器官で、音を聴くことができる。
・しかし、その体に宿る異質な捕われの精神にはうまく利用することのできない、不可解な感覚を多数備えていた。
・三つの眼は、普通以上に広い視野が得られるように位置していた。
・血液は、いわば、深緑色をしたきわめて濃密な膿漿(のうしょう)だった。
・性行為はしなかったが、基部で房をなし、水中でのみ成長できる、種子とも胞子ともつかないもので繁殖した。
・巨大な浅い水槽が、仔(こ)のために使われた。
・しかし、きわめて長命なため――平均寿命は四千年ないし五千年だった――仔はごくわずかしか育てなかった。
・著しい欠陥のあるものは、欠陥のあることが知られるや、速やかに処分された。
・病気や死期のせまっていることは、触覚や肉体の苦痛がないために、純粋に視覚的な徴候によって気づかれた。
・死んだものは、荘重な儀式のもとに火葬された。
・<大いなる種族>は四つの明確な部族にわかれているとはいえ、主要な制度を等しくする、寛濶(かんかつ)に結びつく単一の国家もしくは同盟を形成していたらしい。
・各部族の政治及び経済体制は、主要物資が合理的に配分される一種の全体主義的な社会主義で、その権威は、特定の教育及び心理の試験に合格したもの全員が投票して選ぶ、小規模の統治委員会に委任されていた。
・家族構成は強調されすぎることはないものの、血統を同じくするものの繋りは認められ、通常、仔は親によって育てられた。
・産業は高度に機械化され、市民が労働のために時間を割(さ)くことはほとんどなかった。
・豊富な余暇は各種の知的な活動や、美的な活動に費された。
・犯罪は驚くほど少なく、きわめて有効な治安維持機構によって処理された。
・処罰は、権利剥奪や終身懲役から、死刑あるいは主要な感情の抹消にまでわたるが、犯罪者の動機が入念に調べられたあとでなければ、執行されることがなかった。
 ↑
 怪獣図鑑とガリヴァー旅行記を読んでいる気分になりました。
 訳者は『作品解題』で『<大いなる種族>をかりて描写される、ラヴクラフトが心に抱く理想社会の姿には興味深いものがある』(339ページ)と綴っています。
 ラヴクラフトの理想とする政治体制は、次に感想を書く『資料:履歴書』に本人の筆で詳しく綴られています。

・資料:履歴書

 これは『一九三四年二月十三日付F・リー・ボールドウィン宛書簡の一部を訳出した。ラヴクラフトが自らの経歴を語る興味深い資料といえるだろう。『履歴書』と題したのは訳者の独断であり、南方熊楠の矢吹義夫宛書簡が履歴書と呼ばれる嚬(ひそみ)に倣(なら)っている』(340ページ)のだそうです。

 それでは、ラヴクラフトの考える理想的な社会体制は如何なるものだったのか、本人が書き残した手紙で御確認下さい。
 ↓
 政治的には反動保守――保守主義者、連邦主義者――でしたが、現実に即した最近の思想に影響をうけて、対極の経済自由主義――政府所有、人為的な仕事の配分、賃金支払い期日や労働時間の厳守、失業保険、老齢年金等からなる経済自由主義――に転向しました。しかし人が人を支配できるとは思っていません。改革というものは、混乱のうちに消えうせてしまうのではないかぎり、修養を積んだ少数者による全体主義的な支配のもとにもたらされなければなりません。もっとも、主要な伝統文化は残さなければなりませんし、またわたしにとっては、ロシアの過激主義のような極端な大変動はおよそ無縁なものなのです。(中略)偉大な文化構造が分離するのを見るのはいやですし、アメリカが大英帝国から分離したことについては、わたしは心底から英国派なのです。一七七五年の紛争は大英帝国の内部で解決すべきだったと思っています。わたしはムッソリーニに敬服していますが、ヒットラーはきわめて劣悪なコピーであると思います――ヒットラーはロマンティックな構想と疑似科学に惑わされているのです。しかしそれと同時に、必要悪になっているのかもしれません――祖国が崩壊するのを防ぐための必要悪ということです。全般的にいって、わたしはいかなる国家も、本来の支配民族の血統を維持しつづけるべきだと思います――北欧ゲルマン系の民族の国家としてはじまったのなら、北欧ゲルマン系の民族を、ラテン民族の国家としてはじまったのなら、ラテン民族を、多く残さなければなりません。こういうやり方によってのみ、快適な文化の同質性と連続性が確保できるのです。しかしヒットラーの人種的優越感に基づく政策は莫迦げたグロテスクなものです。さまざまな民族はそれぞれの性向や習癖が異なっているものですが、そのなかでわたしが生物学的に劣っていると考えるのは、黒人(ネグロ)とアウストラロイド(オーストラリア原住民やタスマニア人等)だけです。この二者に対しては厳格な色わけがあってしかるべきです。(後略)
 ↑
 二十世紀前半のアメリカ白人男性が持っていた政治思想の一例だと思います。
 当時の社会状況を理解するための良い資料ではないでしょうか?

 この『履歴書』は、自伝を書き残さなかったラヴクラフトの生涯を知るための、格好の読み物だと思いました。
 自分自身の言葉で綴られているためでしょうか、一言一言、心に響いてきます。
 初めて読んだ本、初めて書いた詩と小説、小さいながらもちゃんとした望遠鏡で覗いた星空。ラヴクラフト少年の喜びと興奮が伝わってきます。
 ハイ・スクール在学中から地元紙に天文学に関する定期連載を持っていたというのには驚かされました。恵まれた才能が早くから開花していたのですね。高校の同級生に付けられた渾名が“教授”だったのも納得です。
 十八歳のとき神経症でハイ・スクールを中退、夢だったブラウン大学への進学を断念、その後も健康状態は回復せず、隠者のような毎日を過ごす……青年時代のラヴクラフトは、もしかしたら自殺を考えたかもしれないな、と思いました。
 可笑しかったところ。
 ↓
(前略)天気の良い日の午後には(もっぱら自転車に乗って)よく田舎に出かけました。(303ページ)
 ↑
 そして冷たい雨に降られ、雨宿りのつもりで入った民家でピガフェッタの『コンゴ王国』を発見するのですね(笑い)。

 もう一つ笑ったところ。
 ↓
 金があったときは体が悪く、いま健康な体になっていながら金がないのです。(306ページ)
 ↑
 事実なのでしょうけど、それにしても可笑しいです。
 冷静に自分を見つめ、ちょっと皮肉な書き方をしているところが、大いに気にいりました。
 この人、ユーモアのセンスが結構あったのではないでしょうか?
 おどろおどろしい独特の文章に、霊能者を自称するオカルト系詐欺師の怪しい臭いはありません。それよりは、つまみ枝豆や稲川淳二に代表される怪談話を得意とする芸人のショーマンシップを感じます(語り口の中に人を驚かせるための作為を感じる、と言い換えても構わないでしょう)。
 よく考えたら『機械論的な物質主義者』(310ページ)を名乗るラヴクラフトが神秘主義や疑似科学を信じているはずがありません。自分のゴシック趣味は勿論あるでしょうけれど、プロの作家が読者を喜ばせるために(編集者の好みも考慮しているでしょう)狙って書いているわけです。
 小説の題材や特徴的な文体は、ラヴクラフトが編集者と読者の嗜好を研究して編み出した技術なのです。
 ニーズやトレンドの調査分析には客観性が欠かせません。
 ユーモアは、客観視と同じ鰌じゃなくて土壌から生まれます。
 怪奇小説家ラヴクラフトがユーモアの感覚を豊富に備えていたとしても驚くには当たらないと思いました。

 それはともかく、307ページ『添削の例』というキャプションの付いた写真は笑えます。
 ラヴクラフトの手で、ほとんどが訂正されていて、本来の文章が見えないです。
 添削された人間は涙目ですねw

・作品解題

 訳者の大滝啓裕がオーガスト・ダーレスを叩きまくっていて笑いました。
 ↓
 ラヴクラフトの気にいりの作品であり、<ウィアード・テイルズ>の編集長が惚れこんでいた作品でもあったわけだが、オーガスト・ダーレスがドナルド・ワンドリイとともにアーカム・ハウスを興(おこ)して刊行したラヴクラフトの作品集の標題が『アウトサイダー及びその他の物語』となったのは、奇しき偶然にしかすぎない。(327ページ)
 ↑
 ラヴクラフト本人が「もしも<ウィアード・テイルズ>が久しく企画にのぼっている作品集の出版を決定するなら、おそらく標題として選ばれるのはこれ『アウトサイダー』になるでしょう」と手紙に書いているのは、(後年は低評価になったみたいですけど)自分の代表作だと思っていたからで、ダーレスも同意見だったからタイトルに採用したのだと私は考えました。
 奇しき偶然と断言する根拠を明示してもらいたいです。
 証拠も無しに決め付けるのならば、それは言いがかりだと思います。

 他にも訳者は『不肖の弟子もたまにはいいことをいうのである』(328ページ)と書いています。
 ダーレスは『ラヴクラフトの全作品を貫く根本土台になっている』(338ページ)、『幼い頃から天文学に興味を寄せ、広大無辺な宇宙に目をむけることによって培(つちか)われた、一種諦観にも近しいラヴクラフトの宇宙観』(同ページ)を故意に無視して自分勝手な神話体系を作った盗人野郎だ……と考える人たちがいるようで、どうも訳者はその一人みたいな気がします。
 クトゥルー神話が小説家ならぬ剽窃家ダーレスの産物なのかどうか、私にはよく分からないのですが、それはそれとして、不肖の弟子がアーカム・ハウスを興して師匠の本を出版しなかったらラヴクラフトの諸作品は果たして今日まで読まれ続けていただろうか、という疑問は感じます。
 読み捨てられるパルプ雑誌に掲載された小説をゴミ箱から拾い上げて出版し、後世に読まれるような形で残した功績は、否定できないと私は考えました。
 ラヴクラフトの著作が『コンゴ王国』や『ネクロノミコン』のような稀覯書(きこうしょ)にならずに済んだのは、夢見がちで生活力に乏しかった師匠とは比べ物にならないくらい実務能力があった弟子のおかげだと思います。
 作品が残らなかったら宇宙観も何もあったものではないです。

 良かったなあ、と思ったところ。
 ↓
 ラヴクラフトが入学を断念したブラウン大学のジョン・ヘイ図書館には、ラヴクラフトの資料をそろえるラヴクラフト記念文庫がある。(334ページ)
 ↑
 ラヴクラフトよ、もって瞑すべし。

 驚いたところ。
 ↓
 母親が亡くなったときには、神経衰弱におちいり、自殺しかねないほどだった。(331ページ)
 ↑
 もう少しで『英雄コナン』シリーズの作者ロバート・E・ハワードと同じ状況になるところだったのですね!

 337ページにある<アスタウンディング・ストーリイズ>の表紙写真は楽しいですね。
 これで<大いなる種族>が半裸の美女を抱きかかえていたら、もっとパルプっぽくなって超最高なんですけど、多分ラヴクラフトはダメ出ししますね(笑い)。

△ 感想を終えての感想

 実を申しますと私はラヴクラフトの長ったらしい文章が苦手で、話そのものも怖くなるより眠くなる場合が多く、要するに好きではないっつーか嫌いな作家だったのですが、よく読んでみると意外に面白くて驚きました。
 意味不明だった文章も、慣れてくると読めるようになるものですね。
 突っ込みどころが満載だろw とは思いますけれども、怪談話とはそういうものですし、恐怖に魅入られ引き寄せられていく登場人物の気持ちが本書を読んだら私なりに理解できるようになったのが幸いしました。
 彼らの心理が本当に分かったのかどうか、それは正直、分かりませんけれども、それでも何となく、自分なりに納得できる理屈を見つけられたってことでしょうか。
 意味不明な文章ですね(汗)。ラヴクラフトが添削したら原形を留めないほど書き換えられそうです。
 つまり、危険に気づきながらも怪奇に近づいていきたがる本能みたいなものを、私自身の中にも見出したって感じですかね。
 とにかく臆病者、異常なまでに小心者の私ですけど、それでも怖いものに吸い寄せられていく引力の心地好さは、心身の深いところで感じ取れる……ような気がするのです。
 何かに呼ばれているような感覚。
 気のせいでしょうか(笑い)。

 ラヴクラフト本人も好きじゃなかったですね。
 人種差別を公言する人間は、時代背景を考慮しても、私には許せません。
 でもラヴクラフトの生涯を考えると、人種差別主義者となった心の有り様が、私なりに分かるような気がするのです。
 繰り返しになりますけど、当時の保守派は人種差別を当然のことと思っていましたから、ラヴクラフトだけを責めることは出来ません。
 そして『ゆっくりと何もかもが失われていく』(306ページ、『資料:履歴書』より抜粋)と自ら述べた彼の貧しくて物悲しい人生を眺めていると、何かに憎しみをぶつけていないとやってられないと申しますか、誰かを蔑み優越感を抱いていないと死にたくなるよな……と慰めたくなると申しましょうか――まあ、つまり、ラヴクラフトを見ていると、今日のネトウヨを連想してしまいまして、ネトウヨを弁護する気はさらさらないんですけど、でも外国人を排斥して喜んでいる心理の裏側を考えますと、哀れさが先に立ってどうしようもなくなり……難しいですね。この気持ちは、上手く説明が出来ません。そう、まさに名状しがたいです(藁)。

 今は、ラヴクラフトが好きです。
 彼の書簡(『資料:履歴書』)を読んでいるうちに、自分宛の手紙である気がしてきたからかもしれません。
 彼と文通しているような錯覚を覚えたのです。ロバート・ブロックやロバート・E・ハワードのように、彼の仲間になった気がしてきたのです。
 彼は面倒見の良い人物だったと思います。仲間を大切にしたことでしょう。
 唐突ですけど、ハワードを死を悼んで書いた文章があるようで、それを読んでみたくなりました。
 根拠は無いですけど、泣ける予感がします。

 ラヴクラフトにラヴになったのは(おい)、その生い立ちを詳しく知ったから、ということでもあるでしょう。
 それに、家族写真が効きました。
 幸せそうな家族三人の写真を見ると、もう何も言えません。
 本書の中から最優秀作品を選ぶならば、一つは『アウトサイダー』で、もう一つは家族写真込みで『資料:履歴書』に決定ですね。

▼ 物凄くどうでもいいこと

 ラヴクラフトが短い結婚生活を送ったソニア・ハフト・グリーンとは、一体どんな女性だったのでしょう?
 二人のロマンスが気になります。
 もしも彼らの結婚が破綻しなかったら、どうなっていたのでしょう。
 ラヴクラフトが宗旨替えして恋愛小説を書く! なんて事態が起きていたのでしょうか?
 悍ましく名状しがたい宇宙的恐怖ではなく無限の愛のつまった美しい作品を書き上げるラヴクラフト。
 読み終えた人々の心を、ほんわかと暖かくしてくれる小説が、彼の手で生み出されるのです。
 想像すら出来ませんけれども、もしもそうなっていたら、その作品はこう呼ばれていたに違いありません。
 Lovecraft. (←おい、つまんないぞ)
 

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  1. 2012/10/27(土) 21:34:21|
  2. 国外作品
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