正岡子規は、「写生」の重要性を終始、一貫強調した。
月並俳句の知識や教養にもたれた「ひねり」「くすぐり」を、子 規は嫌った。ひねり、くすぐりは一種の暗喩や隠喩のはたらきによりかかり、頭の体操のような「お遊び」となる。知識をベースにした句は「分かる」レベルを特定し、レベルに達しない人々を拒否する傾きが生じる。
子規は、誰でもが作れる句をめざした。知識や教養によりかかった嫌味な月並俳句ではなく、身近な花や木や生物、自然のうつろいに視線をそそぎ、「写生」をする。
この写生を、今日の俳人の多くは「デッサン」に過ぎず、「ただ事俳句」と批判するが、子規の言う「写生」の本質に無知なるがゆえの寝言に過ぎない。
写生は、対象を自分の感覚で捉え、感性に触れたものを掬いあげる営みに他ならない。対象との触れあい語り合いのなかから生まれる表現行為である。
シャッターを押せば瞬時に撮れる「写真」においてもアングル・構図によって芸術性が生じる。自然の営みを言葉によって掬いあげる、あるいは線により色によって掬いあげる表現が、単なる「デッサン」だと貶められるところに、今日の俳句界の退廃・堕落がある。
「写生」デッサン論の意図
写生の何たるかを知らず、たとえ知っていてもそのことに頬かむりし、「写生」を貶める。その行為の意味するところは、写生と言う客観的な評価になじむ表現行為では、自分たちの寝言たわ言俳句の底が割れてしまう、門弟等に対しての優越的な立場が維持できなくなるといった事情があるのではないか。
写生句は、一句の善し悪しが客観的に判断しやすい。ところが頭で作った観念句は、客観的判断になじまず、ほめようと思えばどうとでも言え、また貶そうとすればどうにでもなる。
力量のない主宰や俳人にとってこれほど有り難いことはない。主宰、選者の腹ひとつで句の優劣がつけられるということは、俳壇の力関係によって仕事・作品の善し悪しか決まり、またそれによって評価が定まるといった問題が生じる。作者の「格」や俳壇での序列、人間関係で作品の評価が決まれば、お稽古事の「お俳句」の世界となり、俳壇の遊泳術に秀でた人間が重きを成すことになる。
退廃・堕落はそうした腹一つのお手盛り評価の跋扈によって、坂道を転げるように落ちてゆく。俳句界はすでに落ちるところまで落ちて久しい。
老人崇拝の弊に対する子規の言
高浜虚子という文学的才能に乏しい凡庸な人物によって、俳句界は月並俳句顔負けの堕落へ突きすすんだ。虚子はただ結社運営に長けただけの人物ではなかったか。
子規は「歌よみに与へる書」のなかで、「歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賎もこれなく候。歌を詠まんとする少年あらば老人などにかまわず勝手に歌を詠むか善かるべくとご伝言くださるべく候」「歌社会に老人崇拝の田舎者多きも怪しむに足らねどもこの老人崇拝の弊を改めねば歌は進歩致すまじ候」と明瞭に断定している。今日の俳人で、子規のこの言が耳に痛くない人物が何人いるであろうか。
師匠ぼめ、先輩ぼめ、仲間ぼめと、ただただ甘ったるい批評、感想ばかりがあふれ、ほめ上手が俳句界でのしあがってゆく今日のありさまは、子規の成した「俳句」を土足で踏みにじっているだけである。
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