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最後のステージを終え、花束を贈られるWDR交響楽団のヴァイオリン奏者、高田稔子さん=H. R. Biereさん写す |
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WDR会長夫妻と一緒の高田さん=以下の写真はいずれも岸写す |
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主席指揮者のビシュコフ氏と高田さん |
日本人の音楽家がドイツのオーケストラやオペラのメンバーに採用され始めて、まだ半世紀もたっていません。器楽奏者では、59年にヴィオラ奏者の土屋邦雄さんがベルリン・フィルに入団したのがひとつの重要な、きっかけとなる出来事でした。また豊田耕児さんが62年に現在のベルリン・ドイツ交響楽団第1コンサートマスターに就任したのも大きなニュースでした。二人はその後、日本人音楽家の評価を高めるうえで牽引車的な働きをしました。
ドイツのオーケストラで活躍する日本人の数は、70年代後半から80年代半ばをピークに、このところどんどん減っています。ピーク時にはドイツ全体で日本人団員は120人以上いて、日本の大オーケストラがドイツにも一つあるとさえ言われました。 83年には、77年にベルリン・フィルに入団した安永徹さんが、第1コンサートマスターに選ばれるという大きな出来事もありました。そのころドイツの名門オーケストラ、WDR交響楽団(旧ケルン放送交響楽団)には日本人が6人いました。それがいまでは3人に減っています。同じケルンのギュルツェニヒ管弦楽団もピーク時の6人が4人になりました。
ほかのオーケストラでもほぼ同様で、80年代からは、新たに入団する人も少なくなっています。これはヨーロッパの東西の壁が消滅したことにも大いに関係しています。旧東側の優秀な音楽家が大挙してドイツを目指し、そのために、オーケストラの入団試験はさらに狭き門になりました。日本人音楽家がオーディションへの招待さえ受け取れないケースも増えています。
旧ソ連やポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーなど旧東側の国々、アジアでは韓国、それまでのオーディションの外国人常連ともいえるスイス、フランス、スペインなどのヨーロッパ諸国やアメリカ、それに地元ドイツの音楽家たちと、日本人の音楽家は、厳しいポスト争いを演じなければならなくなったのです。
日本人音楽家といっても、日本での教育を終えただけでは、ベルリン・フィルや主要放送交響楽団などトップクラスのオーケストラにはまず入団できません。いま活躍中の音楽家のほとんどは、ドイツで音楽教育を受け、オーディションをくぐり抜けた人たちです。入団後1年の試験期間を無事に過ごせば、定年までの終身雇用となり、音楽活動はオーケストラをベースに続けることができます。
さて、減ってしまったオーケストラの日本人団員はどこへ行ったのでしょう?
前述の土屋さんは01年の定年までオーケストラで活躍し、豊田さんは途中でベルリン芸大教授になり、定年を迎え、現在は日本で才能教育研究会会長をしていらっしゃいます。しかし定年を待たず、途中で日本に帰る音楽家もたくさんいます。日本で後進の指導にあたったり、オーケストラに入るなどのケースです。
先日、ヨーロッパ最大の放送協会WDR専属、WDR交響楽団のヴァイオリン奏者、高田稔子さんが定年を迎え退団しました。彼女は東京芸大を66年に卒業、同年ドイツの地方オーケストラに入団。ここを2年で中途退団してケルン音大で1年研鑽を重ね、69年に同オーケストラ最初の女性団員、最初の日本人団員として入団し35年を過ごしました。
彼女の団員として最後のコンサートが終わったあと、ケルン・フィルハルモニーのステージ上で主席指揮者のビシュコフや団員代表から花束が贈られました。
高田さんの送別は、このあとステージ裏でも続けられました。パーティーでは団員等が次々とねぎらいの言葉をかけ、WDR会長夫妻もお祝いに加わりました。
ドイツでは祝われる人が、皆を招くのが普通です。彼女はステージ裏のビュッフェでビールなどの飲み物を用意し、手づくりの海苔巻きなど和風軽食を作って出席者をもてなしました。パーティーはコンサート後の10時過ぎに始まり、日付が変っても賑やかに続きました。
こうして、ドイツのオーケストラから、また日本人団員が1人去っていきました。