天狗党の足跡(越前編8)



10 天狗党に平穏なひと時と待受ける過酷な処刑

 元治2年
(1865)元旦、天狗党の浪士達は、ほんのひと時、平穏な正月を迎えることができました。

 加賀藩から飛脚で運ばれてきた鏡餅と酒樽7荷が一同に配られ、子供には腰高饅頭が与えられました。隊の中に子供は15歳以下10人、20歳以下24人がおりました。



水戸浪士収容の鰊倉図 敦賀市 山本勝久氏蔵


(1) 天狗党の身柄、加賀藩から幕府へ 

 年が明けて間もなく、浪士達の身柄は幕命により、幕府引渡しと決まりました。敦賀町内の警戒がいっそう厳重になりました。

 浪士達が収容されていた本勝寺、本妙寺、長遠寺の前通りや往来の入口には竹矢来が結ばれ、

 通行が止められ、その外回りを彦根、福井、小浜3藩の兵により二重三重に固められました。

 1月27日の夕方、加賀藩永原甚七郎は、本勝寺の武田耕雲斎のもとに行き、幕吏への引渡しを告げ、別れを惜しみました。

 永原甚七郎は寺内の浪士達を訪ね、次いで本妙寺、長遠寺の浪士達を見舞い、別れを告げました。

 1月29日朝、加賀藩より永原甚七郎らが本勝寺に出頭し、幕府側から吟味役などが出張して、武田耕雲斎はじめ10人ずつを一組として呼び出し、一人毎に姓名札を持たせました。

 兵士付添いで同寺門前で姓名札を引き合わせ、幕府役人に身柄を渡し、籠または歩いて3藩の兵が抜身槍で警固するなかを舟町
(敦賀市)の鰊倉へと送りました。

 本勝寺380余人の引渡しは、夕方七つ半
(午後5時頃)過ぎに終り、長遠寺の90余人は夜四つ時(午後10時頃)まで、本妙寺340余人は翌日の明け方までかかりました。

 このように病死者5人を除き、合計818人の引渡しが終わりました。

 これまでの加賀藩の待遇に比べて、にわか造りの舟町の鰊倉獄舎での待遇は残虐そのもでした。

 鰊倉はその名の通り、にしん肥料を入れて置くところで、その16棟が、にわかに借り上げられ、

 倉の窓は全部釘付けにされて、室内は暗く、敷物は莚、両便所は倉の中央に桶が置かれてあるだけでした。

 武田耕雲斎など30人ばかりを除いて、その他の者は左足に足枷を掛けられました。 出入口の戸には、手を入れるだけの穴を開け、食事を渡すだけになっていました。

 三度の食事もむすび1つにぬるま湯ばかりでした。 倉は5間に7~8間の大きさで、一棟に50人ずつを収容し、

 西より1番倉から4番倉までは小浜藩、5番倉から10番倉まで福井藩、11番倉から16番倉まで彦根藩が警備に当たりました。

 この鰊倉は、今も敦賀市の松原神社と茨城市の常盤神社の境内に各一棟ずつ移築され現存します。


敦賀港を見渡す
松原神社境内に移築された鰊倉


(2) 幕府若年寄 田沼意尊、天狗党処刑に敦賀へ

 幕命を受けた若年寄 田沼意尊は、天狗党が降伏すると武田耕雲斎など処分のため西上しました。

 1月18日京都において禁裏守護職の一橋慶喜に会い、水戸浪士の引渡しと、その処分の一任を取り付けました。

 幕府にとって天狗党の浪士達は、「浮浪の徒」であり、幕命に背き、幕府軍に歯向かった罪人でありました。

 2月1日 田沼意尊は200余人を引き連れて敦賀に入り、永建寺を本陣とするや即日、永覚寺に仮白州を設けて吟味を始めました。

 最初に武田耕雲斎ら25人を呼び出し、朝四つ時
(午前10時頃)から取調べを始めました。

   2月2日は、横田弥四郎など18名
   2月3日は、武田金次郎など62名

   2月6日からは、舟町の丸尾半助方に仮白州を設けて、2月6日から
   2月20日までに全部調べ終え、順次刑を決定していきました。

 浪士の総人数は、当初828人でしたが、うち24人が病死しました。このため死刑353人、遠島136人、

 追放180人、水戸藩渡し125人、永厳寺預け少年9人、江戸送り1人と刑が決定されました。

 処刑は、2月4日から始められました。うち24名は、取調べから、わずか3日後、ただ1回の申し訳程度の調べで処刑されました。

 これは若年寄 田沼意尊が京都にいる一橋慶喜の周囲に、浪士達の行動に同情を寄せる本国寺組がおり、

 日時を延ばせば慶喜を動かすのはもとより、朝廷にまで助命の沙汰が及ぶのを恐れ、急いでことを運んだものといわれます。


敦賀市内の来迎寺
敦賀市内の松原神社


(3) 前代未聞の大量処刑

 刑場は、敦賀の町外れにあった来迎寺境内に3間四方の穴を5か所掘り、徒目付 斉藤大之進、

 関東取締 渋谷鷲郎が出張して、斬罪の申し渡しをなし、首切りの太刀役に福井、小浜、彦根の各藩が申し付けられました。

 この時、彦根、小浜は早速命を受けましたが、福井は松平春嶽の配慮があり、浪士の賊徒扱いを好まずと言って太刀役を断り、大半が帰国してしまいました。

 元治2年
(1865)2月4日辰の刻(午前8時頃)首領 武田耕雲斎がまず処刑されました。享年62歳でした

「咲く梅の花は、はかなく散るとても、香りは君が袖に、移らん」 
一説に
「討つもはた討たるるもはたあはれなり同じ日本のみだれと思へば」

との辞世の句を残しています。この日、24名が斬首されました。

 この後、処刑は4回に分けて行われ、
           2月15日  134名
           2月16日  103名
           2月19日   76名
           2月23日   16名
が処刑されました。


水戸浪士処刑の図 敦賀市 山本勝久氏蔵


(4) 天狗党浪士助命の動き

 若年寄 田沼意尊ら幕吏の手により、浪士が処刑されることを聞いた、加賀藩はじめ会津、桑名、一橋などの各藩や

 朝廷及びその周辺において、水戸浪士へ同情する動きが見られ、助命嘆願、処罰見合せの申し出などの動きが、様々なところで見られました。

 こうした動きにもかかわらず、2月4日以降、相次いで処刑が執行されました。

 この過酷な浪士達への幕府の処分に対し、世間の非難が高まったのか、長州攻めと関係したのか、

 慶応2年
(1866)5月15日、幕府は大阪において遠島に処せられた浪士を許し、小浜藩預けとしました。それ以後、浪士達の扱いは、わずかの間に大きく変化していきました。



11 明治維新と天狗党追悼、神社創

 明治元年
(1868)2月、北陸道鎮撫使 高倉永祐、四条隆歌が下向したとき、香華料2千匹を供するとともに、

 墓所所有寺の西本願寺に墳墓を改修させ、加賀藩主前田慶寧から500両の寄付がありました。

 同年5月北越総督仁和寺宮が下向の際、香料3千匹が拠出され、翌年墓所の改築ができると西本願寺から役僧がきて、来迎寺で法要が行われました。

 明治7年
(1875)11月、水戸の根本弥七郎の発起で神社創設の儀が起こり、翌8年(1876)1月23日許可され、松原神社が創建されました。

 祭神は刑死者352人のほか、戦死、戦病死者合わせて411人です。

 明治11年
(1879)10月10日、明治天皇北陸巡幸に際し、墳墓祭典費として金500円が下賜されました。

 明治22年
(1890)5月、武田耕雲斎以下411人は、東京九段の靖国神社に合祀されました。


武田耕雲斎陣中図 敦賀市 松原神社
武田耕雲斎所用の陣羽織


あとがき


 嘉永6年(1853)ペリーの浦賀来航は、太平の世を続けてきた徳川幕府を覚醒させる出来事でした。この頃から日本は、鎖国から開国へと大きく変化していきます。

 その間、外国人を夷として排斥しようとする攘夷論、天皇を奉じる尊王論、幕府と朝廷が一体となって政治を行おうとする公武合体論などが起こりました。

 それに将軍継嗣問題が加わり、これらが相互に絡み合いながら幕府、諸大名、公家などのさまざまな勢力が激しくぶつかり、政治の主導権を争って、幕府倒壊、明治維新へと突き進んでいきました。

 大きく転換していく政治情勢の中で、ひとすじに尊王攘夷の信奉姿勢を固守した天狗党の行動は、めまぐるしく変化していく時代の流れに順応できませんでした。

 古き時代から新しき時代への力がぶつかり合う大きな渦に巻き込まれ、権力を維持し、誇示しようとした古き時代の力に天狗党は散っていきました。

 新しい時代を待つことなく、散っていった天狗党は、明治維新の幕開けとともに顕彰され、祭神となって復活することになりました。

 今、歴史を振り返ってみますと、人間社会には、その時々に如何ともし難い、目に見えぬ時代の力が動いていることを感じざるを得ませんでした。




主 な 参 考 文 献
敦賀市史 通史編上巻     敦賀市役所
天狗争乱 吉村 昭著      新潮文庫
天狗党が往く 光武 敏郎著   秋田書店
図録 敦賀の文化財   敦賀市教育委員会
敦賀の歴史       敦賀市編纂委員会
松原神社祭神事歴      藤井 貞文著
日本歴史シリーズ17開国と攘夷世界文化社
福井県史 通史編4 近世二    福井県
図説 福井県史          福井県
越前若狭峠のルーツ     上杉 喜寿著
奥越資料第19号第24号 大野市教育委員会



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