メモ書き程度だったけど、読めはするのでパブリッシュ。ちょっと後輩を見ていて、思うところがあったので、教育を受ける側の視点で自分が思っていることを書き出してみました。
教育はただ説明してもらうことではない。
間違えたときに正してもらうことが教育の本質。
間違えても正しい解法を教えられなかったら、いつまで経ってもその人は成長しない。
相手に言われたことを100%飲み込める人間はまずいない。
一方的に、相手の思う最低限の内容を伝えたからと言って、正しく伝わっているとは限らない。
正しいときに、正しいと言ってくれて、間違っているときに正してくれるのが教育者。
もし、最終的な答えだけ言って、どうしてそうなるのか教えてくれなかったら、そんなの自分の力量自慢にしかならない。そんなものは教育ではない。
講義でただ解説を聞くだけで単位が貰えれば楽だが、自分が本当に受けた内容を理解しているのか確かめられず、掛けた時間の見返りも100%は得られない。
問題を解かせるのが大事なのではなくて、解説もセット。むしろ解説しているときのほうが大事。例えば、数学であれば、答え合わせをするときに問題を先生直々に解くほうが、教科書の内容を解説しているときより大変だし、時間も掛かると思うが、これを省いてしまうのは単なる教育としては最悪。
実験でもそう。
実験を肩代わりして、やってくれたら楽ができて嬉しい。一部分でも嬉しい。でも、やるだけやって説明はせずに立ち去るのは仕事泥棒でしかない。どうしてそうなるのか解説してくれたならまだマシではあるが、これを論文にするなら筆頭著者にはもうなれない。なったら不正だ。
本当に必要なのは、どうしてそういった現象が起こるのか、どうしたらそうなるのかというプロセスで、それが伝授されなければ、一人でやること、つまり学習して成長し、自分の力にすることは出来ない。だから、予行実験をやってみせるとか、横で見てて解説するとかならまだしも、実験の主要な部分を本人にやらせないで肩代わりするのはやってはいけないこと。
何一つ必要なことは得られない。
私は、ただやってくれるだけで、解説を求めても教えてくれない人にはすごく腹が立つ。自分でも同じことができようになりたいのに、それを阻害してくるから。ただ教え方が下手で、それでも教えようとしてはくれるならともかく、全く解説はしないという人も、いままで同級生にはいた(幸い先輩にはいなかったが)。それはただの意地悪だろうと毎回思うし、そういう人とは反りが合わない。
でも、そういう人に感謝する人もいて、楽ができて嬉しいと一喜一憂して舞い上がってるところを見たりもするが、私はそうは思わないし、それを押し付けられまでされたら流石に嫌気がさす。でもそういう人も実際にいた。
でも、それでは成長できない。
だから、そういう人や楽をしたいという気持ちに惑わされず、本質的に自分のしたいことは何で、そのためにどういう教育を受けなければいけないか、間違えがあったら正してもらえるように、常に考える必要があると思う。
また、これは別の話になると思うが、間違えたときにキツイ言い方をされて教育に嫌気が指している人もいるのかもしれない。
そういう言い方を考えない人間は多いけど、そういう人は教育以前に人としてどうかと思う。
これは教育の本質ではなく、具体的な教育方法の話になるが、教える気があるなら、必要なことだけをちゃんと説明して、時に褒めるべきでしょう。教える時に感情を激昂させて声を荒げる必要は一切無いし、そんなことをする人は教育以前に人として問題があるので、感謝もクソもない。そういう人間がいる以上、間違った教育の解釈をする人は根本的には減らないと思うので、そういう人間を撲滅して、どうしたら人が成長するのか、何をしたらいけないのかを考えさせることも必要なんだろうなと思う。
とまあ、アカデミックに残る気はさらさら無いんですが、ちょっと説明も無しにやってもらっただけで感謝するってどうなの?と思ったので、教育について書き出してみました。これは教育をする側だけでなく、受ける側も常にそういう姿勢であることが、自身の成長のためには必要なんじゃないかなと思います。こういうの、noteに書いたら伸びそうですけど、整形して投稿してみようかな?