関西と笑い

特徴とルーツ・歴史
土面(大阪府和泉市、仏並遺跡出土)
「笑いといえば関西」といわれるように、関西と「笑い」は切っても切り離せません。
それには関西の歩んできた歴史、ひとびとの気質、ことば、生活スタイルなどと多くの関係があります。
まず、関西の笑いはどういうものか、そこから入ることにしましょう。
関西の笑い
2人寄れば漫才
大阪人が2人寄って話し合っていると、すぐに漫才っぽくなる。まさに大阪人の「笑い」は、話相手との間でちょっとひねった言葉のキャッチボールを楽しむところに湧き出すようだ。(宇田 正:追手門学院大学教授)
「笑う人」がいれば「笑わせる人」がいる。「笑わせる人」のドットマップを作れば、おそらく西日本、とりわけ関西、なかんずく大阪周辺に大きな集積が見られることは確実だろう。芸能人名鑑でお笑いタレントの出身地、そして修行地(これが大事)を地図の上にピンで落としていけば、この予想を裏づける結果が出ると思う。職業として「笑わせる人」は、何らかの意味で関西の水をくぐっていると見ていい。というのは、すでに日常生活の中でも「笑わせる」市民はどこにでもいるからである。(森 三紀:地図制作者、大学講師)
ラテン系で陽気、一方でコテコテ
イタリアやスペインからドイツに行くと笑いの違いに驚く。グローバルに見て、ラテン系は陽気な笑いで、ゲルマン系は控えた笑いだ。南の国では陽気、北の国では控えめ、商業の都市では陽気、武の都市では控えめだ。日本の中では、関西は陽気な笑い、関東は控えた笑いである。関西、とくに大阪は陽気なラテンの笑いがある。(古館 晋:社会福祉法人ちいろば会理事長)
その笑いも関西の人以外には時に。
関東出身の私の眼面には、関西の笑いは下品に映る。思わず、「くすっ」という笑いでなく、ストレートでどぎつい。また、テンポが全般的に早すぎる。間のとり方が、聞き手が考える時間を与えない。したがって、私にはどうも馴染まないし、率直に笑えないところがある。(福島 秀行:武庫川女子大学教授)
京都に笑いはない?
「笑い」は京都にはないように思います。「微笑み」・「笑顔」はあっても、感情をもろに表に出す「笑い」は京都には似合いません。ですから関西と吉本・松竹が結び付けられることには、京都ナショナリストとしてはずっと強い違和感を感じてきました。考えてみれば京都はそういう風に感情を可能な限り表に出さないで、歴史と文化を築いてきたのではないでしょうか。平安時代以来多くの人が出入りする都市京都が、出会った人たちすべてに感情を出して接触すれば、そこに残るのは文明の衝突だけです。それを「微笑み」と「笑顔」で緩和し、吸収すべきは吸収し、排除すべきは排除して京都は歴史と文化の道を歩んできたのです。そういう京都の知恵が、これからの国際社会での関西に生かされるべきではないかと考えています。(井上 満郎:京都産業大学教授)
「笑い」といっても多種多様。「大笑い」「腹をかかえて笑う」と言ったような「笑い」ではなく、「微笑み」「笑顔」こそが、京都の特質であるということでしょう。
これについては、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『日本人の微笑』を思い起こされる方も多いのではないでしょうか。
関西、笑いのルーツ
商人の町、大阪
商人の町大阪においては、武士や公家に比べて身分の低かった商人は、自ら人格を高め徳を積むことを心がけ、ひと様から笑われることを恥としたという。それがかえって「笑い」というものに対する風土を育てたともいえる。笑いは、お互いの話の間合いを育み、相手の思いやりであり、自由で前向きな姿勢であり、ゆとりでもあった筈。ドタバタやゲラゲラの笑いでなく、人生であり生活であり、深くて趣きのあるものだと思う。(徳光 正子:花外楼)
笑いは人間が生きていくうえで必要不可欠なもの。関西でその笑いが長けているとすれば、商人の町であることに起因しているように思う。つまり、商売は押したり引いたりの駆け引き。脅したり泣き落としたり…。まるでケンカ。しかし、ここに笑いが介在すると、シャンシャンと売った方も買った方も納得の取引になる。漫才でいうボケとツッコミは、こういう商いの取引の中から生まれてきたんやないかと、何の学問的検証もなく勝手に思い込んでいる。そんなDNAが、大阪人が寄ると漫才になるって言わせてると思うし、現に、生粋の浪速っ子である私自身、普段の会話でも「ここでツッコミ入れてくれー」と、心の中で叫んでしまうし、ボケる気もないのに、口が勝手にボケ喋ってしまうんねんもん。(帝塚 せんこ:イラストレーター&ライター)
関西人気質・人間関係
関西で「笑いの文化」が発達をみたのは、日常生活のなかで「笑い」を必要とする必然があったからと考えるべき。身分・家柄・資産などを背景に持たずに、個人の力量・才覚によって生きる生活を基本にした社会を作ってきたから。そうしたフラットな構造の社会では、信頼・信用・親和の人間関係、円滑・安心・安全の交流関係を築くことが基本となる。それには笑顔や笑い、ユーモアを欠かすことができない。自由な交流、関係の在り方は一方では競争・緊張の関係を生み出し、その緩和のためにも笑いを必要とする。(井上 宏:関西大学名誉教授)
関西弁・大阪弁
関西弁は全国区へ
関西弁、とりわけ大阪弁は笑いには欠かせないと思います。大阪を拠点にするお笑い芸人のなかにも、大阪弁を話さない人たちがいますが、大半の上方芸人は大阪弁を武器にして笑いを振りまいています。大阪弁には、笑いを増幅させる不思議なパワーがあるようです。はんなりとした柔らかさとでもいいましょうか、野球で言えば、直球ストレートではなく、変化球です。キャッチャー・ミットで捕球されるボールがしなやかなのです。おなじ漫才のネタであっても、標準語でやるよりも大阪弁でやるほうが、聞き手にはまったりと感じられ、演者との心理的な距離感が縮まります。言うなれば、演者とおなじ目線になり、その笑いを自分のモノとしてとらえることができます。ゆめゆめ上から見下ろすような笑いではありません。そこに関西のお笑い文化の本髄があるように思います。(武部 好伸:エッセイスト)
関西人の喋り方の特徴のひとつに曖昧な表現、含みの多い表現があります。また、言葉と心の底が乖離しているようなこともあります。よく言われるのが京都の「ぶぶ漬けでも…」がその典型例です。それにくらべて例えば東京人のものの言い方はもっと直截です。こうした関西人の喋り方は、おそらく相手への気遣いから生まれたものでしょう。断るときにも大阪人は「いりません」とは言わずに、「考えときまっさ」となります。その方が、相手に与えるショックが和らぐし、人間関係も損なわないですむということでしょう。この気遣いは長い歴史のなかから生まれた関西人の文化です。ただ今日のようにせっかちな風潮のなかでは、東京風の喋り方がビジネスライクでいいこともあるかもしれません。しかし、そうであっても、人間関係を大事にしてゆっくり生活を楽しむためにも、関西風喋り方の奥深さを大事にしてほしいものだと思います。(辻 一郎:大手前大学シニア・アカデミック・アドバイザー)
そして、その言葉は、粘着性、浸透性にも富んでいます。言葉はまさしくひととひととの接着剤。
粘着性、浸透性という意味で大阪弁は人と人をくっつける接着剤みたいなところがある。教育評論家の阿部進さんに聞いた話だが、全国から子どもを集めて合宿みたいなものをやったとき、大阪弁を喋る子は、最初は、なんだそれ、と思われるが、最終日には、皆、ほなさいなら、と言ってそれぞれ帰っていく。(紅 萬子:俳優)