補足 地域別総人口データ

 本補足は、‎第II章1節で述べた地域別総人口に関するデータについての詳細である。主論文では都市人口データの解説に重点をおき、推計理論を単純明快に説明した結果、総人口に関するデータの解説を除外した。ここにその部分を補足して示した。

1. 東アジア
1.1 中国

 中国の人口統計は、戸籍制度により得られている。戸籍制度は、「登人」もしくは「登众」として甲骨文字に記載がある通り殷代にはすでに始まり、秦朝の中国統一により全土に広がったとされている。戸籍は、統治、行政の基本的な要素であったが、特に漢代からは戸籍により居住地管理を通じて農民の移動を禁じ、また唐代からは戸籍を基礎資料に租庸調制度、科挙制度の実施を行うなど、重要な役割を果たしている。
 この戸籍登録の集計値が人口値として最初に歴史書に現れたのは、紀元2年(元始2年)であり、こうした人口数をまとめ、古代から現代にいたるまでの数値を網羅した著作として、梁方沖による「中国歴代戸口、田地、田賦統計」(1980年出版*)、趙文林・謝淑君による「中国人口史」(1988)、楊子慧らによる「中国歴代人口統計資料研究」(1996)、葛剑雄らによる「中国人口史」(2002)など多くの研究をあげることができる。ただしこれらに出ている数字は、補足-図1に示されるように、必ずしもその時点や数値が一致しているわけではない。


補足-図 1 何、梁、趙・謝、葛らによる中国人口データ

 この違いは、各推計が典拠とする歴史書が異なっていること、時代によって歴史書の値を修正する必要があり、ことなった修正方法が用いられていることが要因である。さらに時代を通じて中国の領域は変化しており、中国の範囲の定義の違いにより数値が異なっていることもある。
 これらの推計の中で、趙文林・謝淑君のものは現代の省別にデータを補正しており、通年で比較するのに一番妥当な中国人口値と考えられ、本論文における分析にはこの値を採用した。
 中国人口データの信頼性については、様々な点が指摘されている。
 ‎第I章で示したこれまでの世界人口推計者はいずれも中国人口について指摘しているが、そのうちWillcox、Durandは世界人口推計に先立って中国の歴史人口についての詳細な研究を行い、BirabenはCartierの中国人口研究を参照している。さらにローマ帝国の人口値を推計したBelochも漢代の中国人口値を引用している。
 Beloch(1886)は紀元前2275年から606年までの中国人口値を挙げており、それはSacharoff(1858)の引用であるが、その値は、梁(1980)の史料集計値と一致している。史料値の解釈は中国学研究者に委ねるとしているが、彼の紀元14年のローマ帝国の人口5400万人が、引用している紀元2年の中国人口値5700万人と近似しているのは興味深い。
 Willcox(1930)は、中国の史料にある人口データそのものについて深く言及しているわけではない。ただしSacharoffの「1775年の人口記録値は皇帝の命令により水増しされた可能性があると」いう分析を引用している。また彼の推計結果では1651年から1851年に大きな人口増加が起きたとしており、それは非常に高い率であるが不可能ではないとし、間接的に中国の人口記録値はある程度確からしいと判断していることがわかる。
 Durand(1960)は、紀元2年からの人口登録データのうち、確からしいとされる期間を、紀元2~156年、606~755年、1014~1195年、1381~1393年、1751~1851年、1953年以降としている。紀元2年、88~156年、606年、1014~1103年のデータは、戸口数を採用し、一戸あたりの人口を6人に割り増して総人口を推計している。これは清代以前の人口データは、登録逃れや漏れにより過小評価であるとみなしていることによる。
 Cartier(1970)は、データとしてはDurand, 何炳棣を引用しているが、Durandの割り増した人口数ではなく、史料に元々あった人口数を採用している。それらデータの信頼性については、地域別に細かく述べているが、その結果としての彼自身の推計値は特に示していない。
 以上のように、欧米の歴史人口学者は、時代により取捨選択しながら、基本的には史料に記録された人口登録データを用いて中国人口の推計値を算定しており、史料の人口値に一定の信頼性があると見なしていると解釈できる。また、明示的に書かれているわけではないが、古代・中世といったほかにデータのない時代の世界人口推計を行うにあたって、この記録の残る中国人口を念頭に、大体の規模を設定したという可能性も考えられる。
 近年、中国人研究者による中国歴史人口の研究の進展が著しい。欧米の中国人口に関する研究は、原典にあたらないことによるデータ不足の面があることは否定できない。今後中国におけるデータ整理、整合化により、史料データの信頼性に関する研究が進み、より妥当な中国歴史人口値が提示されることが期待されよう。

1.2 日本
 日本の総人口は、縄文・弥生時代の集落分布情報、奈良・平安時代の律令制導入により作成されるようになった戸籍や田地・税に関する記録、戦国時代の豊臣秀吉による太閤検地、江戸時代後期の人口調査及び各種ミクロデータ(切支丹狩りに端を発する宗門改帳や明治の壬申戸籍のさきがけとなった長州の「戸籍」(とじゃく)、さらには皇族や大名の家系図や寺の死亡記録である過去帳等)などの直接的、間接的人口データから推計することができる。時代的に古代、近世に豊富で中世に少ないという点がヨーロッパと似ているともいえる。
 Koyama(1978)は、縄文、弥生時代の遺跡分布から日本人口を推計した。データの豊富な関東地方の集落人口の時代的な変遷と、8世紀の総人口から、縄文早期、前期、中期、後期、弥生時代における全国の集落分布により各時点の地域別人口を算出するという方法を用いた。人口=集落数×集落人口とし、順位規模分布といった集落人口の階層化は特に考慮されているわけではない。
 中国から取り入れたと思われる戸籍制度は、540年(欽明天皇元年)に「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸・・・」(日本書紀)とあり、この時点ですでに戸籍管理が行われていた様である。大化の改新(645年)の詔に戸籍を作成することが盛り込まれたが、実際に開始されたのは652年(白雉3年)で、正倉院に残る原本は702年のものである。しかし戸籍の集計結果は中国のようにまとまって歴史書に記されているわけではなく、断片的なデータしか残っていない。
 奈良時代の人口については、戸籍以外にも各国の貯蔵稲穀とその収支を記した正税帳が正倉院に残っており、澤田(1927)はそれにより人口を推計している。澤田推計は弘仁年間(810~823年)、延喜年間(901~922年)の二時点における出挙稲、課丁、人口の関係を用いて、それらに関わる人口(良口)を560万人と推計し、さらにそれ以外の「賎民雑戸私民」を加えて全国人口を600万人~700万人としている。
 戸籍制度はおおむね9世紀頃には形骸化し、その後豊臣秀吉による太閤検地までの間、人口に関するデータは減少する。太閤検地は、豊臣秀吉の全国統一の一環として1582年から行われ、それにより全国の田畑の測量と収穫量の調査がなされた。それにより荘園制は崩壊し、幕藩体制の礎となる石高制を準備することとなる。
 歴史地理学者の吉田東伍(1864-1918)は、太閤検地の結果、全国の総石高は1800万石であることから、1人=1石として、全国人口を1800万であるとした。これは、天保年間で3000万石、明治末期・大正期には平均5000万石というのが、大体人口数と釣り合っている、ということを根拠としている。また高橋(1941)はこれに同意し、さらに、地方別に見てもおおむね石高と人口が一致していることを指摘している。一方速水(1997)は、1石=0.5人として、さらに石高制度に含まれない都市住民と武士階級を1-2百万人とし、20%を誤差範囲として江戸に入る頃の人口は1200万人であり、これは他の人口資料から得られる江戸初期の高い人口増加率(1%程度)に対応しているとした。
 江戸時代後期、八代将軍吉宗は、税収強化を目的に、奈良平安時代の「子午造籍」制を復活させようと、享保6年(1721年)に人口調査を行った。第二回はその5年後、つまり午の年である享保11年(1726年)に行われ、以降6年間隔で江戸末期まで続けて人口調査が行われた。これらの結果を、補足-表1にまとめた。

補足-表1 江戸時代享保以降人口

 この人口数には、含まれていない人口があり、その範囲、数について諸説ある。どの説でも共通しているのは皇族・公家、及びそれら領地の住民が含まれていない、15歳以下人口は何歳から参入するかが藩により異なっている、ということである。説により含まれていないとされるのは、琉球・蝦夷の人口、武家人口、賎民身分の人口である。これらの修正として、一定の率をかけたり、200万から350万を加えたりすることが行われている。補足-表1 には便宜的に、記録された人口数に300万人を加えたものを推計人口として示した。
 明治維新以降1920年の国勢調査までの人口は、戸籍を基に推計がなされている。
 本推計で用いた日本人口は、以上述べた人口データから下表に示すような基準人口を設定し、その間を直線補間し総人口とした。

補足-表2 日本基準人口

1.3 韓国・朝鮮
 朝鮮半島における人口の記録は、漢代中国による戸籍制度にはじまり、それが新羅、高麗、李氏朝鮮に引き継がれ、1925年から行われた日本(朝鮮総督府)による人口調査を経て、第二次世界大戦後、韓国では1949年より、朝鮮では1993年より始まったセンサスに至っている。日本の場合は、奈良時代に中国から取り入れた戸籍制度がその後風化していったが、朝鮮半島においては綿々と続いた、ともいえる。
 ただし、朝鮮半島全体の戸口数がどのくらいであったか、その合計数を示した史書はなく、部分的に残る数字から推計するか戸口以外の田地の記録などを利用して推計する必要があるとされている(金1965)。部分的に残る数字を拾っていくと、最初に現れる数字は中国漢書の戸口の記録である。朝鮮半島における最初の王朝とされる衛氏朝鮮は、紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされ、その地には平壌を郡治(郡都)とする楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真蕃郡の四郡が置かれた。しかしこれら4郡の内、臨屯郡、真蕃郡はすぐ(紀元前82年)に廃止され、玄菟郡も範囲を縮小する。そうしたことから、紀元2年の時の記録である漢書には、楽浪郡、玄菟郡の戸口数のみが記されている。(補足-表3)。

補足-表3 朝鮮半島に位置する漢代郡の戸口記録

 楽浪郡は現在の平安道、黄海道、京畿道に当たり、玄菟郡は現在の咸鏡道に当たるので、これらの戸口記録は現在の北朝鮮の領域に相当すると考えられよう。
 金(1965)はこの数字には女性や老人子供が含まれていないとし楽浪郡、玄菟郡の前漢時、紀元2年の人口を180万人とし、さらに韓国半島全域に約300万人の人口があったとしている。しかし、紀元2年の漢書地理志の口数は、中国の学者によれば老若男女を包括した全人口を含むものとみなされており、上記史書にある628,593人を180万人とする金の主張は過大評価であると思われる。
 1950年から2000年にかけて、北朝鮮と韓国の人口比は概ね1:2と安定して推移している。そこで暫定的に、紀元2年の上記楽浪郡と玄菟郡の人口の二倍が南部に分布していたとし、朝鮮半島人口合計を計算すると、628,593×3=180万人程度となる。
 朝鮮半島はその後、三国時代(4世紀中葉~676年)、統一新羅(676~935年)と続くが、この時期の高句麗、百済、新羅について、断片的な人口の記録が残っている。それらをまとめると補足-表 4のようになる。

補足-表4 三国時代の人口記録

 これらの数字から朝鮮半島全体の人口を推計するのは難しいが、高句麗、百済で「異常とも思える増加」(石1972)を示しており、この三国時代に大きな人口増加があった可能性もある。
 その後の高麗時代(936~1392年)は、戸籍を取ったという記録は残るものの、具体的な数字は残っていないとされている。
 李氏朝鮮時代(1392~1910)には、「戸籍帳籍」という記録がとられ、それが3年毎に集計されており、さらにその集計は善生(1927)がとりまとめている。それによる戸数、人口値は補足-表5に示される。

補足-表5 李氏朝鮮の戸籍帳籍による人口数



出典 : 善生(1927)

 このうち、1395、1397年は京五部、つまり首都である漢陽(現在のソウル)の記録を欠いたもので、1428年のものは京五部だけで8省を欠いたものであり、部分的な戸籍記録である。1639年以降は全土の数字となってはいるが、1639年には1戸当たり平均人口が3.44人のところと少なく、また1651年、1666年には人口年増加率がそれぞれ6.94%、12.94%と非常に高く、自然増加ではない戸籍登録上の変化に起因するものと考えられる。上表の期間のなかで最高の人口値は1807年の7,561,403人であるが、この値はMcEvedy and Jonesの1800年朝鮮半島人口の推計値になっている。
 その後1904年にかけて人口は5,928,802人まで大きく減少している。これは「李朝末期の悪政」によるものであるとする意見もあるが、戸籍漏洩が増えたという見方もある。1910年の朝鮮総督府による年末人口推計は13,128,780人とされ、上表の1904年の5,928,802人の2倍以上であり、李朝末期には実際は人口が増加していたという見方がより確からしいと思われる。
 日本統治時代には、1925年、1930年、1935年、1940年、1944年にセンサスが行われた。 大韓民国におけるセンサスは、1949年に始まったものの、朝鮮戦争の勃発により詳細結果は残っていない。その後1955年からほぼ5年おきに行われている。
 北朝鮮では、建国後、唯一のセンサスが1993年12月31日を基準時点として1994年1月に行われた。しかしそれ以前にも、住民登録による人口データがあり、国連人口基金(UNFPA)に対して1989年に公表されている。
  本推計で用いた韓国・朝鮮人口は、以上述べた人口データから下表に示すような基準人口を設定し、その間を直線補間し総人口とした。

補足-表6 韓国・朝鮮基準人口


*梁方仲は1970年に没したが、生前にまとめた「中国歴代戸口、田地、田賦統計」が1980年に弟子達により編纂・出版された。


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