日本の杜会は、「やくざ風」倫理の社会
私はヤクザ映画は好きではないが、映画俳優としての高倉健は嫌いではない。しかし、大 型ポスターで、あのヤクザ顔を、日本中にさらすのは、やめて欲しいと思う。特に、国際
空港の近くはやめて欲しい。「日本では、男の理想は、やくざ」という、あまり知られて欲
しくないことを、大宣伝しているようなもの、だからである。
江戸時代のやくざ
日本の社会とやくざ、博徒との関係は古く、深い。江戸時代、農村では、賭博が盛んで あった。「ばくちを心得ざる者は百人のうち十人まで有まじく候」とも記されている。金が
ないので、股引、手ぬぐい、茶わん、わら布団などを賭けたという。これですってんてん
になった者は、村を離れて無宿者となり、村々を渡り歩いて賭博を生業とした。博徒、渡 世人である。武士以外の帯刀は、死罪であった当時なのに、不思議なことに、博徒だけは、
一様に、長脇差を差していた。これで、村人から金をゆすり取り、旅人を殺して金品をう
ばい、女をさらって、売春宿に売り飛ばしていた。博徒を、仁侠の徒としてえがく、テレ ビ、芝居の話は、うそっぱちである。
もう一つのうそっぱちは、渡世人を一人で放浪する西部劇のアウトローの様に描くこと である。日本の渡世人は、必ず、どこかの親分の家に、わらじを脱いで、何々一家の一員
となっていた。今の男達が、どこかの会社に勤め、その一員として動いているのと同じこ
とである。そして、親分の手足となって、悪事を働いた。そうすれぱ、三度三度の飯は食 えた。刀を差して歩けた。人情をもって遇せられた。過酷な年貢と賭博で、借金がかさみ、
首つり寸前になって、村を逃げ出した男にとって、ここは、まさにアジール(駆け込み寺)
だったろう。自分を取り戻せる場所だったろう。そのかわり、捨てなければならないもの
があった。それは家庭だった。
このように、江戸時代、特に農村では、やくざは庶民の生活に深く食い込み、暴力によ る恐怖で人々を支配した。そこで、やくざの人間関係、儀礼、行動様式、言葉など、やく
ざの倫理が、庶民の倫理に深く影響をおよぼした。やくざは戦闘集団であったから、敵味
方の峻別、序列意識と上への絶対服従、全体のため「私」を殺すこと、内部の和、を重視 したが、これはそのまま、庶民の倫理の一つの理想となった。
なぜ、日本の男は、やくざか
明治になると、政府は、博徒を徹底的に刈り込んだので、やくざは激減したが、庶民の 間に、やくざの倫理の影響は残った。温床の最大なものは、軍隊であった。特に、最小末
端組織である内務班は、古参の下士官を頂点に、やくざ一家そっくりに、運営された。そ
こで、まず叩き込まれたのは、無条件の絶対服従である。どんなおかしなことでも、意見 を言ったり、逮巡すると、徹底的なリンチが待っていた。生きのびるには、理性を捨てる
必要があった。
軍隊では、戦争に不要なものを、すべてシャバと呼んでいたが、教養も常識も生活もす べてシャバであった。そして軍隊が、日本の男達に叩き込んだのは、このシャバを捨てる
ことであった。日本の男の、家庭軽視、生活軽視は、ここに根がある。
敗戦で、軍隊がなくなったあと、やくざ倫理は、今度は会社、企業の中に生き残っシェ アー争いに生き残りをかける現在の企業と、その昔、血みどろの勢力争いに生きた、やく
ざ一家との間には、その状況に通じるものがあるからである。敗戦直後、会社がまだ小さ
い間は、まさに会社が一家であった。やがて、会社が大きくなっても、一家意識はなくな りはせず、部、課などの末端組織が一家になった。上層部でも、社内派閥が一家になって、
すさまじい争いをしている。
もう一つ、不思議なことに、思想的には、もっとも遠いはずの、新左翼や、戦闘的労働 組合の中に、やくざ倫理が、生き残った。弱者が、団結を強め、サバイバルをかけて戦う
という意味で、同じ倫理が要求されたからだろう。
こうして、上下意識、敵味方意識、減私奉公、シャバ軽視、家庭軽視、女性軽視などの、 やくざ意識は、日本の男の中に、絶えることなく生き残っている。
日本の男が、やくざな証拠
日本の男が、やくざだと、実感するのは、言葉の悪さからである。「うるせー」「ふざけ るな」という、やくざ言葉が、会杜でも、家庭でも、日常的に使われる。それも、ケンカ
相手にではなく、部下、子供など、弱い相手に向かっていう。さらにやくざなのは、赤提
灯で、そこにいない人間を、対象にしての、悲憤徹慨である。「あいつ、近ごろ少し、のぼ せてんじゃねーか」「一つ、ヤキいれますか」。それでも、ものを言う方は、まだいい。「男
は黙って」いきなりキレるのは、始末悪い。腕っぷしには、自信あるのかもしれないがで も、かつて私が電車の中で与太者に暴行を受け、立ち向かったとき、助けてくれたのはア
メリカ人だった。日本の男たちは「あっしに、かかわりないこと」と知らん顔だった。
内なるやくざが、日本社会のガン
このように「やくざ倫理」は、日本の男の間に深くしみこんでいるから、名前はともか く、これを、一つの歴史的遺産として、尊重し、継承するのも一つの考えだろう。問題な
のは、それが、民主主義の制度と反りが合わないことである。
第一に、こういう杜会は、重要なことを自分たちで相談して決めたり、変更したりする 白已決定能力に乏しい。本来は、会議での議論で、是非を決めるべきなのに、やくざ性の
強い社会では、議論とほ関係なく、派閥ができていて、議論の内容ではなく、敵か味方か
だけで、賛否がきまり、会議が意味を失うからである。
第二は、民主主義に必須な、自浄能力が、徹底的に欠如していることである。やくざ的 な社会では、悪い奴がいても、下から上へは何も言えないし、同輩は、かかわりを避ける
し、上は、「根は悪くないやつだから」と罪を許す。人情を示し、忠誠を買うためである。
その結果、悪は内向し、肥大化する。これが、日本の現状である。
現在、日本システムの改革論議が盛んだが、「日本の杜会は、やくざ風倫理の抜けない社会だ」という認識がないかぎり、無駄な議論になるだろう。
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