ETV特集「橋田壽賀子のラストメッセージ~“おしん”の時代と日本人~」[字]…の番組内容解析まとめ
出典:EPGの番組情報
ETV特集「橋田壽賀子のラストメッセージ~“おしん”の時代と日本人~」[字]
異例ずくめの朝ドラと言われた「おしん」。橋田壽賀子さんは生前のインビューで作品に込めた覚悟を語っていた。識者による考察も交え、現代にも響くメッセージをひもとく。
番組内容
橋田壽賀子さんの代表作「おしん」。内容が暗いと反対されても橋田さんがこだわったのは「おしん」が生きた時代をリアルに描くことだった。農村の貧困の実態、戦争責任を感じる庶民の苦悩、高度経済成長期の商売拡大路線とその危うさ…。生前の橋田さんロングインタビューと、プロデューサーや出演者の証言、さらに瀬戸内寂聴さん、内橋克人さん、大森美香さんら識者の考察も交え、ドラマに込められたメッセージをひもとく。
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女性の人生を見つめ 描き続けた人でした。
今年 4月4日 95歳で亡くなった…
これまで ホームドラマから時代劇まで
膨大な数の作品を
世に送り出してきました。
私たちが橋田さんに
ロングインタビューをしたのは
亡くなる2年前。
人生のすべてをかけた ある作品について
自らの思いを こう話してくれました。
それはありますね。
あ これで…
ひとつ自分を書けた みたいな。
「おしん」は なんか
しっかり自分も投影してきたなっていう
あれはありました 満足感はありました。
♬~
1983年から一年にわたって放送された
朝の連続テレビ小説「おしん」。
おしん!
あっ 危ない! 座ってろ!
母ちゃん! 母ちゃん!
母ちゃん! 母ちゃん! 母ちゃん!
父ちゃん! 父ちゃん! 父ちゃん!
明治の時代 東北の貧しい農家に生まれた
少女 おしん。
母ちゃん…。
お願いするっす!
お願いするっす! お願いするっす!
日本が まだ貧しかった時代。
幼い少女が直面する…
間に合わねえんだぞ!
ときに目を背けたくなるような現実を
橋田さんは ひるむことなく
物語に たたき込んでいきました。
それは ドラマの
プロデューサーですら
困惑するものでした。
読めば読むほど 朝ドラで
こんな暗い話やっていいのっていう
すごく不安があったんですよね。
母ちゃん!
ある日 おしんが目にしたのは
口減らしのために
自ら真冬の川に入り
おなかの子をおろそうとする
母親の姿。
心配ねえ!
すぐ上がるから!
誰さも言うなよ!
今ね 書いたら
これ やめてくれって
言われるかもしれないな
って思ったりする。
だからでも どうしてもこれ
やりたいんだっていう
気持ちを ちゃんと伝えて
やったスタッフもすごいと思うし
言えた橋田先生。
やりたいことが明確だったんですよね。
戦争の描き方も それまでの朝ドラ
とは 大きく異なるものでした。
おしんと その家族を
戦争の被害者としてだけでなく
戦争に
加担した当事者として描いたのです。
立派な ご最後やったと…。
ヒロインの夫が ストーリーの半ばで
自ら命を絶つという異例の展開。
やっぱり書きたい ひとつの部分でしたね。
私だって戦争責任あるんですよ。
ほんとに 軍国少女でしたから。
ただ 家庭のね 話を書いて
姑のことなんか書いてね
ただ笑ったり
皮肉ったりするんじゃないのね。
やっぱり非常にその なんか 正義感。
すごい正義感ね。
そういうのがあると思いますね。
橋田さんは おしんという人物設定に
ひとつの時代を背負わせようとしました。
それはもう絶対
天皇陛下と同い年にしよう。
昭和っていう時代を
明治から生きてきて
昭和っていう時代を生きた
天皇陛下と同じ世代の女性を書きたい。
それはもう 最初から決めてました。
橋田壽賀子さんが
「おしん」に込めたメッセージと
そこに秘められた覚悟を たどります。
♬~
橋田さんは1974年 この地に移り住み
海が見える この部屋で ほとんどの作品を
書いてきました。
これが生原かな。
取材した2年前も 90歳をこえながら
現役でドラマを書き続けていました。
(橋田)一生懸命 書いてたんだろうな。
橋田さんが「おしん」を書いたのは
脚本家として脂が乗りきっていた
58歳のとき。
ははははっ。
一番 苦労したように見えるけど
あんまり苦労しなかったですね これ。
もう長いこと あっためてましたから。
だから一番苦労しないで書いたのは
「おしん」ですね。
けんかしても 自分のもん通した方が
得だと思って がんがん書きましたから。
まあ けんかして降りて
普通だったら この人とけんかしたら
次に仕事くれないから
生活に困ると思って
プロデューサーの言うこと聞いちゃったり
するんですけど そういうのしなかった。
おしん!
あっ 危ない! 座ってろ!
母ちゃん! 母ちゃん! 母ちゃん!
母ちゃん! 母ちゃん!
父ちゃん! 父ちゃん!
7歳のおしんが
いかだに乗って奉公に出される
あまりにも有名な別れの場面。
実は この場面は 終戦直後
疎開のために訪れた山形で
橋田さん自身が聞いたものでした。
配給が何にもなくて
食べるものがないんですよ 寮で。
で しょうがなくて
おばが山形へ疎開してる。
疎開してるおばを頼って行こうと思って
それでおばのとこ行って 話を聞いたら
昔は ここから 奉公にみんな行くのに
船賃は出るけども
それは全部 親が召し上げちゃうので
うちのいかだに乗って酒田へ行ったんだよ
っていうのを なるほど想像して
いかだで なるほど子供が乗って
奉公に行ったんだなと思ったのね。
で それすごく印象にあって
まだ作家になろうとは思ってなかったん
ですけども なんか すごくひかれて。
最上川を下るように やっぱりその
女が一人 出世していく。
力をつけて出世していくドラマっていいな
なんて ぼんやり考えて歩いてたの。
まだ何ものでもなかった
二十歳の橋田さんは
いかだに乗って奉公に出た少女が
その後 どんな人生をたどるのか
想像したといいます。
それから 30年余り。
日本が高度成長を遂げ
まさに豊かさを謳歌し始めたころ。
人気脚本家となっていた
橋田さんのもとに
明治生まれの女性から
一通の手紙が届きます。
そこには 疎開先で聞いた話より
もっと貧しい
過酷な人生が つづられていました。
橋田さんは 自分の母親の世代でもある
明治の女性が歩んできた
壮絶な暮らしに がく然としました。
豊かさを当たり前だと思い始めていた
日本人へ こうした事実を伝えたい。
橋田さんは当時の実状を詳しく知るため
雑誌の掲示板を使って
体験談を募りました。
「今のご老人方が
身をもって体験してこられた
大正 昭和の記録を
まとめて残しておきたいのです。
ご自分の歴史を
書いて お送り下さいませんか」。
すると 日本全国から
自らの壮絶な半生をつづった
100通を超える便りが寄せられました。
のちの著作で 橋田さんは名もない女性の
人生を そう形容しています。
ときには 手紙をくれた女性に
実際に会って取材をしました。
橋田さんが 手紙をくれた女性に
聞き取りをする様子を収めた
カセットテープが 今回見つかりました。
明治生まれの女性たちの
生身の声を積み重ね 橋田さんは
おしんの原型となる人物像を
作り上げていったのです。
実は「おしん」の企画は当初
どのテレビ局に持ち込んでも
見向きもされませんでした。
なかなか通らなかったですよ 企画。
こんな暗い話どうすんので
みんなに嫌われて
なかなか実現しなかったんですよね。
TBSも通らないし
NHKでも通らなかったですよ。
当時の日本は バブル景気直前。
人々が競い合うように
豊かさを追い求める時代。
カンパーイ!
イッキ! イッキ!
徹底的に貧しさや苦労を描く
橋田さんの企画は
時代にそぐわないものと
受け止められたのです。
それでも橋田さんには このドラマは
今だからこそ書かなければならないという
強い覚悟がありました。
本当に そんなみじめな時代が
あったんだなと つくづく思いましたね。
いろんなことを聞いて。
貧しさを知ってるから だから
貧しさっていうのは やっぱり
書いとかなきゃいけないなと
思いましたよね。
いろんな人の取材もしてましたから
いつ ものになるか分からないけど
やっぱり ずっと持ってて
抱いて抱いて抱いて。
どうせ書くんなら やっぱり自分の思う
とおりに書きたいっていうのあります。
相手に言われて こう書き換えるようなら
書かなきゃいいんですからね もう。
最初の手紙をもらって3年後。
ようやく「おしん」の企画は
日の目を見ることになります。
きっかけは 大河ドラマ
「おんな太閤記」の大ヒットでした。
「おんな太閤記」のときに
すごく喜んで下さったんですよね。
女の視点から時代劇を書きたいって
言ったんですね。
今まで男の…
男の視点からばっかりだけど
女の視点から時代劇を見たいって
初めてだったんです。
非常に視聴率が高かったんで
何周年記念とかいうときに
「おしん」みたいなものはいいだろう
っていって
放送総局長って方が
ジャッジして下さって。
それでも「おしん」のプロデューサーだった
小林由紀子さんは
橋田さんが書いてくる脚本を読んで
その容赦ない描写に戸惑ったといいます。
あの 橋田先生の台本 脚本が
何本かできてきて
読めば読むほど 朝ドラで
こんな暗い話やっていいのっていう
すごく不安があったんですよね。
希望に満ちた女の子が
明るく元気に爽やかにっていうのが
まあ朝ドラのね 定番っていうか
決まり事みたいだったわけでしょう。
すごく私は不安になったわけですよ。
橋田さんが特にこだわったのが
当時 口減らしのために
農家の女性が自ら行っていた堕胎。
これも 実際に聞いた話でした。
田舎はもう 子供を産むと
また口減らしに
とにかく おろすんですよね。
おろし方が分からない。
で 結局 ああいう
冷やしてたら おりるかなと
流産するかな みたいな あれがあって
冷やすんですよね。
それが だからやっぱり 小作のひとつの
重い あれだった 子供を産むってことが。
だって コントロールのしかたも
知らないですもんね。
勝手に男はね 遊んでおいて
女は子供を産んだら
かわいそうじゃないですかね 本当に。
朝のお茶の間で タブーともいえるような
堕胎のシーンを
橋田さんはドラマの序盤に
いきなり設定します。
そんな橋田さんの思いをくみ取ったのが
母 ふじ役を演じた…
(泉)「おんな太閤記」の打ち上げ。
橋田先生がいて
それで ちょっと
相談があるって言うから 先生が。
何ですかって言ったら 次の朝ドラ…。
それと ひとつ条件があるのよねって。
子供をおろすために川に入るという
ところは テーマとしてやりたいの。
私は そこの川入るっていうことは
第1条件だったから。
あっ!
(川の水音)
母ちゃん!
母ちゃん! 母ちゃん! 母ちゃん!
母ちゃん! 母ちゃん!
心配ねえ! すぐ上がるから!
誰さも言うなよ! 黙ってろよ!
(泉)最上川の入るところから。
いや… 私 冬って聞いてないんですけど
っつったの。
この季節に。
だって寒いじゃないって言ったら
いや あったかかったら
子供育っちゃって
その おろせませんって言われて
口減らしにはなんないって言われて
はあ そうですか…。
で もう1人 用意して下さったの
若い人をね 入れるように。
撮影は酷寒の1月。
泉さんは一部代役を立てるという
演出陣の申し出を断り
6時間もの間 何度も川の水につかり
このシーンを演じきりました。
(泉)もう下半身 感覚がないんですよ。
凍傷みたいなもんですよね。
産婦人科の先生に
死ぬ気かって怒られたの。
だって それを先生に 橋田先生に聞いて
「おしん」に出ることを決めたんだから
そこはやっぱり ちゃんとやらなきゃ
成立しないと思いましたから。
現在放送中の…
そして 2015年
幕末から明治の女性の生きざまを描いた
朝ドラ「あさが来た」。
女性のね…
やわらかい力が 大切なんです。
これらの作品を手がけた
脚本家の大森美香さんも
橋田さんが描く堕胎のシーンに
大きな衝撃を受けたといいます。
こうやって川にね 下半身をつけて
生まれないようにしてたんだ
っていうのはね
なんかもう痛い… 痛いなぁ
体が痛くなるような思いを
見ていて しますよね。
でも もうほんとに我々の祖母とか
その上の世代は
そうやって生きてたんだな
っていうのはね… うん。
今ね 書いたら
これ やめてくれって言われる
かもしれないなって思ったりする。
だから でも
どうしても これやりたいんだっていう
気持ちを ちゃんとこう伝えて
やったスタッフもすごいと思うし
言えた橋田先生
やりたいことが明確だったんですよね。
ほんとに この時代の女性たちを
切り取ろうっていうところが
明確だったから みんなも それに。
もちろん読んだ女優さんにしても
そう思ってね ピン子さんも
そうやってやられたんだろうし
すごいなって思いました。
「おしん」の放送が始まると
NHKには 連日 視聴者からの便りが
寄せられるようになりました。
「私によく似たところがあって
びっくりしました」。
これを放送してくれて
すごくよかったって おっしゃった方が
山形から身売りして
東京へ来たっていう方なんですよ。
自分がそういう人生を歩んできた
っていうことを
実は 娘にも孫にも
言えてないっていうんです。
自分の人生っていうのは
とても恥ずかしいことだと思ってた。
だから言えなかった。
それが「おしん」の放送を見て
あ… 私も孫に言えるんだっていう
お手紙があったんですよね。
大勢の おしん的な人たちの
人生が詰まってるわけだから。
おばあさんたちの人生ってこうだったのね
っていうことが分かってくるわけですね。
「おしん」は瞬く間に人気となり…
日本のドラマ史上 今も破られない
驚異的な数字をたたき出しました。
奉公先を出て上京した おしんは
髪結いの仕事を皮切りに
自ら手に職をつけていきます。
女は おとなしく嫁に行くのが一番だよ。
たとえ10年辛抱したってええ。
自分で思うとおりに生きられる
おなごになりてぇんです。
実は おしんの人生を描くにあたり
橋田さんと
プロデューサーの小林さんには
ひそかな たくらみがありました。
「おしん」の物語全体を通して言うと
やはり…
小作人の話から始まって農業
これも経済の ひとつの形。
それから女性が働く場をどこで設けるか
っていったら東京でしかない。
しかも 当時で言えば
看護師さんか髪結いぐらいしか
女性が稼げるっていう場が
なかったっていうことですね。
しかも それは戦争を挟んでいると。
一人の女性の
何ていうか 人生を使いながら…
…っていうふうに
なってたはずですけどね。
経済評論家の内橋克人さんは
「おしん」に
額に汗して生きてきた
日本人のありようを
感じたといいます。
貧しくて 売られてく子供。
その別れ。 舟で下っていく。
恐らく みんなね
身につまされたと思うんです。
本当に… 汗をかき…
血の汗をかき 涙を流し
そういう世代の人々をね
まあ 人間くさく
人間の姿 形 魂
そのままに描いた。
それがね 人々を魅了した
ひきつけた… 魅力。
私は そういうふうにね 熱心に
拝聴させて
視聴させて頂いたんですけどね。
橋田さんには この物語を
どうしても見てほしかった人がいました。
おしんは 明治34年生まれという設定。
それは 昭和天皇が
生まれた年でもあるのです。
天皇陛下が ご覧になるかどうか
分かんないけど…
天皇陛下と同じ世代の女性は
一番苦労したんだなと
それをいっぺん書いておきたいと思った。
ああ そうか 天皇陛下の時代は
そうだったんだなと
思ってもらえればいいなと思って。
天皇陛下と同い年にしちゃった…。
それはもう 最初から決めてました。
「おしん」の舞台は
やがて戦争の時代に向かいます。
あれ うちの工場の方じゃないの!?
ああ あの辺は軍需工場が集まってるから。
父さん じゃあ うちの工場も!?
もう手の付けようがない!
橋田さんが「おしん」を描くうえで
向き合った 大きなテーマ。
それは 庶民の戦争責任でした。
女学校に通っていた16歳のときに
太平洋戦争が始まると
橋田さんは 日本の勝利を信じて
軍需工場でも働きました。
でも それは やっぱり…
だったために やっぱり
ひどい目に遭ってますからね。
ちゃんと報いは受けて
貧乏してましたから。 だから…
橋田さんより3歳年上の…
生前 2人には
交友がありました。
(取材者)
先生もご自分で軍国少女だったって。
そうですよ。 全くそうですよ。
橋田さんも私も
いわゆる優等生で真面目でね
それで 戦争のときは
頑張らなきゃいけないと思ったしね
そういうふうに教育されて
そういうのの優等生だったでしょ。
だから かえって
それが嫌だったでしょうね。
腹が立ったんでしょうね。
あえてね そういう「おしん」とかね
それから戦争のこととかね
その… 特に書くっていうことはね
やっぱり その
非常に強いものがあるんじゃないですか。
橋田さんは少女時代のおしんに
ある象徴的な体験をさせました。
おしんが奉公先でのつらさに耐えきれず
飛び出し 山の中をさまよっていたとき。
もう大丈夫だ。
日露戦争から逃げ出した
一人の脱走兵に助けられます。
その脱走兵は おしんに
一編の詩を読み聞かせるのです。
この詩はな 与謝野晶子という偉い詩人が
日露戦争のとき
旅順港を包囲してる軍隊にいる
弟のことを悲しんで作ったもんだ。
戦争だから人を殺したり殺されたり
いつ弟も戦死するかも分からない。
そんな愚かなことをするために
親は かわいがって
弟を育ててきたわけじゃない。
うちでは結婚したばかりの新妻も
泣きながら待っている。
弟は大事な人だ!
どんなことがあっても死んではいけない。
戦争の勝ち負けなんかどうだっていい!
無事に帰ってきてくれ!
そういう意味だ。 分かるか?
歌人 与謝野晶子が書いた…
日露戦争のさなかに発表され
厳しい批判にさらされました。
それは与謝野晶子が
あの時代 もう一番戦争反対ね。
戦争反対した女っていったら
与謝野さんですよ。
行くなって…。 戦争なんか行くなって。
もうすごかったですよね。
それで詩に書いたのね
その詩がとってもいいんですよね。
当時はね やっぱり大変だった。
そんなね そんなことするのは。
実は 橋田さんと与謝野晶子は
ある縁で結ばれていました。
橋田さんが通っていた高等女学校は
与謝野晶子の母校。
当時 学校に飾ってあったのが
「君死にたまふことなかれ」。
その屏風を
毎日のように目にしていました。
私 その女学校時代
与謝野晶子さんが卒業なさった学校で
「君死にたまふことなかれ」って
大きなのがあって
はあ… これをいつか
書こうと思ってましたもんね
ライターになってから。
「君死に…」 これをなんとか
ドラマに使えないかなと思って 反戦で。
それで あれを作ったんですけどね
脱走兵を。
そして時代は 大正から昭和へ。
結婚し 幸せな家庭を築いた
おしんの暮らしにも
戦争の足音が近づいてきます。
「その年の暮れ 日本軍は南京を占領し
勝利に酔いしれた国民は
提灯行列で その戦勝を祝った。
雄も仁も 希望も初子も そして竜三も
何の疑いもなく提灯行列に加わった」。
「そのとき おしんも やはり勝利を喜ぶ
日本人の一人になっていたのである」。
私だって もう この戦争
勝たなきゃいけないって思ったしね…。
それで… ほんとは負けてるのにね
勝った勝ったっていって 報告があると
町内で提灯行列とかね
旗行列 行くんですよ 必ず行ったもの。
ほんとに 勝たなきゃと思ってた。
軍に食料品を入れる仕事を
しとるかぎりは
どがんときが来たって
お前たちに不自由はさせん。
戦争に泣かされるよりは
戦争を利用するぐらいの根性がなければ
生きてはいけんたい。
夫の竜三は 日本軍の納入業者となり
おしんの家族は 羽振りのよい暮らしを
手にすることになります。
ただね 母さん
軍に取り入るのは嫌なんだけど。
そんなふうに言っちゃ
父さんが かわいそうだよ。
立派だよ 父さん。
ものは考えようか?
日本本土への空襲が激しくなった
戦争末期
橋田さんは
海軍の経理部で働くことになります。
そこで橋田さんは 出撃を控えた同世代の
特攻隊員たちの世話をしていました。
ドラマの中で おしんもまた
戦争で大切なものを失うことになります。
雄が… 戦死した。
人間一人の命なんですよ こんな紙切れ
一枚で死んだって言われたって
信じられるわけがないじゃないの!
私は信じません…。
これが雄のお骨だって
確かなものが帰ってくるまでは。
そうだよ! たった一枚の赤紙で
戦場へ駆り出して
戦死したときも たった一枚の紙切れの
通知しかよこさないなんて!
希望!
「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び…」。
そして 敗戦。
終戦の日に 急に短剣外してきて
集まってきて
なんか変だなと思ったんですよね。
そしたら天皇陛下のあの詔勅が
あったんですけど。
なんか淡々と受け入れてる
それがすごい不思議だった。
私たち泣きましたけど その人たち
また新しい時代がくる
みたいな顔してましたもんね。
私なんかもう 戦争に負けたときに
これは あしたアメリカ兵が来たら
海へ飛び込んで 平家の人たちが
海へ飛び込んで死んだように
海にでも飛び込んで 死ななきゃ
いけないんだと思ってましたもんね。
日本が負けるなんて
夢にも思っていなかった。
人は私の生き方を
間違っていたと言うだろう。
私は軍と手を結んで仕事をしてきた。
隣組の組長として
戦争への協力も押しつけてきた。
私の勧めで 志願兵として
少年航空隊に入った少年もいる。
その中には もう帰ってこない少年もいた。
戦争に協力して
罪もない人たちを不幸に陥れてしまった
責任は消えやしないんだ。
竜三は戦争に加担していたことを悔やみ
自分を責め続けます。
そして 短刀で心臓を一突きし
自ら命を絶つのです。
主人でございます。
その死を受け止めたおしん。
橋田さんは自らの反省を 2分を超える
おしんの長ゼリフに託しました。
私は 竜三を立派だと思っています。
戦争が終わったら
戦争中は自分も黙っていたくせに
自分一人は
戦争に反対してきたみたいに
馬鹿な戦争だったとか
間違った戦争だったとか
偉そうなこと言って。
私もそうでした。
暮らしが豊かになるためだったらって
竜三の仕事に目をつぶってきました。
戦争のおかげで自分だって
ぬくぬく暮らしてきたくせに
今になって 戦争を憎んでるんです。
雄や仁を奪った戦争を恨んでるんです。
そんな人間に比べたら
竜三は どんなに立派か。
自分の信念を通して生きて
それが崩れたときに節を曲げないで
自分の生き方に けじめをつけました。
私はそんな竜三が好きです。
大好きです。
嘘がないんですよね。
そのときに生きている人の心情として
嘘がないっていうのが
私も それはすごく憧れるところが
あるんですよ。
ひとつひとつ 戦争に対して
感じていくことにしても
こういうことなんだっていうことが
ほんとにリアルに感じられる
作品っていうのは
ほんとにすごいなって思います。
戦争しろって
そこを応援しろって言われて
一生懸命やってたのに
あれ? こんな置いていかれちゃうの?
何もなかったみたいにっていうことが
すごく納得いかなかったっていうことを
「おしん」の中でやっていくっていうのは
すごく共感しましたね。
そこはね なんか
ああ それが伝えたかったっていう
ことなんだっていうのを
田中さんのセリフになってみたときに
ああ… という共感ポイントでした。
橋田さんは著書に 「おしん」に託した
自らの思いについて こう記しています。
戦後 おしんは4人の子供を抱え
女手ひとつで育てていきます。
母さん これから一生懸命働いて
お金儲けるわ。
この戦争で失くしてしまったものを
きっと取り返してやる。
母さんの腕一本で取り返してみせるから。
戦後 日本は奇跡の復興と呼ばれる発展を
遂げようとしていました。
やがて 高度経済成長の時代を迎え
街には たくさんのものが
あふれ始めました。
いらっしゃいませ お待たせしました!
そのころ おしんは子供たちと一緒に
小さな商店を開店。
店は安売りが評判を呼び
繁盛店となっていきます。
あっ おはようございます。
あっ おはようございます。
まあ 昨日はうちの開店で…。
お宅では随分
値引きしていらっしゃるようですな?
どんなものを いくらに売ろうが
お互いに自由なんじゃないでしょうか。
母さん!
きれいごとなんか言っちゃいられないよ。
商売は食うか食われるかなんだよ!
この辺の商店街のお客を みんな
うちにとるぐらいの心意気がなきゃ
この店をはった意味がないじゃないか!
視聴者からは
「こんなおしんは見たくない」という
投書が相次ぎました。
乙羽さんになった辺りから
儲けよう儲けようっていう形で
スーパーマーケットを
どんどん どんどん大きくしていく。
あんなに辛抱して かわいかったおしんが
何で最後ああなるの?って言われたの。
でも人間って変わるんですよね。
いろんな形で変わるわけですよ。
どうしても 主人公とかを
かっこよく見せたがるんですよ。
女性であれば やっぱり美しく見せたがる。
だけど 人を描くと絶対
そういう面だけじゃないところがあって
だからリアルだし みんな。
おしんちゃんも あ~あ…っていうところ
いっぱいあるじゃないですか。
もう そんなことしちゃって…
っていうところが。
けなげで頑張ってるってだけじゃなくて
やっぱり人間だなっていう
感じるところがあって
やっぱり 人間をつくられてたんだな
っていう すごい気がしますよね。
橋田さんは ドラマのために
ダイエーの創業者 中内 氏や
ヤオハンの創業者 和田カツ氏を
直接 取材したといいます。
…を合言葉に消費者の支持を集め
急成長を遂げた総合スーパー。
ダイエーは 多店舗化で規模を拡大し
「おしん」が放送された80年代には
売上高が業界初の1兆円を突破。
青果店からスタートしたヤオハンは
百貨店として
世界十数か国に進出を果たしました。
日本が一番お金持ちだみたいな気分
どんどん伸びる
世界で一番に伸びてるみたいな感じの。
ヤオハンさんなんか見てて。
それもあって書こうと思った。
経済評論家の内橋克人さんは
ダイエーの中内氏を度々取材。
戦地から引き揚げ
流通業界の革命児として
一時代を築いた手腕を
高く評価しながらも
その拡大戦略に警鐘を鳴らしてきました。
膨張が過ぎますね。
おしんが始めた小さな店も
高度経済成長の波に乗り
スーパーマーケットに発展。
三重県内に
16店舗を構えるまでになりました。
それにしても本当によく売れたわね。
魚屋や八百屋やってるときと
まるで違うんだもの。
しかし 橋田さんは そんなおしんの姿を
ビジネスの成功者として
描いたわけではありませんでした。
息子が社長となり 拡大路線を推し進め
新たな出店計画を立てたときのこと。
こちらでございます。
その近くには おしんの恩人の家族が営む
食料品店があったのです。
お前が計画しているような
大規模なスーパーを建ててごらんよ。
並木食料品店なんて
たちまち客足が落ちてしまうよ。
商売は食うか食われるかなんですよ。
義理だ人情だって そんなこと言ってたら
こっちが食われてしまうんですよ。
おしんは かつて自分が口にしたのと
同じ言葉を
今度は息子から突きつけられ
言葉を失います。
結局 おしんの反対を押し切り
息子は巨額の資金を投じて
駅前に17号店を開業させたのです。
ところが1年後
別の大手スーパーが駅前に進出し
たのくらは経営難に陥ります。
うちは閑古鳥が鳴いてたよ。
母さん… 申し訳ありません。
息子は どんどん どんどん
こう 上がろうとする。
いわゆる 貧乏のどん底から
はい上がった人だから
身の丈を大事にしようと思う。 そういう…
私はそう思いましたね。
「おしん」の放送が始まったのは1983年。
その後 バブル経済は崩壊し
急拡大を続けたヤオハンは
1997年に経営破たん。
ダイエーも 売り上げが落ち込み
急速に経営が悪化。
2004年には
50を超える店舗の閉店に追い込まれます。
数を増やすことをね 発展とは思ってない。
あの 母親と娘の別れ
最上川を下っていく川下り。
それと… スーパーを展開して
まぁ… 流通産業。
当時としては先端だったでしょうね。
そこに生きる糧を求めることができた。
おしんは…。
そうですね…。
どんな人生だったんでしょうかね。
幸せだったんですか?
「おしん」の作家の橋田さんはね…
おしん!
あっ 危ない! 座ってろ!
母ちゃん! 母ちゃん! 母ちゃん!
母ちゃん! 母ちゃん!
母ちゃん! 母ちゃん!
いかだでの別れの場面から始まった
一人の少女の物語。
橋田さんは 全297話 一年をかけて
明治 大正 昭和と激動の時代を生き抜いた
女の生涯を描き切りました。
橋田さんの存在?
ほとんど私と同じ時代だけどね
橋田さんがあの世界で 脚本を書いてね
あれだけの仕事をしてくれて
あれだけ有名になってね
あれだけお金を儲けて
晩年好きなようにしたでしょ。
とてもいいと思うわね。
豊かさっていうのはね 一体何なのか。
深くね… 問う。
そういう作品はありませんね。
悲劇でも喜劇でもない。
単なる人生ものでもない。
立身出世物語でもない。
「おしん」を見た人々はね
身につまされたんだと思います。
一生懸命 生きるということが
一生懸命 生きるという生き方
ということが
あったことを思い出させてくれる
作品のような気がしていて…。
あしたが今日より良くなる
なってほしいと願って
あの… とりあえず前に一歩進んで
頑張ってみるみたいな気持ちになれる。
今ね やっぱり なりにくくて
なんか あしたが今日より
良いのかどうか分からない感じがあると
私は思っているんですよね。
よくぞ やって下さったというか
気持ちがありますね もう…。
なんかね それぐらいの覚悟を持って
やっぱり書きたい 作りたいなっていう
気持ちは すごくあるから
よくぞ やって下さった
かっこいいなと思います。
橋田さんが
自身の集大成と語った「おしん」。
その後 何度も再放送され
その度に新しいファンを獲得。
今も世代をこえて愛され続けています。
なんか あの これが当たるかしらとか
当たらない
そんなの全然思ってなかったです。
ただ書かせて頂ける場が
できたっていうんで
すごい 乗ってたのは覚えてますね。
書かせてもらえるっていう。
おしんの名前なんて
早くから考えてたんですよ。
いっぱい 「しん」の字があるんですよ。
それだから それを込めて おしんって
最初から決めてあった。
おしんだけは決めてた なぜか アハハッ。
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