‐シリーズ・明かされる『満鮮史』 その5(「北鮮」における日ソ戦争の全貌)‐
テーマ:近代史
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・実録 北朝鮮における日ソ激戦エピソード
『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 17頁より
銃のうち方を教えながら
<1945年8月>九日、午後三時清津の埠頭や市内はソ軍の大爆撃をうけた。
十三日午前十一時すぎ、ソ軍は清津へ上陸作戦を敢行した。その時の戦闘を実戦の体験者にきこう。
特設警備隊第四五一大隊第四中隊早瀬健吾氏の談(清津日赤病院から応召)
「十二日正午召集されて、海岸附近の警備を命ぜられ、第四中隊は、三菱製鋼に本部をおいた。十三日朝水南橋と輪城橋間の海岸に、陣地構策中であったが、(被服、武器とも不完全であったので運搬しているうちに)十一時すぎ、海上のソ軍から猛然たる艦砲射撃がはじまった。」
つづいて煙幕がはられ、上陸用舟艇がくりだされた。
高抹山にある山砲三門は、このうち第一上陸用舟艇を転覆させたが、第二舟艇の上陸を許し、第三舟艇は航路をかえ上陸、その後二、三隻は転覆させたが、つぎつぎに上陸を許した。(わが山砲三門には実弾三十発位しかなかったという)
特警第四五一大隊は、はじめて召集された朝鮮人が多く、また十八、九歳のはじめて小銃を手にするものもあり、薬盒<弾入れ>もないため、実弾は服のポケットにできるだけいれさせ、とうもろこし畑の中で、装填をおしえてソ軍に向っていた。
部隊は漸次後退し、その夕方天馬山<てんまさん>中に入り、ソ軍はその後を追って麓<ふもと>まで進出し、まったくの乱戦となった。
その頃すでに、大隊中、副官は戦死していた。天馬山の小学校内で、ソ兵七名を殺した。その時の戦闘は、まるで兵隊ごっこで、
「お前はこちらから行け、おれはこちらを廻るから」
という調子でたたかっていた。ソ軍の服装はきたなく、各自、自動小銃チェッコ銃<機関銃>、小銃をもち、背に小さい袋をもった軽装であった。
部隊は武器がたらず、その夜羅南におもむき、師管区司令部に武器をもとめたが、あたえられず、さらに駱駝山<らくだやま>奪還の命をうけて、陣地にむかい、十五日朝、班竹町<はんちくじょう>の日鉄社宅に入った。
その日、濃霧が清津一帯をたちこめている中に、ソ軍機が頭上に乱舞し、ソ軍艦は清津港に横づけとなって艦砲射撃をおこない、日本軍の迫撃砲から応酬さかんであった。
駱駝山の一方から高い方のこぶをソ軍にとられ、ソ軍はそこに重機をすえて、日本軍に応戦した。わが軍は斬込み<万歳突撃>をおこなったが、部隊の多数が戦死傷を出し、ついに十五日夜司令部隊は後退し、十六日夕方羅南に入った」
特設警備隊第四一〇工兵隊(七四五五部隊)に召集された杉原慶一氏談(城津高周波より応召)
「八月十二日、城津で召集をうけ、清津の輪城川<ゆじょうがわ>の傍<そば>の科学博物館に集合の通知をうけ、その夜についた。部隊の八割以上は、未教育の朝鮮人兵であった。十三日被服をもらっている最中ににわかに砲弾の音がし、“空襲”とさけばれ全員防空壕に飛びこんだ。頭上を機関銃弾がとぶ。しばらくしてそれが、海岸のソ軍の上陸用舟艇からうたれたものとわかった。私たちは防空壕をでて海岸をみると兵隊がうろついている。敵か味方かわからない。(海岸まで一キロ位)そのうち、自動小銃や機関銃をうってくるので、敵だとわかった。
堤防にへばりついて応戦する。羅南の師管区司令部に救援をたのんだがやってこない。その夜は堤防についたまま夜をあかした。朝鮮人兵はほとんど脱走し、一コ小隊は十二、三名になっていた。
このままいても仕方がない。むしろ敵に突込もうということにきまり午前五時頃、私達は渡河<とか>して、ソ軍の中に突入した。乱戦の中に、その地区のソ軍は十二名の死体をのこしたまま逃走した。その時大隊長石井中尉は、ソ軍に二十メートルの近距離で、腹部に銃弾をうけて戦死をとげた。味方はソ軍にあたえた以上の損害であった。
ソ軍の兵隊は、陸戦隊で、給与もよく、戦死者の背<はい>のうには、ウォッカ、アメリカ製罐詰、糧秣が一日分入っており、靴は、アメリカ兵とおなじものをはき、七十発自動小銃をもち、雑のうに数千発の弾をもっていたのには驚かされた。
羅南地区司令部員がやって来て、勇敢だといってほめ、私達の戦果を公表した。
その日、海に巡洋艦、駆逐艦来りソ軍はどんどん上陸してきた。夜、羅南に退却した」
※<>は筆者註
『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 16~18頁より
・本当に「戦争末期」のたたかい
『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑
よくドラマや映画とか、沖縄戦を筆頭に日米戦争の「側面」は描かれども、北朝鮮におけるソビエト連邦との戦争はあまり語られない。
現代の歴史問題や政治的案件を語る上で、大本の文脈としての『歴史』という学問を、誰しも基礎的教養として身に着けておかねば、その地域に対する「見識」が薄れ、近視眼的な反動報道に流されてしまうだろう。
時代が降るごとに、覚える情報は日に日に増えていきますが、本シリーズを通じて「最も大切なこと」を伝えていければ幸いです。
<参考資料>
・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑
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