細谷清(近現代史研究家)


 日本を占領した連合国軍の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、米バージニア州ノーフォーク市のマッカーサー記念館に眠る。ノーフォークは彼の母の故郷であり、世界最大の海軍基地がある。海軍兵学校のあるアナポリスも近い。

 記念館は、そんなノーフォーク市の中心部にあり、元市庁舎だという建物はなかなかの威容であった。彼の名を冠した広場にあり、付設の図書館と訪問者センターもある。センターには、入口に彼が使った実物の車が置かれ、映画上映室や書籍や土産物を売るコーナーがあった。

 記念館はマッカーサーの事績が展示されているが、彼の生涯最大の誇りであったであろう日本占領の歴史で、書かれていないことがあった。「検閲」と「親共産主義」である。

マッカーサーの検閲

 マッカーサー率いるGHQ(連合国軍総司令部)は昭和二十年九月二日の降伏文書調印式直後の十九日、「日本に対するプレスコード」(連合国最高司令官三十三号指令)を出し、新聞・ラジオ・雑誌・映画等の報道の検閲を始めた。

 この検閲政策は米国の占領前からの既定の方針に沿ったもので、占領行政を円滑に進めることが目的の一つ。もう一つの狙いは、これまでの日本国民は政府に情報統制されて洗脳されてきたと勝手に思い込んだアメリカが、その洗脳を解こうというものであった。

 指令そのものは、報道は事実と真実を伝えるべきである▽治安を害してはいけない▽意見と事実は分けること―など、表向きは極真っ当な内容であった。しかしGHQは実施段階で、その建前とは全く違った検閲基準を設けた。いわゆる三十項目に分類された規準で、戦前を遥かに越えた厳しい検閲であった。言うなれば当時の日本人は耳も目も口も塞がれその上私信も覗かれる状態で、「民主化」を与えられたのだ。

 そのプレスコード発効から八日後の九月二十七日、昭和天皇陛下との会見が持たれた。会見の内容は、公式発表以外は秘密とすることになっていたようだが、マッカーサーは機微に触れることまで回想記で公表した。

「天皇は落ち着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりとおもてに現していた」「私が米国製のタバコを差出すと、天皇は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇が感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかった」(『マッカーサー回想記』下巻、朝日新聞社)

 たとえ陛下でなくとも、あるいは秘密にする合意がなかったとしても、会見した相手について、「落ち着きがない」「手が(緊張で)ふるえている」「天皇が感じている屈辱の苦しみ」などと見下したように書くのは差し控えるべきであろう。

 翻ってマッカーサー自身は、「米国製のタバコを差出」し、「そのタバコに火をつけてさしあげた」り、「天皇の気分を楽にすることにつとめ」たうえ、「(陛下の)苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかった」と観察するほど余裕があったようである。しかし、会見後の歴史からはそうは思えない。直後に彼は「天皇制批判」を主張する獄中の共産主義者を釈放させている。それは陛下の権威を畏れたためではないだろうか。

マッカーサーと共産党

 会見翌日の九月二十八日朝刊に新聞各社が会見の写真を載せなかったことを知るや、GHQは即座に命令を出して、・仕事着・のマッカーサーとモーニング姿の陛下のあの有名な写真を翌二十九日朝刊に各社一斉に掲載させた。

 会見一週間後の十月四日には、東久邇宮内閣が辞してまでも反対した治安維持法を廃止させ、十日には、政治犯だけではなく傷害致死などの罪で獄に在った人間でも共産党員と言うだけで釈放させた。二十日には日共の機関紙「アカハタ(のちに赤旗)」が復刊している。紙もインクも払底していた終戦直後にGHQの援助なしにはこうも手際よく復刊出来なかったであろう。

 その復刊第一号巻頭の「人民に訴ふ」を見てみる。「連合国軍隊の日本進駐によって日本民主主義革命の端緒が開かれたことに對して我々は深甚の感謝を表」し、「米英及聯合諸国の平和政策に對しては我々は積極的に之を支持する」とGHQを礼賛し、「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基づく人民共和政府の樹立にある」「我々の多年に亘る敵だった天皇制」と天皇陛下を批判する言葉が溢れている。これも、共産党幹部らを釈放したマッカーサーの期待に応えたものではなかったか。

 しかし日共の放縦な活動は、東西冷戦の激化とともに占領軍への批判と攻撃に転じ、朝鮮戦争直前の昭和二十五年五月三十日に皇居前広場で起きた騒乱(左翼は「人民広場事件」と称した。暴徒は警備に当たった米兵をもお堀に投げ込んだと言われる)を契機に、GHQは日共と赤旗の幹部を追放し赤旗を永久発行停止処分にした。赤旗は講和条約が発効した昭和二十七年四月に、GHQの処分は無効になったとして復刊して現在に至る。

新たに判明した検閲規則

 GHQが、プレスコードと、いわゆる三十項目の規準による厳しい検閲を行っていたことは詳らかにされているが、それに加えて日本国外から国内に伝えられたり、国内から国外に発信したりする情報も規制していたことは知られていない。プレスコードと相まって、当時の日本人は完璧なまでに目と耳と口を塞がれた状態であったのだ。

市役所の旧庁舎を改装したマッカーサー記念館前に
立つダグラス・マッカーサー(1880~1964年)の銅像
=2014年11月28日、米バージニア州ノーフォーク
 その規制方針は、昭和二十年十一月十日にGHQ内部で決定された部外秘備忘録「日本に於ける報道検閲方針」(昭和二十年十一月十日付、同十三日に対敵情報局長エリオット・ソープ准将が承認した文書:MEMORANDUM FOR RECORD: Press Censorship Policy in Japan。米国国立公文書館所蔵RG331Box No.8568 CIS07298、国会図書館憲政資料室にて閲覧複写)に示されている(次頁の写真)。

 備忘録は、検閲が極めて機密を要するので、ミスは最少にして連合国報道陣との記者会見は二人だけに限定し、海外からのニュースについては特に次の四つを原則とする事を定めていた:

 ・マッカーサーの占領政策に対する米国及び他の外国から発信された批判は、もし治安を乱す恐れが十分にあると見做されるのであれば許可してはならない。

 ・連合国同士の批判は許可される。

 ・中華民国に対する他国又は国内の共産主義者による批判は許可される。

 ・連合国統治権下にある人民(訳者注:当時は日本国民だけでなく朝鮮・台湾人らも含んでいた)による皇室・天皇・政府に対する批判は許可される。

 そして日本人が海外へ発信出来る批判として、次の三つを例示した:

(一)トルーマン大統領の米国での政策に関する記事

(二)新聞記者自らが書いた、原子爆弾問題の解決の為の提言記事

(三)日本人が書いた、占領下のドイツにおける占領軍の政策に関する記事

 この備忘録の重点は、日本の元首である天皇陛下と米国の最高位にあるトルーマン大統領に対しての批判報道は許される一方で、マッカーサーに対する批判は一切許さない、とする点である。いわゆる三十項目の検閲実施規準でも真っ先にマッカーサーに対する批判の不許可が掲げられており、当時の日本人はマッカーサーについて書いたり話したりして批判する事も批判を聞く事も世界中から完璧に遮断されていたことになる。

 天皇陛下も米国大統領に対しても許される批判を許さない存在を独裁者と呼ばずして何と言えるか。この備忘録を以後「マッカーサー検閲規則」と呼ぶ。文書全文の和訳を資料1として本文末に添付する(訳は細谷)。

 このマッカーサー検閲規則にはもう一つ看過できない問題がある。それは、(三)にある中華民国を見放したとも取れる親共産主義と親中共(中国共産党)の姿勢である。

 支那大陸ではこれより一カ月前に、国民党の蒋介石と中共の毛沢東の会談があった。この動きに合わせたかのように、中共や国内の共産主義者が国民党を批判することは許したのに、共産主義や中共への批判については言及していない。つまり許可されなかったのだ。

 マッカーサー自身は反共主義者と言われ、占領直後のGHQの容共・親共産主義的な政策は、主にGS(民政局)に潜り込んだニューディーラーやソ連のエージェントらによるものと考えられてきたが、この検閲規則をマッカーサーが知らなかったはずはない。彼はこの時点では寧ろ共産主義者に大甘だったのだ。