‐シリーズ・明かされる『満鮮史』 その3(ソビエトの羅津・雄基爆撃)‐
テーマ:近代史
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・ソ連軍を迎え撃つ日本軍 逃亡する憲兵隊
『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 13頁より
たたかう船舶兵
当時、ソ軍機にたいする船舶兵の抗戦は果敢であった。次にかかげるのは、天正丸(三千三百トン)乗組の暁第二九五三部隊の船舶兵団第一連隊森本勇氏の対空戦闘記の一節である。
敵機が来るたびに「うってはいかん」といわれた隊長は敵編隊がわが船に襲ってきたとき、はじめて号令をかけた。敵機がつつこむ寸前だ。
「おまえ等の日頃の訓練の成果を発揮するのは今だ」「うて」
今までじりじりしていた各砲手は一せいに火ぶたをきった。敵機は黒鷲のようにおそってくる。猛烈な爆撃投弾をくった。一回の投弾三発である。頭の上でしゅっしゅっとうなってくる。海面で「どかん」となるそのあいだの息のつまるような思い一段と大きな音がした。
爆撃の反動で、船はぐらつく、ふとみると前の柱に肉の断片がついている。あっと思って横の一段下をみれば四、五名の兵隊がやられている。一人の上等兵は手のひらをやられてざくろのようになっている。一人の兵隊は指をとばされて、おさえながら、それでも機銃にすがっている。
また大きな音がした。
耳がやぶれそうだ。ふりかえると、機関銃の砲口が自分の耳に向っている。射主に「無茶するな」と怒つたら、「すまんすまん丁度よいところに敵機がきたんだ」と笑った。ふと横をみると自分のすぐそばに倒れている分隊長が、「膝をやられた。骨はくだけているだろう。血どめをしてくれ、このロープで」といって腰からロープをはずして自分にわたした。
自分は力いっぱいしばりながらその弾が貫通していたら、自分のどてっ腹に入っていることをおもいぞっとした。夕ぐれ暗くなって、傷ついた戦友に、「早くよくなって帰ってこいよ」「おお元気で早く帰ってくるぞ、後をしっかりたのむぞ」といってボートの中と船の上からわかれた。
この暁部隊も弾をうちつくし、十日朝退船命令をうけ、のこる全員上陸し、清津目指して南下した。
姿を消した軍隊
その夕刻、北村羅津府尹(市長)が憲兵隊の幹部にあって戦況をきくと、「来襲の敵機は、大体ソ軍機に相違ない。しかしソ連の来襲は、アメリカその他への義理合上参加したもので、真から日本とたたかう意思ありとは思えない。ちょうど張鼓峰事件の時のようなものだ」という回答であり、市民のことを心配してきくと、「避難命令はだす必要なし」と明言していた。
その夜、市内各配給所に、主食米、味噌、醤油一ヵ月分の無条件即時配給が命ぜられた。
<1945年>八月五日に竣工したばかりの府尹官舎横の待避壕に、府の事務が移され、その夜係長以上はここで執務した。府内各中初等学校の勅語、御真影は、もれなくこの待避壕内特別室にうつすべく各学校長に通達された。十日も朝から梯団の来襲がつづき、機銃掃射でさながら豆を煎るような有様だった。
この頃、軍は憲兵隊とともに府民に知られないようにいつしか姿を消していた。
「予定の退却」の軍機保持のためとその理由をあとで明らかにしている。しかしのこる市民のことはどうして考えなかったのだろうか。
北村府尹<きたむらふいん>はその手記に次のように書いている。
「十日午前十時すぎ、中原警察署長とともに憲兵隊を訪れると驚くべしもぬけの殻だ。裏庭にプスプス煙がみえ、重要書類を焼却したらしいあとがみえる。そこへ補助憲兵一人帰ってきたのできくと、“自分は早朝から外部の警戒を被命帰ってみると隊長以下の姿がみえないのでさがしているところだ”との答<こたえ>、平素威張りちらした憲兵が、関係方面になんらの連絡もつけず、市民をうち捨ていち早く逃げさるとは憤激にたえない。午後も爆撃はつづいている。これ以上最悪の場合はあるだろうか、さいわいソ軍がまだ羅津に上陸してこない。よし、避難命令を出そうと決意した」
その頃羅津の港は岸壁のドラム鑵が破裂して、油は海上にながれ、文字通り火の海であった。
満鉄関係者(家族とも六千名いた)は、一般市民とすこし離れた地区におり、軍と連絡が密であったので、十日朝、待避命令をうけた。全員を三十六班にわけて、統制をとりながら、その日十五時までに水源地に集合するよう命令されていた。
雄基も、羅津とおなじ八日夜十二時前に、十二個の照明弾により全市街は照し出された。それと前後して、その管下土里<とり>駐在所は、図們江<ともんこう>を渡河して来た快速艇の一団により、襲撃放火された。
雄基の爆撃は、羅津より少しおくれて、九日午前五時頃からはじまった。
まず船と埠頭がねらわれた。船の乗組員の重軽傷者が、雄基にある羅津陸軍病院に収容されたが、それだけでは不十分なので、道立病院にもはこばれた。
市街はソ連機の跳梁にまかし、市民は九日午後、山手方面に避難した。
十日朝五時、木原憲兵隊長、郡守、佐々木邑長、梅津警察署長と実地調査のために来ていた手塚道兵事課長と協議して、九時に退去命令が発せられた。
十一日、警察、兵営、憲兵隊、埠頭倉庫は自爆した。
邑会議員、消防指令吉田伊蔵氏は、十一日夕方まで残り、その夕刻ソ連軍艦が二隻入港して、上陸開始を見とどけてから避難している。
<>は筆者註
『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 12~14ページ
・帝国末期 貴重な朝鮮北部の歴史
『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑より
参考までに、当時の地理を掲載させて頂きますが、今回「ソ連軍に爆撃を受けた」羅津や雄基は、朝鮮半島のずっと北方(右上)のソビエト連邦との国境沿いの都市です。
すでに、多くの方々から知られていた事実でしたが、軍関係者(憲兵隊)の上層部連中は、現場で命懸けでたたかう兵士や、「非戦闘員」である市民らを差し置いて、そそくさと「重要書類(戦後政府にとって不利な情報)」を燃やし、トンズラを謀ったこと。これ自体は『大日本帝国の悪癖』として、歴史の節々で散見される事例です。
※大戦末期の日本軍配置図
のち北朝鮮での戦局が悪化し、「南鮮」からの大本営直属第十七方面軍の動員やら、にわかに慌ただしくなる朝鮮半島の趨勢に、南からはアメリカ軍の突き上げ、北からはソ連軍の進撃がありと、もはや“四面楚歌”の状態であった日本帝国において、その『外地防衛』のために、多数の朝鮮人が兵隊として駆り出され、きたる本土決戦の悪夢が間近に迫って来ている状態でした。
<参考資料>
・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑
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