私たちは「体験の世界」と「イメージの世界」という2つの世界に住んでいます。
「体験の世界」とは、心身で味わい感じるもので、常に現在です。過去の「体験」は「記憶」、未来の「体験」は「想像」でしかない。どちらも「イメージの世界」です。
今ここで飲むお茶は、今ここで「体験」します。飲み終わったら「体験」の残像が意識にあるけれど、それはもう「体験」ではありません。
「体験の世界」は「今ここ」にしかないのです。
それに対して「イメージの世界」は時間を超越しています。過去を思い出すとき、「記憶」という「イメージ」を味わっている。そして、それはいつでもどこでも想起できるという特徴をもっています。
「イメージの世界」には「観念の世界」も入れることにします。たとえば、「私はダメな人間だ」と思ったとしたら、これは「観念」であって「体験」ではありません。「ダメな人間だ」という「体験」は存在しないということがお分かりでしょうか。「ダメだ」というのは実在するわけではなく、人間の頭がこしらえた「アイディア」です。
「アイディア(観念)」や「イメージ」は、「今ここ」とは独立して存在しています。
「体験」は次々に過ぎ去っていき、常に「新しい」。二度と同じ「体験」はない。
けれど、その「体験」についてコメントをする「観念(イメージ)」は過去・現在・未来を超えて存続できる。
たとえば、プレゼンテーションで言葉を言い間違えたとしましょう。それは先月の3日の午後3時に起こったと。そうすると、その「体験」はその瞬間終わっているわけです。ところが、それについてコメントする意識が、今でも自分を悩ませている。「バカなミスをしてしまった」「恥をかいた」と言って自分を責めている。
この「バカなミスをした」「恥だ」という「観念」は、「体験の世界」で起きていることではありません。「体験の世界」ではとっくに終わっていることであり、周囲の現実は先に進んでいる。ところが、「イメージの世界」でこの人は苦しみ続けているわけです。
このように、この人は現実体験によって苦しんでいるのではなく(なぜなら現実としてはもう存在しないのだから)、過去の体験についての「イメージ・観念」によって苦しんでいるのです。
問題は「現実の体験世界」にはなく、「イメージ・観念の世界」にだけあるわけです。
言い換えますと、苦しみは「客観的現実」にではなく、「主観的想像」の中にあるということです。
さらに換言しますと、人間は自分のこしらえた妄想によって苦しんでいるわけです。
問題は、大部分の人間が「苦しみは自分の内面が作り出している」ということに気づかないことなのです。妄想を現実だと思っている。夢を実在だと思っている。「体験の世界」と「イメージの世界」を混同して、同じものだと思っている。ここに基本的な無知があります。
ということで、人間のこの基本的な無知から解放されるには、実在と想像の区別ができることが重要です。
こっちは「体験」で、あっちは「観念・イメージ」だと分かる。この区別ができることが、妄想から目覚めて、実在を知ることです。
Reality(実在・現実・あるがまま)に目覚めるのは、常に「今ここ」においてです。過去と未来は想像でしかありません。実在する唯一の「時」は「今ここ」なのです。
「今ここ」の「あるがまま」から離れて、想像の世界の虜になるとき、夢の世界に彷徨い実在を見失います。
瞑想において、呼吸を観察するのはなぜかと言うと、1つには呼吸は常に「今ここ」で「体験」できる実在だからです。呼吸とともにいるとき、私たちは妄想していません。過去を悔やんだり未来を心配していません。呼吸は常に「今ここの体験」なのです。
瞑想が意識を sane(まとも・正気)にするのは、「観念・イメージ」で成り立つ悪夢の世界を離れるからです。「今ここ」にあるものしか扱わない。私たちの意識を実在にアンカーする(錨を降ろす)のです。
「今ここ」の「体験」以外はすべて妄想です。
「このままいったら私は孤独死するのかしら」と思っているとき、これはイマジネーション(想像)です。そして、想像とは「今ここ」に存在しないものを思い描いているだけです。妄想によって苦しむという現象が起きます。
この人が想像している未来は存在しません。存在するのは「今ここ」に「体験」できるものだけです。
しかし、この人は好ましからざる未来を「イメージ・観念」することによって、自分自身を怯えさせているという「事実」がここにあります。これは、この人の「今ここでの体験」となります。
この人は、怖い未来イメージを用いて、自分を怯えさせている。それが「今ここ」で行われている。それが真実です。自分が自分を怯えさせていることが本人には見えません。無自覚です。だからそこから自由になれません。想像している未来像が「現実」であるかのように錯覚しています。これが無知です。
妄想を妄想だと看破できることが智慧です。そして、智慧が働いた瞬間、妄想を離れることができます。自分が自分を怖がらせていたのだと見えた瞬間、妄想への感情移入が止みます。
妄想が妄想だと見えないこと。自分が選んでいることを自分が選んでいないと思うこと。これがあべこべであり、無知です。無知が見えたとき、智慧がそこにあります。そして、智慧が目覚めることによって、この人は自らの作り出した妄想から解放されます。
常に問題は「今ここ」で何が起きているかに洞察を得ることです。過去や未来はすべて「イメージ・観念」であり幻想です。Reality は常に「今ここ」にあります。
問題を作り出すのが「今ここ」なら、解くのも「今ここ」です。束縛も解放も「今ここ」以外にはありません。
実在は「思考」を超えたものです。なので、悟りを目指す人には「考えるな」という教えが与えられます。「考えず、感じろ」と言われます。なぜかと言うと、「思考の世界」は「イメージの世界」なんです。「体験の世界」を知的に掴もうとするとき、我々は「思考」を用います。けれども、思考で掴んだ瞬間、実在はするりと抜けて変化していきます。真理とは「思考」で掴んでしまえるようなものではありません。「思考」で「だいたいこういうこと」と指し示すことはできます。けれど、「思考」や「言語」は真理そのものではないのです。真理や実在は、体験し直覚する以外にない。
「思考」という形にしてしまったら、「今ここ」に生きた真理ではもうなくなっている。「実在」や「真理」は生きているものです。そして、それを味わうには「今ここ」を生きていなくてはならないのです。
「体験の世界」とは、心身で味わい感じるもので、常に現在です。過去の「体験」は「記憶」、未来の「体験」は「想像」でしかない。どちらも「イメージの世界」です。
今ここで飲むお茶は、今ここで「体験」します。飲み終わったら「体験」の残像が意識にあるけれど、それはもう「体験」ではありません。
「体験の世界」は「今ここ」にしかないのです。
それに対して「イメージの世界」は時間を超越しています。過去を思い出すとき、「記憶」という「イメージ」を味わっている。そして、それはいつでもどこでも想起できるという特徴をもっています。
「イメージの世界」には「観念の世界」も入れることにします。たとえば、「私はダメな人間だ」と思ったとしたら、これは「観念」であって「体験」ではありません。「ダメな人間だ」という「体験」は存在しないということがお分かりでしょうか。「ダメだ」というのは実在するわけではなく、人間の頭がこしらえた「アイディア」です。
「アイディア(観念)」や「イメージ」は、「今ここ」とは独立して存在しています。
「体験」は次々に過ぎ去っていき、常に「新しい」。二度と同じ「体験」はない。
けれど、その「体験」についてコメントをする「観念(イメージ)」は過去・現在・未来を超えて存続できる。
たとえば、プレゼンテーションで言葉を言い間違えたとしましょう。それは先月の3日の午後3時に起こったと。そうすると、その「体験」はその瞬間終わっているわけです。ところが、それについてコメントする意識が、今でも自分を悩ませている。「バカなミスをしてしまった」「恥をかいた」と言って自分を責めている。
この「バカなミスをした」「恥だ」という「観念」は、「体験の世界」で起きていることではありません。「体験の世界」ではとっくに終わっていることであり、周囲の現実は先に進んでいる。ところが、「イメージの世界」でこの人は苦しみ続けているわけです。
このように、この人は現実体験によって苦しんでいるのではなく(なぜなら現実としてはもう存在しないのだから)、過去の体験についての「イメージ・観念」によって苦しんでいるのです。
問題は「現実の体験世界」にはなく、「イメージ・観念の世界」にだけあるわけです。
言い換えますと、苦しみは「客観的現実」にではなく、「主観的想像」の中にあるということです。
さらに換言しますと、人間は自分のこしらえた妄想によって苦しんでいるわけです。
問題は、大部分の人間が「苦しみは自分の内面が作り出している」ということに気づかないことなのです。妄想を現実だと思っている。夢を実在だと思っている。「体験の世界」と「イメージの世界」を混同して、同じものだと思っている。ここに基本的な無知があります。
ということで、人間のこの基本的な無知から解放されるには、実在と想像の区別ができることが重要です。
こっちは「体験」で、あっちは「観念・イメージ」だと分かる。この区別ができることが、妄想から目覚めて、実在を知ることです。
Reality(実在・現実・あるがまま)に目覚めるのは、常に「今ここ」においてです。過去と未来は想像でしかありません。実在する唯一の「時」は「今ここ」なのです。
「今ここ」の「あるがまま」から離れて、想像の世界の虜になるとき、夢の世界に彷徨い実在を見失います。
瞑想において、呼吸を観察するのはなぜかと言うと、1つには呼吸は常に「今ここ」で「体験」できる実在だからです。呼吸とともにいるとき、私たちは妄想していません。過去を悔やんだり未来を心配していません。呼吸は常に「今ここの体験」なのです。
瞑想が意識を sane(まとも・正気)にするのは、「観念・イメージ」で成り立つ悪夢の世界を離れるからです。「今ここ」にあるものしか扱わない。私たちの意識を実在にアンカーする(錨を降ろす)のです。
「今ここ」の「体験」以外はすべて妄想です。
「このままいったら私は孤独死するのかしら」と思っているとき、これはイマジネーション(想像)です。そして、想像とは「今ここ」に存在しないものを思い描いているだけです。妄想によって苦しむという現象が起きます。
この人が想像している未来は存在しません。存在するのは「今ここ」に「体験」できるものだけです。
しかし、この人は好ましからざる未来を「イメージ・観念」することによって、自分自身を怯えさせているという「事実」がここにあります。これは、この人の「今ここでの体験」となります。
この人は、怖い未来イメージを用いて、自分を怯えさせている。それが「今ここ」で行われている。それが真実です。自分が自分を怯えさせていることが本人には見えません。無自覚です。だからそこから自由になれません。想像している未来像が「現実」であるかのように錯覚しています。これが無知です。
妄想を妄想だと看破できることが智慧です。そして、智慧が働いた瞬間、妄想を離れることができます。自分が自分を怖がらせていたのだと見えた瞬間、妄想への感情移入が止みます。
妄想が妄想だと見えないこと。自分が選んでいることを自分が選んでいないと思うこと。これがあべこべであり、無知です。無知が見えたとき、智慧がそこにあります。そして、智慧が目覚めることによって、この人は自らの作り出した妄想から解放されます。
常に問題は「今ここ」で何が起きているかに洞察を得ることです。過去や未来はすべて「イメージ・観念」であり幻想です。Reality は常に「今ここ」にあります。
問題を作り出すのが「今ここ」なら、解くのも「今ここ」です。束縛も解放も「今ここ」以外にはありません。
実在は「思考」を超えたものです。なので、悟りを目指す人には「考えるな」という教えが与えられます。「考えず、感じろ」と言われます。なぜかと言うと、「思考の世界」は「イメージの世界」なんです。「体験の世界」を知的に掴もうとするとき、我々は「思考」を用います。けれども、思考で掴んだ瞬間、実在はするりと抜けて変化していきます。真理とは「思考」で掴んでしまえるようなものではありません。「思考」で「だいたいこういうこと」と指し示すことはできます。けれど、「思考」や「言語」は真理そのものではないのです。真理や実在は、体験し直覚する以外にない。
「思考」という形にしてしまったら、「今ここ」に生きた真理ではもうなくなっている。「実在」や「真理」は生きているものです。そして、それを味わうには「今ここ」を生きていなくてはならないのです。