吉田貞次郎先生を偲ぶ
和田 松ヱ門
吉田貞次郎さんについて書くよう依頼をされたのであるが、私とは二十年の年齢差があり親子程の私には、少年の頃から偉い人という印象と青年時代から、上富良野復興の偉大なる恩人として崇拝して来たのである。
しかし、個人的接触や交際が少ないので吉田貞次郎さんの伝記を書くことは至難なことで、長男の千里さんにお願いして経歴をお聞きした。それを記し、次に私が吉田さんからうけた思い出や、印象を書いて見たいと思う。
吉田貞次郎 略歴
吉田家の祖先は江州の近江源氏の佐々木氏に発し、同じ江州の吉田の郷に居た。
後北畠の家臣となり南勢に移住したが、後同地の高田派専修寺の寺領の寺士として其の地方の行政を司る武家となった。
近世に至り津藩に編入され現在の津市一身田町に居住した。
廃藩後、十一代父貞吉は米穀商並びに製油業を営んでいた。
明治三十三年貞吉(四十八才)は、妻とき、長男貞次郎(十六才)以下男三名女三名を引きつれて、上富良野村三重団体に入植した。
年 譜
明治十八年二月十七日 | 三重県河芸郡一身田町で津藩士吉田貞吉、ときの長男として出生。 |
明治三十年三月二十三日 | 一身田小学校卒業。 |
明治三十三年四月七日 | 両親と共に上富良野村三重団体に移住、未開地を拓き農業に従事するかたわら自学自習に励む。(十六才) |
明治三十八年十二月一日 | 一年志願兵として旭川歩兵第二十八連隊補充大隊に入隊。 |
明治四十一年六月一日 | 陸軍歩兵少尉。 |
明治四十二年十二月十六日 | 田中アサノと結婚。 |
明治四十三年六月一日 | 上富良野村村会議員。 |
明治四十三年六月一日 | 上富良野村農会長(二十六才)。 |
明治四十五年三月二十五日 | 帝国在郷軍人会上富良野村分会長。 |
大正二年三月十日 | 上富良野信用販売購買組会長。 |
大正二年十二月三十一日 | 北海道凶作救済会委員。 |
大正三年四月一日 | 上川外四郡農会議員。 |
大正五年十月一日 | 日本赤十字社特別社員。 |
大正八年五月十三日 | 陸軍歩兵中尉。 |
大正八年六月二十四日 | 上富良野村長(三十五才)。 |
大正十一年六月一日 | 東中富良野土功組合長。 |
大正十二年十月一日 | 草分土功組合長。 |
大正十五年五月二十四日 | 十勝岳爆発、被災者の救護と被災地域の復旧に努力。 |
昭和三年四月一日 | 上川町村会々長。 |
昭和七年四月一日 | 北海道農会議員。 |
昭和八年十一月二十日 | 北海道製酪販売組合連合会幹事。 |
昭和八年十月 | 酪農義塾理事。 |
昭和九年六月十二日 | 帝国在郷軍人会上川連合分会長。 |
昭和十年二月五日 | 上川支庁管内土功組合連合会副会長。 |
昭和十年二月十四日 | 上川家畜保険組合副組合長。 |
昭和十年七月九日 | 上富良野村長退任。 |
昭和十年八月六日 | 北海道信用購買販売組合連合会監事。 |
昭和十一年五月 | 北海道製酪販売組合専務理事。 |
昭和十二年六月三十日 | 帝国在郷軍人会審議員。 |
昭和十二年六月三十日 | 財団法人軍人会館評議員。 |
昭和十三年十月十三日 | 北海道捕猷株式会社社長。 |
昭和十四年七月 | 北海道製酪連合会理事。 |
昭和十四年六月 | 北海道燕麦生産者連合会理事。 |
昭和十六年二月 | 大政翼賛会上川支庁支部協力会議々長、大政翼賛会北海道支部協力会議員。 |
昭和十六年十月 | 北海道信用購買販売組合連合会理事。 |
昭和十七年四月三十日 | 衆議院議員当選。 |
昭和十八年七月一日 | 衆議院文部省委員。 |
昭和十八年五月十一日 | 勲五等瑞宝章授与。 |
昭和十九年五月十七日 | 勲四等瑞宝章授与。 |
昭和二十三年七月二十五日 | 死去(六十三才)。 |
略歴で見るように吉田貞次郎さんは独学で専検をパスし、一年志願兵として将校になられたことを見ても秀才であったことが伺われる。
二十六才で村会議員、村農会長、二十八才で在郷軍人分会長、二十九才で信用販売購買組合長、三十五才で上富良野村長となったことを見ても、人格高潔で如何に信望が厚かったかが想像できるのである。
吉田貞次郎さんの思い出
(一)
私が小学四年生の頃(大正四年)、信用組合の総会が、上富良野小学校(創成小学校)の教室で開かれて、父の代理で出席したことがある。
組合長が吉田さんで、初めて会ったのである。
確かお正月の冬休み中で総会修了後、初めて豚汁を食べ福引で景品を貰ったことを忘れない。当時通称、信用組合と言って居り、正式の名称は上富良野信用購買販売組合で、貯金と肥料の共同購入が主な事業で事務所は吉田さん宅であった。組合員も五十名位で、草分を中心にした日の出の農家が主であったと思う。
その後年々急速に組合員が増加し江花、江幌、日新、里仁、富原、旭野と拡大されたのである。
(二)
大正六年六月、筆者が六年生の時、里仁小学校の運動会を六年全員で見に行って、従兄の林勝次郎君と二人で田浦金七さんの家に泊り、翌日帰る途中三十号のエホロカンベツ川の橋の袂で魚釣りを見て居た処、振り上げた釣り竿の針が林勝次郎君の指にひっかかった。
針の根元から糸を切って貰い、近くの吉田さんの家へ行きおばあさんに頼んだ。
吉田貞次郎さんが畑から来て剃刀で切って針を抜き取り、消毒して包帯をして貰って帰ったのである。
吉田さんに身近く接したのはこの時が初めてである。
(三)
六年生の十二月の暮れに、父の使いで吉田さんの家へお金を持って行ったことがある。
吉田さんから借りた金の返済金だったか、信用組合に払う金であったかは覚えて居ない。
(四)
大正八年六月に上富良野村が一級村になり、初代村長に吉田貞次郎さんが選ばれた。
二階建のモダンな木造庁舎(今の農協スタンドの処)が建築され、大正九年四月中旬に祝賀会の提灯行列が行われた。
この日役場の道路東の広場で上富良野連合青年会の発会式が挙行され、初代舎長に吉田貞次郎、副会長に山本逸太郎が決まった。
(五)
私の青年時代「上川管内に名村長として中央部に林路一当麻村長、南に吉田貞次郎上富良野村長、北に未だ名村長なし」という講演を聞いて感動したのである。
当時旭川市を除いて管内に市制は布かれて居らず、東鷹栖、永山、東旭川、神楽、神居、江丹別、智恵文、上士別、多寄、温根別、山部村等合併村を含めて三十五町村あった。
そして一級、二級村制があり二級村長は官選で道庁長官の任命で、一級村長は村会議員の間接選挙によって決められた。
若冠三十才台の吉田さんが名村長として名が高かったということは誠実、清廉潔白、愛郷の士として卓越した手腕が社会から認められたからである。
(六)
大正十五年五月二十四日十勝岳の爆発は上富良野村史にとって重大な出来事であった。
爆発によって、災害は上富良野開拓三十年の苦難の歴史を一瞬にして消し去ったのである。
この時吉田村長のお母さんは泥流にさらわれて亡くなられたのであるが、責任感の強い吉田さんは自宅にも帰らず、直ちに本通り駅前十字街(今の福屋薬局)に臨時救護事務所を設け救援活動の陣頭指揮に当られた。
この行動は村民の胸を強く打ったのである。
災害地復興か?放棄か?の説は村を二分して大きく揺れた。
吉田村長は墳墓の地として開拓したこの土地を捨てることは出来ないとして強い決意で復興に邁進したのである。
反対の人たらは起債反対同盟会を結成し執拗な、手段を選ばない反対運動を繰り広げた。
この時の思い出を私は『かみふ物語』に「十勝岳爆発災害と復興反対」の見出しで執筆している。
また三浦綾子さんの「泥流地帯」で紹介されていることは余りにも有名であり、若林功著「北海道開拓秘録」第一編にも「復興上富良野村の恩人吉田貞次郎」と題して十頁に亘り書かれているのでこゝでは省略させて貰う。
吉田村長の悲壮な決意と熱情に動かされ、復興は進められたが、その過程には言語に絶する苦労と努力があった。
数年にして復興は着実に進んだが復興反対者たちには根深いものがあり、野心家や利害にからむ人たらが混って、吉田村長追落しが執拗に続けられた。
当時村長は村会議員の間接選挙であり、昭和六年の選挙で敗れた反対派による根強い裏面工作で昭和十年六月の議会で、助役の金子浩さんが村長に決った。
執念深い吉田村長反対者は遂に吉田排斥に成功したのである。
吉田村長支持の村会議員は勿論、吉田さんが村のため私利私欲を離れて尽力されたその功蹟に、尊敬の念を持って居た村民には大きな衝撃であった。
虚々実々の暗躍の限りを尽し、吉田さんを追放しなければならないものは何であったか不思議でならない。
人間社会の野望、怨恨の醜い葛藤だけが後味悪く残された思いであり、日本の歴史の縮図を見るような気がするのである。
私の日の出部落からは久野春吉さんと米谷浅五郎さんが村会議員であった。
部落民の大半が三重団体人であり、吉田さん支援者であった。
区長の西山酉治さんが部落総会を開き、吉田さん支持の決議をしようとしたのである。
吉田反対派の米谷さんを糾弾することは穏当でないことを説いてこの会合を流会にしたのであるが、私自身悲憤やる方ないものがあった。
次の村会議員の選挙には米谷さんは落選したのであった。
吉田村長に師事して居た幹部職員は間もなく退職し、長井禧武さんは全国燕麦連合会へ、木内勇君は東鷹栖村役場へ、後助役となった。
朝倉一泰さんは戦後村会議員となり議長になった。
佐藤林さんは浪人中病気になり遂に亡くなられた。
村長退任後の吉田さんについては『かみふ物語』の中に「吉田貞次郎さんの思い出」と題して執筆してあるので読んで頂きたいと思う。
(七)
吉田貞次郎さんは復興という大事業を完成したその蔭に、官庁の強い支持があったことに深い感謝を持っていたことは当然で、官僚の信頼の厚かったことも又当然であった。
村長退任後不遇な吉田さんを見捨てて置く筈はなかった。
翌年五月酪達の常勤役員となった。
それまで役場内にあった産菜組合の事務所を農業倉庫の詰所に移し、事務所新築に着手したのである。田中勝次郎さんが専務で職員は三嶋保蔵、角家義雄君他一名位であった。
倉庫前に新築した事勝所は、一階が事務所と店舗、二階が大会議睾、三階は屋根裏利用の独身寮で、管理人室と応接室が平屋で事務所に廊下で続いていた。
農会事務所は役場の西側(今の農協スーパー)に家畜診療所を併設して建てられた。
獣医帥一名、技術員、職員三名位であった。
組合長、農会長兼務の事務所はそれぞれ独立したのであった。
(八)
昭和八、九年農村恐慌時代が訪れた。
農村青年の先覚者たちが産業組合主義経済組織の社会建設を旗印しとして農民運動に立ら上ったのである。
運動のリーダーとなった者は赤としての弾圧は受けなかったが、桃色の社会主義者としてマークされ特高の尾行をうけたものだ。
従って、官僚的であった吉田さんからはこうした青年の行動は好感を得られなかったようだ。
農民の組合全戸加入運動、肥料商人の排斥運動、農産物一元集荷多元販売運動、家の光雑誌の普及、組合家庭薬の配布、組合病院の創設運動等は燎原の火のように全道に拡がった。
当時の農民の倒産、離農の原因は農家負債調査の結果医療費が最も要因であった。
上川産青連が組合病院創設運動を起こしたのである。
上川管内組合長会議の上川部会長は上川支庁長であった。この組合長会議に同志を代理出席させたり傍聴に入って組合病院設立を議決させたことがあった。今でいうクーデターの一種でもあったと思う。
この時の吉田さんは反対意見者であったが、今の厚生病院である前身の組合病院が二条七丁目の向井病院を買収して発足したのである。
(九)
大東亜戦争が苛烈となって、一億総力結集の時が来て国民総動員となった。
大政翼賛会が発足し中央、地方、町村と一本の組織が出来た。
産業組合青年連盟も発展的解消をして、農業報国挺身隊となり、翼賛会の一翼として翼賛壮年団が生れた。
産業組合と農会を合併して農業会設立の法案も出来た。
この農業会設立を巡って上富良野村は一年半に亘る紛争が続いたのである。
組合長と農会長を兼務している吉田貞次郎さんが農業会長となることが、当然であるとする意見と、町村長がなることが望ましいと、道の指導要項を楯に金子村長の野望を支持する村長派と村を二分した争いとなったのである。
村長派の工作に対し、正義感に燃える農業報国挺身隊員は吉田支持に立ち上ったのである。
金子村長一本にまとめる為の農民大会が、二回も開かれたが挺身隊員や吉田支持派の人たちによって流会となった。
上富良野小学校運動場一ぱいに農民が集まり、警官隊出動を要請する物々しい大会であったが金子村長派の不成功に終った。
翼賛壮年団の役員は中立の立場を取り、円満解決の調定に入り、しばしば話合いの場が持たれた。
この会合である時、村長室に於いて吉田さんが、金子さんに向って、大声を発し憤怒されたのに驚いた。
吉田さんの当時のご心情は察するに余りあるものがあった。
吉田さんが怒ったのを見たのは初めてであり、これが最後でもあった。
吉田さんに認められ収入役、助役となった金子さんが村長の座を奪い、その上最後に残された農業会長の座までを占め、吉田さんを排斥しようとする金子さんの心境が私には不可解でならなかった。
また吉田さんの股肱の臣として信頼されて居た田中勝次郎さんの態度にも疑問が持たれた。
喧嘩両成敗の暗示を与えられて居た故か、吉田さんと生死を共にする決意が田中さんに見られない歯痒さがあった。
大東亜戦争が愈々苛烈となり敵機空襲が頻繁に行われ、本土決戦の土壇場になって漸く、会長田中勝次郎、副会長海江田武信と喧嘩両成敗の調定で終止符を打ったのである。
終戦二ヶ月前の六月二十三日であった。私は呉越同舟の陀取り役として吉田さんから懇望をうけて常務理事に就任したのであるが、一ヶ月も経たないで終戦となった。
終戦後の不安動揺と食糧不足の混乱の中に、身体を張って処理に当った事は、私にとって悔いのない思い出である。
(十)
終戦となり大政翼賛会はマッカーサー命令により解散、衆議院も解散となり吉田さんは公職追放の身となった。
吉田さんの功労を讃える頌徳碑建立の話が持ら上り役場庁舎前に建設の直前、村長の田中勝次郎さんは上川支庁に伺いを立てたのである。
戦犯者の記念碑建立は好ましくないと言われたとの理由で、建立が中止されたのである。
この前年から病床にあった吉田さんの病状は可成り進んで居るに関らず、このことを態々吉田さんに報告し、中止した田中村長の腹の無さに噴りさえ感じた。
それから二ヶ月も経たない昭和二十三年七月二十五日に他界されたのである。
既に刻まれた石碑を建てられないのであれば、近く建立の準備を進めているという報告だけでも良かったのでないか?と残念に思った。
碑は役場横に眠ったまま翌年神社境内に建てられたのである。
開拓の功労者であり、生涯を公共に捧げられた吉田貞次郎さんの晩年は、石川啄木の「石をもて追はるる如く」の歌にあるような心境でなかったかと想像され、涙を禁じ得ないものがある。
上富良野町開拓の、偉大なる恩人である吉田貞次郎さんの功績を、素直な心で見ようとしなかった人々の心根を悲しく哀れに思うのである。
吉田貞次郎さん逝いて三十五年、上富良野開拓八十五年を迎えた今日、上富良野町史の過去を偲び感慨無量なるものがある。
機関誌 郷土をさぐる(第3号)
1983年12月20日印刷 1983年12月24日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一