総務大臣届出済全国政治団体 三宅藤原氏族会
三宅藤原氏族会(みやけふじわらしぞくかい)の政治活動45年
◎画像左から、中島源太郎と文部省にて。富士重工業株式会社群馬製作所30年史。
そして、文部大臣として、竹下総理代理出席した88ソウルオリンピック開会式の公式ステッカー。
現在、政界は、卑しい者が大多数だが、中島源太郎(なかじま げんたろう)は違った。若し、読みが「なかしま」なら、卑しい者の部類だった。
* 此のpageは、subaruのpageと共に、御覧に成って戴ければ、幸甚です。
◎左の画像は、2009年10月01日、本会の名称を変更した届出書です。
◎中の画像は、I984年11月17日、開催された日本氏族会連絡協議会の設立総会案内状。
(当時三宅会長が、児島高徳公同族会理事長として、栃木県小山市を本貫とする小山氏の小山会からの強い要請を受け、
常任理事に就任したものの、意を異なる部分が有り、欠席)
氏族会・同族会は、本貫を同じくする韓国の宗親会・花樹会の如く有るぺきと三宅藤原氏族会と名付けました。
◎右の画像は、1988年05月09日発行の中島源太郎グラフ・文部大臣特別号(定価860円)の表紙ニ枚を重ねた画像です。
◎左の画像は、中島源太郎の父中島知久平生誕地の「横町の信号」です。
(知久平は明治19年(1884)1月1日農業粂吉・いつの長男として生誕。本会から100m程で昔碑が立つて居たと聞きました)
◎中の画像は、中島源太郎の生誕地の「押切の中島邸」です。
(中島源太郎後援会青年部長だった、太田市の清水聖義市長等の尽力で、2016年漸く、記念館にする事が出来ました)
◎右の画像は、父知久平を前に、右端が、中島源太郎。
◎左の画像は、1970年12月18日発行の地元地域紙Ⅰ時事新聞」と1989年05月25日発行の中島源太郎後援会機関紙「躍進」です。
(「中島構想図」として、三宅会長が始めに陳清した<北関東自動車道>描かれ、新上武大橋の完成も掲載されています)
◎右の画像は、すっかり年季が入ってしまった中島源太郎青年連絡協議会の腕章。
◎左の画像は、1987年11月06日、待望の文部大臣で入閣。閣議の席でも重要閣僚として、「北関東自動車道」の必要性を強くアピール
竹下登総理が降参し、総理が主宰する「国土開発幹線自動車道建設審議会」で決定し、総理自ら、
「中島、高速道路ちゃんと決めたからね!」と電話連絡有り、後、平成2年施工命令が出て、北関東自動車道の建設が始まりました。
◎中の画像は、中島源太郎に任せて下さいのビラです。
◎右の画像は、1988年01月24日付、文部大臣拝命の挨拶文です。
文部大臣に就任されだ翌年9月17日の88年ソウルオリンピツク開会式に、竹下総理の代理として、
盧泰愚大統領と出席の際、私が簡単な韓国語の挨拶言葉を御教示し、某れを実行した為、大統領に大変喜ばれたと話されました。
(当時の官房長官は・平成年号を発表した後の小渕恵三総理。党幹事長は、安倍晋三総理の父親晋太郎でした)
◎左の画像は、中島源太郎が、文部大臣に就任した祝いの額(三宅会長の家の玄関内側に掲げて有ります)
◎中の画像は、1969年元旦、茨城の村松山虚空蔵堂に初詣した時の画像です。
(海無し県の群馬に生まれ育つた三宅会長は、大洗・村松にパイクで行くのが年明けの慣例で、
中島源太郎初出馬前の約束は、海を見に行ける今の「北関東自動車道」を建設する事でした)
◎右の画像は、2010年3月10日、念願叶い「北関東自動車道」を走り、村松山虚空蔵堂に参拝した画像です。
(中の画像から41年の歳月が流れ、バイクから車に成り、虚空蔵堂の様相は変わりましたが、同じ場所写しました。今後、頻繁に行く事が出来ます)
◎左二つ画像は、2010年3月10日、虚空蔵堂帰りの「北関東自動車道」友部IC手前と水戸IC手前。(交通量少なく、非常に快適でした)
◎右の画像は、中島源太郎通産政務次官の時、尽力に依り、建立の<高徳公供養塔>。(其の後、六百年祭に繋がる)
◎左の画像は、大泉中島源太郎後援会青年部幹事に、三宅会長が最年少で選ばれ、1973年4月1日で、発行された「大泉中島源太郎後援会青年部名簿」
発足から、洋次郎死去迄、一貫して、青年部役員として、活躍したのは、三宅会長以外に居ませんでした。
◎中左の画像は、大泉町富士の浅間神社で、行われた大泉中島源太郎後援会の賀詞交歓会で、
右端が、同後援会発起人の江原自動車江原健二社長。
◎中右の画像は、三宅会長の父上の名刺で、中島飛行機の労組関係者の為、中島源太郎が支援要請に参上した訳です。
(中島飛行機は、50万人の大所帯で、三宅会長の両親は、中島飛行機でめぐり逢い、結ばれ、会長が誕生し、そんな縁が有って、支援したのです)
◎右の画像は、1992年洋次郎が初出馬した時、有力支援者のみに、贈られた<洋次郎人形>。
後継の洋次郎は、自分を犠牲に出来ず、三宅会長と松田二名で、対策に議員会館に行ったものの、会えず、
翌々日の2001年1月6日洋次郎は、自分から、身を断ち、中島後援会は、空中離散しました。
※ <大泉中島源太郎後援会一人目会長久保田三郎(クボタデパート社長)、二人目会長蜂谷徹夫(蜂谷病院院長)、三人目会長若旅吉弥(洋泉興業社長)>
毎年三箇日、此処に招かれ・御屠蘇を御馳走に成つた後、中島源太郎代議士と東の選挙区境迄、車数台で、年始遊説するのが、
慣例で、三宅会長が十数年禅定善行ないましたが、大臣就任後、地元に帰れ無く成り、一度影武者を使いましたが、判つてしまい、
私の発案で館林飛行場のセスナを飛ばし、音声のみで、空から新年の遊説を行いました。
三宅会長が、韓国に正月出掛けるのは、其の後からで、成田空港ロビーでフライトを待つて居ると晴れ着を着た美人に、
御屠蘇を配つて貰え、其れを御代わりするのが楽しみだったとの事です。
◎左の画像は、1986年10月4日、自民党副幹事長に就任した祝いの宴。(右から、三宅会長・中島源太郎・矢島・稲川・江原。東揚軒にて)
◎中の画像は、中島源太郎が、地元滞在の際、棲む押切の邸宅西に有る自宅。
◎右の画像は、中島軍団太田市議会新政クラブの皆さん。[1988/1/1新政クラブ会報]
(前列左から、安倍晋太郎幹事長と中島源太郎文部大臣で、飯田裕重は遺族会で、新井章夫は初代城代家老で、御世話に成りました)
◎左の画像は、上記画像左の「時事新聞」の中島源太郎の記事部分拡大画像です。
◎中左の画像は、1987年12月6日行われた文部大臣就任祝賀会で、配られた式次第。
◎中右の画像は、微笑ましい源太郎・隆太郎の親子。[1987/12/20中島源太郎後援会機関紙「躍進」] ◎右の画像は、仝親子の名刺。
1988年5月22日、中島大臣が、県生涯学習センターにて、講演を行うと云う事で、県境の刀水橋北詰で、待機して居るとサイレンを鳴らしながら、
渋滞の車線を避ける為、逆走しながら、埼玉県警のパトカーに、先導されたセンチュリーが来て、
同じく、待機して居た群馬県警のパトカーの先導で、大臣専用車を挟む様に、韓国を走った愛車430で、前橋迄、伴走しました。
若旅吉弥後援会長のシーマーや愛車430の後部座席に、御二人を乗せて、走った事も有りました。
◎左の画像は、中島源太郎代議士の文部大臣就任に際し、お祝いの挨拶に文部省を表敬訪問した写真と、
パーベキユ一大会で、陳情中の写真(当時通産政務次宮・御正作公圃)。
◎中の画像は、1987年11月6日、竹下内閣閣僚の雛壇写真(三段目左から二人目)。
後の小渕恵三総理・小沢一郎元民主党代表・石原慎太郎元東京都知事の顔も見えます。
◎右の画像は、文部大臣中島源太即代議士の色紙。
父母が勤務して居た中島飛行機では、人材不足で、筑豊の炭鉱から、
多くの韓国・朝鮮人を雇用しましたが、寝泊りに困る程、住居が無く、労組の副委員長をして居た父は、
大きい家だった我が家の四間を提供し、其の一家族六人が、在日韓国人でした。中島飛行機の東側が、
住吉町として、整備され、其の子弟が、同級生の中に幾人も居た関係から、韓国が、身近でした。
大学を退めて、帰郷レたものの、仕事が無く、其の間借りして居た韓国人の伜が、
ニ歳年上で、「運送を遣れ、俺が保証人に成るから」と云う事で、
当時六百万円のトラツクを買い、定年に成った父親と、先祖の縁の地を訪ねながら、全国を八年間旅して、
父親が亡くなった後は、母親を電話番に取扱業で、儲けさせて貰いました。
家の中は、全て韓国です。韓国語も判らず,韓国を語って居るメデイアを視て居ると腹立たしく成ります。
ですから、韓国人妻の作る韓国料理を食べ・輸入した李朝家具に囲まれ、韓国語で暮らして居ます。
NGO東亜友誼慈業研究会設立39年を迎えた今、中島飛行機の子息中島源太郎が、
常々、云って居た事は、「一つの専業を成し遂げるのは、二十年の歳月が必要なんだよ」の意味が、
今やっと判った訳です。其の中島代議士の為に、設立した此の政治団体三宅藤原氏族会も、45年です。
◎左からの画像は、1985年10月、中島源太郎が著わした<ハイヒールと糞尿>エール出版社と、すっかり、酔ってしまった様子。
◎次の画像は、三人目「大泉中島源太即後援会長」に御願いした若旅吉弥の名刺。(若旅会長と私の母は同級生で、御世話に成りました)
(洋泉興業株式会社の社長で、大泉町商工会長も兼ね、自宅の座敷で、忙しい執務をこなして居ました)
◎更に次の画像は、中島源太即に陳情から始まった我が祖<児島高徳公六百年祭>の福田赳夫総理揮毫の墓碑。(費用は、富士重工の筆頭株主中島源太即提供)
◎画像は、「イラク人質事件」解決の中島源太郎の報告状です。
◎画像は、1992年2月8日、上毛新聞記事と産経新聞記事。
◎左の画像は、1992年2月16日、太田市体育館で、催された中島源太郎葬儀の案内状。
◎中の画像は、此の葬儀に、三宅会長が、要人車両誘導担当として、穴原千秋秘書と連携し、無事、来賓等要人到着完了。(会場内に戻った時の疲れた表情)
◎右の画像は、翌17日、上毛新聞記事。
* 日韓親善協会中央会の田中龍夫会長の勧めに依り、こころの家族支援の為、映画「愛の黙示録」を上映し、同法人に、益金59方円を寄付しました。
田中龍夫と中島源太郎は同じ清和会(福田派)で、共に多摩霊園に眠る。 <三宅藤原氏族会 事務局>
【本会関連年表】
1973年03月01日 大泉中島源太郎後援会青年部発起人に最年少で選ばれる。
1973年04月01日 大泉中島源太郎後援会青年部幹事就任。
1976年04月02日 中島源太郎後援の為、群馬県選挙管理委員会に「は一とふる倶楽部」届出、会長就任。
(現在も、政治活動の一環で、「お見合い韓国」として、出会いを提供しています)
1987年09月20日 本政治団体の名称を「は一とふる倶楽部」から、「ハートフル倶楽部」に変更届出。
1988年02月29日 (財)上毛新聞厚生福祉事業団より、感謝状授与。
1988年03月16日 (財)上毛新聞厚生福祉事業団より、感謝状授与。
1988年05月06日 読売愛のあかき基金実行委員会より、感謝状授与。
1988年05戸23日 (財)上毛新聞厚生福祉事業団より、感謝状授与。
1988年06月28日 読売愛のあかぎ基金実行委員会より、感謝状授与。
1988年07月29日 (財)上毛新聞厚生福祉事業団より、感謝状授与。
1989年06月10日 東邦病院他経営の駒井実参議院議員群馬地方区立候補の際、
太田広域地区事務所に於いて、選挙参謀として、就任。
1991年06目24日 本政治団体の名称を「ハートフル倶楽部」から、「児島高徳公直系同族会」に変更届出。
1998年07月10日 本政治団体の名称を「児島高徳公直系同族会」から、「東亜友誼慈業研究会」に変更届出。
2009年10月01日 本政治団体の名称を「東亜友誼慈業研究会」から、「三宅藤原氏族会」に変更届。
◎左の画像は、大泉町真下正一町長(翌年迄、五期町長を務め引退)も、葬儀出席。
◎中の画像は、1999年06月29日15時過ぎ、青瓦台迎賓館に、招かれ、金大中大統領と握手をしながら、暫しの会話。
◎右の画像は、2005年02月20日、同級生の長谷川洋大泉町長等と、韓国との姉妹都市提携を陳情したが、関心が無い様子だった。
◎左の画像は、母が勤めていた中島飛行機(十号会)の宴会で、中央が中島源太郎と最前列右端が私の母。
◎右の画像は、同時期の地元後援会の国会見学会で、中央が中島源太郎の前に、私の母で、最前列右端が私の父。
◎左の画像は、福田赳夫代議士の色紙。福田赳夫総理大臣には、私の遠祖児島高徳公六百年祭の名誉会長を御願いしました。
福田赳夫総理大臣は、1976年12月24日に第九十一代内閣総理大臣に選出された福田康夫代議士(既に引退)の実父です。
ブラジルの金鉱山を所有する分家三宅昭夫も、当時、福田赳夫に、陳情していたが、
私の耳に入って居なかったのが、非常に残念。
◎中左の画像は、外務大臣安倍晋太郎代議士の色紙。
中島後援会が、講演に招いて、終了時演壇から降りて、真っ先に私に手を差し伸べ、握手後、会食しましたが、
其の時、秘書として同行して居たのが、2006年9月26日総理大臣に選ばれた次男安倍晋三代議士です。
富士重工業の筆頭株主で、富士通の株主だつた中島源太郎の財は、安倍晋太郎に食われて、
後継の洋次郎は、金が無く、秘書の金に手を出し、自害した訳です。
晋三総理の昭恵夫人は、小泉元総理訪韓の際、と面談した程の「冬ソナ」大ファンで、韓国語も、少し出来ます。
◎中右の画像は、農林水産政務次官福田宏一参議院議員の色紙。
福田赳夫総理の実弟です。総理秘書官の時、赤坂プリンスホテルの清和会事務所と議員会館に詰めて居た処を二度度陳情に出掛けました。
其の後、参議院議員に転身されたので、支援しましたが、非常にに気遣いの有る人で、会うのが楽しみな方でした。
◎右の画像は、安倍晋三に、送信した返事の無いメール。
◎画像は、母死亡時の弔電と盂蘭盆に際し、小渕恵三総理の挨拶状と小渕恵三総理発行の二千円札。
そして、1998年11月26日、私の上毛新聞来訪記事の上に、洋次郎に関する記事有り。更に、洋次郎の名刺。
更に、母の葬儀の際、三塚博・島村宜伸等に、戴いた献花の一部。
◎左の画像は、1996年5月16日、日韓親善協会中央会三塚博新会長就任パーティー(ホテルニューオータニ)に招かれ、仲宗根美樹と話す。
他に、桂銀淑・松平直樹・自民党群馬県連会長尾身幸次等と会う。
◎右の画像は、1998年1月30日、仝中央会と東京日韓親善協会連合会との年賀詞交歓会(霞会館)で、戴いた三塚博事務所青木昭宣顧問の名刺。
◎左の二つの画像は、徳田虎雄の自由連合から送られた挨拶状と徳田虎雄の家族等のスナップ。
◎右の画像は、2000年06月08日、江戸川の事務所を訪問し、衆議院議員総選挙「島村宜伸」への手書き<絵ビラ>目出度く当選。
母の葬儀に、献花と香典を戴いた御礼。引退しているが、日韓議員連盟のメンバーだった。
◎左の画像は、2010年02月22日、民主党大畠章宏の地元事務務所を訪問し、渡辺忠臣事務総長と面談後、大畠章宏代議士と会談。
◎中の画像は、仝事務所前の「作曲家吉田正の生誕の他記念碑」。(事務総長にシヤッターを切って貰いました)
◎右の画像は、大畠のリーフレット。20I0年09月17日、菅直人「有限実行」改造内閣に於いて、経済産業大臣に就任し、
◎翌年01年14日、仝、二次改造内閣に於いて、国土交通大臣に横滑りしました。日韓議員連盟のメンバーだった。
【選挙支援等】(順不同)
衆議院議員 尾身幸次・茂木敏充・小渕恵三・三塚博・福田康夫・中島政希・島村宜伸・徳田虎雄
参議院議員 福田宏一・羽生田進・上野公成・石井一二・中曽根弘文(幾度陳情しても、駄目)
群馬県知事 小寺弘之
大泉町長 真下正一・長谷川ひろし(同級生)・斉藤直身・
大塚まさひさ(我が遠祖児島高徳公六百年祭に父親大塚次郎より寄付受領)
中之条町長 小渕光平
群馬県議会議員 平田清久・中島勝敬・菅野義章・久保田順一郎
大泉町議会議員 吉川安男・松島広之・柿沼伊一・古沢利治・久保田一郎・村山博茂(同級生・富士重工労組)・川島洋・川島清八・
渡辺政和・高尾芳雄・金井茂夫(同級生・小泉十六氏後裔)・小川たかこ・河田としかつ・田辺のぶお(小泉十六氏後裔)・
須田としひこ(父親同士が親友)・河内初光(小泉十六氏後裔)・黒沼光生・
みやなが万里子(駒井実参議院選の時、父親宮永忠左衛門に世話に成った御礼)
太田市議会議員 もてき義市・沢口輝夫 邑楽町議会議員 横山英雄 佐野市議会議員 太田武夫
冨里市議会議員 君塚一男(父方の従兄) 諫早市議会議員 大我喜代志(前本会常務理事)
◎左の二つの画像は、1989年07月23日執行、第I5回参議院議員通常選挙で、太田事務所に詰め、駒井実を支援、
124,582票を得たが、落選し、事務所内の女性陣は、涙で咽ぶ。
◎右の二つ画像は、2009年10月01日、群馬4区の有権者5名を同行し、高崎駅ビルでの三宅雪子決起集会に出席とリーフレット。
◎動画と画像は、2012年05月17日、温故知新の会堀越富士夫の招きで、
全25日渡辺喜美代表の憲放記念館特別講演会に、一名同行し、参加。
此の憲放記念館で、会場準偏していたのが、元キャスターの真山勇一で、気軽に記念写真に応じて戴き、感動した。
真山勇一の様なオールマイティなタレント議員ならば納得するが、運動オンリーの議員は御免だ。
此の時、真山は落選中で有ったが,12月13日欠員が出た為、繰り上げ当選し、現在参議院議員の職に有る。
◎左の画像は、2012年04月21日、投開票支援の大泉町長選・町議選候補者への<絵ビラ>「金井しげお」賛江宛。
◎中の画像は、2016年07月31日、東京都知事選、無所属新人で元防衛大臣の「小池百合子」への<絵ビラ>目出度く当選。
◎右の画像は、1953年06月15日、自宅の庭で、母に抱かれた私。
◎左の画像は、2016年03月18日、会津若松市疎開中の大熊町役場幾橋功課長を再訪した際の同町木幡ますみ町議。
◎中の画像は、2017年10月17目、笹川財団笹川良一の孫笹川博義の名刺(選挙中なので、前の手書き有)。
◎右の画像は、2019年12月26目、議員会館を訪問した際、戴いた真山勇一のパンフレット・羽生田たかしのリーフレット。
同日、小渕優子・長谷川かいち・下村博文事務所も、訪問したが、議員は全て不在だった。
公開 2010年8月26日(天一天上・天赦日)・更新 2021年05月08日 【敬称略】
総務大臣届出45年全国政治団体 三宅藤原氏族会
日韓親善NGO活動39年国際協力団体 東亜友誼慈業研究会
会長 三宅英雄 (号 昔城 元 読売新聞記者) 私のルーツ
〒370-0516 群馬県邑楽郡大泉町中央2-10-19
T&F 0276-61-0560
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&食べる化粧品の「厚岸草・함초」を尋ねて、 仁川・江華島訪問2015.6.1.
* 三宅一族・藤原一族を名乗る方の入会を募ります。
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