【考察2、党派間ゲバルト考】

 (序論)

 ここで、連合赤軍事件と並んで1970年以降の戦後左派運動に否定的影響を与えた党派間ゲバルト事件を概略検証する。詳論は「党派間ゲバルト考」に記す。
 
(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/sahasaiseico/tohagevaltco/tohagevaltco.htm)

 現在、党派間ゲバルトは下火になっているが、理論的には何ら生産的な総括を得ている訳ではない。ということは、政治情勢の成り行きによって再燃する恐れが十分にあり、再燃した場合これを防ぐ手立てを持ち合わせていないという不安定さを抱えていることになる。そういう意味で筆者なりに総括した処方箋を示しておく。

 この問題に踏み込んだ労作として立花隆・氏の「中核VS革マル」がある。1974年11月から75年1月にかけて月刊「現代」誌上に連載されたものが書き直され、講談社文庫より単行本として出版されている。筆者は資料的価値を認め、これを活用する。但し、筆者見解は立花的中立「どっちもどっち」的見立てとは違うので、筆者史観により確認していくことにする。次に、小西誠・氏が経営する社会批評社の「検証内ゲバ1、2」がある。「検証内ゲバ1」は2001年11月、「検証内ゲバ2」は2003年1月に出版されている。共同討議を経た複数の執筆者の手になる労作となっている。筆者は理論的価値を認め、これを活用する。但し、筆者見解はこれらの論とも違うので対話して行くことにする。

 「検証内ゲバ1」は次のように記している。

 「日本新左翼運動が、『ゲバルト』を交換しあうようになってから長い期間が続いている。その間、実に多くの活動家が傷つき、闘病生活を強いられ、そして命を絶たれた。更にこの一年、『内ゲバ』は、『暗黙のルール』を破って、個人襲撃を目的として手段を選ばずに『エスカレート』をくりかえしている。こうした『内ゲバ』は、どれほど多くの戦闘的人民を革命運動から離れさせたろうか。『内ゲバ』によって、戦闘的階級闘争そのものが困難な局面を強いられているのだ」。

 *この観点が、内ゲバ、党派間ゲバルト問題の一般的捉え方だと思う。筆者は、これを踏まえつつ新たな視点を提起してみたい。まず、「内ゲバ」なる表記に拘りたい。左翼圏ゲバルトは、1・文字通りの党派内の内ゲバ、2・左翼圏内ゲバルト、3・党派間ゲバルトの三種に分かれると見立てるのが正解ではなかろうか。3・党派間ゲバルトの論理を見れば、互いを左派圏内に捉えておらず「権力側の手先、別動隊」と規定している。この謂いに根拠があるとすれば厳密な意味では内ゲバと捉えるべきではないと思う。筆者の見立てはこれに同意するので敢えて「党派間ゲバルト」と別表記することにする。これを本章で考察する。

 【「党派間ゲバルト」発生の土壌について」】

 思うに、党派抗争そのものは政治というものそのものに根ざした本質的なものであり、運動発展のエネルギーであろう。そういう意味では、党派抗争の物理的暴力たる「党派間ゲバルト」は実際には党派抗争のあるところ世界で生起している普通事象なのかも知れない。但し、関係者の叡智によって常に善導しなければならない限定的なものとすべきではなかろうか。特に1970年代に満展開した「日本式党派間ゲバルト」には特殊性が認められる。それは、今日的には種々胡散臭いところも認めざるを得ない面が多く、手放しの礼賛はできないフランス革命、ロシア十月革命のような革命過程における旧権力打倒の為に行使されたものではない。中国の国共内戦のように新権力創出の為の党派抗争として行使されたものでもない。よしんばそのような目標があったにせよ前々段階的な情況の中での左派運動内のイニシアチブを廻る闘争過程に発生し、時局的闘争から離れて自己目的化したあるいはさせられ共に消耗したという矮小性が認められる。権力奪取過程で生まれたものでもない左派圏内党派間抗争が戦争状態まで定向進化したものであり、この種の「日本式党派間ゲバルト」は比較的稀ではなかろうか。と云うか異常と認識すべきではなかろうか。

 こうした事態が偶然生まれたのではない。学生運動史を照覧すれば1960年以降に立ち現れたものであり、革共同全国委経由の革マル派を震源地として発生していることに気づかされる。1960年後半、全共闘運動対民青同、全共闘運動対革マル派、中核派対社青同解放派、中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派、第二次ブント間に抗争が頻発した。1970年以降、中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派、第二次ブント間の分裂抗争に於いて党派間ゲバルトが立ち現われた。

 この「戦争」を担った当人達の意志は別にして、党派間ゲバルトが与えた影響は深刻なものであった。対権力闘争に共同して立ち向かうのではなく、同じ左派圏内に生息していると思われている仲間内同士で殺傷し合う異常性が幻滅を与え、日本左派運動の信用を毀損した。連合赤軍の大量同志殺人事件、反日武装戦線等の爆弾テロ事件の衝撃とあいまって、その後の青年学生運動に致命的な打撃を与え左派運動を退潮させていく主原因となった。

 しかし、筆者は、上述の観点だけでは評論に過ぎず、その原因の真因を追究せねば学問したことにはならないと考える。「どっちもどっち論」で両者成敗するのは一見公平そうであるが、実践的には何の役にも立たない。立花の「中核VS革マル」はこの例で、客観主義評論で内ゲバの経過を明らかにしたに過ぎない。資料的な面は別にして実践的には何の役にも立っておらず、むしろ有害無益な役割しか果たさなかったのではないのかと思う。立花の胡散臭さについては別途にサイト「立花隆の研究」で考察する。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/mascomiron/tachibanatakashiron/tathibanatakashiron.htm)

 「特殊日本的な党派間ゲバルト」考で肝心なことは真の原因を訪ね、二度と起させない処方を手立てすることである。ここの議論に至って初めて考察足り得ると思う。この種のゲバルト遠因を訪ねるのは割愛するとして、党派間ゲバルトを助長媒介する理論を確認しておきたい。筆者は、「日共の宮顕式排除の論理」と「革マル派の黒寛式他党派解体路線」と「第二次ブントの好暴力路線」を槍玉に挙げたい。この三種の神祇ならぬ「凶祇」こそ日本左派運動が克服せねばならない背徳なものではなかろうか。このことの共認こそ一刻も早く確認すべきと思っている。以下、ヘーゲル弁証法的論理に沿って党派間ゲバルト史を簡単にスケッチしておく。

 【党派間ゲバルト史考】
 

 党派間の抗争として記録されている暴力の行使は、1961年の全学連第17回大会に於けるマル学同とつるや連合(旧ブント系社学同、革共同関西派、社青同)の抗争で記録されている。この時初めて学生運動内に角材が使用されることになった。それまでも暴力的対立はあったが素手とスクラムで渡り合う段階であった。これより角材が登場したことが注視されるべきであろう。この「角材使用」をもって「革命的暴力の出藍」と見なしたい。

 1963年2月、革共同マル学同が革マル派と中核派に分かれ、両派は近親憎悪的対立へと定向進化させて行くことになる。この分裂に於いて留意すべきは、革マル派の指導者・黒寛の宗派主義的独善論法であろう。黒寛理論によれば、革マル派以外の新左翼運動は駆逐される対象でしかない。故に、「諸雑派一掃、他党派解体」を目指す運動を旨とし正義とすることになる。しかし、こうした宗派運動こそ臭いとすべきではなかろうか。筆者に云わせれば、60年安保闘争を牽引した第一次ブントが総括を廻って混乱し、やがて革共同系マル学同に合流するも、追って異質性を確認し中核派を結成し袂を分かつことになったのも至極当然であった。

 要するに、第一次ブントと革共同は宥和し得なかった。なぜかというと、第一次ブントは、その生成期に於いて革共同に向かわなかった経緯に示される如く、両者間には世界観も組織論も運動論にも違いがあり、この差は存外大きいのではなかろうか。これを全て理論で説く必要はないと思われる。単純明快に気質の差として受け止めて差支えないように思う。この差を根底に据えて次に黒寛式宗派主義的独善論法を疑惑すべきではなかろうか。革マル派ならずとも左派圏の一部で未だに黒寛論理を高く評価する傾向が認められるが、「黒寛マジック」を見抜けない理論水準の拙さを知るべきであろう。

 1963年9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派、社学同、社青同解放派、構造改革派)250名が集会しているところへ、革マル派150名が押しかけ、角材で渡り合う乱闘事態となった。これが党派間抗争に於ける「集団会戦の嚆矢」であり、即自的段階に於ける革命的暴力の定向的進化と見なせよう。

 1964年7月、早大構内に集まっていた革マル派に対して中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力がヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけ3時間に及ぶ激闘が展開された。これを「7.2事件」という。即自的段階に於ける革命的暴力の更なる定向的進化と見なせよう。

 1968年6月、日比谷野音で「ベトナム反戦青年学生決起集会」が開かれたが、中核派対「革マル派-社青同解放派連合」という構図での乱闘騒ぎが起こる。以降、全国反戦は完全に分裂、三派全学連も実質的に解体することとなった。これも即自的段階に於ける革命的暴力の更なる定向的進化の流れと見なせよう。

 ここまでは辛うじて革命的暴力にも歯止めかかっていた。これを踏み外したのは1969年5月、早大に於ける革マル派の社青同解放派叩き出しからではなかろうか。社青同解放派系早大全共闘と革マル派が抗争し、相互に監禁リンチ事件を発生させ、最終的に革マル派が勝利する。この時の「監禁リンチ」が翌年の「海老原君監禁リンチ致死事件」に繋がったという意味で見逃せない。監禁リンチ事件は、革命的暴力の即自的段階から対自的段階への質的転換と見なしたい。

 付言しておけば、この時の早大全共闘のイニシアチブは、政経学部を拠点とする社青同解放派が握っていた。その早大社青同解放派の主要幹部が次々とテロられて行くことで、早大社青同解放派はキャンパスから放逐されることになった。この時テロられた解放派の数名は重度の身体障害者となっていると聞く。サイト「日本の学生運動」は「早稲田大学」の項で次のように記している。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E
5%8B%95) 
 「1968年に文連・委員長だった社青同解放派の林が、ジャックナイフを携帯している事実を察知した革マル派は、林を取り囲み恫喝。暴力的挑発で、ナイフを抜くように仕向けた。革マル派は、この『林ジャックナイフ事件』を錦の御旗として、解放派へのテロを路線化。さらに文連執行部選挙当日には、同派の候補者に負傷を負わせた上で秩父の山中に放置するという手段で、文連執行部を乗っ取っていったのである。これに力を得た革マル派は、以降テルミド-ル的支配でノンセクト活動家にも屈服を強要した。以後、早大は革マル派の最大拠点校となった 。一方、法学部自治会を中心とした民青同盟とは、いわゆるボス交によるクロス承認を続け、他方では原理研や勝共連合などの右翼活動は黙認しつつ、成田闘争や狭山裁判を戦う新左翼各派の活動への弾圧を徹底した。大学当局も、革マル派と民青の泣き別れ的なバランス構造を利用して急進主義運動の拡大を防いだ、という分析もある」。

 以降早大キャンパスでは、学内憲兵隊宜しく革マル派の日常的パトロールが始まり、社青同解放派はむろんのこと敵対党派は一歩も構内へ入れないという事態が続いていくことになる。学生運動史上前例のない異常事態であるが、これが咎められていない。

 1969年11月、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになる。対自的段階での革命的暴力の定向的進化と見なせよう。

 同12月14日、岡山大学生・糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。ここまで殆ど全てに於いて革マル派を軸として「内ゲバ」が発生していることが確認できよう。翌12月15日、中核派は、革マル派を「武装反革命集団=第二民青」と規定し、殲滅宣言を出したことで対立が決定的になる。この殲滅宣言も見逃せない。対自的段階での革命的暴力の更なるの定向的進化と見なせよう。以降、党派間抗争は殲滅を視野に入れたものへと「発展」して行くことになった。この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。

 付言しておけば、左派運動内に許容されるのは創価学会式の釈伏的理論闘争であり、それならむしろ歓迎すべきことではなかろうか。理論闘争が理論闘争に止まらず物理的な抑圧、排除、党派解体闘争へと進化されるならば、そこに大いなる飛躍を認めねばならない。そのような権限は誰からも与えられて居らぬところ、そのような如意棒を意図的故意に振り回す輩には疑惑を持って観ぜねばならないのではなかろうか。日本左派運動にはここを疑惑する観点が欠落し過ぎている。漠然と内ゲバと看做して容認したり「我関せず」視し過ぎていよう。 

 この種の分析は史実に基いたほうが分かり易い。社青同解放派、中核派は、1968-69年闘争の経過で、近づく「70年安保決戦」の前哨戦に我先にと鎬を削りながら総力戦で向かい、激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出したことにより組織力を弱めていた。特に中核派の逮捕者が多く、11月闘争で更に多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されていた。

 こうした力学関係に立って、この頃革マル派の党利党略的な動きが際立ち始め、70年安保闘争を目前にして「公然ゲバルト時代」が幕開けした。この公然ゲバルト時代の幕開けが、大きく全共闘運動を混乱させることになった。社青同解放派、中核派両派は、70年安保闘争に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。全共闘運動と民青同の抗争は折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。70年安保決戦を目前にして、革マル派の動きが他党派解体路線を満展開し始めたということであるが、これを疑惑しないとすれば世の中の殆どが許されよう。これを訝らず単に並列で喧嘩両成敗的論者が幅を利かせているが全く解せない。訝らないほうがオカシイのではなかろうか。

 このことに筆者がなぜ執拗に拘るかというと、宮顕論と通底しているからである。筆者は、サイト「宮顕論」で論証しているが、宮顕はスターリニスト規定で済まされるような手合いではなく、戦前共産党運動の撲滅請負人として当局より送り込まれた形跡が認められる。丁度「スパイM」と入れ替わるようにして宮顕が党中央に潜入している。筆者の研究によれば、「戦前党中央委員・小畑査問致死事件」は、通説の如くな査問派の宮顕がスパイ派の小畑をテロったのではなく、労働者派の最後の生命線であった小畑がスパイ派の宮顕によってテロられたというのが真相である。しかし、そのようには認識されていない。この歪みと共通するものを認めるからである。 
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/miyakenco/miyakenco.htm)、

 もとへ。かくて1969年12月時点で、革マル派と社青同解放派、革マル派と中核派との公然ゲバルト時代が幕開けした。明らかに従来の質レベルより出藍しており、革命的暴力の新質的段階への転化時代に突入した。それまでの自治会執行部の掌握を廻ってあるいは闘争方針の正邪を廻って小競り合いする段階から、対権力闘争とは別個の地平で党派と党派がお互いの存亡を賭けて相手党派の絶滅を期す時代へ狼煙を挙げたことになる。

 【「中核派による革マル派の海老原君虐殺事件」】
 

  70年安保闘争は60年安保闘争に比して不発に終わり、その後の流動局面の情勢下の1970年8月4日、「中核派による革マル派の海老原君虐殺事件」が発生した。この時の「監禁リンチ殺人事件」という新たな質が、党派間ゲバルト史を画期させた。革命的暴力の従来質からの出藍であり、殺人まで含む党派闘争と云う向自段階へ転化した。両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から従来のゲバルトの一線を越した死に至らしめるリンチテロによる殺人事件という歴史的事実が記録されることになった。事件の詳細はサイト「海老原俊夫君虐殺事件考」に記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/sahasaiseico/tohagevaltco/eviharazikenco.htm)
 

 筆者は、当時の両派の緊迫した状況を考えると、わざわざ中核派の拠点駅である池袋でのビラマキ敢行から見て革マル派の挑発に中核派がいとも容易く乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。あまりにも多くの血が流れ過ぎ今更の思いがあろうが、左派運動再生上今からでも遅くない、この事件が発生した経緯と内在的論理を明らかにし自己批判をしておくことが必要なのではなかろうか。

 この事件後、革マル派は待ってましたとばかりに直ちに声明を発表し、中核派に対する報復行動に入った。次のように批判している。

 概要「海老原虐殺は、前代未聞の無原則的な集団リンチ、政治組織としての目的意識性を欠如した非組織的殺人である。革命主義パラノイア症におかされ、自己の破産を政治技術主義的にのりきり、官僚主義に毒された中核派に対して、革命的暴力を行使する。革命的暴力の行使には、一切の組織的判断と党的な目的意識性が必要であり、わが反スターリン主義革命的左翼に敵対する反階級的で反党的分子に対しては、マルクス・レーニン主義の基準にのっとり、この原則を貫くためにのみ組織的に断固たる鉄槌を下す」
 「今や陰湿なテロリスト集団に転落したブクロ=中核派の腐臭ふにぷんたる姿を暴露し、この腐敗分子の絶滅に向けての新たな決意を表明する。流された血はあがなわなければならぬ。彼らへの階級的復讐は我々の使命であり、権利なのだ。わが同盟は、この殺人者集団ブクロ=中核派に対し、我々の論理による一切の手段を駆使し、諸君の先頭に立って断固たる階級的復讐を勝ち取るために闘い抜くことをおごそかに宣言する」。 

 【「革マル派による速攻の対中核派報復事件」】

 1970年8月6日、革マル派は、日比谷公会堂で開いた「国際反戦中央集会」を海老原君追悼集会にきりかえ、「同志海老原の死に報いるには、殺人者集団ブクロ中核派の殲滅以外には有りえない」と「中核派殲滅戦宣言」を発表し、革マル派全学連委員長・洞田勉は、「彼等を一人残らず殲滅し尽くす」とコメントし、直ちに中核派に対する報復行動に入った。事件の数日後、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃捕捉し十数人に意図的故意の残忍なテロを加えた。「残忍なテロ」の詳細は明らかにされていないが、凡そ左派運動的感性からほど遠い陰湿な且つ女性活動家に対し破廉恥残酷なものであったと伝えられている。この間、法政大キャンパスでは海老原君の遺影を飾る糾弾集会が行われていた。思いやるだに身の毛のよだつ話ではある。

 【革マル派が革命的暴力論を打ちだす】

 1971年3月、革マル派は、「革命的暴力とは何か?」(全学連中央執行委員会情宣部編集、こぶし書房)を出版し、同派の党派間ゲバルト理論を打ち出した。「海老原虐殺問題との対決を契機とした《党派闘争の論理と倫理》についての真摯な省察とあくことなき追求の集大成」と評している。理論の革マル派の真骨頂であり、これにより目的意識的な政治暴力を追求するようになる。

 *後に、余りにも激化する党派間ゲバルトに堪り兼ね知識人が仲裁に入るが、本来は本書に濃厚に表れた「革マル派式革命的暴力論」に対する批判的理論を獲得すべきではなかったか。この労を取らない仲裁は現象面に対する単なる意見の表明でしかなく実効力を持たないだろう。知識人が知識人として仲裁に入る以上は「革マル派式革命的暴力論」に対する見解を対置すべきではなかったか。史実は、対置し得る頭脳を持ち合わせない知識人であったことを物語っている。それは仲裁を買って出ないよりはマシであると云うだけのものであり余り役に立たない。

 
「海老原君虐殺事件」以降、革マル派の報復正義論、党派闘争論、革命的暴力論の三点セットによる理論的優位の下で攻勢が続き、中核派は大学キャンパスで防戦を余儀なくされ、劣勢の中核派の有能な活動家が次々とマークされ、キャンパスへの公然登場を困難にされていくことになった。次第にやられたりやり返す際限のないゲバルトとテロが両派を襲い、憎悪は怨念と化してエスカレートしていった。

 *「革マル派の攻勢、中核派の防戦」は何によってもたらされたのであろうか。一つは、中核派が「海老原君虐殺事件」に対して負い目を感じ、革マル派による或る程度の反撃を禊として甘受する立場に追い込まれていたのではなかろうか。もう一つの理由として、この時期の中核派は、赤軍派が提起した武装建軍闘争に触発されて中核派式暴動闘争を主眼とする運動に向けて組織を挙げており、「党派間ゲバルト戦略」を二の次にしていたのではなかろうか。しかしながら、容赦なく相次ぐ革マル派の報復テロに対し次第に我慢の限度を越え始め、反攻体制を敷いていくことになる。中核派は後に戦略的防御の時代であったと総括している。

 【「琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀虐殺事件」】

 1971年6月18-19日、沖縄で、革マル派によれば民青による琉球大学男子寮襲撃による「琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀虐殺事件」が発生した。埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら9氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同声明」を発表し抗議している。*この事件は筆者の学生運動現役の頃の事件であり、革マル派が早大本部キャンパスで、日共糾弾の大々的集会を開催した。対するに民青同は事件の概要を伝えることが遅れ、暫く何のことか分からず困惑したことを記憶している。未だに事件の真相が分からない。

 【「中核派と革マル派による横国大ゲバルト事件」】

 1971年10月20日、中核派が、革マル派の活動家・美術学院院生・水山敏美を横浜国大富士見寮で虐殺、他東工大生と教育大生の数名が重傷した。次のような背景があった。横浜国大は元々中核派の拠点校だったが、革マル派が横浜国大富士見寮に他大学の革マル派学生を含めて泊まり込んでいた。この頃、中核派は武闘暴動闘争に向けて余念なく、為に学生の学外活動が多くなり、その手薄に乗じて革マル派が「海老原君虐殺事件」の責任を問うを錦の御旗として勢力を伸張し始めていた。この日、臨時学生大会を開催し、中核派執行部を追い出す手はずになっていた。そのぶち壊しを狙っての中核派の襲撃であった。この事態を受け、革マル派は、「革マル恐怖症-殺人狂乱患者に落ちぶれたブクロ派を絶滅せよ」と題した「中核派絶滅宣言」を発表し、予告通リ攻勢にでることになる。次のように述べている。

 「〝本来の戦線〟において『革マル派の時代』をめざして着実に闘っている我が同盟にとって、既に生命のつきたブクロ派などは、もはやとるに足らぬ対象でしかない。とはいえ、彼らが左翼としての最低の一線を踏み外し、反革マル殺人狂乱患者に落ちぶれたかぎり、我々は革命的左翼としての己の責任にかけて彼らを絶滅する以外にない。むしろここに至っては、一切の怯ダは犯罪的でさえあるのだ。今やブクロ派絶滅の党派闘争を一切の手段と形態と方法を駆使しながら、断固として押し進めなければならない」。

 【革マル派による中核派糾弾テロがエスカレートする】

 「中核派による第二海老原事件」とも云える「横国大ゲバルト事件」以降、革マル派の中核派襲撃がエスカレートした。水山君事件のあった夕刻、革マル派が、中核派の拠点、池袋の前進社に向かって火炎瓶攻撃を行う。10月23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。11月1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。11月8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。同夕刻、前進社関西支社を攻撃。

 【革マル派による中核派の全学連副委員長の辻敏明(京大、22歳)、正田三郎(同志社大)、続いて三重県委員長・武藤一郎虐殺】

  1971年12.3日、革マル派関西共闘会議は、大阪経済大学学生会館において、大学の授業料値上げ問題をめぐる闘争の戦術会議を開催し、「関西大学でステッカーとビラ貼りをする。中核派の攻撃に備えて突撃隊を編成する」と決定した。翌4日未明、革マル派30名は会館を出発し電車で関西大学に向かった。途中大学裏の児童公園で自動車に積んできた武器を受け取り、一部のものが大学構内でステッカー貼りを開始した。12月4日、革マル派が、大阪の吹田市千里の関西大千里山学舎に終結していた中核派を襲撃し、逃げ遅れた中核派副委員長の辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡する。これが関西で初めての党派間ゲバルト殺人となった。  

 12.15日、革マル派が、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃、虐殺する。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「(武藤は)持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明。中核派は、この愚弄に党の総力を挙げて反撃して行くことになる。その他、この時期に中核派の三人の政治局員が革マル派のテロにあう。

 この間中核派は為す術を持たない風であった。この時までの対応について、「十二・四反革命以前のたたかいは、70年闘争の爆発に追いつめられたカクマル派が時と所を選ばずにやりたい放題の襲撃をかけてきたことに対する、我々のやむにやまれぬ正義の反撃としてあった。それはまさに必要不可欠な反撃であった」と「戦略的防御段階の報復戦」と規定している。中核派は、「十二・四反革命」と規定し、報復として「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言し、両派の全面的なテロ戦の展開となった。この頃から革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出しているとする「K=K連合論」を打ちだし始めた。こうして、両派の後に引くに引けないテロ戦が開始されていくことになった。その詳細は、「党派間ゲバルト考」の「党派間ゲバルトの経過と実態考」に譲る。

 【中核派と革マル派が集団ゲバルト会戦】

 1972年9月4日、反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。

 【革マル派による中核派シンパの川口君リンチ致死事件」考】 

 1972年11月8日、「海老原事件」から2年後、今度は革マル派による中核派シンパと思われる早大生・川口大三郎君リンチテロ致死事件が発生した。
事件の詳細はサイト「川口大三郎君虐殺事件考」に記す。この事件は、「海老原事件」以降劣勢一方であった中核派に反転攻勢の契機を与えたという意味と、この事件に早大生が激怒し、党派間ゲバルト史上極めて貴重な「革マル派が文字通りの大衆的糾弾を受けた初事例」となったことで注目される。 
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/sahasaiseico/tohagevaltco/kawaguthizikenco.htm)

 この事件は、筆者の現役時代のキャンパス内のことであり、未だに当時の激動の日々を記憶している。かの時、数千人規模の早大生が怒り、革マル派を追い詰めたのは何ゆえであったのか問い続けている。筆者の見立てはこうだ。あの怒りは、1969年を通じての社青同解放派追い出し以来の革マル派の学内暴力支配の恒常化、1970年代に入っての革マル派と民青同によるキャンパス二元支配に対する早大生の鬱々たる感情が迸(ほとばし)り出たものではなかったか。

 早大学生運動はそれまで学生運動のメッカとして多くの人材を輩出し、戦前戦後を通じて赫赫たる実績を見せていた。その様は、官立の雄としての東大に在野の雄早稲田が一歩もひけをとることなく渡り合ってきた観があった。このスタイルが支持され、早稲田の「左」の伝統となり「早稲田の誇り」ともなっていた。それは、政治的イデオロギー以前のいわば各人各様の生き様として、互いに自由、自主、自律的な生き方を認め合い保障しあってきた土壌があればこそ生み出された伝統であったと思われる。この土壌から学生運動史上輝く早大出の活動家が生まれたのではなかったか。ところが、革マル派の暴力支配はこの伝統に対する「左からの圧殺」という役割を意図的に引き受けており、これが大学当局をして安堵せしめ、ある種の密約さえ窺わせるものとなっていた。これにより、かって学生運動のメッカ的地位を得ていた早大学生運動が急速に逼塞させられていくことになった。この事象は学生運動史上極めて犯罪的であるように思われる。誰か、この認識を共有せんか。

 「川口君事件」で決起した早大生の多くは、革マル派がこの伝統を理不尽に踏みにじって恥じないそのこと故に立ち上がったのではなかったか。あの怒りは凄まじかった。早稲田民族主義ではあったが大事にしたい怒りであった。しかし、早大生万余の決起は結局潰された。これをどう総括するのか、これを為さない限り川口君事件は単に「川口君の無念の死」でしかなかろう。川口君事件を通じて見えてくる教訓は、革マル派の暴力に対抗するのに何も難しい理屈は要らなかったということではなかろうか。少なくとも、大学当局と機動隊の力を後ろ盾とする革マル派の暴力支配に立ち上がった大勢の学生が、終局やはり暴力で捻じ伏せられたという史実は、これに抗する戦線構築に失敗したという苦い教訓であり、それ以外の方向へ認識が向かうべきだろうか。今日、第四インター系の声明がインターネット上で公開されており、それを読むと、同派は中立そうな見識をひけらかしている。しかし、かの局面での「内ゲバ反対」は何がしか有効な処方箋足り得ていただろうか。もしそうであると云うなら、人類は、ここでは早大生は、現に暴力で立ち現われる勢力に抗するのに暴力以外の方法で対処しえる知恵を獲得する絶好機会であったということになる。

 が、筆者は今もってそのような知恵を見たことも嗅いだこともない。ギリギリの戦闘が要求されている時、「内ゲバ反対」のくさびで割って入る役割が客観的に何を意味するのか、元の木阿弥に戻ったキャンパスを見れば自明ではなかろうか。それでも「内ゲバ反対の唯一の党派」的な自画自賛するのは一種のヌエ論法ではないのか。筆者は憤然としてそう問いかけたい。この連中とは百年話し合っても通じ合わないに違いない。そういう理由により、「第四インターのヌエ的正義」は革マル派の異質性に続いて確認されなければならない偽善性のものと思っている。

 付言しておけば、日共系が穏和系左派運動を抑圧したとするなら、革マル派のそれは急進系左派運動を葬送する為に利用されてきたのではなかろうか。宮顕の「排除の論理」、黒寛の「解体の論理」は何やら似過ぎていやしないか。この連中の二元支配により、早大の赫々たる学生運動の歴史が鎮圧された。早大の鎮圧は学生運動の貯水池を枯らし、負の影響を及ぼしていくことになった。「早大に於ける民青と革マルの二元支配共存による左派運動圧殺」は「日本左派運動封殺のカリカチュア」であり、そういう意味での認識を共にせねばならず、これを許したこと自体を重責として受け止めるべきではなかろうか。

 筆者がこう云い切れるのは「川口大三郎リンチ致死事件闘争」の際の体験から生まれている。あの時の鮮烈な印象を伝えておく。革マル糾弾の嵐が吹き交うことにより、キャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現した。中でも政経学部を牛耳っていた社青同解放派が久しぶりに登場した時、それまでいつもアロハシャツ着てジャズ音楽にでも凝っていた風をして、筆者が立看板を出し入れしているのをいつも一瞥して通り過ぎていた顔馴染みが俄(にわか)に興奮し口から泡を飛ばす勢いで歓喜乱舞しつつ迎えた。この時の様子が、筆者のまぶたに焼きつけられている。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が喜び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである。

 【革マル派が、破防法弁護団会議襲撃】

 1974年1月14日、革マル派が、中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上を襲撃し、本多書記長、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられ、井上正治氏が重傷を負う。*この事件の全容は開示されていない。解せないのは、この局面で、中核派幹部ではなく何故に弁護人の井上氏が狙い撃ちされたかの如くに集中乱打されているのか、中核派幹部一斉殲滅の絶好機会であったのに手加減されているように思われることである。実際には各自が相当痛い目に遭わされていたのだろうか。この事件はネット検索で出てこない不思議な事件になっている。

 この事件に対し、羽仁五郎、小田切秀雄、杉浦明平、針生一郎、松岡洋子ら40氏連名の革マル派批判声明が発表された。これに対し、革マル派は、機関紙「解放」紙上に、声明賛同者の氏名、住所、電話番号の一覧表を載せ、「この人々は、殺人鬼放火魔集団の公然たる擁護者で、非文化的、反知性的な文化人であるから、全労働者人民は徹底的に糾弾せよ」と呼びかけ、「ナーバス(神経)作戦」を実行した。*革マル派特有の「ナーバス(神経)作戦」の中身がイヤラシイ。ここでは一々採りあげないが、左派運動に於ける異質なものであり、日本左派運動内に回状が回されるべきではなかろうか。度を超す戦略戦術であり、こういうところははっきりさせねばならないのではなかろうか。

 【革マル派独特の謀略戦考】

 1975年2月19日、革マル派は、機関紙「解放」に「革共同『中核赤軍』結成準備会」名による「政治局本多一派の対カクマル完全殲滅戦からの逃亡を粉砕せよ!」を全文掲載している。この頃、この種のビラが複数回発行されている。中核派は「謀略ビラ」として否定している。3月、狭山差別裁判糾弾闘争に関連して同様の中核赤軍名による党中央批判ビラが撒かれている。革マル派は、これを中核派の内部抗争を示す文書との立場から中核派殺人鬼集団批判キャンペーンの論陣を張った。これにつき、中核は次のように批判している。

 「そもそも敵対勢力にかかる謀略ビラで打撃を与えようなどという手口はまさに帝国主義者の手口であり、ナチス、CIA、警視庁公安部のやり口であり、その卑劣さ、下劣さにおいて少なくとも左翼運動の歴史上類例のないものである」。 

 *「中核赤軍ビラの真偽」を確認せねばならないが、仮に中核派の云うように「革マル派お手製の謀略ビラ」だとした場合、かように卑劣な陰謀家特有の営為は看過し難いとすべきではなかろうか。一体、かような陰謀テクを革マル派以外に思いつくだろうか。度を超す戦略戦術であり、左派運動に於ける異質なものであり、日本左派運動内に回状が回されるべきではなかろうか。こういうところははっきりさせねばならないのではなかろうか。

 【中核派が内戦論を著わし目的意識的な政治暴力論を打ち出す】

 1975年、中核派は、野島三郎著「革共同の内戦論 現代反ファシズム解放戦争」(前進社)を発行する。中核派は、同書で内戦内乱論を創造することにより目的意識的な政治暴力論を獲得し、革マル派の「革命的暴力とは何か?」に対置したことになる。

 【革マル派が中核派の最高指導者・本多書記長を虐殺】

 1975年3月14日、革マル派が、中核派の最高指導者・本多書記長を襲撃し虐殺する。激怒した中核派が「全面無制限戦争突入宣言」する。3月28日、革マル派は、中核派に対し一方的に「内ゲバ停止宣言」(3.28声明)を発表し、「敵対派との激烈な党派闘争に圧倒的な勝利をかちとった。残る任務は小ブル雑派の残務整理のみ」と高言している。中核派の怒りは凄まじく、「復讐の全面戦争への突入、全面無制限戦争」を宣言し、直後から革マル派の「革マル派一人残らずの完全殲滅」を開始する。

 【知識人による「革共同両派への提言」が発表される】

 6月27日、埴谷雄高、対馬忠行、藤本進治、色川大吉、井上光晴、もののべながおき氏らを始めとする12名の発起人、11名の賛同人による「革共同両派への提言」(「6・27提言」)と題した内ゲバ停止声明が出される。革マル派の随伴文化人高知聡氏の働きかけが大きかった。革マル派は前向きに評価し、機関紙「解放」紙上でキャンペーンを張った。これに対して、中核派は「100%拒否」を声明、提言の署名者を追及して自己批判書を書かせ、機関紙「前進」紙上に発表した。「検証内ゲバ」は次のように記している。

 「この提言に対し、革マル派は一部については不満を述べるものの、『我々の巨大な勝利を画するもの』と大きく評価し、一大キャンペーンに乗り出した。だが中核派は『怒りを込めてきっばりと拒否する』として、提言を弾劾する声明を発表した」。

 【革マル派が、社青同解放派の最高指導者・中原氏を殲滅】

 1977年2月11日、革労協書記局長にして社青同解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義氏が、革マル派により殲滅される。これにより、革マル派は対立党派の最高指導者をそれぞれ葬ったことになる。社青同解放派の怒りは凄まじく、4月15日、埼玉県浦和市内で革マル派4名焼死させる。4月17日、声明「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」で戦果を誇った。

 
【革労協が狭間派と反狭間派とに分裂】

 1981年6月、革労協-反帝学評で、1977年に書記長を殺害されてから徹底報復を主張する軍事武闘路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」(滝口系労対派)が対立し分裂した。両派はその後、三里塚闘争を廻っても、狭間派が反対同盟・北原派を、労対派が反対同盟・熱田派を支援する等対立するようになる。

 【革労協の内部抗争】

 1989年半ば頃から中核派と革マル派に関する内ゲバ事件自体は急速に減少する。それにかわって革労協の内部抗争が深刻になる。6月25日、狭間派の最高幹部であり実質ナンバー2の永井啓之氏(43歳)が襲撃され惨殺された。6月28日、狭間派が都内で記者会見し、内部抗争であることを認め次のように発表した。「わが党、同盟によって昨年除名、その後敵前逃亡し、加重処分の対象となっていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし、放したが、その後、マスコミ報道によると死亡した」。 以降、革労協内の文字通りの内ゲバが始まる。 

 【革労協狭間派が分裂】

 
1999年5月、革労協狭間派が裁判闘争をめぐる対立からさらに分裂、狭間幹部が率いる主流派と反主流派に分裂した。革労協は以降激しい内ゲバを繰り返し、13件の内ゲバ事件により8人を死亡させている。

 【黒田寛一病死】

 2006年6月26日、革マル派の最高指導者であり続けた黒田寛一が埼玉県内の病院にて肝不全のため死去した(享年78歳)。

 【中核派、社青同解放派と革マル派の党派間絶対戦争】

 以上、概略を確認したに過ぎないが1970年代を通じて日本左派運動史上類例のない「党派間ゲバルト」が本格的に開始された。中核派対革マル派戦として始まったが、社青同解放派もこれに巻き込まれた。同派はその後、数次の党分裂を引き起こし、その分派間でも同様のゲバルトとテロを展開していくことになる。「目的意識的な党派間ゲバルト時代」に突入し、一連の「党派間ゲバルト」での死亡者総計113名、負傷者約4600名以上、発生件数約1960件以上と云われるゲバルト事件が発生することになった。被害者の分類は、死者、廃人同様の植物人間、不具者、自殺者、発狂者、重軽傷者という風に分類することができる。これにより、1・多くの活動家の生命と活動能力が失われた。2・日本左派運動に水を差し、連合赤軍事件、爆弾テロ事件と相俟って日本左派運動の信用を毀損させた。3・その後自然退潮する。4・今もって「相手党派の絶滅解体闘争」の正義性と不義性の理論的切開が行われていない状況にある。

 この経緯は「党派間ゲバルトの経過と実態考」で確認いただくとして、確認すべきは次のことであろう。このゲバルトによって、闘争の片方の主役となった革マル派は、甚大な被害を出しながらも、相手方党派の最高指導者を葬っている。逆に云うと、両派は最高指導者を防衛できなかった失態を犯したことになる。直接の因果関係は別として、革マル派の複数の秘密基地から公安との繫がりを示す証拠物が発見されている。よりによってその革マル派が1974年7月頃より「国家権力による謀略論」を振りまき、その論法が一定程度まことしやかに通用している。

 *中核派、社青同解放派は、革マル派から流される謀略論に反論できぬまま事態を推移させており、革マル派の秘密基地から出てきた公安との繫がりを示す証拠物に対して特段の分析を発表し得ていないという不自然さを見せている。筆者には信じられない痴態でしかない。中核派の「KK連合論」、革マル派の「謀略論」いずれが正邪か、ここははっきりさせねばならないのではなかろうか。

 【俗流民主主義論者の暴力反対論考】


 俗流民主主義論者は、いついかなるときでも暴力反対を云う。筆者が「俗流民主主義論者の暴力反対論」に思うことは、「暴力反対、民主主義を護れ」という際の民主主義の内容が極めて曖昧模糊に語られ過ぎていないかと云うことである。それを護ると云っても、内容が明らかでないものをどうやって護るというのだろう。これについて筆者見解を明らかにしておく。筆者の観点によれば、民主主義とは、1・政治理念としてのそれと、2・具体的に制度化したそれと、3・その際の手続き的なそれという風に三項分類できるように思われる。見落とされがちなのは、「3・手続き的な民主主義」の項であり、これまでの左派運動はここの弁えに対してからきし貧困であるように思える。

 民主主義の内容を整理するのに仮に、人の生活地場において個々人の自由、自主、自律を重んじて極力統制を控える観点」、仮に「自律民主主義」と云うとすると、それと対照的に相互に自由、自主、自律を最大限に保障し合う為に必要な合理的規制、仮に「規制民主主義」と云うとすると、これをも集合する理念であり制度であり手続きでもある一連の政治的経済的文化的システムと定義すれば、我々がこのシステムを却下することは有り得て良い訳がない。こう定義すると、ブルジョア民主主義と云い為そうがプロレタリア民主主義と云い為そうが、競ってでも可能な限り社会全域にこのシステムを広め、制度を更に精査し、より実質的に担保されるよう獲得せしめたいところのものであることは自明であろう。更に云えば、このことを無視するような左派運動なら全く意味がない。俗に、クソ喰らえと云う。

 ところで、歴史的に見て、民主主義は闘い取られるものであり、維持するのにもエネルギーを費やさねばいつでも形骸化させられてしまう。そういう弱さがあるが、振り子のように常にここに立ち戻るという強さもある、そういうものではなかろうか。民主主義がそのようなものであることを忘れて、これを一面的にその意義を軽視してみたり、闘い取る地平で初めて維持されることを見ないのはどちらもオカシイ。付言すれば、当節及び腰な姿勢のままに当り障り聞こえの良い「民主主義一般を形式的に論議する風潮」はつまらない。云えることは、個々の運動体が民主主義のかような原理を弁え掌中にしてこそ「実質としての民主主義」を生み出しえるのではなかろうかということである。民主主義にはそれを培養する土壌が不可欠である。その土壌作りを放棄して何の民主主義論ぞと問いたい訳である。この土壌から生み出された民主主義の質こそが社会開化度のバロメーターになるのではなかろうか。

 そういう民主主義を護るも進めるも攻めるも、運動圏にあっては誰が友であり破壊者であるか識別し、友とは共同し破壊者達に対してはこれまた共同して排斥する能力をまずもって獲得するところからしか道は拓けない。その際、御身安泰主義は処世方便としては許されても、「党派間ゲバルトに我関せず」を吹聴して得意がるとか、常に巣篭もりしたまま一般論を云うのは駄弁家でしかなかろう。党派間ゲバルトに関する左派綱領を創り、これを破るものには共同で立ち向かうしかない。筆者は、このことを強く主張したい。要するに、相手が何者なのか論を獲得せねばならない。組める相手なのか組めないのか、この峻別を正確にして組める相手と組み逆とは組まないとする識別分別能力が問われており、のべつくまなく組む論、組まない論、逆に組む論こそ排斥し正しく組まねばならないのではなかろうか。史上の失敗例は、この原点で失敗し過ぎていやしないだろうか。

 
【党派間ゲバルト問題に対する処方箋-暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ】

 本書続編で「提言シリーズ」を予定しており、そこで、暴力革命論の「暴力」の従来理解の皮相さの誤りを指摘しようと思うが、日本左派運動には、世界のそれも大同小異であろうが、肉体的武器的暴力をして対権力闘争に向けるよりも、安易に党内反対派ないしは党派間に適用してきた負の歴史がある。その種の暴力は恣意的粗野なものであり、ヤクザの出入り暴力と何ら代わらない。否ヤクザの出入りにも何らかの啖呵があるとすればそれより以下のものでしかない。日本左派運動内に常態化されている「革命的」暴力は党派的セクト的利害によるものであり、日本左派運動盛り上げに水を差す結果しかもたらさなかった。この種の暴力は、暴力革命論が本来意味する「暴力」とは別物なのに、両者が認識上区分されていないところから発生しているように思われる。

 我々はそろそろ徒な暴力が左派運動圏内に大手を振って罷り通ってきた事態を総括せねばならないのではなかろうか。左派運動が健全であれば党の内外問わず異論、異端、見解・運動手法の相違、分派は当然のこととして最大限認められ、というか不可避であると認識した上で共同すべきだろう。互いが排斥しあうことは仕方ないにせよ絶滅を期すようなものではなかろう。よって、革マル式「他党派解体、諸雑派一掃路線」は原理的に許されないとすべきであろう。ここが分からないイカレた左派頭脳が横行していること自体が貧脳ぶりを示していよう。

 左派運動にあっては常に目指すべきは党内党外の共同戦線式競り合い運動であり、切磋琢磨でしかない。まずはこの路線に立って、次に具体的に生起した事件の中から教訓的な手引きを生み出し、不断にこれに準拠していくという作法が望まれているであろう。党内党外の対立を解決する手段として暴力を行使するものであってはならないとすべきだろう。見渡すところ、徒な暴力が行使されるところに宿っているのは運動規律の弛緩腐敗であり、もう一つは意図的故意の邪悪な動機からもたらされるものである。かく認識して正々堂々たる左派運動に向かうべきであろう。

 このことを踏まえた上で、「平時の論理と戦時の論理」を構築することが望まれている。「戦時の論理」は期限付きの特殊と見なした上で(あるいは逆に戦時が通常で平時が特殊なのかも知れないが)、これを受け入れていく以外に闘いは勝利しない。人類はこの不条理から抜け出せる叡智を未だ獲得し得ていない。このことが分からない者は饒舌家でしかない。してみれば、戦前戦中戦後今日までの左派運動の歴史には、こうしたところの理論的解明が立ち遅れたままの下手な実践運動で推移してきているという負の遺産の只中にあるのではなかろうか。

 競り合い運動の模範的史実として、60年安保闘争の第1次ブントの闘いがある。第1次ブントが挑んだのは国家権力に対してであり、政治に対してであった。第1次ブントの暴力性が他の諸党派に向けられたことは寡聞にして聞かない。学生大会の指導権狙いで多少の画策と小競り合いをした程度である。今から思えば許される範囲であったであろう。第1次ブント運動は党派的競り合いで自ら範を示し、時の岸政権を打撃し瓦解させた。ゼンガクレンの名は世界に轟いた。そういう意味で素晴らしい闘いであった。

 学生運動史の検証から云える他党派への暴力の行使は、60年安保闘争後の第1次ブントの内部分解により全学連中央を掌握した革共同全国委-マル学同系運動からであり、更に云えばその革共同全国委の革マル派と中核派の分裂以降専ら革マル派が得意としてきたのではないのか。かの他党派解体、諸雑派一掃運動こそもっとも馬鹿げた罪悪なチンケ暴力ではなかろうか。震源地は殆ど常に革マル派にあり、これにより急進主義系運動は重大な損傷を負い続けたのではないのか。してみれば、革マル派の邪な狙いが詮索されねばならないと思う。日本左派運動には、この認識が当然となるところ共認されようとしない不見識がある。

 全学連史を紐解くと、官学の東大、私学の早大が司令塔であり活動家の貯水池だったことが分かる。その早大で1969年、社青同解放派が革マル派の卑劣な策動により追い出されて以来、革マル派が学内憲兵隊と化して他派を寄せ付けず、革マル派と民青同の二元支配となり、以降、早大は学生運動の輝かしい歴史を逼塞させた。このことはもっと重視されて良いことではなかろうか。民青同と革マル派は表向き反発しているが、日本左派運動の鎮圧部隊として地下で通底しているのではなかろうか。思えば、全共闘運動に敵対したのもこの二派であった。第1次ブントの60年安保闘争に敵対したのもこの二派であった。その民青同は「戦前の党中央委員査問リンチ致死事件」の頭目である宮顕に指導され「排除の論理」で、革マル派は「組織名簿売り事件」の頭目である黒寛に指導され「解体の論理」でと云う妙な組み合わせで日本左派運動内に闖入してきたのではなかろうか。

 こういうことを明らかにする為にも歴史検証が必要な訳であり、学生運動史論が必要な訳であり、これを疎かにすること自体が悪の暴力をのさばらせるのではないのか。この際、立花隆的な一見中立そうな見解は何の役にも立たない。むしろ邪悪な者の助っ人的役割を果たしていることになる。そういう意味で歴史を学び歴史眼を養うことが必要な訳であり、各党派は結党以来の履歴を良くも悪しきの面も克明に記録し晒し、判断を歴史に仰ぐ姿勢を執る責務がある。これは党派としての公党責任であると考える。ところが、これがからっきしできていない。悪だくみ派は隠したがる癖があるので仕方ないとしても、自派をそうは思わないなら、かの時代の正義として堂々と開陳すべきだろう。物事には定向進化の流れがあり、時代のムードも有り、行き着くところまで行かないと評価が難しい。今日的に見て具合が悪いことがあったとしても、かの時代の正義を隠すことはなかろう。

 もとへ。1970年安保闘争後の中核派による革マル派活動家・海老原君リンチテロ致死事件以来、革マル派の中核派に対する復讐テロが公然と始まり、中核派がこれに反発し、革マル派のテロは社青同解放派にも向かい、この三派間で激しい党派戦争が繰り広げられることになった。他にもいろんな事件が起こったが割愛するとして、連合赤軍による同志殺害事件が発覚し左派圏を震撼させた。日本赤軍がパレスチナ連帯に向い、自爆テロへと突き進む。事の是非は単純には論ぜられないが、新左翼系左派運動が何やら特殊運動化したのは事実だろう。

 あれから40年、そろそろ過去の運動を対自化させ、継承すべき面と排斥すべき面を分別すべきではなかろうか。この間、日本政治はネオシオニズム系の御用聞き政治家が一挙に台頭しており、売国政治に腐心している。戦後ハト派政治時代に築かれた国富的財産が強奪され、見るからにお粗末な惨状を呈して今日に至っている。いつの間にか公然と自衛隊の武装派兵が進んでおり、米英ユ同盟の裏部隊から前線部隊へ引き込まれようとしている。他方で、かっての社共運動たるや既に面影さえない。社会党は解党し、日共はますます貧相さを呈しつつある。この局面で日本左派運動の再生が為されないとしたら、もはや永遠に失われてしまうことになるだろう。筆者は、有り得べからざる同時代的恥辱と受け止めている。

 
【れんだいこの党派間ゲバルト処方箋】

 ならば処方箋も出さねばならないだろう。筆者は、日本左派運動が徒な運動圏内暴力で潰れた以上、まずは一刻も早くそれを取り除き、ここから再出発せねばならないと考える。しこうして正々堂々とした競り合いルネサンス運動に向うべし、競り合い運動に敵対する他党派解体派には共同して防衛、粉砕すべし。これを当面さしあたりの漢方薬としたい。以下、筆者なりの党派間ゲバルト問題に対する処方箋を提起しておく。

 いきなり結論から入りたい。筆者は、「同一党派内ゲバルト=内ゲバ」は良くない論ではなく、起こさせてはならない論づくりに向かうことに意義を持たせている。内ゲバの場合は、組織論で解決し得ることであり、それは規約に結晶させるべきだと考えている。「党派間ゲバルト問題」の場合は、これを党派闘争の環の中に位置付け、左派憲章的に克服すべき課題であると観る。せめてここまで漕ぎ着けることが、残された者達の責任であり、犠牲者達への供養であろう。

 では、「党派間ゲバルト抑止の為の左派憲章」をどのように文言すべきか。以下、簡潔平明な処方箋を示したい。なぜなら、難しく長たらしいのは却って焦点がぼけるから。

憲章1  されて嫌なことはするな。
憲章2  憲章その一に反する党派を左派戦線からパージせよ。
憲章3  該当党派からの執拗な攻撃には、左派戦線共同して防御的に反撃せよ。
憲章4  ゲバルト犠牲者に対する合同慰霊祭を執り行え。
憲章5  以上に関する共同戦線憲章を構築せよ。
憲章6  ゲバるより議論せよ。
憲章7  左派戦線内にルネサンスの気風を涵養せよ、
憲章8  世代間にこれらの作法を継承せしめよ。

 左派憲章の確立を何故急ぐか。直接的には、我が左派運動から有能な人士が次々と戦線離脱させられていくのが忍びないからである。一刻も早く、この不毛の悪循環から解き放ち、活動家としての本来の有能な働きをさせたい、互いに僅かばかりの人生をこんなところで費消させたくないと思うからである。次に、この「党派間ゲバルト」に我関せず的に立ち回る「俗流民主主義論」の非を明らかにしたい為である。そういう連中の論の俗流無益振りを露わにすることにより党派間ゲバルトの真の解決に向かわせたい為である。

 筆者は、活動家一人を誕生せしめる為の代価の尊さを思う。一体、一人の人間を青年期まで育てるのにどれほどの愛情と社会的コストがかかっていることだろうか。更にその中から左派運動に関心を持つ活動家の稀少さを思えば、その命を疎かにするなど有り得て良い訳がなかろう。青年期には「我が我がの勢いで張り合う」ことしか知らなかったが、還暦期になると党派は違えど大きな意味での仲間の有難さをこそ思う。

 問題は、革マル派独特のオウム式ボア理論に対する賢明なる叡智と対処の仕方であろう。「我が教義こそ絶対」として靡かない者に対して振り回す教育的措置とボア理論に基づく諸雑派一掃解体運動が如何に迷惑千万なものであるか。意図的故意に仕掛けている以上、有効な対策としては大衆的に包囲して孤立させ封殺すべきであろう。その拠っているところの理論の虚構を完膚なきまでに説き伏せることであろう。これを文明力、歴史力と云うのではなかろうか。

 
【「検証 内ゲバ」の提言考】

 「検証内ゲバ2」末尾に、生田あい氏の文責による「結語 内ゲバ廃絶のための私たちの提案」が発表されている。締め括りに「5項目提言」が提起されている。これと対話しておく。筆者は、「提案」趣旨と「5項目提言」に概ね異存はない。問題は「提言3」にあるように思われる。「意見の相違・対立を暴力によって解決しようとする党派・グループは、『大衆運動における共同行動の対象としない』原則を確立しよう」とあるが、「意見の相違・対立を暴力によって解決しようとする党派・グループ」とはどの党派・グループを指しているのだろうか。肝要なことは、過去の党派間ゲバルト史をどう読み取り、再犯防止の手立てにするかにある。「どっちもどっち論」による汚れた手と汚れていない手の識別による「関係党派の排斥申し合わせ」は有効に機能するだろうか。つまり、第四インター的呼びかけは正解だろうか、かの呼びかけも臭いのではなかろうか、という問題意識を介在させねばならないのではなかろうか。

 ここは肝要なところだから確認しておく。必要なことは、現在的左派運動の逼塞に於ける要因として、「日共系の穏健派目付け支配、革マル派の急進派目付け支配という公安戦略」に有効に対処し得なかった「我々の非」をも認めた「新たな日本左派運動の共同戦線運動の創出戦略青写真」を提起することにあるのではなかろうか。これは「どっちもどっち論」では解けないのであり、正邪と是非を検証した理論的総括を経て、「内ゲバと党派間暴力をに二度と起こさせない抑止の論理と実践基準」を獲得すべきではなかろうか。筆者は、これこそが左派運動途上に犠牲を余儀なくされた志士にカリカチュアされた無念の死への真の弔いであると確信している。

 過去の原因を明らかにせず、今後はこうしようという決めごとは、おざなりなものに堕するのではなかろうか。共闘理念に立たない勢力による、立つ勢力に対する暴力を許さないとする、立つ勢力側の応戦力、党派間自治力の形成こそが真に望まれているのではなかろうか。その為に定期的に会合が設営され左派運動が点検される作法こそ獲得したいと思っている。権力奪取、体制打倒とか云う前にせめて、ここまでには辿り着かねばならないのではなかろうか。