中谷大輔さんによる、恐竜についてのコラムをご紹介します!
コラム筆者紹介

コラム筆者紹介

 

中谷大輔

長崎市 教育委員会 恐竜博物館準備室 学芸員

1984年生まれ、北九州市出身。山口大卒。2012年鹿児島大大学院理工学研究科博士後期課程単位取得退学。同年から佐賀県立宇宙科学館(武雄市)学芸員。2017年10月から現職

鳥脚類

鳥脚類

人気のある恐竜には、鋭い歯や角があったり、とげやこぶのついた尾があったりします。また、非常に長い首をもっていたり、背中に板状の骨があったりします。そのような分かりやすい特徴がある種類は、恐竜グッズのデザインに採用されやすいため、結果として子供たちに覚えられやすくなるのです。

しかし、全ての恐竜が派手で個性的な姿をしていたわけではありません。そこで今回は、地味に見えても実は大繁栄していた恐竜のグループである「鳥脚類」について紹介します。

植物食恐竜の鳥脚類には、全長が1メートル程度の小型種から、15メートルにもなる大型種までいて、2足歩行だったり、4足歩行だったりします。どの種類にも、目立った武器のようなものがないことから、恐竜図鑑ではティラノサウルスなどの肉食恐竜に、一方的に襲われている姿ばかりが描かれています。

しかし、このグループの化石は、全ての大陸で発見されており、ミイラとして皮膚の痕跡が残っているものもあります。また、子供から大人まで非常に多くの化石が発見されていることから、群れを作り、子育てをするなど、ある程度の社会性があったと考えられています。さらに、最も進化した鳥脚類のハドロサウルス類には「デンタルバッテリー」と呼ばれる、植物をすりつぶすことに特化した歯があり、効率的に栄養を摂取していたと考えられています。鳥脚類は、他の恐竜にはないしたたかな戦略で、弱肉強食の恐竜時代を生き抜いていたのです。

長崎市では、日本で初めて発見されたティラノサウルス科の大型種の化石が注目されていますが、最初に発見された恐竜はハドロサウルス類です。大きな大腿骨の一部や、すり減って抜け落ちた歯など、非常に多くの化石が発見されています。

日本で初めて全身骨格が復元されたフクイサウルスが鳥脚類だったように、長崎市で最初に全身像がわかる恐竜も、鳥脚類の仲間かもしれません。長崎市恐竜博物館(10月29日開館)では、このグループの展示にも力を入れます。人間の世界でも個性が尊重され、派手な活躍が注目されがちですが、荒々しい恐竜時代を生き抜いた鳥脚類の展示を通して、地味でもしたたかに生きていくことのすごみを知ってもらえればと思っています。

 

※令和3年4月1日 長崎新聞掲載

暴君竜

暴君竜

地球史の中で他を圧倒する力を持ち、その時代の支配者のような風格を持つ生き物がいました。研究者は、そのような生き物に対して、畏敬の念を込めて「支配者」や「王様」という意味の学名を付けることがあります。その中でも、「暴君竜」という意味の学名を付けられた恐竜がいます。それが「ティラノサウルス」です。

今から6600万年前(白亜紀後期)の北米大陸にいたティラノサウルスは、強靭(きょうじん)な顎と太くて折れにくい歯を使って、トリケラトプスなどの他の恐竜を骨ごと食べていたと考えられています。最近の研究では、他の肉食恐竜よりも嗅覚が優れていたと考えられており、暗闇や物陰に隠れた獲物を見つけ出すことができたとされています。しかしながら、全長13メートルにもなる巨体に不釣り合いな小さな腕の用途については、今もよくわかっていません。そのため、いまだに謎の多い生き物とされています。

地球史上まれにみる存在感を放つ暴君竜の祖先は、1億6000万年前(ジュラ紀中期)までに、アジアで誕生していたと考えられています。全長は1~3メートル程度で、同時代の他の恐竜よりも弱い存在だったようです。中国で発見された原始的な種類の化石には、はっきりとした羽毛の痕跡があったため、より進化した種類にも羽毛があったのではないかと考えられています。

日本では比較的小型な種類の化石が発見されていましたが、2014年に長崎市で発掘された2本の歯の化石から、全長10メートルに達する大型種もいたことが分かりました。世界一有名で最も人気のある恐竜と言っても過言ではないティラノサウルスに近縁な大型種が、8100万年前の長崎を支配していたのかもしれません。そして、その痕跡が今もこの大地に眠っているのかもしれません。

10月29日、長崎市野母町に市恐竜博物館が開館します。世界最大級で、全身の8割が化石として発見されたティラノサウルス(愛称:トリックス)の全身骨格のレプリカが世界で初めて展示されるほか、長崎にいたティラノサウルスの仲間を再現した、オリジナルデザインのロボットも展示されます。

さらに同博物館では、長崎にいた暴君竜の真の姿を解明するための研究も行われます。ぜひ、博物館で暴君竜について学習し、太古の支配者に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

 

※令和3年3月4日 長崎新聞掲載

恐竜少年の歩み

恐竜少年の歩み

恐竜は子どもに人気があります。このことは、バラエティーに富んだ恐竜柄の子ども服を見ると、つくづくそう実感します。実際に、私が講演をする時も、列をなして質問に来る子どもたちの多くが、恐竜のプリントTシャツを着ていました。世代によって子どもの頃に好きなアニメキャラクターは変わっていきますが、恐竜の人気は衰えることがないようです。

私も幼少期から恐竜が大好きでした。博物館や書店に行くたびに、恐竜グッズや図鑑を親にねだっては困らせていました。今回は、そんな恐竜少年が研究者になるまでの一例として、これまでに私が歩んだ道のりを紹介します。

私が友人たちと違う道に歩みだしたのは、中学生の頃でした。一般的に青年期を迎えると恐竜への関心が薄れるもので、次々に恐竜好きな友人が気配を消していきました。それでも私は周囲に目もくれず、恐竜や化石が好きだと公言し続けていました。

そんな時に地元の博物館で印象的な化石と出合いました。小さな魚の頭が、大きな魚のおなかを突き破って外に出てきている化石でした。相打ちとなった2匹の魚で、一瞬の出来事が1億年近く、そのままの姿勢で保存されていたのです。

一瞬が半永久的に残るという矛盾に気づいた私は、もっと深く知りたいという欲求にかられ、研究者になりたいと思うようになりました。同時に、ものづくりや会話も好きな自分にとって、展示物を作ったり来館者に解説したりする学芸員は、最適な職業なのではないかと考えるようになりました。

その頃に描いた人生設計に基づき、高校では理系コースを選択し、地質学や古生物学が学べる大学に進学しました。その後、脊椎動物化石が研究できる大学院に進学したことで、追い求めてきた古生物学者に少しずつ近づいていきました。

私の場合は、博士号取得前の未熟な研究者でありながら、運よく佐賀県立宇宙科学館に学芸員として勤め始め、転職して現職に就くことができました。長崎市に来てからは恐竜博物館の建設に携わり、念願だった恐竜の研究が行える環境が整いつつあります。

おそらく、恐竜少年の中ではかなり幸運なケースでしょう。そのことに感謝しながら、後進にバトンを渡す時まで、しっかりと歩んでいきたいと思っています。

※令和3年2月4日 長崎新聞掲載

化石のロマン

化石のロマン

化石にはロマンがあるといわれます。空想の世界に浸れるきっかけを与え、その生き物がいた時代に「タイムスリップ」したり、進化に費やした時の流れを俯瞰(ふかん)することもできたりします。大昔の生き物の情報だけではなく、関わった人々の思いや物語も秘められているため、壮大な歴史ロマンを感じられることもあります。

私が首長竜の調査で訪れた米国フィラデルフィア自然科学アカデミーには、大変興味深い化石が厳重に保管されていました。この博物館に所属していた古生物学者エドワード・D・コープ(1840―97年)が「エラスモサウルス」と名付けた最初の化石です。

コープは未知の生物の特徴を見いだし、全身の骨格図を論文に掲載しました。しかし、あろうことか、背骨の向きを間違え、頭を尾の先に配置して描いてしまったのです。まさに、「弘法(こうぼう)も筆の誤り」という例えにふさわしい出来事でした。

出版直後、別の古生物学者からの指摘を受け、即座にコープは論文を自腹で回収し、抹消しようと試みました。しかし、世に出た論文を完全に消し去ることは難しく、米エール大学のチャールズ・O・マーシュ(1831―99年)の手元にも届いてしまいました。化石を巡ってコープと熾烈な争いをしていたマーシュは、その誤りを声高に非難するとともに、その論文のコピーをばらまいたとされています。コープも負けじと、事あるごとにマーシュへの嫌がらせを繰り返し、2人の醜い争いは激化していきました。この出来事は、「化石戦争」として、恐竜図鑑でも紹介されることが多いエピソードですが、2人が積み重ねた研究成果は膨大で、米国の古生物学を飛躍的に発展させました。

私は、その首長竜の化石を手に取りながら、150年ほど前のコープの無念さに思いをはせ、基本的な情報を見落とさないよう、慎重に研究を進めなければならないという思いにかられました。

今年10月開館する長崎市恐竜博物館でも、さまざまな人間ドラマが繰り広げられていくと思います。発見者や研究者だけではなく、恐竜博物館の来館者や地域の方々も登場するような物語が生まれるといいなと思っています。少なくとも、後世に語り継がれても恥ずかしくないものにはしていきたいです。

※令和3年1月7日 長崎新聞掲載

研究の面白さ ~探偵のように化石から推理~

研究の面白さ ~探偵のように化石から推理~

2021年10月29日に長崎市野母崎地区に恐竜博物館がオープンします。長崎市から発見された恐竜の化石を中心に、太古の長崎について学べる博物館として建設されます。

恐竜は子供が楽しむもので、大人が趣味や教養として学ぶようなものではないと思われているかもしれません。それでも私は、恐竜が老若男女、国籍や宗教の垣根を越えて、誰しもが親しむことができる珍しい存在であり、それらの専門的な知識が、趣味や教養として十分に楽しめるものだと考えています。そこで、今回は、私なりに思う恐竜研究の面白さについて紹介します。

古生物学者が行う研究は、推理小説に登場する探偵の推理や調査と似ています。化石となった生物の身元や類縁関係を調べ、現場の様子から遺骸が荒らされた痕跡がないか等を調べます。骨の表面に残された傷跡や病気の痕跡を通して死因を推定したり、現場周辺で発見された他の動物の歯の化石から捕食者を特定したりします。

ただし、化石は断片的なものであることがほとんどです。身元や類縁関係が判明すればよい方で、その時点で分からなかったことは次世代の研究者に託すことになります。

例えば、恐竜と鳥の関係性を調べた研究があります。両者が類縁関係にあるという意見は150年ほど前から注目されていましたが、証拠が不十分とされてきました。しかし、25年ほど前に、羽毛の痕跡が残った恐竜の化石が中国で続けて発見されました。これにより、現在では鳥が恐竜の生き残りだと広く受け入れられています。最近では、鳥の生態を参考にして、恐竜の生きていた様子を解明しようとする研究も増えています。

一見して、恐竜の研究は終わりの見えない謎解きのようですが、一つでも革新的な発見があれば、劇的に進展するという醍醐味(だいごみ)があります。さらに、革新的な発見をする人は必ずしも研究者ばかりではありません。偶然見つけた化石により、昨日まで恐竜に興味がなかった人が、最先端の研究の中心に躍り出てくることさえあるのです。

このような面白さを研究者だけで独占するのではなく、長崎市の恐竜博物館を通して、少しでも伝えていくことができればと思っています。

※令和2年12月3日 長崎新聞掲載

考古学と古生物学

考古学と古生物学

 「大昔の生き物のことを研究しています」と私が言うと、「考古学が専門なんですね」と言われることがよくあります。おそらく、大昔の事を調べる学問として、考古学が最も馴染みのある学問なのだと思われます。

確かに、考古学は大昔の人々がつくりだした文明や遺跡等を研究する学問です。日本では社会や歴史の一部として、文系のイメージが強いかもしれません。しかしながら、大昔の生き物を研究する学問は、生物学や地学に関係が深く、古生物学と呼ばれます。そのため、私は高校や大学、大学院で理学系の分野を専攻してきました。 現在、これほどまでに古生物学の認知度が低いのは、古生物学者による周知不足によるものなのかもしれません。

恐竜が好きだったが、高校や大学で文系コースを選択していたため、恐竜博士になることを断念したという話を何度も聞いたことがあります。もちろん、本人の問題ではありますが、古生物学の認知度が高ければ、そのように後悔する学生の数は減らせたかもしれません。2021年10月に長崎市の野母崎にできる恐竜博物館では、恐竜のことが好きな子供たちに古生物学のことを知ってもらい、進学の際の参考になればと思っています。

※長崎ケーブルメディアTVガイド9月号掲載

恐竜展の集客力

恐竜展の集客力

博物館に勤める職員の間では「恐竜展を開催すれば必ず入館者数が増加する」ということが真しやかに囁かれています。また、昨年の夏に国立科学博物館で開催された「恐竜博2019」には約68万人が訪れ、その年の博物館や美術館等で行われた展覧会の中で最も多かったとする調査結果も出ています。コストや会期の違い等から、費用対効果としての比較はできないのですが、昨年開催されたサザンオールスターズのコンサートの集客数(22公演で約66万人)をも上回る数字で、恐竜が集客力のあるコンテンツだということは間違いないようです。

このことは、裏を返せば経済活動に与える影響が大きいことを示しており、博物館だけでなく、参画企業にとってもメリットが大きいと考えられます。長崎市の野母崎地区に2021年10月に開館する恐竜博物館は、国立科学博物館のような大規模な施設ではないのですが、そのような博物館で開催された企画展を誘致できる企画展示室を備えています。感染症対策等の考慮すべき事項が多い現状ではありますが、様々な企業と連携しながら、私も来館者満足度の高い企画展の開催に貢献できればと思っています。

※長崎ケーブルメディアTVガイド10月号掲載

龍の街 ~〝恐竜の名付け親″は長崎出身~

龍の街 ~〝恐竜の名付け親″は長崎出身~

長崎市ではあらゆる所で「龍」という文字を見かけます。一番多いのが、坂本龍馬に関するものです。ほかにも、長崎くんちの龍踊り(じゃおどり)や川原大池(宮崎町)に伝わる阿池姫(おちひめ)伝説の龍、龍が空けた穴とされる蚊焼町岳路地区の龍穴など、「龍」の文字が身近に感じられる街なのかもしれません。そんな龍の街で育った長崎人が「恐竜」(恐龍)という言葉を生み出したことをご存知でしょうか。

「恐竜」は、1841年にイギリスの解剖学者リチャード・オーウェンによって提唱された「Dinosauria」を語源とする訳語です。「Dinosauria」には、ギリシャ語で「恐ろしい蜥蜴(とかげ)」という意味があることから、「恐蜥(きょうせき)」や「恐蜴(きょうえき)」と訳されたこともありました。しかし、現在では恐竜と訳すことが一般的になっています。

最初に「恐龍」と訳した人物は、長崎出身で「日本の古生物学の父」と呼ばれる横山又次郎(1860―1942年)とされています。江戸時代、出島で阿蘭陀通詞をしていた横山家の分家7代又次右衛門の次男として生まれました。長崎市で過ごした時期の記録はあまり残っていませんが、幕末期の「英語伝習所」を源流に1874年~77(明治7~10)年に存在した「長崎英語学校」(県立長崎西東高、西高の前身)に通っていたことがわかっています。

その後、上京し、旧東京大学を卒業。明治政府の農商務省で地質調査に従事した後、ドイツへ留学し、最先端の古生物学を学んだとされています。同時期のドイツにいた森鴎外とも交流があったとされています。帰国後、東京帝国大学の教授として、後進の育成に努め、多くの書物を残しました。

「恐龍」という言葉は、95(明治28)年に発行された横山教授による著書「化石学教科書・中巻」に登場するものが、最も古い記録とされています。現在、私たちが恐竜に対して、神秘的に感じる魅力は、横山教授により採用された「龍」という文字による影響なのかもしれません。そして、横山教授がそのように訳した背景には「龍の街」の影響が少なからずあったのかもしれません。

近年、長崎市や西海市では恐竜の化石が次々に発見され、来年10月29日には長崎市野母崎地区に市恐竜博物館がオープンします。このことから、横山教授が日本に伝えた「龍」を私たちの街で見かける機会がこれまで以上に増えていきます。

※令和2年11月5日 長崎新聞掲載

ジュラシックパークの効用

ジュラシックパークの効用

恐竜映画の金字塔とされる「ジュラシックパーク」は、卓越した映像技術で世界中の人々を驚かせただけでなく、随所に見せるマニアックな演出で恐竜ファンをも唸らせてきました。特に恐竜ファンの間で語られるのが、第1作目終盤で、ヴェロキラプトルという小型の肉食恐竜が、キッチンに逃げ込んだ子供たちを扉の小窓から覗き込むシーンです。このシーンが秀逸とされるのが、恐竜の息によって小窓が少し曇るところにあり、変温動物と考えられてきた恐竜が一定の体温を保ち、温かな息を吐くことができたとする仮説をさりげなく表現しているのです。

 この映画の上映時に小学生だった私は、このことに気付けませんでしたが、恐竜が怪獣とは違い、科学的に証明される生き物だと感じたことは覚えています。現在、「ジュラシックパーク」に魅了された子供たちが古生物学者となって世界中の博物館や大学に勤めています。おそらく、この映画がきっかけとなって、研究者を目指す子供が飛躍的に増加した結果なのだと思います。

2021年10月29日には長崎市恐竜博物館が開館し、2022年夏にはジュラシックパークの最新作が公開されることから、恐竜博士を目指す子供たちが増えるのではないかと期待しています。

 ※長崎ケーブルメディアTVガイド11月号掲載

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