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PCエンジン YsⅠ・Ⅱを製作された岩崎啓眞氏の記事、

『僕がYsを作った頃』 を勝手に抜粋してしまいした

Ys好きには興味深い真実がいっぱい!(>ω<)


(上のブログタイトルクリックで氏のオリジナルブログにGo)



01 21年前の事を書いておこうと思ったワケ
02 1989年2月 - イースの許諾を取りに行く
03 1989年3月 - 移植準備始まる
04 1989年3月 - 足りないスタッフ、合わないアレンジ
05 1989年3月 - 山根ともおとの出会い
06 Wikipediaのイースの項目について(1)
07 Wikipediaのイースの項目について(2)
08 Wikipediaのイースの項目について(3)
09 オリジナルスタッフのイースの設定(ゲーム以前)
10 オリジナルスタッフのイースの設定(アドルがつくまで)
11 1989年4月 - スーパーイースというタイトル
12 1989年5月 - 米光さんのアレンジと出会う
13 1989年5月 - グラフィックスタッフの努力
14 1989年6月 - お礼に一曲吹きましょう
15 1988-90年前半、ハドソンの風景(1)
16 1988-90年前半、ハドソンの風景(2)
17 1988年 - ハドソンで作られていたゲームについて
18 1989年 - ハドソンで作られていたゲームについて
19 1989年6月 - レベルを統合すると決める
20 1989年7月 - バランスを取り直しつつ、ボスの調整を始める(1)
21 1989年8月 - どうせ銀の装備なしには勝てんのだ
22 1989年8月 - 不思議なメッセージ
23 1989年9月 - どっちがヒロインなのよ?
24 1989年9月 - 微調整と最後のバランス
25 1989年10月 - 頭に来たスタッフロール
26 1989年11月 - アフターカーニバル

 
21年前の事を書いておこうと思ったワケ
WikipediaにイースシリーズイースI・IIの項目がある。

この項目は、当時を知っていた人間(多分関係者(笑))が書いたと思われる話が結構載っているのだが、昔の話について「文献がない」だのとケチをつけられており、読んでいて悲しくなってしまった。

だいたいWikipediaの主張する検証可能性なんて話を始めると、この当時のゲームを作っていた人間の話なんて、みんな検証不可能だ。
ほとんどは口伝の伝説みたいなもんである。
検証可能な話と出来ない話は腑分けして「これは検証不可能な話です、もしかしたら嘘かも知れません」と但し書きをつけておけばいいだけで、検証可能性自体が自分たちの可能性を狭めていることに気がつかないのかと言いたくなるが、まあいいや。

と、むかっ腹がたったのと同時に「真実を知っている人間は減っていく」ルールがあるので、1988-89にイースシリーズに関係した人間の1人として、当時の事を自分が覚えている限り、出来るだけ正確に書いておこうというのが、この記事の目的。
まあ一度資料として残しておけばweb archvieとかいろいろな形で残っていくだろうし。少なくとも80-90年代のゲーム開発に関する雰囲気を知れる資料程度になればいいなあと思っている。


さて、このカテゴリで特に書くつもりのことは以下の3つ。
  • イース1・2の開発を始めた当初の流れ
  • 自分の聞いたファルコムでのイースの開発についての話
  • オリジナルスタッフがイースについてどのような設定をしていて、オリジナルスタッフの考えていたイースとはどんな話だったのか

最後の1項目について少し補足すると、もちろんイースはファルコムの著作物で、僕は、現時点のファルコムのイースの設定を尊重する。
「公式」という言葉にはそれだけの重みがある。
だが、反面、現在のイースの設定はオリジナルスタッフが全員、ファルコムからいなくなってから整理された設定なのも事実だ。
そして、少なくともオリジナルスタッフが考えていた(と僕が聞いている)設定からはかけ離れていると思う。
そして僕は1988-89の21年前の当時、オリジナルスタッフが「どのような設定をしていたのか」を知っていて、かつ書くことが出来る多分数少ない人間の1人だと思うので、ここにそういった事を残しておきたい…と思う次第だ。

なお、これらの話は、全部自分が直接体験したり、直接体験した人間から聞いた二次情報がほとんどなので、20年経ったことから来る記憶違いや、当時僕に教えてくれたヤツが間違っていた(その可能性はほぼない)なんてことがない限り、まず嘘ではないと思う。
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1989年2月 - イースの許諾を取りに行く
前回の話
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。
ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が聞いた話で、伝聞情報もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

さて、本文。
イースの移植の話が始まったのは、僕がハドソンでPC-8801(Mk2 SR)版イース2にハマっていたから。
1989年1月、デビュー作の「凄ノ王伝説」がデバッグに入っていてヒマになったのもあり、北海道のハドソン本社4Fの開発ルームの隅にあった企画のエリアに入り浸ってイースII(88年末発売)で遊び倒していた。
そこに当時ハドソンの常務だった(と記憶している)中本さんが「そんなに面白いんだったら移植をしないか?」ともちかけてきた。
当時、僕はROMの容量の厳しさにウンザリしてた。
そしてCD-Iの開発でCDROMを経験してたからCDのメリットと弱点を知り尽くしている自信があった。だから容量制限が実質ないCDROMでゲームを作りたくてしょうがなかった。
で、中本さんの話に「イースって1と2を合わせて1つの話になるように出来ているんだわ。だから1・2合わせて一本にすれば、CDROMの大容量のアピールになるし、売れる。それならやるよ」と返事をしたら、中本さんは絶大に行動力のある人で、たちまち僕を連れて、当時立川にあった(今でもあるのだろうか?)ファルコムに行くという話になった。

当時、ファルコムとハドソンの仲はあまりよくなかった。
というのもファルコムの代表作である「ザナドゥ」をハドソンが「ファザナドゥ」というタイトルでファミコンに移植したのだが、これがファルコムの機嫌を損ねるようなオリジナルからはかけ離れた移植だったからだ。
名誉のために書いておくと「ファザナドゥ」はザナドゥの移植と考えなければ、結構遊べる…というより、出来がいいアクション(RPG要素もある)の佳作だ。
だが、いかんせん「ザナドゥの移植」と言われたら?な作品なのも間違いなく、そして、もちろん買ってプレイした人は、当時絶大な人気のあった「あのザナドゥ」のつもりで買っているわけで、とても評判が悪かったわけだ。

そんなわけで中本さんに連れられていったファルコムでの扱いも大変厳しく(苦笑)、どんな移植をするつもりなんだと言われ「CDの容量を活かして2本を1つにまとめ、オリジナルを尊重して、音楽は…」などと説明しても、当時の社長だった加藤さん(現会長?)の表情は硬く、会議の間じゅう、何かと皮肉を言われるような状況だった(もちろん皮肉は「ファザナドゥ」についてだった)。

そして、いくらなら移植を…という話になったとき、加藤社長は、かなりふっかけた値段を言ったと思う。
正直、移植して欲しくなかったのだろう。といって(今までの)ハドソンとの付き合いもあるわけで、断るわけにもいかないから「この値段なら移植されてもしょうがないが、まず諦めるだろう」ぐらいの金額をふっかけたのだ、と今は思っている。
ところが中本さんはその価格を即決。
しかも営業のZが「それじゃあ元が取れない」と文句を言ったのを「これでCDROMの台数を増やして元を取ればいいべ!」と言い放ってしまったのだ。
正直、痺れた。
凄ノ王伝説なんてワケのわからないRPGを1本作っただけの(一応それなりに売れたから赤字ではなかったと思うけれど…)、実力不明のワケのわかんねえガキが「1/2まとめてなら移植しますよ」とか偉そうに言ってるのをやらせたんだから、全くすごい度胸だったと思う。

まあ、とにもかくにもこんな流れでイースI・IIの開発は始まった。
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1989年3月 - 移植準備始まる
前回はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が聞いた話で、伝聞情報もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

さて本文。
イースの移植を始める前から「どんなゲームにするか?」の方針は決まっていた。
CD-Iを丸2年扱って、CDROMのメリットは容量とサウンドで、デメリットはアクセスタイムとわかっていた。
逆の書き方をするなら

・アクセスタイムはROM並みで
・オーディオがCDDAで
・ROMではあり得ない大容量を感じられる

と、これを満たせば、買った人は、とてもハッピーになれるわけだ。

この喜びを買って5分で味わってもらうために、ともかくオープニングで派手なアニメをやるのは決めていた。
(ファルコムのマニュアルに載っている)イースの歴史を語って、音楽がCD Digital Audio(CDDA)でナレーションが入れば、絶対に「買って良かった!」と思ってもらえると考えていた。
また、イースは曲が有名なので(今でも僕は大好きだ)曲は出来るだけCDDDAにする。CDDAにするとゲームを動かしながらデータを読むことが不可能になるから、データは圧縮して出来るだけ詰め込む。
ROMカードのゲームを取っ替えひっかえするイメージで作ればいい。
だいたいCDドライブはアクセスが恐ろしく遅いから、出来るだけ読まないに越したことはない(シークすると最小ペナルティですら0.1秒強。端から端までヘッドが動くとなんと3秒以上と書かれていた。アクセス=悪なのは明白だった)
グラフィックはPCエンジンは横320ドットモードがあり、色数はPCより多い(当時は多かった(笑))から、マップは640x400のPC88/98/FM77から完全移植する。スムーススクロールにして(PCはキャラクタ単位だった)、色数を増して、画面をゴージャスにする。
…と、移植をする前に枠組みは出来ていた。

また、スタッフも大半は決まっていた。
中本さんに「プログラマは誰が欲しい?」と聞かれ、答えたのがプログラマはアルファシステムのHaHi君(凄ノ王で組んだ)。
ともかくおっそろしく腕の立つ男で、僕の知る限りでベスト職人プログラマ3人のうちの1人に入る。凄ノ王もイースも天外2もエメラルドドラゴンも、彼なしでは絶対に出来なかったと断言できる。
自分はコード屋(プログラマ)として一流だったことなど一度もない。仮に自分に名声があるとしたら、その90%まではHaHi君のおかげだ。
サブプログラマはいらないと答えた(もしつけたいならハドソンの若手でいいよといった)。二人で作るほうがサブがいるより楽というのが僕の考えだった(凄ノ王で結構もてあました)。
グラフィックは当時ハドソンで天外魔境1を作っていた進藤君と角谷君と久保君が欲しい…といったら「ハドソンのゲームを作らせないつもりか」とか言われ、妥協して(笑)進藤君とあと何人かが決まった。

と、ここまでは簡単だったが、問題はいくつかあった…
|| 19:40 | comments (2) | trackback (0) | ||
 
1989年3月 - 足りないスタッフ、合わないアレンジ
前回はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。

だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

前回、ハドソンとの打ち合わせでチームの準備は出来つつあったけれど、いくつか問題があった…というところまで書いたわけだが、どこに問題があったのかというと…

CDDA(CD Digital Audio、いわゆるCDで鳴らす音のこと)のアレンジャーをどうすればいいのか、本当に困っていた。

当時ファルコムの曲のアレンジをよくやっていたのは難波弘之さん。
およそほとんどのファルコムのゲームミュージックのアレンジャーとしてアレンジを行っていて、公式に近いイメージだった。だから難波さんにアレンジしてもらえば、大きな文句は出ないのはわかっていたが、僕には不満があった。
なぜなら、難波さんのアレンジはヘビーロック系に寄っていて、それがイース…というかファルコムのゲームミュージックの傾向と合っているとは思えなかったからだ。
僕自身はイースはもっとメロディアスでポップなアレンジの方が似合っていると考えていて、どうにも難波さんとはイメージが合わないと思っていた。


またもう一つポップ系の方がいいと思っていた理由があった。
シューティングやアクションならいざ知らず、RPGのマップの曲は一つの曲を長時間に渡って聞くことになる。そのとき延々ロックアレンジだと結構厳しいだろう、どちらかというとイージーリスニング…とまでは言わないが、長時間聞きやすい音を作る人の方がありがたく、その点でも難波サウンドには疑問符がつくと考えていた。

ただ、音楽はゲームの中でかなり独立したセクションで、スタートしてからある程度までは経ってからでも構わないのはわかっていたので、難波さんが出すという「プラスミックス」を聞いてからにしようと思っていた。

それよりもっと大きな問題はアニメの絵コンテとテクニカルだった。
僕は、当時話題をさらい、賞をとりまくっていたPC版のイースIIのオープニングアニメと同じかそれ以上のクオリティのアニメをオープニングで2本(タイトルロール・ゲームのイントロ部)、1と2の間、エンディングの4本を最低用意するつもりでいた。

コンテ自体は自分でもきれるが(ちょっとした理由があってコンテを読むことも書くことも出来る)、もちろん専任の誰かが欲しかった。たまたまコンテの読み書きが出来る素人より、ちゃんとしたアーティストの書くコンテの方がいいに決まっていた。
だが、問題は単純にコンテが書ければいいというわけではなく、加えてゲームマシンの技術に明るくなければならない=コンテを書く人間はゲームマシンのアーティストでも無ければならなかった
なぜなら当時のコンテは今でいうムービーではなくプログラムで駆動されるグラフィックのデータの塊で、専用プログラム+データで表示される代物だったので、ゲームマシンの制約や容量を意識できる人間でなければ、とてもコンテを書けなかったのだ。

もちろんハドソンのスタッフを使ってもよかったが、問題はハドソンの人間はアニメの事を良く知らないし、コンテを書いたことも読んだこともほとんどないことだった。
当たり前だが、これは1988-89年、史上初めてCDROMが家庭用ゲームマシンに登場した当時の話だ。だからコンテが必要なほどのアニメーションがゲームに入ったことなどなかったし音声(声優)の演技指導が行われたこともなかった
だからハドソンにアニメや音声の経験をしたことがあるスタッフはほぼいなかった(ちなみに天外1では広井王子さん率いるレッドが、アニメや演技指導の問題は全部カバーしていた)。

そんなわけで、うーん音楽とコンテはかなあ…と、凄ノ王のマスターがあがり、イースの制作をスタートするまで半月ほど間を東京に戻って過ごしながら、グダグダと考えていたとき、小峯徳司君から電話があった。
彼 - ビショップ小峯とはちょっとしたこと(飲み屋で)知り合った。初めて出会ったときは、僕はまだ最初の会社でCD-Iの研究をしていて、小峯君はアーケードメーカーの麻雀制作チームにいた。
そのあと僕が退職し、次に、小峯君も退職して、角川メディアオフィスでマル勝のライター仲間兼飲み友達として遊んでいた(ちなみに当時、僕はBeep!のレギュラーライターをやっており、角川メディアオフィスのマル勝ではたまに仕事をもらう程度だった)。
電話口で小峯君がいった。
「ファルコムを最近辞めた、山根ともおってヤツがいるんだけどさ、そいつがイースの移植をするって聞いて、会いたがってるんだけど、会えるかな?」
|| 20:55 | comments (2) | trackback (0) | ||
 
1989年3月 - 山根ともおとの出会い
前回はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。

だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

さて、小峯君に「ファルコムを最近辞めた、山根ともおってヤツがいるんだけどさ、そいつがイースの移植を岩崎がするって聞いて、会いたがってるんだけど、会えるかな?」
と聞かれた僕は、一も二もなく会うといった。
なにせイース1では「グラフィック」として一人で名前が載り、イースIIのオープニングを作り、原案に名前を並べている男だ。
つまり、設定のことを知っていて、かつ絵コンテが書けて、かつマップが書けて、ゲームの事がわかっている男だ。いるといないとで、全くゲームの出来が変わるのは明らかだった。
当時、僕は東高円寺に住んでおり、山根が住んでいたのは荻窪だった。近いので荻窪のバスロータリー側のJR入口で待ち合わせようという話になったのだが…


当日、これが待てど暮らせ来ない。

実に30分以上待って、あまりにおかしいので近くの公衆電話から小峯君に電話をしてみた(ちなみに1989年は携帯電話を個人で持つのは夢物語に近かった。携帯電話を普通の人が持てるようになるのは1994年ごろからの話だ)。
「おかしいなあ…今日はいるって言っていたんだけど…ちょっと電話してみるから、5分後ぐらいにもう一度電話してくれるかな?」
5分後。
「電話したけれど出ないから、出てるんじゃないかな」
というので、待ったがやっぱり来ない。
再度電話すると、
「一度寝ると、なかなか起きないヤツだから…ちょっと」
というので、15分ほど待ってから再度電話をしてみると
「やっぱり寝てた。もう少ししたらそっち行くってさ」

というわけで、結局1時間以上待って現れた山根ともおは、痩せて、ひょろりとし、馬面と表現していいぐらいの細長い顔で、細い目に無精ひげを貼り付けた、いかにも人生の落第生。我らが落ちこぼれの吹き溜まり、社会のゴミ捨て場、ゲーム業界で暮らしている感じのヤツだった。
現れたときの第一声はいまだもって覚えている。
「いやーすんません」
すんませんじゃないだろう…と普通だったら思うところだが、山根という男、妙に人懐っこい、怒る気になれない男で、まあいいやと思ってしまった。

しかし話そうとしているのは、結構微妙な内容の話だから人に聞かれるのも困るので、山根の部屋で話をしようということになり、荻窪の結構いい場所にあるマンションに案内されたわけだが、中に入れば、グチャグチャである。
座る場所もまともになく、マットレスが床に直にひかれ、窓の外にはなんと壊れたベッドが置かれている

「なんだこりゃ?」
「いや、この前寝転がったら、ベッドのやろう、壊れやがってね、俺に逆らうのかゴー、みたいな感じで」
「なんで外にあんの?」
「粗大ゴミ捨てるの面倒なんすよ、ゴー」
(ちなみにこのベッドについて、後に山根がまだ札幌に来ないとき、グラフィックのチーフの進藤が山根の部屋に行って、あきれ果てていた)
右手を拳に握り、なにかというと「ゴー」というのが山根の癖だったわけだが、この一連の会話と、遅刻っぷりからして山根という男は社会的には終わっている男ということは良くわかった。

だが、社会性ゼロだろうと犯罪者だろうと出来るスタッフのほうが出来ない人格者より偉いのがクリエイターの世界だ。
そして、雑談やイースについてのインタビューなども兼ね、2時間ほど話した末の僕の結論は山根という男は、人格破綻者で、社会生活破綻者で、遅刻魔で、スケジュール感覚ゼロで、金銭感覚ゼロで、およそ通常の意味では全くどうしようもないが、ドットを打ってキャラとマップを作るのは間違いなく天才だった。

間違いなくスタッフとして欲しい人材だったので、ハドソンに伝えることにした。
そして数日後、山根はイース1・2のスタッフに加わることになった。
|| 22:42 | comments (0) | trackback (0) | ||
 
Wikipediaのイースの項目について(1)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ

山根ともおが出てきたところで、文句をつけておきたいのがwikipediaのイースシリーズの項目だ。
Wikipediaの出典がどのようなルールになっているのか知らないが、ここに書かれていることの大半は、かなり真実なのは間違いない。
でもWikipediaは出典がないというだけの理由で嘘扱いしていてムカつくので、以下に転載し、ちょっとコメントを加えていこう。
ぶっちゃけ、これが書きたくてこの項目を始めたようなもんだ。

Wikipediaの検証可能性とやらは、あまりに問題が多い。
このカテゴリの最初に書いたとおり
だいたいWikipediaの主張する検証可能性なんて話を始めると、この当時のゲームを作っていた人間の話なんて、みんな検証不可能だ。
ほとんどは口伝の伝説みたいなもんである。
検証可能な話と出来ない話は腑分けして「これは検証不可能で、もしかしたら嘘かも知れません」と但し書きをつけておけばいい

杓子定規に検証可能性だの信頼性だのを言い出すと、結局、今回のイースシリーズの話のように、数の少ない人間だけが知っている真実などまで抹殺する可能性があるということに気がつかないのかといいたくなる。
集合知は、屑や信頼性のないところまで含めて集合知である。Wikipediaの草刈りをしている人間には猛省を促したい。

と、思い切り文句を書いたところで--
今回の内容は、20年前に書けば差し障りのある話だったのは間違いないが、今はもう時効だろうと考え、結構あけすけに書かせてもらう。


■■■

〈ドラスレシリーズ〉のゲームデザイナーである木屋善夫の下で厳しいスケジュールと要求に参っていたグラフィッカーの山根ともおが、ディレクション・ゲームデザイン・メインプログラム担当の橋本昌哉とシナリオ担当の宮崎友好の2人に合流して『イース』の開発が始まる。

山根ともおから聞いた話が間違っていなければ、嘘も偽りもない本当だ。
山根は厳しい制限の中でドットを置き、マップを作る作業について正真正銘の天才だった。彼はファルコムに入社して最初に木屋さんの下でザナドゥを作ったが、このとき圧倒的な能力を発揮したので、当時としては素晴らしくグラフィックがきれいなゲームとして話題になった。

もちろんこんな腕のあるドット屋を木屋さんが離すわけもなく、ロマンシアではなんと64キャラ(8x8ドットを1キャラとし、これが64個ということ)でマップ用のデータと人物が全部入っている状況でゲームを作らせた。
普通出来ないと思うのだが、山根は暴れ倒しながら実現してしまった(笑)
山根の主張によると「木屋の親父(と彼は表現していた)は、絵描きのことなんて考えないんだよ、ゴー(彼はすぐゴーという(笑))」で、山根はさすがに参ってイースに参加したと言っていた。

ザナドゥ・ロマンシアと大ヒットを飛ばした木屋さんと比較すれば、当然宮崎・橋本コンビは社内では2線級。そこに山根が入ってイースを作り始めたわけだが「日陰者」という感覚がイース製作の上で影響しているところは多々あると、山根は言っていた。

例えば--「どうして誰でも解けるとか言ったわけ?」と聞けば「まあ劣等生でも解ける! みたいなイメージだったんすよ。それに難しいゲームは俺はロマンシアでうんざりだったし」だ。
「なんで半キャラずらしなんだ?」と聞けば、最初は剣を振るデザインだったのが「俺たち、日陰もんなのに、こんな王道やってどうすんだ。楽に行こうぜ」みたいなノリでやってみたら、結構気持ちよかったもので、そのまま半キャラずらしになった…みたいな具合だ。

もちろん、この話がどこまで本当だったのかはわからないが、当時木屋さんといえば、ザナドゥで伝説的な大ヒットを飛ばし、その後もロマンシアソーサリアンと立て続けにヒットを飛ばしていたPCゲーム界のスーパースターで、それと比較したとき、イースチームのメンバーに日陰者のイメージがあったのは間違いないだろうし、それがゲーム内容に影響を及ぼす…というのも納得できる話だ。

■■■

当初の企画内容は『I』と『II』の両方を含むものであったがディスクが予定枚数に収まらないことと、スケジュール的に間に合わないことから、急遽最終面としてダームの塔を付け加えて発売されることとなり、それゆえに最終面のダームの塔はレベルアップの要素が全くなく、単なるアクションゲームとして出来上がっている。

まさしく書いてあるとおり。
もともとはイースはイース2まで含めてで企画されていて、廃坑にいる「ヴァジュリオン」で話半分で、以降はイース2という話だった(橋本・宮崎コンビの頭の中には、イース2の魔法を撃つ要素はなかったと思う)。
今となっては、どこで空に飛ばすつもりだったのかは分からないが、裏切り者のダルク・ファクトを倒すと、空に飛ぶという展開は同じだったらしい。
余談だが、イースIIでキース・ファクトがかかっていた呪いは実は魔物の呪いではない。ダルク・ファクトが裏切ったことによる影響というのが、元設定だ。まあキースからしてみれば「なんで魔物になったのか」なんてわかるわけもないので、魔物のせいだ、ということになるのは当たり前だけど(笑)

ところが、イース2まで入れるとどう考えてもディスクが3枚組以上になることがわかり、しかも間に合いそうもない。
当時はまだディスクの価格が高く、2枚組までと厳命されていたので、しょうがないので廃坑までで話を切ろうということになった。で、廃坑まででディスク1枚でバランスを取ったが、今度はボリューム不足。しかもマスターアップまで残り1ヶ月。どう考えてもマズい。

そこでスタッフが考えついたのが「ダームの塔」だ(誰が考えついたのかは知らないが、話を聞いていると橋本君っぽい)。
塔なら、全部同じキャラクタセットでいけるし(つまりグラフィックの制作時間が短い)、曲も1曲ですむ
さらにアクションゲームにしてしまえばバランスも取りやすい

あとはもともと予定されていたボスを塔に配置して、割り切って、レベルは最大でプレイすると決めてしまえば、アクションのバランスを取るだけで済むから、話も簡単だ。

(ところでイース1でボスが6体いるのにははっきりと理由があるが、それは初期のイースの設定と関わるので、また別項目で)

ということでダームの塔が急遽建設されることになったわけだ。
山根はゼピック村に戻れるようにしておきたかったらしいが、橋本君がディスクの入れ替えがあるのとフラグ管理を嫌ってゴーバンにウィングを没収させたわけだ。
「橋本さんって、面倒くさがりんなんすよ、ゴー」だ(笑)
なにはともあれ、突貫工事でダームの塔は建設され、アクションとしてバランスは取られているわけだ。

この項目はまだ続くのである。
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Wikipediaのイースの項目について(2)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
前回、文句をつけたwikipediaのイースシリーズの続き。

今回もバリバリと文句をつけていく(笑)

■■■

なお『I』が作られた当時、日本ファルコムでは『ザナドゥ』がメイン商品であり、この制作者である木屋がスタープログラマー・ゲームデザイナーであって、橋本と宮崎は決してメインとは言える状況にはなかった。この為、「後の伝説はともかく『I』が売れなければ『II』は作られなかっただろう。」との旨を当時のスタッフが語っている。


これは僕が聞いた話ではちょっと違う。


ハドソンの近くの焼鳥屋(ドブロクを飲みながら皮を食うのが大好きだったが、今でもあるだろうか)だったと思うが、そこでドブロクを飲みながら「どうして1でもっとはっきりとイースを見せずにエンディングにしたんだよ?」と聞いた。

どうしてそんなことを聞いたか?
PC88版の最後の絵は朝焼けの空に曖昧な影が描かれているだけで、イースははっきりと描かれていない
アドルの行く末についてもあいまいで、2が出てからなら2のオープニングと理解できるが、そうでなければ「ああ、これで終わりね、ま、いいんじゃね」ってエンディングだ。
だが、流れる曲"Morning Grow"は(大変な)名曲とされていて、アレンジして作品に入れるか迷っていたからだ
だから、このときの山根の答えによっては無理してでも"Morning Glow"を入れて「イース1のエンディングっぽいところ→ダームとダレスの会話→1・2のインターミッション→リリア」という流れにしようと思っていた。
もちろん、こっちの方がオリジナルファンにも受けるのは分かっていた。
だがそのうち書くが、PCエンジン版イース1・2で最も厳しいリソースは言うまでもなく実メモリ(最後には1バイトは血の一滴の世界になった(笑))だったが、2番目に厳しいリソースはCD音源で、入れるかどうか慎重な判断が必要だった。

山根の答えは簡単で「だって2が作れるかなんてわからなかったすからね、はっきりイース描いて出ませんでしたじゃ話にならないから、ともかく終わらせておかないとまずかったんすよ」
つまりメインとかサブとか関係なく、出したときには「2」が作れるかわからなかったから、一応ケリのついている形でなければならない。だから空を見せても、イースの絵はあいまいにせざるをえなかった、メインであろうがなかろうが売れなければ続編はなかったというだけの話だ。
イース1のエンディングがその程度の意味合いだったなら、本を読む→ダームの塔が沈黙しました…の方が劇的だし、1曲減るから"Morning Glow"は削除しよう…と心に決めた。

そして、この話でわかるとおり、ネットを検索するとたまに出てくる「イースは最初から2まで含めて発売される予定で企画されていた」は嘘とまでは言わないが、どこからか出来上がった伝説にすぎない。Omen(前兆)と名前をつけたものの、2が出せるかどうかはスタッフにもわからなかったのが真実だったわけ。

■余談
ちなみにファミコン版のイース1だったかセガマーク3版のイース1だったかのどちらかでエンディングで空を飛ぶイースがモロに出てくる。それを見ながら「2を出せるかどうかもわからないのにこのエンディングはまずいだろう」と思っていたので、強く印象に残っていたりする。


■■■

だが『II』の開発終了直前には、主要スタッフとファルコムの亀裂はきわめて大きくなっており、『II』のマップデザインやキャラクタデザイン、さらにマニュアルイラストレーションなどを担当していた都築和彦の離脱を皮切りとして、音楽担当の古代祐三や、妹でデザイン担当の古代彩乃などスタッフは次々とファルコムを離脱していくこととなる。


都築の親父(山根風表現)はそのとおりだが、古代兄弟についてはアルバイトだったはずなので離脱…というよりは、バイトをしなくなった、ということだろう。
まあ「バイト辞めます」というのも離脱なのは間違いないけれど。
ちなみに山根の話を信じると、都築さんが会社を辞めるとき「こんな会社辞めてやる」と怒鳴ったらしいが、このあたりは、山根のホラが入っているかも知れない。

■■■

『II』を完成した橋本・宮崎は『イース』ではないつもりで『III』を企画するがシリーズの続投を決めたファルコムは『イースIII』へと内容の変更を要求する。これが一因となってか橋本・宮崎に加え倉田佳彦の3人が『III』完成直後にファルコムを離脱。さらにグラフィックスの中心であった山根は『スタートレーダー』完成直後にファルコムを離脱し、以降のファルコムに残るオリジナルスタッフは大浦孝浩と桶谷正剛、音楽担当の石川三恵子のみとなった。


IIIではないつもりでワンダラースを作ったのかについては知らない。
ワンダラースは外伝のつもりだったのか、それとも他のゲームだったのかについても僕は知らない。ストーリーや作りから見てアドルである必然はないのは確かだけど、また反面、アドルを使って外伝を作るって発想は十二分にありえる。
ただ、山根から「ワンダラース」って横スクロールのイースの外伝を作っていて、ワンダラースを作る前からワンダラースが終わったら辞めると言っていたと聞いた。
そして、そのとおりになった。

オリジナルスタッフがファルコムを辞めていった順についてはWikipediaの書き方が悪くて分かりにくい。
山根はイース2が終わった後『スタートレーダー』の企画に入り、作ったあと辞めた。『スタートレーダー』を作っているとき、並行して『ワンダラース』は作られており、『ワンダラース』は『スタートレーダー』が終わって少しして完成。そこで橋本君・宮崎君・倉田君が辞めた…と僕は聞いている。
つまり、ファルコムから抜けていった順番を並べると、

(2直後) 都築の親父・古代兄妹
(スタートレーダー後) 山根
(イース3後) 橋本君・宮崎君・倉田君

ということになる。

このあと、大浦君と桶谷君が何をしていたのかは知らない。
1989年の6月頃、移植にあたって「山根から聞いているのではない、ファルコム公式のイースの設定」を聞きに行ったときには、この二人が出てきて、僕の質問に答えてくれたので、そのときにまだいたのは確かだ。

この山根・橋本・宮崎の3人が離脱する前後に開発が決定したのがPCエンジン版の『I・II』である。山根はPCエンジン版の開発を当時の『マル勝PCエンジン』のライター(小峰徳司)から聞きこんで『I・II』の開発に加わり、助言やグラフィックの作成を行っているが、ファルコムとの関わりからスタッフロールにはペンネームの天城秀行の名前で記載されている。


まさにそのとおり。
ただし、助言やグラフィックの作成なんて甘い物じゃない。
1・2の絵コンテは全部、彼が描いているし、キャラのアップの絵も全部彼(フィーナ、レア、ダルク・ファクト、リリア、マリア(鐘つき堂)、ダレス、ダーム)。
さらにアニメーションのかなりの部分…というか、大半を描き、加えて設定やマップの修正、そのほか、膨大なグラフィック上の作業を行っている。

つまりPC版のリリアを書いた当の本人が、フィーナとかキャラ決めた当の本人がキャラを書いているわけだ。
ところが、イース1・2発売直後に「ファルコムの原画より出来悪い」とか「ファルコムのオープニングと比べると落ちる」とか、当時のPC-VAN・nifty・東京BBSなどの大手のパソコン通信のBBSで叩かれて、山根はガッカリしていた(苦笑)

また、天城秀行の名前は僕が考えた(笑)
最初は適当な名前つけたら(覚えていない)「もっとかっこいい名前つけてくださいよ、ゴー」とか言いやがったので、ウルトラセブンの<アマギ隊長>と当時流行していた菊池秀行先生の下を合体して作った名前だ。
そしたら今度は「カッコよすぎませんかね?」とか言いやがったので「ウルセイ」と言った記憶がある。

なんとHaHi君から、メッセージが来た。アマギは隊員だといわれた。そして隊長はキリヤマだと。
21年前からの勘違いが、今訂正されることになった(苦笑)

■余談
ワンダラースの演出はイース1・2に強い影響を与えている。
当時からゲームは映画に例えられていたが、個人的には映画の最強の武器、映画を映画足らしめる技法「モンタージュ」がゲームの中心にないという点から、映画やドラマの演出とゲームのフィッティングに強い疑問を持ちはじめていた。
で、いろいろ考えた結果として、演出は演劇のような形式が望ましいと考えだしていたところに見たのがイース3。結構オープニングに強烈なインパクトを受けた。
ちなみにこの発想が天外2では進んで「ゲーム画面でムービーをやる」って方向に進んでいった。
(余談の余談だがHEAVY RAIN(ヘビーレイン) -心の軋むとき-は、モンタージュを可能にしたゲーム、という一点についてゲーム史に名前を残すべきだと思うのだが…その観点からゲームを見ている人がほとんどいないのが残念だ)

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Wikipediaのイースの項目について(3)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ

2アーティクルにわたって文句をつけたwikipediaのイースシリーズの続き。

今回で一段落するが、前2回とはちょっと違う。
Wikipediaの間違いの指摘である。
もちろん、Wikipediaの精神を鑑みて、自分が直してもいいわけだが、誰かこれを書いた人間が記事を読んで訂正するのが筋というものだろう。
というわけで、間違いを指摘するのはココ。

レベル制限
レベルが上昇すると、同じ敵を倒した場合でも獲得できる経験値が減少するため、過剰なレベル上げは困難である。一方で一定のレベルにならないと敵にダメージを与えられない(これはボスにも適用される)ため、極端に低レベルでストーリーを進めることも不可能である。これによって常に適正レベル前後の成長段階でストーリーを進める事となり、「優しいけれど易しくはない」と言われるゲームバランスを実現している。


何を書いているのかといいたくなる、ひどい間違い。


■■■


オリジナルのイース(PC88)には経験値半分システム(と僕は呼んでいた)は入っていない。初登場はPC版イースIIからだ。
イース1に「経験値半分システム」が導入されたのは、PCエンジン版のイース1・2が最初で、それ以前の(オリジナルの)イース1には入っていない。

つまり事実関係が間違っているのだが…それだけではなく非常に問題の多い文章なので、以下に詳しく書いていく。

イースIIのシステムを解説すると、モンスターはレベルと獲得経験値を持っていて、モンスターのレベル>=アドルのレベルのうちは獲得経験値は100%だが、アドルのレベル>モンスターレベルになるとアドルのレベルがモンスターより1上になるごとに経験値は半分になっていくシステムだ(ただし経験値は0にならない)。
プログラム的にはコード屋なら
獲得経験値 = ( レベル差 <=0 ) ? 基本経験値 : ( 基本経験値>>レベル差 )+1;
と思えば、だいたい正確だ。

このシステムは経験値制御の優れたシステムとは言いがたい。
なぜなら経験値を半分にするまでもなく、レベルが1上がるごとに必要経験値を大幅に増せば、同じ効果を得られる。
たとえば経験値1の敵がいるとする。
レベル1→2を10、2→3を100とすれば、経験値1の敵でレベルアップするためには9倍の敵を倒す必要があるわけで、たちまちマズくなる。普通のRPGはこのスタイルが大半だし、全くそれで問題ない。
だいたい経験値を半分にすると値が動的になって計算しづらくバランスは取りづらい(実際イース1・2でバランス計算が非常に面倒くさかった。かなり面倒くさいマルチプランの表を使って計算した)。
ではどうしてイースIIでこのシステムが入ったのかというと、それは想像がつく。

もともとイース1は戦闘はシンプルなのもあって、普通のアクションRPGより単位時間の敵の殲滅速度が大きい
ところがイースIIにはファイアの魔法があるので、単位時間あたりの敵の壊滅速度がイースIよりさらに大きい…というか桁違いに大きい。隼の彫像なぞ装備しようものならシャレにならず、1時間で数百匹のザコを壊滅させるのも楽勝だ。
そして、仮に1時間に360匹を壊滅させると、経験値が10として3600経験値。16ビットの上限65535の5%以上の経験値を稼げてしまう。つまり経験値半分にしないと簡単に経験値の上限に到達してしまう(ちなみにイースIIのジラの家で稼ぐと1時間360匹なんてかわいいものではない)。
といって24ビット演算をするのは8ビットマシンでは面倒くさい(16bit+16bitまでしかZ80にはない(笑))。だから経験値の増加速度を落とすために経験値半分システムが必要…というか必須に近い。
経験値が16ビット表現なら上限は65535。32レベルでクリアするとして、等分にレベルを分割するとして、1レベル2000ぐらい。さきほどの計算でわかるとおり経験値が1でも数時間で必ずレベルが上がる、かなり危なっかしい数値バランスだということがわかる。
つまり経験値半分システムはレベルバランスを取るためではなく、数値の上限の都合から出てきたものだ。

■余談
2本のゲームを繋いだイース1・2ではレベルを統合したのもあって、どうしても経験値の幅が足りなくて、メインコードを書いていたHaHi君に悪いけど99999にしてくれといって(表示幅の都合上、99999まではグラフィックに影響なく増やすことができる)経験値34000ほどを積むことで、なんとかかんとか切り抜けた。
さらに余談を書くとメインコードを書いたのがHaHi君、イベント周りとボスやら敵の修正・バランス・テキストの入力やらイロイロな演出が僕というのが大雑把な割り当てだ。二人しかプログラマがいないので話は簡単だった。
それと比べて、今(2010年4月)作っているゲームはクライアントで2名、サーバー2名、ゲームエンジン2名、ツールチェーン4名とシステムだけで10人。時代は変わるものだ。


また、レベル制限では優しいけれど易しくないゲームバランスは実現できない。それはレベル制限とはほとんど関係ない。この点でもWikipediaの文章は間違っている。

たとえば最初に引用したwikipediaの文で、適正レベルとされている敵とやらの定義はなんだろうか? Wikipediaの主張ならだいたいアドルと等しいレベルの敵のつもりだろう。
だが、アドルと等しいレベルの敵がアドルと等しい強さという保証はどこにもない。それが、ただの一撃でアドルを殺害する攻撃力を持っていれば、アドルは一撃殴られるだけで死ぬことになり、たちまち「優しいけれど易しくない」なんて大嘘のクソゲーど真ん中コースだ。
また、その逆で「適正レベルのはずのボスのHPが1」なら一撃殴れば殺せることになり、やはりバランスとしてはクソゲー扱いになる。
もちろん、これは極端な例だが適正レベルのはずの敵が全く適正ではない強さでムカつくなんてのは、誰だって経験がある話で「適正レベルだから適正な強さ」なんて話があるわけはない。

つまり、このWikipediaの文章を書いた人間は適正レベルの敵は、適正な強さという暗黙の前提を持っている。では適正の強さを持っている敵として、該当引用部を書き直すと

常に適正な強さを持った敵と戦う成長段階でストーリーを進めることになり「優しいけれど易しくない」といわれるゲームバランスを実現している。

適正な強さの敵と戦えば、バランスがいいのが当たり前だ。書いた人間が経験値の獲得と敵の強さをごた混ぜにして書いていることが良くわかる。

結局、イース(1と2)のバランスがいいとしたら、それはひとえに1・2では宮崎・橋本コンビがゲームバランスを取る感覚に優れていたということで、このレベルシステムのおかげでは全くない。
レベルシステムのおかげで「バランスが優れている」という勘違いでをして宮崎・橋本の能力を過小評価しているWikipediaの記述者は少々恥ずかしく思うべきだろう。

■余談
FF11などのMMOで、数値を離さずに経験値を下げていくシステムがあるが、この場合には経験値抑制より「途方もない数字になってユーザーのやる気を損なう」のを防ぐためだ。
次のレベルまで「1億4750万」ではやる気がなくなってしまう。そして、面白いことに韓国産のゲームの大半は経験値を数値化せず%メーターで表記することが多いため、平気で次のレベルまでの経験値が100万単位になっている。

|| 10:49 | comments (6) | trackback (0) | ||
 
オリジナルスタッフのイースの設定(ゲーム以前)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ

この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。

だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

今回は、かなり特殊な話なので、以下の文を読んでご了解ください。

僕はファルコムが整理した現在のイースの設定をもちろん尊重している。

ただし、現在のイースはオリジナルスタッフ(宮崎君・橋本君・倉本君・山根など)がファルコムを離脱してから長い年月が経った後、整理されたイースであり、多分、オリジナルスタッフの考えたイースとはかなりかけ離れた物になっている。
そこで、今回はオリジナルスタッフが「何を考えていたのか」を当時聞いた内容と、それが実際にイース1・2にどのように反映されたか、についてを書いていきたいと思う。

なお設定の話なので、全部ネタバレでイース1および2を知っていることを前提に話を書いているので、イースについて知らない人でプレイしようと思っている人は読まないことを強くお勧めしておく。
なお、曖昧だったところをイース1・2ではどのように最終的に決めたかをこの色のワクの中に書いておく


まずイース1以前の話から。


1)どっからともなく女神がやってきて、ゆるやかな宗教国家が出来る。

女神の出自は不明。有翼人とか全然関係ない。どっから来たんだと山根に聞いたら、一番の大元を考えたのは宮崎君で、彼はあんま深くは考えないから、その前はないと思いますよ、と言っていた。
(山根の言い方は「宮崎さんね、結構前とか後のことなんて考えないんですよ、ゴー」みたいな感じだったと思うが(笑))

自分の設定では、女神は別の次元からやってきた生命体。というのも、自分はどうしてもいろんな保存則が気になる人で「魔法はどないして機能するのか」とかそういう物理的なところがすごく気になってしまうのだ


2)女神が魔法の元になる黒真珠を作る。

この黒真珠を見つけたのか、作ったのかについては山根に聞いてもすごい曖昧だったので、まあ作ったってことにした。自然に出来たものを持ってきて何かの加工をしたんだと考えると第二、第三のダームが現れることになるのでヨロシクない。
神話的なテキストで海の底もぐって見つけたとかもあったりはしたが、そういうのではなく設定としてどこから来たのかが必要だったわけだが、ぶっちゃけ山根も宮崎君も「どこから黒真珠が来たか」は女神と同じで考えていなかったということだ。

なおイース1・2のオープニングのサルモン神殿の女神の間でドキャーンと浮いているのが黒真珠である。描いたのは山根で、あまりにデッカイもんでビックリしたんだが、彼のイメージとしては馬鹿でかい「魔法エネルギー炉」みたいなもんだったらしい。

3)魔法と反応するクレリアが発見され、魔法文明爆発。

クレリアは女神が黒真珠を使って作り出した…のか、銀を加工したのか、それともエステリアにあったものなのか、このあたりはさっぱりわからないので、ものすごく困った。しつこく聞くと「あとは任せた、ゴー」だったもんで、しょうがないからイース1・2では以下の設定を考えた。これは誰にも喋ってない設定だ(笑)
エステリアで「銀」という名前でクレリアが掘り出されたということは、クレリアは銀そっくりだったはず。それに金の台座も出てくるから金銀があったと考えるのが素直だ。言い換えるならクレリアは金銀の専門の業者でも区別がつかないレベルで銀とそっくりだったということになる。
そこで考えられるクレリアの姿を考えると「銀を魔法に曝すことで、クレリア化(放射能のイメージ)」「クレリアという銀にものすごくよく似た(実質区別不可能な)金属があり、これには魔法と反応する特性があった」の2つになる。
前者を取る方が楽だったのだが、前者を取ると「じゃあ魔法には半減期があるのか?」とか変な問題が出てくるので、僕は後者を取ることにした。
そこで自然界には存在しない銀の同位体で銀から魔法と反応する事実が判明し分離されたものだ…というのが僕のクレリアの設定だ。
もちろん発見したのは(作りだしたのは)神官。


4)ところが黒真珠が意志を持ち魔物を生み出して、女神を捕らえようとする。

これがダーム。つまりダームは黒真珠そのもの。どうして黒真珠が意志を持ったのかはわからない。どうして魔物を生み出したのかもわからない。またダームがどうして女神を捕らえようとしたのか、についても分からない。
このあたりは分からないことだらけで、山根に聞いたら「まあ女神を捕らえれば、もっと魔法増えるとかそんなんじゃないすかね、ゴー」だった。

5)女神が反撃して、黒真珠を地下で封印

女神は、自分達もろとも黒真珠を封印した。
ここで超大事なのは
  • 女神二人は実は地下(イースではない)にいて、ダームを封印した。
  • 封印していた場所は廃坑の奥、ヴァジュリオン(コーモリ)と戦った場所の先である。
  • つまりダームはあの先にいた。
と、こういうことでダームは空を飛んでいるイースにはいなかったのだ。
これは最近のイースでは標準化された設定らしいのだが、すいません、僕はクロニクルとかエターナルとかやってません。

じゃあ、どうして2でアドルはイースに飛んだんだ? という疑問が出てくるが、これには、元は「こうだった」という設定があるので、以下に説明していく。

イース1のボス6体はイースの神官6人に対応している。つまり、イース1のボスはダームを魔物の王として魔物側の神官6匹がいる対応関係が作られていた。
つまりダームと女神は鏡の関係、ボスと神官も鏡の関係ということだ。
これが現在のファルコムの公式設定に反映されているかは知らないが、疑いもなく山根はそのつもりで作っていたし、宮崎君も間違いなく理解していたと思う。
山根はPC版でそれを表現したくてボス部屋の扉にイースの紋章を書き込んだりしたわけだが、さっぱり見えない(グラフィックチーフの進藤司が「こんなんわかるわけないべや! 山根君!」と叫んでいたのを、すごく印象的に覚えている)。
そこでイース1・2では、まずボスだと分かるようにドアを大きくし、ついている紋章を見やすくして、さらにボス部屋の床にイースの紋章を書くことで対応関係をわかりやすくした。また対応する神官の位置(誰が誰だったかは残念なことに忘れた)がハイライトされた形にしたわけだ。ちなみにこの悪事を働いたのはグラフィックチーフの進藤司である。(なおボスの扉を大きくしたのは見ただけでボスだと分かるようにしたのも理由の一つだ)
ところでクロニクルなどで床に紋章が書かれているが、対応している位置がハイライトしていないようで、単に1・2で書かれているからコピーされている…ということなのかなと思ったのだが、どうなんでしょ? やった人。

余談はともかく、イース1のボスは神官に対応していたのが大事なポイント。これがイースに飛んだ理由にかかわっている。
もともとはイースは「ヴァジュリオン(廃鉱ボス)を倒したら空に飛ぶ予定だった」。つまり地上を守る神官に対応するボスが3匹、そして裏切り者のダルク・ファクト。
イースの国に残りの3匹。これを倒して、ダームのところに行く…という構成だったわけだ(ちなみにダレスがもともといたのかは知らない)。
ところがいろいろあって、予定が狂いイース1でボスを全部使い切ることになってしまったわけだ。
そのために「空になぜ行くのか?」が分かりにくくなっているわけだ。
作っている当時、山根に「どう考えてもイースに飛ぶ必要ないんじゃないし、空のイースにいるボスって何よ?」と聞いたとき「飛ばないとかっこ悪いんですよ、ゴー」だったし「空のボスはねー俺もわからないんですよねー」なんて答えしか出てこなかった。
結局、空に飛ぶストーリーはそのままにしたけれど、どうして空に行くのかについては曖昧になってしまったわけだ(もちろん劇的だから満点だが)。

そこでどうしてイースに行かなければいけなかったか? についてのイース1・2でのオリジナルの理由が以下。
どうしてレアがアドルに言わなかったのかというと「神官に対応する6匹のボスを全部倒さなければ、フィーナの記憶がよみがえらないから。ついでにアドルのテストも兼ねて」
アドルが空に飛ばなければならなかった理由は「サルモンの神殿経由で(つまりイース中枢経由で)ないと最後の結界の内側に入れなかったから」
この最後の結界がダームが廃鉱の底から出てこれなかった理由だったし、ヴァジュリオンを倒したとき扉が見えなかった理由。そして女神はアドルより一足先に向かって、結界の強化をするつもりが、ダームに逆に封印されたと。そしてダームは外に出る寸前でアドルにやられた…とすれば、説明はつく。
空のイースのボスはアドルを倒すためにダレスが差し向けた刺客。
と、一応、これで全ての説明がつくので、スッキリしてイース1・2を作った。もちろんこんな当時の自分のオリジナルになってしまうような説明は一切入れていないが、少なくとも自分的には納得のいく展開だった

ちなみに魔法を封印したイースがどうして魔法の力で空を飛んでたんだよ? という質問には、山根先生「まあ、いいじゃないっすか、ゴー」と言っていた。

6)ところが女神が消え、なぜかはわからないが魔物が消えたことしかわかっていない神官たちは日記かTwitterのログとしか思えないイースの本を記述し、クレリアを封印し、イースを空に飛ばして、魔物から逃げた。


今の設定ではどうかはわからないが、当時の設定はこうなっていた。
そしてダームの塔は「逃げようとするイースの国」に向かって、追いつこうとした魔物達の最後のあがき…という設定だった。

ところで、イースの本の中身についてちょっと書いておく。
内容は過去の災厄についていい加減な間違いの文と、Twitterか素人の日記兼ブログかといいたくなる、断片的な情報で書き直したくてしょうがなかったので、山根に「なんでこうなったんだ」とボヤいたら「俺もなんとかしたかったんですけど、ダームの塔って人がいないから、ゲームのヒントにしないとしょうがなかったんすよ、ゴー」と言っていた。

結局、当時はイースはある意味、オリジナルが非常に神聖視されていたゲームだったので、書き直しはあきらめざるを得なかった。
悔しかったので、海外版ではかなり手を入れた。

さて、そして800年の月日が流れたわけだが…えれー疲れたので、次回に続く。
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オリジナルスタッフのイースの設定(アドルがつくまで)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ

この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。

だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

今回は、前回の続きで特殊な話なので、以下の文を読んでご了解ください。
僕はファルコムが整理した現在のイースの設定をもちろん尊重しているが、現在のイースの設定は、はオリジナルスタッフ(宮崎君・橋本君・倉本君・山根など)がファルコムを離脱してから長い年月が経った後、整理されたモノで、オリジナルスタッフの考えたイースとはかなりかけ離れた物になっている。
そこで、前回と今回はオリジナルスタッフが「何を考えていたのか」を当時聞いた内容と、それが実際にイース1・2にどのように反映されたか、についてを書いていきたいと思う。

なお設定の話なので、全部ネタバレでイース1および2を知っていることを前提に話を書いているので、イースについて知らない人でプレイしようと思っている人は読まないことを強くお勧めしておく。
曖昧だったところをイース1・2ではどのように最終的に決めたか(または変更した場合)をこの色のワクの中に書いておく



7)エステリアのみなさんが銀という名前でクレリアをまた掘り出す。

なんかエターナルあたりになると「最初は銀で、そのうちクレリアが掘り出された」なんて話になっているらしいが、オリジナル設定では最初からクレリアである。
「クレリアを埋めたならさあ、洗わなくてもいいクレリアの皿だの、水が流れるクレリアの便器だのなんてモンが掘り出されても不思議じゃないのに、なんで出てこないんだ?」
と聞いたら
「そんなカッコ悪いものはイースの人は使わなかったんですよ、ゴー」
と山根は言っていたので、なんも考えていなかったらしい。

しょうがないから、クレリアについては以下の設定になっている。
魔法の場がある状態で成型されたクレリアは、魔法がなくなったとき、普通のものより遥かに速い速度で崩壊する。


8)魔物復活

とても大事な話をする。
クレリアが掘り出されたからといって魔物が復活したわけではない。魔物を復活させたのはダルク・ファクト。これが現在の設定でどうなっているかは知らないが、オリジナル設定では疑いもなくダルク・ファクトだった。

黒真珠がなければ魔法はない(エンディングで分かるが)。クレリアは魔法増強金属であり、誰かが封印を解かない限りはクレリアはただの銀も同然だ。
では誰が魔物を(つまり黒真珠を)復活させたのかというとダルク・ファクトだ。

つまりイースのストーリーの流れは
  1. クレリアがまた掘り出された
  2. 女神の間(イース中枢)が見つかる。
  3. ダルク・ファクトが魔物を復活させる=女神の封印を解く=ダームの封印が解ける(完全ではない)
  4. 魔物が復活する。クレリアが掘り出されていたのもあってパワフル。
  5. ダルク・ファクトが魔物のパワーを得る←魔法を使ったと思われる。
という流れなのだ。

そしてダルク・ファクトは魔物をもコントロールし、女神もコントロールして世界を征服しようとしていた。もちろん、イース2のオープニングで分かるとおり、ダレスもダームも歯牙にもかけておらず、最終的にダームが外に出てきたら、ダルク・ファクトなど木っ端微塵だと思っていたのは明らかだが。

この流れはPC88版のソースコードを読んだ人間には明らかな事実で、しかも、そのテキストをFC版イースのダルク・ファクトによって知ることが出来る
というのも、FC版のダルク・ファクトはオリジナルではソースコードにしかなくゲームでは表示されないメッセージを復活させて、どのようなストーリーなのか明白にネタバレする。PCエンジン版を製作中に、少しでも違うところがあるイースは全てプレイするのをスタッフで手分けしてやったのだが、このメッセージが出たときは、本当に目をむいた。
以下が、その文である。なお、オリジナルはひらがなによる分かち書きだが、あまりに読みづらいので漢字かな交じり文に修正してある。
よくも本をそこまで集めたものだ。誉めてやろう。
だがイースの本に隠された謎を知られてしまっては、私の計画が、ふりだしに戻ってしまう。
この世にダルク・ファクトの名を残すためにもお前には死んでもらう。
ここから先が出ないようになっていた。
冥土のみやげにいいことを教えてやろう。
お前が神殿から助けた娘はジェンマの章に記されるイースの国の女神。
彼女は悪魔を封印するために数百年の間、地下で眠り続けていたのだ。
私が封印を解いたため、あの娘も眠りから覚めたというわけだ。
もっともイースの時代の記憶は失っているがね。
お前を殺した後、あの娘は私がはした女としてもらってやる。

もちろん、後半部のテキストがコメントになった理由は明快だ。これではファクトを倒したところで、悪魔やらフィーナやらはどうなるのかとか、そういう部分が全然明らかでないまま終わってしまうことになるのだから、コメントアウトしておかないと話にならない。2が作れる保証などなかった傍証といえるだろう。

さて、PCエンジン版で、このテキストを出せば、話がわかりやすくなるのは疑いもない事実だったので、後半部のコメントアウトされているところを復活させるかどうかは、本当に迷った。これを読めばダームが廃鉱の奥にいたのは明白になり、ストーリーが非常に把握しやすくなるからだ。
で、迷いに迷ったが、結局やめた。というのも、FC版はどういうつもりで復活させたのかは知らないが、少なくとも1・2が繋がっているPCエンジン版では、イース2の最後でのフィーナとの対面を台無しにしてしまう致命的な問題があった。
それを避けるためには、このテキストのかなりの修正が必要になるが、だいたい表示されないメッセージを表示して、そのうえ改変するので、度が過ぎると思ったので、ダルク・ファクトは後半部のネタバレをしゃべらないことになった。

9)アドルがイースにたどり着く

エステリアは嵐の海に囲まれて近づけない、という設定になっているのにPCエンジン版は…とWikipediaに書かれており、これについて「矛盾だ」などと書いている人がいるので説明しておこう。

エステリアに定期船で行くようにしたのかというと、理由がいくつかある。
まず山根がコンテを書いたとき、定期船にしたからだ(笑)
「嵐の結界はいいのかよ?」
と聞いたら
「ま、雰囲気みたいなもんでしたから、これでいいっすよ!」といっていた。
また、当時のファルコムに残っていた桶谷・大浦君も了承していた。
つまり、彼らにとっては「嵐の結界」は雰囲気程度のものだったのだ。

また、自分自身も定期船の方がいいと思っていた。
というのも、仮に魔物が出て嵐の結界があるとしたら、エステリアの街の生活が成り立っていないはずなのに、街の人が困っている気配がさっぱりない。騒いでいるのはサラぐらいのものだ。当時のRPGなんだから…といってしまえばそれまでだが、それでもイース2のテキストと比べると、あまりに脳天気だ。
テキストを全面的に変更する、という大技もあったが、もちろんこれをするとオリジナルの大幅な改変だし、それならば「魔物が現れて騒ぎにはなっている地方の町(別段行くのには困らない)」のほうが、よほど話が成り立つし、別段それで問題ない。
というわけで、定期船のコンテを書いた山根案に賛同することにした。

かくして、アドルはエステリアの地に降り立ったわけである。
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1989年4月 - スーパーイースというタイトル
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。
■■■

4月に入って、本格的にチームはスタートし、HaHi君と僕は札幌でチームを率いて、コードを書き始めていた(といってもプログラマは二人しかいないから、プログラムについては「チーム」じゃなかったけど(笑))。

山根はまだ北海道に来ていなかったが、それ以外のアーティストチームは一通り揃っていた。


マップと全体を見ているのが進藤司
天外1を作っていた男で凄ノ王伝説を作っているとき仲良くなった。天外2を作るときも使いたかったのだが、本人がSFCのゲームを作っていたので、だめだった。
キャラクタが伊藤真希(イトマキと呼ばれていた)
明るいシャープなドット使いが特徴的な、いつでも眠そうな目をした女の子。
イトマキはゲームにとても大きな影響を及ぼしている。PC版のイースはアドルやキャラは16x16(正確には32x16ドットの正方形。当時は640x200の解像度だったので縦長のドット)だったが、これをかわいくないと16x24ドットに拡大した張本人だ。
いわく「ちんちくりんでかわいくないから大きくしたんですが、どうでしょう?」
山根は「なんだとぉ、ゴー!」と叫んでたけど、僕は「全然オッケー!」。これのせいでマップの入口は大きくしないといけなくなるわ、マスクは大変になるわで、マップをやってる進藤とメインのHaHi君は大騒ぎをしていた。
ついでに書くと、ダレスにモンスターにされたアドルをルーでないのにしろといったら、ワケのわからないモンスターを書いた挙句、頭に赤毛を生やしたのもイトマキだ。
それ以外が山口もと
メガネで結構口が悪い。確かショップの絵とか彼女がほとんどやったはず。
瓜田
ウリボウと呼ばれていた。彼はよくも悪くもハドソンのドットの置き方の申し子みたいな子で、僕や山根の求めるドットがうまく作れず結構苦労した。今なら、もうちょっとうまく使えたのになと思うと、彼には悪いことをした。
百田
こいつはアルバイトで来ていて、札幌のオーロラタウンにある量が多いだけのヤキソバを最高だと断言して、チーム全員を連れていて、辟易とさせた(笑)
なんか、今ではそのヤキソバ屋は結構有名らしい。
と、こんな陣容だった。

こんなアーティストたちのためにイースの移植専用に、画面が320x240で、かつマップが1キャラクタ単位のパソコン型フォーマットに合わせたDF(PCエンジン用のグラフィックエディタ"CE"のハドソン社内バージョン。PCエンジンだけでなく、ファミコンまでサポートしていたのが特徴)も和泉さんに作ってもらった。
ちなみに和泉さんはR-Typeの移植をした人でネクタリスのゲームデザイナー兼メインプログラマ。コブラ1の制作も飛田さんと共にやった。和泉さんがR-Type用に作った擬似マルチタスクモニタを僕とHaHi君とで改造し、イースに転用した。
飛田さんは桃太郎シリーズのメインプログラマ。PCエンジン用アセンブラ・リンカの開発者でもある。お二方はスタッフロールにシステム協力として出ている。

そして、マップのコンバータも出来て、4月も半ばにはパソコンのマップがそのままPCエンジンのアーティストツール上に表示されるところまできていた。もちろん、コンバートしたそのままのデータは使い物にならないので、PCエンジン用に、みんなが直しはじめていた。
開発は一応順調といえる状態だった。

そんな風に開発が進んでいる中、ハドソン東京の営業担当のZがやってきて「タイトルを決めてくれ」といった。(Zは北海道は札幌は豊平区にあったハドソンの4Fの開発ルームにやってきて、僕と面と向かって話をしていた)
どうしてタイトルを決めなければいけなかったのかというと、CSG(ハドソン・ナムコ・NECなど非任天堂陣営が運営していたゲームショー)で、流通相手に「イースの説明」が必要で、それには当然タイトルが必要ということだった。
(ところで全くどうでもいい話なのだが「ハドソンはイースをプッシュしていきます!」系のCMのスケジュールとかが載っている流通にまくチラシがあるはずなのだが、僕は一度も見たことがない)

僕の答えは非常に簡単だった。
「イース」
「え? 完全版とか、そういうのないの?」
「ないです。イースです。イースってゲームは1と2と合わせて一本です。だからイースってタイトルでいいんです」

この頃には山根から開発の経緯や、ストーリーの設定などを詳しく聞いて知っていたのもあって、オリジナルのPC版が"Omen"(前兆)と"Final Chapter"(最終章)なんだから、2つ合わせて"Ys"でいいと主張したわけだ。
正直、青い答えだと思う。今の僕ならありえない。例えば「エターナル(笑)」とか「コンプリート(笑)」とか「フォーエバー」とか、ともかくそういうモノをつけようと考える。

Zは言った。
「じゃあさ、岩崎、スーパーイースってのはどうよ?」
「だめです。絶対にだめ。だいたいファルコムが多分オッケーしませんよ」
「営業としてはさ、2本入ってると分からないと困るんだよ」
いや、イースでいいです
「じゃあさ、パーフェクトイースは?」
「最初からイースは2本で完成品だからいやです」
「じゃあ、イース1&2はどう? あのさあ絶対に2本入ってると分からないとだめだからね、わかるタイトルじゃないと会議通らないよ?」
と、言われてしまっては仕方なかった。このあたりが妥協点だと思った。
「わかりました。&(Zはワンアンドツーと発音していた)はいやだから、I・II(ワン・ツー)ならどうですか?」
「じゃあそれで営業会議にかけるよ? いいね?」
「それでいいですよ」

もちろん記憶に頼って書いているので、この会話どおりのわけはないが「イース完全版」→「スーパーイース」→「パーフェクトイース」→「1&2」の順で出てきたのは間違いない。あまりに「スーパーイース」が強烈で、鮮明に覚えているのだ。
「スーパーマリオブラザース」以来「スーパー」がついたタイトルがやたら多かったのに加えて、当時、任天堂がスーパーファミコンを発表し、出すぞ、出すぞと言いはじめていた(実際出るにはあと2年かかったが)こともあって、こんなタイトルが出てきたのだろうと思うが、それにしてもスーパーイースは、あまりにひどいセンスだと思う。
営業担当の癖に、全くゲーム内容理解してなかっただろう、といいたくなる(笑)

と、こんな経過でタイトルが決まったわけだが、実はYsI・IIのタイトルはゲーム中では一度も出てこないタイトルだ。

・オープニングでは"Ancient Ys Vanished"
・タイトルはPC版イース1のタイトル画面で"Ancient Ys Vanished"
・タイトルでボタン押すと、PC版イース2のタイトルでBeginning / Continue。上にAncient Ys Vanished"。
・スタッフロールは「イース スタッフ」
・そしてエンディングのフィーナの絵はやはり"Ancient Ys Vanished"。

ほら、どこにもイース1・2ってでないでしょ?(笑)
自分的にはイース1・2は「イース」だった。ちなみに海外版でもタイトルでもめたのだが(タイトルロゴなどは全部日本から全く変えていないといったので)、起動時に特別なイントロをつけて、そこで"Ys Book 1&2"と出すことで妥協することになった。
ついでに書くとPCエンジン版はパソコン版の全要素を入れるのを一つの目標にしていた。だからイース1のタイトルとイース2のタイトルのどちらも使っているし、同じ理由で最後のフィーナの絵はFM77AV版の反射が入るのと、MSX2版だったと思うのだが、持っている黒真珠の中で炎が動いているのの両方が入っている。
…気がついてくれた人は誰一人いないようだけど(笑)

そしてタイトルが決まったあと、Zは5月の末だったかのショーでイースのデモを出したから、なにか作ってくれるとありがたい、と話をして帰っていった。

■余談
余談中の余談だが、"Start / Continue"と書くのが凄くイヤで、頭を絞った挙句に出てきたのが"Beginning"。
"Start"と書くのが「ゲームっぽい」のがイヤだったからだが、"Beginning"は"In the Beginning of the Story"の意味で、"Continue"は"Continue to the Story"の意味でつけた(だからオープニングの最初に"In the beginning"と出る)
そしたら、以降のゲームで"Beginning"がコピーされまくって結構ガッカリだった(笑)

|| 18:58 | comments (0) | trackback (0) | ||
 
1989年5月 - 米光さんのアレンジと出会う
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

5月のデモに向けて、チームではオープニングを作っていた。4月の半ばぐらいにはオープニングのコンテは上がっていたのだが、山根がなかなか北海道に来なくて、最初のうちは作業が進みにくかったが、いったんくると作業ははかどるようになっていた。

山根はコンテを書けるし、容量を計算出来るし、自分でドット打てるし、プログラムのこともちゃんとわかっていて、まさに期待通りの仕事が出来た。


ただ、問題は必ず期待できる圧縮率の最大値を計算してくるうえに、技術がわかっているせいで「こうすりゃ縮むじゃないですか、ゴー」とかケチをつけてくることだった。おかげで色数に4/8/16色をサポートするハメになり、めんどくさいプログラムが大量に実装されるハメになり、それでもメモリの減りっぷりから、いずれさらにツールとか実装しないときつい…と想像できる事態になりつつあった。

このメモリとの戦いは、最後には基本管理プログラムを2キロバイト以下に圧縮し、プログラムの自己書き換え(自分で自分を書き換えるプログラム)が当たり前になり「1バイトは血の一滴」と本気で言い、HaHi君の名言中の名言「岩崎さん、イースは慢性メモリ不足だよ」が発せられるところまで行くのだが、5月の段階では、メモリがきつそうだとオボロゲに想像できた、という程度だった。
(ちなみに当時はPCエンジンはCDROMにメインメディアが移行するなど想像もしておらず、HaHi君は最初のうちは「PSG版のROM版イース」を作ることを想定して仕事をしていたらしい)

で、営業のZからのお達しでショーに出す予定のデモは急速に完成しつつあったが、問題は音楽だった。
当たり前だが、デモとして出すからには、それなりの音は鳴って欲しい。
それにハドソンの音楽のトップ、笹川さんからも「岩崎君、音楽のアレンジャー誰にするのよ、結構曲数あるから大変だよ」と脅されていた。
でも、このシリーズの最初の方で書いたとおり、公式アレンジャーのイメージに最も近かった難波さんはどうにもイースに合わないと思っていたので、いやだった。

とはいっても、他にあてがあるわけでもなく、しばらくオリジナル音源を収録するという手を真剣に考えていた。これなら熱狂的なイースのファンは絶対に文句を言わないだろうことは容易に想像がついた。だけど、やってはいけないと最終的に考えた。
なぜなら、ゲームを買ってくれる人は数万円のCDROMドライブを購入した人だ。そして音楽CDと同じクオリティの音が鳴るのを期待しているに決まっている。
しかも当たり前のことながらPC版イースをプレイしている人はほとんどいないに決まっている。イース初体験の数万円を投資したCDROMで音楽を期待しているユーザーに「オリジナルはFM音源ですから、オリジナルと同じFM音源を録音しました」といったら「おお! それは素晴らしい」と言って、満足してくれるだろうか? 満足してくれるわけがない
それにオリジナルのFM音源を使うということは、せっかくのCDROMの最強武器の一つCD音源の実質的な封印になってしまう。だからオリジナル音源はダメだと思った。

妥協案としてずっと考えていたのがプラスミックスだった。
これはオリジナルのFM音源に音を厚くするようにミキシングする方法で「オリジナル音源が最高だ」という声に押されて、難波さんが編み出した方法だが、発売されたCDを聞いて、正直ガッカリした。しょせんはパソコンのFM音源。どれだけ調整しても、周囲の楽器の音と比べると安っぽくて、浮いて聞こえてしまうのだ。
だが反面、オリジナルのよさが一番残りつつ、なんとかCD音源といえる音になっていたので、米光さんの音に出会わなかったら、これを使った可能性はかなり高かったと思う。

この悩みの全てを解決したのがデモに音が必要って理由で、フィーナのアレンジ版でも流し込んでおこう+曲が出来るまで入れておくための仮の曲用のサントラとして購入したキングレコードの"Music From Ys"だった。
どうしてこれを購入していなかったのかというと、音楽に悩んでいた当の僕自身がオリジナルの音楽最高主義者で「アレンジ版を聞くぐらいなら、オリジナル聞くわ!」という人間だったからだ(笑)
じゃあ、そんな人間がどうしてデモにアレンジ版でも流し込もうと思ったのかというと、当然の事ながらデモは商談に来る人たちに見せるものだ。商談に来る人たちはオヂサンであり、FM音源のよさなどわかるわけもなく、音が派手なほうがハッタリが効くに決まっていた。だからアレンジ版でも入れておこうぐらいのつもりだったわけ。
(そしてオリジナルの音源が全部入っているので、ゲームのCD音源の代用品を果たす目論見もあった。実際、Music From YsとMusic From Ys2からダビングした音源をかなり長期間にわたって使っていた(笑))

そんな軽い気持ちで購入した"Music From Ys"を聞いて、僕は衝撃を受けた。
"MUSIC FROM YS"に収録されていたアレンジ"FEENA"、"FIRST STEP TWORDS WARS","BEAT OF THE TERROR"、"SEE YOU AGAIN"、どれもこれもぶっ飛ぶ圧倒的な完成度のアレンジだった。
正直、生まれてほとんど初めて、ゲーム音楽でオリジナルよりアレンジ版の方がいいと本気で思った(それ以前にも数曲はあったが、PSG時代の元の音源が極めて貧弱な曲だった)。しかも、カッコよさに感動した、あのイースの曲でアレンジ版がいいと思えたのだ。
もうこの人しかない、そう思ってすぐに裏面を見て、笹川さんに「このアレンジャーの人がいいんですが」といって"Ryo Yonemitsu"と書いてあったアレンジャーの名前を挙げ、即、笹川さんに"Music From Ys"を渡した。
笹川さんも「難波さんよりイースに合っていると思う」という意見で、コンタクトを取ってくれた。すぐにオッケーが出てイースのアレンジャーは米光さんに決まった。

残念ながら、僕自身は直接米光さんと会ったことは一度もない。
一度ぐらいは会ってありがとうございました、と21年経った今でも言いたいと思っているぐらい素晴らしいアレンジともらえたと思っているが、それはともかく、笹川さんの話ではぶっ飛んだアレンジからは想像もつかない、人のよさそうなオジサンだったらしい。

アレンジャーが米光さんに決まったのは良かったが、曲数の問題は解決できていなかった。1曲2分としても全曲入れると、60分を超えてしまう。そしてCDROMの規格"Yellow Book"はデータ領域は60分までと決められていて、何が何でもその中に入れなければいけなかった。
泣く泣く、まず大好きだったイース2のボスの曲を切った(正直な話、イース2のボスの曲のほうが好きだったので、イース2のボスの曲を使おうかと真剣に考えた)。次になくてもいい"Morning Glow"を諦め、街の曲はPSGにすることにした(もともとショップの曲はPSGの予定だった)。
これで、ようやく60分前後の計算になった。
だがこれでは声が入らない。要所要所でフィーナやらレアに喋ってもらうつもりなのに声に割り当てる時間がどこにもない。曲の2分は最低必要だと考えていたので、もう削れない。ADPCMという手はあったが、PCエンジンに載せられていた初歩的なADPCMはモノラルで、今のMP3やAACといったコーデックから想像するADPCMとは比較にならない音で、出来るだけ使いたくなかった。
それにダームの曲("Termination")はリピートさせたくなかったので、5分は欲しかった。そう考えると、どうしても70分以上のCDを作りたいのに規格では60分まで…

そこで気がついたのがYellow Book(CDROMの規格)の盲点だった。
Red Book(音楽CDの規格)によればCDは74分まで音を入れられる。そしてYellow Bookにはデータ領域は60分までと書いてあるだけで、60-74分にCDDAを入れてはいけないとは書いていない。つまり60-74分に曲をいれてもCDROMの規格は満たしている!
これだと思ったが、さすがに74分は怖かったので(CDは長くなるに従ってトラック間が縮まるので、プレイヤーのトラッキング精度が必要になると同時に、マスタリング精度も必要になる)、自分の持っている音楽CDで一番長いものまで録音して構わないことにした。
当時もっていた音楽CDフランキーゴーズトゥハリウッドの"Welcome To The Pleasuredome"が72分で最も長かったので、72分で計算すると、なんと喋りの分を考えても、イース2のボスの曲まで入る!
喜び勇んで、総計72分のリストを笹川さんに渡したら、しばらくして、笹川さんから70分以下にしてくれと内線がやってきた。
当時のマスタリングの技術では70分以上の量産が保証出来ないとNECから脅されたという(正確には65分だったが、ゴネたらNEC側が70分まで折れてくれた)。

あと2分ありゃーイース2のボスの曲が入るはずだったんだよなー…畜生。

そんなわけで、イースは(当時の)CDROMとしては「イエローブックの規定にある60分の領域にROMのデータは入っているでしょ、だからCDROMって名乗っていいよね」という危なさのあるソフトだった。しかも当時CD-Rは60分以上がなくデバッグのたびにマスター出していたんだから、世にもひどいことをしたもんだと思うが、反省はしない。

もし21年前に戻れたら、もうちょっとゴネて72分まで延ばして今度こそイース2のボスの曲も入れるつもりだそんときはよろしくお願いします、米光さん
|| 17:48 | comments (2) | trackback (0) | ||
 
1989年5月 - グラフィックスタッフの努力
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■


イース1・2はビジュアルや声優や音楽について書かれる事が多く、インゲームグラフィックについてはパソコン版を忠実に再現したと書かれる事が多い。

これは意図したことであったが、実はマップのグラフィックは違う…というか、大幅にグレードアップされている。

まずスペックからして違う。
パソコン版は1ドット8色で128チップ(一つのマップが128種類のパーツで組み立てられているということ)に対し、PCエンジン版では1ドット16色で256チップが割り当てられている。しかもオリジナルはデジタル8色だが、PCエンジンは512色から16色使えて、背景だけでカラーセットを16個使うことが出来る。
表現力が全く違うわけで、比較の対象にならないほどディテールアップされているのだが、当時PCエンジンとパソコン版の両方をプレイしている人間のほとんどはパソコン版を忠実に再現したと思ったようだ。

これは記憶色と同じで、パソコン版は当時として非常にきれいなグラフィックだった。だからPCエンジン版がきれいでも当たり前と思ってしまう。しかも当時パソコンユーザーはゲームマシンを下に見る傾向があったので、仮にPCエンジン版を見てもパソコン版を頭の中でグレードアップして「うむ、パソコン版と同じぐらいきれいだ」と思うわけだ。
これ自体は予想していて、当時は「パソコン版をプレイした奴の目は節穴か」と思いつつ黙っていたが、年月の経った今、グラフィックスタッフの名誉を回復するために実例を挙げつつ、どれぐらいグラフィックスタッフがパワーアップしてくれたかについて書いておこう。


まず大前提だが、イース1・2ではマップの形状は同じで、効果(スポットライト・ペイント)なども同じに作ってある。
というか、イースのマップは良く考えられているどころではなく偏執狂の山根が凝りに凝って作っていただけあって、とんでもない(特にイース1)。
「ココにくると反対のここに宝箱の右半分が見えるんですよ、でもね、行こうとするとさ、ほらこー回らないとダメなように作ってあるんだよ! いいっしょ!」だのなんだのと山根は進藤に向かって嬉しそうに語りまくっていたが、そういうマップを作っているということはマップをうっかりいじると、たちまちゲームに甚大な影響を及ぼしてしまうし、表示領域が少し狭くて、少し広くても、たちまちゲームが破綻してしまう。

実際、何もかも違うFC版イース1はともかく、MSX2版は横256ドットモードしかなかったため見えるはずの宝箱が見えなかったり、見えるはずのヒントが見えなかったりといった問題が発生している。
(そしてFC版のイースIIはマップなどが基本同じなため、やはりゲームが破綻しているところがある)

言い換えるならオリジナル版と同じマップのゲーム性を維持するためには、横に40個のマップチップ(意匠枠をあえて外せば36)を表示出来ることが、どうしても必要だったわけだ
PCエンジンで少し制限が出る320ドットモードを使った最大の理由がこれだ。

というわけで、ゲームに影響が出ないようマップの形状は同じだが、ディテールやいろいろなところは大幅パワーアップ。これが大方針。

例えばキャラクタ。
伊藤真希の主張に従ってアドルを大きくして、キャラクタを16x24ドットにしたわけだが、PCエンジンはスプライトは16x16ドット単位なので、8ドットあまる。じゃあ、そのあまった分は何に使ったのかというと、影(キャラの下に書かれている影)。
PC版にもあったじゃないか、と思うかも知れないが、PC版はアドルの足の下には伸びていない(笑)
と書いても、当たり前だが分かりにくいだろうから、実際に作った比較画像が下。
PCエンジン版が左で、パソコン版(Project-Egg版)が右。画面サイズが同じになるようにして比較している、ほぼ似た場所の画面だ。
ニコ動から引っ張ってきたりして、ずいぶん画質がバラついているが、そこんところはお許しいただきたい。



今までPCエンジン版のマップはパソコンからの完全移植だと思っていた方は当時のグラフィックスタッフに心の中で謝って欲しい
PCエンジン版のほうがキャラがはっきり大きいのが分かる。縦にキャラを大きくしてもゲーム性にはほぼ影響せず、横の半キャラずれが少々難易度が上がる程度の違いしかないので気にしないことにした(HaHi君が「当たりはこれでいいの?」と確認してきた記憶がある)。
地面には道がついているし、橋がアーチになっていて手すりがついている。
道はゼピック村と行き来してたに決まっているだろう、という話から出来た。橋については山根の要望だ。パソコン版で本当は橋をアーチにしたかったが、チップが足りなくてどうしてもできなくて、その恨みをPCエンジン版で晴らしたということらしい(笑)
ちなみにこのアーチに沿って移動するために、HaHi君は橋のための特別な処理をいれている(それが実装される前は直線で走っていた)。

次に街の入口を比較してみよう。



これまた進藤司の渾身の力作の町の入口と城壁が見えるようになっている。ついでに木の形と木の影の形も違うのだが、やたら木の配置にこだわって、何日もかけて直していたので褒めてやらない(笑)



街の中。だいたい同じ位置である。建物に影がつき、入口の上には分かりやすく看板がついているし、建物に影がついている。

また進藤とイトマキの合作によるメチャクチャもある。
ダームの塔の鏡の間がそれだ。



オリジナル(これはMSX版)の鏡の間が右、PCエンジン版が左下。
もともと進藤が「あまり鏡の間って感じがしないんで、床を鏡にするってのはダメですかね」と言い出して、こんな風に出来上がった。アドルやモンスターの写りこみはもちろん言うまでもなく、特殊処理で、写りこみつき部分はイトマキが書いた。
ついでに書くのもなんだがMSX版の左右が見える範囲がはっきり狭いのも分かるだろう。この広さでは偶然でしか解けない謎がいくつか出てきてしまう。

と、いくつか具体例を挙げたが、PCエンジン版では、同じに見えるマップでも影を付け加え、立体感を強調していたり、周囲を豪華にするといった修正を行っている。
このあたりの強化は大浦君や山根といったファルコム&元ファルコム面々のパソコン版で果たせなかった希望なんかもずいぶん入れて、進藤をはじめとするスタッフががんばってくれて、出来上がったものだ。

と、ここまでは「実はインゲームも豪華にしてあったんですよ」という話だが、たった一つだけゲームに関わる非常に大きな変更をマップに関して行っている。

それはイース2に登場した溶岩地帯に置かれているロダの葉だ。
これはパソコン版で見つけるのはきわめて難しい(実質しらみつぶしでないと見つけられないぐらい)。
そして、僕は、スタッフ全員に(出来るだけ他人に聞かずに)イース1&2をプレイすることを要求したのだが、イトマキは、このロダの葉がどうしても見つけられず、ついに発見したとき、「岩崎さん! こんなドット絶対に分かりませんよ! ロダの葉、1ドットじゃないですか!」と、ものすごく怒っていた。
(ちなみにパソコン版はマップ上チップの配置を調整することで違う形にみえるようにしているだけなので、見つからなくてもなんら不思議はない)

そして、時が経ちマスター目指して完成を進めていく途中、全くの偶然で、溶岩地帯のマップの最終仕上げをイトマキがやることになった。
彼女は僕に言った。
「岩崎さん、ロダの葉がちゃんと見えるようにしますからね! いいですよね?」
口調は疑問形だったが、正直「ダメ」と言える雰囲気ではなかった(また僕自身もあまりにひどいと思っていた)。

そしてイトマキははっきりわかるようにロダの葉専用チップを用意して、ロダの葉を見やすく書き直すと
「これなら、ちゃんと見えますよね」
と世にも満足げにニンマリと笑った。
|| 21:24 | comments (6) | trackback (0) | ||
 
1989年6月 - お礼に一曲吹きましょう
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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よく「サラが死なない、オリジナルと違う」と、オリジナルのイースを好きな人は文句をいうわけだが、どうしてサラを殺さなかったかというと銀のハーモニカが大問題になったからだ。


銀のハーモニカは、二人の女神の片割れのレアの物だが、なぜか廃坑の宝箱に入っていて、これを取り返すと結構な経験値がもらえるのだが、オリジナルのイース1では、実は銀のハーモニカはゲームをクリアする上で必須イベントではない

ある日、なんだったか理由は忘れたが「銀のハーモニカっていらないんじゃね?」という疑問が出てきて、山根に聞いたら「どうだったかなあ、宮崎さんならちゃんと調べてるんじゃないかなあ」とか曖昧で(山根はグラフィックなら1ドットの違いも覚えているが、それ以外のあらゆることは全て忘れるダメ人間である)、しょうがなくソースを調べると銀のハーモニカのフラグチェックはレアしかやっていないっぽい。
(記憶が逆で、銀のハーモニカ絡みをソースで調べていたら、必須じゃないっぽいとわかって、山根に聞いただったのかも知れない)

こりゃもしかしたら必須じゃないかも…とチームで騒いでいると、なんと当時、仲が良かったチーム(スーパーグラフィックスに大魔界村を移植していた連中)にMSX版のイースで銀のハーモニカを取らずにクリアしたというヤツが(偶然にも)実際にいた。
なんてこったいと驚き、88版で実際にやってみようという話になって、進藤がやってみるとなくてもクリアできる。
「山根君、クリアできるべや!」(と叫ぶ進藤)
「俺のせいじゃないじゃん、宮崎さんのせいじゃん、ゴー」
みたいな感じの会話があって、みんな笑い転げていたのが印象的だったが、結局、オリジナル版のイース1では、銀のハーモニカはオマケイベントで、銀のハーモニカを取らずにクリアすることが出来るわけだ。

まあ銀のハーモニカを取らなくてもいいだけなら「あはは」と笑って見過ごせる話だが、問題は銀のハーモニカは2のクライマックスでウルトラ超トンデモスペシャル重要アイテムとして登場することだ。

ラストバトル寸前、女神が世紀の大ピンチで「そうはいかないぜ、魔物さんよ」の名セリフとともに曲が"Don't go so smoothly"に変わり、盗賊のゴーバンが世にも格好良く現れると「アドル、これだ!」とかいって、銀のハーモニカを投げて渡す
そしてアドルは脳裏に浮かんだメロディーを静かに吹き始めたとかいって"Feena"を吹くと、女神の封印が解ける…痺れるほどカッコイイシーンをプレイヤーは見る。

ここでゴーバンから銀のハーモニカを投げてもらうのはいいが…
「エ? コレナニ? 見たことないよ、僕?」
では笑い話にもなりはしない。
ついでに書くと、もはやこれを読んでいる大半の人は知らないだろうが、オリジナルのイース1ではレアは"Feena"を吹かない。吹くのはファルコムが1987年に発売した『太陽の神殿』の中の1曲だ。
だから、なんでアドルの脳裏に浮かんだ曲が"Feena"なのか、さっぱりわからない(笑)

もちろん、こんなものはレアの吹く曲を"Feena"に直しておけばいいだけだし、実際に直したが銀のハーモニカイベントを必須にしなければならないのは間違いなかった。
(ちなみにPCエンジン版イース1・2は、レアが初めて"Feena"を吹くようになったバージョンだ(笑)…って、考えてみたらエターナルとかではどーなってんだろ?)

この問題を、最小限の手当で解決する方法がサラだった。
パソコン版ではサラが死んで、留守番していたヤツが本をくれるが、これを止めて、サラは危険を感じて身を隠したが、そのときレアに本を託した。なぜサラがそうしたか? レアが(復活しつつあった)女神の力を使って、サラの心に干渉したのだ。そしてレアはアドルのテスト+銀のハーモニカを取り戻すために取り戻せと言った。銀のハーモニカはもちろんクレリアのハーモニカであり、女神の能力を増加する役目を果たす」…とでも考えれば、合理的に話は成り立つ。

これをサラが死んでいるとすると「サラが死ぬ前にレアに本を渡したらしい」とか、世にも不自然なセリフを留守番がいうことになるので、あまりに厳しすぎる。サラは死んで留守番が手紙を渡す方法もありえるが「レアに本を渡して手紙を書くほど危険を感じていたのに、逃げずに殺されて、おまけにその手紙は留守番は見つけられたのにダルク・ファクトの手下は見つけることが出来なかったわけか」と、突っ込みどころが満載になってしまう。

サラはいじらず、ゴーバンでブロックする手もあるが「お前、吟遊詩人にハーモニカを取り返してやんないとさあ、ダームの塔には入れてやれないな」は、留守番のセリフよりさらに理不尽だ。

サラでもゴーバンでもなくロダの木でブロックする手もあったが、これはHaHi君が編み出した脅威の戦略「ゲームスタートで即廃坑に入り、ロダの実を手に入れ、シルバーソードをゲットして、アドル無双でプレイする」方法を壊してしまい、プレイする戦略に影響を与えるのでいただけない。

と、いろいろな案を考えた結果、少々レアが嫌みなキャラになりすぎるきらいはあるが、フィーナと対照的だし、それに女神なんだからアドルのテストってことに出来るし、先に銀のハーモニカを見つけて嫌味を言われない人もいるだろうから、これがいい…というわけでサラは姿を隠すことになったわけだ。
HaHi君はレアが嫌味になるのが気に入らなかったようで「岩崎さん、レアってずいぶん嫌味なキャラになっちゃったよねえ」と言っていた。そしてデバッグのとき、レアが嫌味なキャラにならないように、先に銀のハーモニカをとって渡していた。


ところで、どうして銀のハーモニカをゴーバンが持っていたのか?
アドルが渡した銀のハーモニカをレアがゴーバンに渡していた? それとも中枢で落ちていたのをゴーバンがネコババした?
ダームの塔に入るとき、クレリアを丸ごとむしられるのをわかっていたレアがゴーバンに渡したというのが一番ありそうだが、実際のところどうなのよ、と山根に聞いたときの答えは簡単だった。
「細かいこと気にしなくていいじゃないっすか。宮崎さんね、結構前後のこと考えてませんでしたから」

■余談
CD音源に余裕があったら、本当は"Feena"を吹くシーンはもっとカッコ良くやりたかった。
封印されている女神の前でハーモニカを吹く→単音のハーモニカ→いろいろな音が被さっていき、荘厳に派手な曲になる→女神の封印が解ける…なんて演出を考えていたのだが、既に書いたとおりNECからCDDAは70分までと釘を刺されている状態ではやりようがなかった。

ちなみにこの演出はエニックスの大傑作アドベンチャ「ジーザス」のクライマックスシーンのパクリ。
現スクウェア・エニックスさん、『ジーザス』はアレンジし直して、リアルタイムアクションアドベンチャにしたら世界に通用する作品に出来る自信ありますよ、ホントに。"Dead Space"とか"Bio Shock"よりずっと面白いゲームに仕上がる自信ありますよ、マジで。

|| 21:10 | comments (5) | trackback (0) | ||
 
1988-90年前半、ハドソンの風景(1)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

前回書いたことでTwitterで聞かれた「サターン版ではフィーナを助けなくても良かったのはPCエンジン版では必須になっていたけど」という話。
あまりに簡単だったのですっかり忘れていたが、確かにそうだった。
フィーナもオリジナルのパソコン版では助けるのは必須ではない。
当たり前のことながら、全くマズいので宝箱の鍵をフィーナに持たせたのだが、考える必要もないぐらい簡単な改訂だったので、改訂したことすら忘れていた(苦笑)
記憶というのは面白いもので、一度思い出すと、ちゃんと芋づるで出てくる。
進藤が「フィーナ助けずに神殿をクリア」して嬉しそうな顔をして僕を見てて、山根がポカーンとした顔してるのに「こんなの簡単だよ、フィーナに宝箱の鍵を持たせりゃいいんだよ」というようなセリフを言った記憶が出てきた。(『宝箱の鍵が宝箱に入っていること自体がかっこ悪い』と思っていたのは間違いない)
もちろん、自分が記憶を作った可能性はあるけれど必須にしたのは確かだ。
本名荒井さんの指摘により若干追加。やはり記憶は曖昧で神殿はクリア出来るが、全部クリア出来るわけではなかったらしい。フィーナなしで神殿がクリア出来ることと、宝箱のカギが宝箱に入っているのがイヤで修正したってことだろう

と、ところで、少しイースの制作から寄り道をした話を書こうと思う。
というのも他の会社から売り出される予定のソフトを、ハドソンで作っていたりデバッグしていたのは僕にとっては当たり前だったが、一般の人が知らない事実だったと「も」さんのコメントで、分かったので、リクエストにお応えして、そこらへんの話を書いてみようというわけだ。
これまた当時だったらマズかったのかも知れないが、もう20年前の話で、新人すら働き盛り~ベテランになるだけの年月だ。遠慮なく書いてしまって構わないだろう。


まず、僕は凄ノ王&イースの制作で2年半ほど札幌のハドソンの近くで暮らしていた。いた期間は1988年の初頭から1990年7月頃まで。東京の借りていた部屋に帰るのは平均で月に1週間なかったと思う。このとき、料金を払っていてもガスは止まると知った(笑)
(びっくりして電話したら、ガスは爆発などの危険があるので、定期点検を出来ないと外部から元栓を閉めることになると教えられた)

ハドソンは札幌の豊平にあって、自社ビルと、そこに入らなくて溢れた技術部が入っていたビルの2つに分かれていた。自社ビルのほうはハドソンの前身のCQハドソンがあった場所に立っていたらしいが、仕事をする上で中心となっていたのは本社ビルの斜め向かいにある、1Fに大きなレンタルビデオ屋があるオフィスビルの2,3,4Fを借り切っていた技術部だった。

2F:総務&受付&サウンド&海外事業

サウンドチームはガラス張りのセクションの中に独立して置かれていて、だいたい4人ぐらいのプログラマー兼アーティストがいた。
後に海外版のイース1・2を作るときは、この2階の片隅で仕事してた。当時、新人の受付の女の子がやたらかわいかったのが印象に残っている。(いやホントに)

3F:役員室・会議室・システム屋系+一部ゲーム、PC系の事業

ハドソンは当時X68Kのサポートやビジネス系のソフトなどパソコン系の事業がまだあった。そしてそれが3Fにあった。
役員室は重要な会議や、あと小学生だの中学生だのがゲームの開発現場の見学に来たとき、質問に答える場所にもなったりしたが…僕が一番使ったのは賭場としてだ(笑)
役員みんな、やたら麻雀だのバックギャモンだのオイチョカブだのチンチロで金賭けて遊ぶのが好きで、しかもバックギャモンが出来る人間が少なかった物ですぐ誘われるもんだから、めちゃくちゃ困った(笑)

4F:ゲームの開発ライン

だいたい当時のハドソンは最大7ラインぐらいまでゲームを作る能力があった…と言っても、今のゲームとはチームのサイズが違う。
大雑把に当時のチーム構成は、メインプログラマ・サブプログラマ(1~3ぐらい。ゲームのサイズで変わる)、アーティストのリーダー、アーティストが最大5人ぐらい、普通は3人ぐらいでチームは終わり。サウンドは完全に切り離されて、サウンドチームに発注する形を取っていたので、直接的な人数としては数えない。
つまり1チーム7人ぐらいが1ラインだった。今ならプログラマだけであっさり埋まってしまう人数だ。だから7ラインとかもの凄い数字を書いても、実はフロアに100名もいなかった。

当時のハドソンの制作ライン

さて、1988年頃はハドソンがソフトを扱うようになったときからいた第一世代(中本さんに代表される実質的なハドソンの創業メンバー)は経営陣になっていて「第二世代」(Hector 87に代表されるPCエンジンスタート前後までのメンバー)が徐々に部長や課長といったお偉いさんに移行して、中心となっていたのは2.5~3世代とでもいうべきメンバーだった。

ゲームを作っていたメインメンバーを挙げると、桃太郎伝説で有名な飛田さん、R-TYPEとネクタリスで有名な和泉さんの2ラインが別格級のエースチーム。
この二人が別格級だったのは売り上げもさることながら、むしろ技術。和泉さんはグラフィックエディタやいろいろ、さらにX68Kのシステム周りなどの記述。飛田さんはアセンブラやリンカなどやはり開発ツールまで含めたトータルの凄さ
加えて、パワーリーグやゴルフシリーズを作った奥野さん、天外魔境1を作った三上君、あと名前を忘れてしまったのだが定吉7を作った3ラインが、ハドソンの一級品のチーム。
若手だったのが、ニュートピアを作ったチーム(名前を忘れてしまったのだが…きんちゃんと呼ばれていたヤツが作っていた)、ニチブツの迷宮大作戦の移植版を作っていたチームあたり・
この売り出し中の若手のうち、迷宮大作戦を作ったチームはメインプログラマが出来なくて、その尻ぬぐいを和泉さんがやる羽目になるのだが、まあそれは別の話だ。
(中本さんにメインプログラマをどう思うと聞かれて「話にならない」と言ったら「そうかあ…うーん」と言っていたのを思い出す)

というわけで当時のハドソンのラインの紹介は終わり、話はチームに戻る。
フリーの僕は88年にハドソンに行ったときは当然一人だったので、ハドソンからサブプログラマとアーティストが出てきてチームを作ったわけだが…この構成が面白い…というか当時のハドソンの風変わりさがよく分かる構成になっている。
凄ノ王伝説を作ることになった僕に与えられたのは、ハドソンのグラフィックアーティストと外注のサブプログラマだった。具体的に書くなら、アルファシステムのHaHi君とあと二人がサブプログラマとして与えられ、凄ノ王伝説を作れと言われたのだ。
つまりハドソンは札幌に来ているフリーのゲームデザイナーを、同じく札幌に来ている出来立ての外注と組ませて、グラフィックとサウンドはハドソン社内で、北海道で仕事をさせるという、とても不思議な体制を組ませたことになる。

どうしてこんな奇妙な構成になったのかというと、ハドソンは外注を社内に取り込んで、長期間滞在させて仕事をすることが普通にあり、しかも外注も社員同然に扱う企業文化があったからだ。
北海道だから最終デバッグをするとき、どうしても北海道に開発メンバーを呼ぶことになり、それで1ヶ月以上暮らすのが当たり前になるのと、当時の経営陣の開けっぴろげで豪快な性格が組み合わさって出来た企業文化だったのだろう。ともかく、外部メンバーをほとんど社員と同じように扱ってしまうのが当たり前だった(とは言っても社員規則などは適用されないけれど)。

例を挙げるなら僕とアルファシステムがそうだったし、名前を忘れたけれど、あとでナグザットから『ブレイクイン』というタイトルで売り出されることになるビリヤードゲームを作っていたチームもそうだった。
他に長くいたチームとして、ガンヘッドもそうだったし、ダンジョンエクスプローラもそうだった。桝田さんも北海道で延々仕事をしていて仲良くなった。

つまり、当時のハドソンの技術部は、外注も内部も入り交じった不思議にオープンで豪快な環境だったのだ。

そして、そのハドソンで、88-90年の間にデバッグや色々なことで関わったり見たりしたソフトは、自分の覚えているだけで以下の通りだ。

■1988年
魔神英雄伝ワタル(ハドソン)
エイリアンクラッシュ(ナグザット)
魔境伝説(ビクター音楽産業)
定吉七番 秀吉の黄金
ファイティング・ストリート(ハドソン)
No・Ri・Ko(ハドソン)
あっぱれゲートボール(ハドソン)
ビックリマン大事界(ハドソン)

■1989年
ネクタリス(ハドソン)
ダンジョンエクスプローラー(ハドソン)
コブラ 黒竜王の伝説(ハドソン)
パワーゴルフ(ハドソン)
天外魔境 ZIRIA(ハドソン)
ガンヘッド(ハドソン)
ブレイクイン(ナグザット)
ワンダーボーイIII モンスター・レアー(ハドソン)
スーパー桃太郎電鉄(ハドソン)
鏡の国のレジェンド(ビクター音楽産業)
ドラえもん 迷宮大作戦(ハドソン)
ニュートピア(ハドソン)
ぎゅわんぶらあ自己中心派 激闘36雀士(ハドソン)
バトルエース(ハドソン)
PC原人(ハドソン)

■1990年
うる星やつら Stay with you(ハドソン)
大魔界村(NECアベニュー)
スーパースターソルジャー(ハドソン)

と、並べたところで疲れたので、続く。
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1988-90年前半、ハドソンの風景(2)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

前回の続きで今回も88-89年に、自分がハドソンでデバッグしたり、バランス調整に関わったり、ちょっと制作を手伝ったりしたゲームについて書いていくけど、どうしてハドソンのゲームのデバッグ(と場合によっては企画内容)に関わっていたのかというと、当時はハドソンに勤めてる同然の状態で、技術部のメンバーと仲が良かったことが大きな理由だけど、加えて、企画と仲が良かったことも大きかった。ハドソンの企画の仕事は
・もちろんゲームデザイン(当時は企画と呼ばれていた)
・外注の持ち込んだ企画をチェックして、営業会議などに出す仕事
・外注の作っているゲームのスケジュール&内容管理
だいたいこんな仕事をしていた。
2つめと3つめがミソで、結局、当時の企画は外注が作っているゲームが集まるところで、仲が良かった僕は、企画部に来るゲームを片っ端からプレイさせてもらっていたわけだ。

当たり前だが、僕はゲームをプレイするのが大好きだ。そしてゲームの会社といえどヒマさえあれば、新しいゲームがあるなら必ず遊びたがるほどのゲーム好きはそうそういない。だから、企画としては、何も言わなくても毎日のように一度ぐらいは来て、新しいROMが来たと言えば、絶対に遊ぶ人間はとても貴重だったのだろう。
また上と少し関わるが加えてゲームがうまかったのも大きな理由だろう。
ずっとゲーマーだったのに加え、Beep! でライター業をやっていたのもあって、ゲーマーとしての腕がピークの時代で、アクションとシューティングはアーケードで一周出来るのが当たり前の感覚だった。
そしてデバッグするときには下手なヤツも必要だが、うまいヤツも必要で、そしてうまいヤツは初期から必要なことが多く、アクションとシューティングは多分当時のハドソンの技術部の中では上から数えて3本の指に入ったのはほぼ間違いないし、シューティングに至っては僕より上手かったヤツは1人だけだったと思う。
(このやたらめったらうまかったのがサウンドにいた岩淵というやつ。こいつは完全に僕よりうまかった。ブッチーと呼ばれていた)
そして最後に「このゲームはこうした方がいい」とクリアするなり、なんなり、ともかくシビアにプレイしてしてレポートとして書けたことだろう。これまたライター業のおかげだ。実際はレポートとして書いたことはあまりなくて、たいていは担当者に口頭でプレイを見せながら伝えたが、それをやれる人間はそうそういなかったということだろう。


と、こんな理由で、88-89年にハドソン社内で制作された作品と社外で制作され、北海道でデバッグが行われた作品をの大半を遊び、デバッグ、さらに場合によってはゲーム内容について提案したりしたのが前回の最後に書いたリストだったわけだ。
前回を見るのが面倒な人のためにリストを圧縮して再掲。

■1988年
魔神英雄伝ワタル、エイリアンクラッシュ(ナグザット)、魔境伝説(ビクター音楽産業)、定吉七番 秀吉の黄金、ファイティング・ストリート、No・Ri・Ko、あっぱれゲートボール、ビックリマン大事界
■1989年
ネクタリス、ダンジョンエクスプローラー、コブラ 黒竜王の伝説、パワーゴルフ、天外魔境 ZIRIA、ガンヘッド、ブレイクイン(ナグザット)、ワンダーボーイIII モンスター・レアー、スーパー桃太郎電鉄、鏡の国のレジェンド(ビクター音楽産業)、ドラえもん 迷宮大作戦、ニュートピア、ぎゅわんぶらあ自己中心派 激闘36雀士、バトルエース、PC原人
■1990年
うる星やつら Stay with you、大魔界村(NECアベニュー)、スーパースターソルジャー

さて、リストの中で、ハドソンのタイトルになっていないものが
エイリアンクラッシュ(ナグザット)
魔境伝説(ビクター音楽産業)
ブレイクイン(ナグザット)
鏡の国のレジェンド(ビクター音楽産業)
大魔界村(NECアベニュー)

この5作品がある。この5作品のうち、2作品、「エイリアンクラッシュ」と「魔境伝説」はハドソンでデバッグしていたけれど、チームは北海道に来なかった作品。

エイリアンクラッシュ
知らない外注が作り、ハドソンでバランス取りとデバッグをし、ナグザットが売ったデジタルピンボール。えらい売れて、このあとデビルクラッシュって作品も作られた(出来はデビルクラッシュの方がいいと思う)。
バランス取りには全く参加していないけれど、デバッグは延々やった。結構、本物のピンボールをプレイするので、テレビゲームピンボールのボールの挙動が余り好きではないので(今でも好きではない)、ぶつくさ言いながらデバッグをしていた。
ちなみにピンボールとかカーレースのようなゲームはバグが全部なくなったという保証がないので、ともかく延々デバッグするしかない、きついタイプのゲームだ。
PS2とPSPの海外で発売されたカーレースに2007-8年に参加したのだがデバッグで20年ぶりにそれを思い知らされた。

そういや、往年のピンボールファンなら涙を流すスーパーゲーム。
Pinball Hall of Fame The Williams Collection (PS3 輸入版 北米版)日本語版PS3動作可
Pinball Hall of Fame The Williams Collection (PS3 輸入版 北米版)日本語版PS3動作可

昔、ピンボールをやりまくっていた人限定で超お勧め。
日本に移植される可能性はほぼゼロだと思うので輸入盤を買うしかないと思う。少なくとも PinBot とか FirePower とか black knight なんて単語にワクワク出来る人にはお勧めできる。そして今書いたタイトルが分からない人は、全く意味がない作品なので気にしないように(笑)

魔境伝説
知らない外注が作り、ハドソンでバランス取り&デバッグを行って、ビクター音産から発売された作品。
音楽がよくてテンポがよくて、ものすごく好きなアクションゲームだったけど、最初のうちは難易度がメチャクチャで結構文句を言ってた。
いきなりクモが糸ばらまきまくってくるとか、ボスのクマを35発ぶん殴っても死なないとか、ザコの癖に10発殴っても死ななかったりとか、全体に馬鹿らしいほど硬い敵が多くて大変だった。
デバッグの最後の方は完璧に覚えていて、楽勝で何周でも出来た(笑)

残りの3作品はハドソンに長期滞在した外注が作った作品。

ブレイクイン
ブレイクインは、ハドソンで作っていたチームの作品が最終的にナグザットに売られた。とは言っても、作っていたメンバーでプログラムを書いていたのは外注でグラフィックをハドソンのメンバーが書いていたパターン(サウンドを誰がやったのか知らないが、多分ハドソンのメンバーではないかと思う)。
これ、デバッグしてたんだけど、僕がさっぱり見ないうちに完成して終わっていた。外注のプログラマもものすごく静かなヤツで、いつの間にかいなくなっていたような不思議な外注だった。

鏡の国のレジェンド(ビクター音楽産業)
今をときめく(笑)酒井法子のアイドル時代の作品。アドベンチャゲーム。
これは制作していた会社はともかく、実は作った人間が知り合いのゲームだ。
最初に努めて辞めた会社が僕が辞めたあと、1年ほどで3つに分裂し、そのうちの一つがゲーム会社になりハドソンと契約をして作ったゲーム。
そして、これを作ったプログラマは、このあと結局、会社を辞めてハドソンに就職したはず。そのあとどうなったのかは知らない。

大魔界村(NECアベニュー)
「も」さんに驚かれた大魔界村。移植ハードウェアはスーパーグラフィックス。
もっと驚く話を書く。
移植したのはアルファシステムで、移植したメンバーはプログラマ二人。どっちもハドソン北海道に来て仕事していた。サウンドとグラフィックはハドソン。二人とも88年~89年初頭のずっと北海道にいた組とは違ったので、89年の冬に雪がドサドサ降るのを見て完動していたのをよく覚えている。
ものすごい凝った移植でバグで間違ったデータをアクセスしても、それが暴走しないなら該当箇所に68Kと同じコードを埋め込んで同じ動きをするなんてことまでしているパーフェクトぶり。
二人とも移植のためにめちゃくちゃ大魔界村をやっていたせいで、まるで難易度が分からなくなっているのが面白かった。
以下は、彼らが一度アルファに帰ったあと、僕に言った台詞。

「岩崎さん、みんなに遊んでもらったら、みんな、大魔界村やって難しい難しいっていうんですよ。こんなゲームのどこが難しいんですか、誰でも簡単にクリア出来ますよ!」

知っている人ならあり得ないと思うだろうが、本当に彼らは恐ろしいほどうまくて、大魔界村でタイムアタックをして遊んでいたほどだった。

…と書いたところで、いい加減長くなったので、また続く。
|| 21:17 | comments (6) | trackback (0) | ||
 
1988年 - ハドソンで作られていたゲームについて
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

前回の続きで今回も88-89年に、自分がハドソンでデバッグしたり、バランス調整に関わったり、ちょっと制作を手伝ったりしたゲームについて書いていく。
今回は1988年の7作品について(前回取り上げた作品は除いてある)。

魔神英雄伝ワタル、定吉七番 秀吉の黄金、パワーリーグ、ファイティング・ストリート、No・Ri・Ko、あっぱれゲートボール、ビックリマン大事界


魔神英雄伝ワタル
いきなり書くのもなんだが、ハドソンにいた3年弱の間で、一番腹が立ったゲーム。プログラマに本気で怒鳴った唯一のゲームだったりする。
最終デバッグ段階で、どうしてもラスボスが難しすぎて、クリアできなかった。
このゲームは敵のエントリの出来も悪ければ、ゲーム内容も単調で、正直出来がいいゲームとは言い難かったのを我慢してプレイして、デバッグで最後まで行き着いたのに倒せない。自分だけが苦手かと思って、デバッグしていたゲームのうまい連中に聞いても誰も倒せていない。
だから担当の浦さん(この人と仲が良かったのでやたらゲームをやっていたわけだが)に「このラスボスを倒せるとは思えない。非常にジャンプがシビアで無理だ」と言った。
正直、かなり腹を立てながら言ったわけだが、北海道に来ていたプログラマ(メイン)は、なんと「倒せますよ」と言った。
「じゃあ見せてくれ」
正直あり得ないと思った。前回も書いたが、当時はゲーマーとしての腕は明らかにピークで普通のゲームをやるヤツより圧倒的にうまいだろう自分が何度やってもクリア出来ないのだ。
そしたら、まあいきなりラスボス前からスタートし、ラスボスと戦いだした。僕よりどう見てもヘタクソ。こんなん死ぬじゃんと思ったら、死にそうになったらデバッガでbreakをかけてHPを増やした
「それでクリアっていうつもりかっ」
その瞬間、マジで激怒して怒鳴ったら、そのプログラマは言った。
「最近のガキはうまいから、これぐらいクリアしますよ」
本当に浦さんが押さえてくれなかったら、殴ってたと思う。こんな野郎にゲームを作って欲しくないと本気で思った。
そしてもちろん、こんなひどい難易度ではラスボスはクリア出来ず、クリア出来ないとデバッグが終了にならないので浦さんが困っていたとき、僕はバグを見つけた。
ジャンプでラスボスの部屋に飛び込むとラスボスの起動判定が甘くて動かなくなり、簡単に殴り殺せるのだ。
「こうすりゃ倒せますよ、どうします? 浦さん」
「なあ、岩やんやあ(浦さんはそう僕を呼んでいた)、このバグは取らないでおこう。こうしないと誰もクリア出来ないと思うんだよね」
「僕もそう思いますよ」
というわけで、ハメて殺す以外殺しようがないラスボスでワタルは発売されたのだった。今でも知りたいが、ハメる以外で倒せた人は世の中にいるのだろうか。

パワーリーグ
奥野さんのラインが作った野球ゲーム。これがヒットして、以降「パワーシリーズ」が出来る。
奥野さんという人は、どういうわけが作りたくない物を作らされる人で、パワーリーグの前はあのファザナドゥを作り、ファルコムを怒らせた。
本人は「だって俺、ザナドゥ嫌いなのに作れって言われたんだもん」って言っていた。
でも、書いておくけれど、ザナドゥという名前でなければ、結構出来が良いというよりは、佳作…というより名作の方に近いと言ってもいいぐらい出来がよく、雰囲気もいいRPGの要素の入ったアクションゲームなのは間違いない。
そしてパワーリーグも実は野球を作りたくないのに作らされた(笑)
それのおかげでパワーリーグは実は外野に自動守備がある一番最初のゲームの一つだったりする。
奥野さん曰く「だって、俺、フライ取れないんだもん」

これのデバッグは最後は野球大会になり、なんと決勝戦まで進んで、和泉さんと戦うことになり負けたのをよく覚えている。ちょいと悔しかった。

定吉七番 秀吉の黄金
これはあんまり僕はデバッグしてないゲーム。名前を思い出せないけれど、ハドソンのメインラインのチームの1ラインが作ったゲーム。メインプログラマの作ったマルチタスク用のエンジンがかなり特徴的な設計で印象に残っているのだけど、名前を思い出せないのが悔しい。

ファイティング・ストリート
あまり知られていないが、アルファシステムの実質的な第一作(のうちの一つ)。
ストリートファイター1の移植作品。
ストリートファイターではなく、ファイティング・ストリートになったのは、当時商標に理由があったはずなんだけどSFC版ではストリートファイターIIになっていたので、カプコンが商標を買い取ったか、そのあたりなんだろう。
知っている限りでストリートファイター1の唯一の移植作品のはず。曲がCDDAでアレンジ版なのだけど、ゲームでCDDAが鳴るなんてのは初めてなわけで、聞いたときのインパクトがすごかった。
プログラムでは実は自分も解析手伝ったりしてたんだけど、HaHi君が派動拳や昇竜拳の入力ルーチンを解析して「こんなの岩崎さん、入力できないよ」といっていたのが印象的(笑)
ところが、その次の年(1989)のハドソンのゲーム大会でファイティングストリートが使われたんだけど、対戦は右と左で波動拳の撃ち合い。失敗した方が負けって、ものすごい世界になっていたと、高橋名人から聞いた。

No・Ri・Ko
当時デビューしたところだった(正確には改名して売り出し中だった)小川範子をフィーチャーしたミニゲーム&トーク集のような作品。CDROMだから曲がCDDAだし、声も出せるしで、結構ファンには嬉しかったんじゃなかろうか。
この流れが『鏡の国のレジェンド』とか『みつばち学園』に繋がっていって、結構固定ファンのいたジャンルだけど、結局アイドルグッズの一環から抜け出すことが出来ないままDVDの登場で消え去ったジャンルだと思う。
開発はアルファシステム。佐々木社長がじきじきにプログラムを組んでいた。
あまりに毎日デバッグで小川範子の歌を聞く物で、デバッグしている周囲で仕事をしている人間全員が小川範子の歌を歌えるようになっていた
そしてそれどころか、仕事しながら鼻唄で小川範子の歌を歌ったりする物で洗脳ゲームだと言われていた。

あっぱれゲートボール
多分ワン&オンリーなゲートボールの面白さを僕に教えてくれたゲーム。このゲームを対戦プレイするとどうしてゲートボールで殺人が起こるのか理解できる
ともかく対戦をやると、凄まじい意地悪の泥沼バトルになって、ものすごい事になる。
今でもすごくいいゲームだと思うんだけど、ゲートボールという題材があまりにマイナー…というか、ユーザー層と合わなさすぎ。
一番最初にハドソンにデバッグROMが来たとき骨までゲートボールという、上からガイコツが降ってきて、カカカと笑うタイトルだった。
ものすごくインパクトのあるタイトルで、最高だと思っていたのだが、あまりに不謹慎なタイトルのせいか、がんばれゲートボールにタイトルが変わり、最後にあっぱれゲートボールになっていた。
最初のタイトルの方が問題はあったろうけど、受けた気はするんだが(笑)

今ならDSでもPSPでもPS3でもX360でもアナログ入力があるから、もっと微妙なゲーム性が出て面白いんだけど…売れないよなあ(苦笑)

ビックリマン大事界
友達の会社(自分と同じ会社にいた人たちが辞めて作ったベンチャー)が作った作品。
作った人はタイトーで『ダライアス』のメインプログラマーをやった人だったりする。

お気楽に書き出したら、えらく長い寄り道になっているが、まあ当時の記録代わりだとしておこう。
というわけで続く。
|| 20:22 | comments (6) | trackback (0) | ||
 
1989年 - ハドソンで作られていたゲームについて
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

前回の続きで今回も88-90年に、自分がハドソンでデバッグしたり、バランス調整に関わったり、ちょっと制作を手伝ったりしたゲームについて書いていく。
今回は1989-90年の作品について(ただし取り上げた作品は除いてある)。

1989年
ネクタリス、ダンジョンエクスプローラー、コブラ 黒竜王の伝説
パワーゴルフ、天外魔境 ZIRIA、ガンヘッド
ワンダーボーイIII モンスター・レアー、スーパー桃太郎電鉄
ドラえもん 迷宮大作戦、ニュートピア
ぎゅわんぶらあ自己中心派 激闘36雀士、バトルエース

1990年
PC原人、うる星やつら Stay with you、スーパースターソルジャー


ネクタリス
和泉さんの作品。これには僕は結構影響を与えていると思う。
というのも、和泉さんは大戦略が好きでこのゲームの企画が出てきたんだけど、僕がボードゲームのマニアでSLGやるならボードゲームは絶対にやった方がいいと、ホビージャパンのBASIC3(スエズを渡れ・レニングラード・バルジ大作戦の3本が入ったパック)を貸し出して、実際のボードSLGをプレイしてもらったのだ。
和泉さんは大いに感銘したらしく、ネクタリスのルールはずいぶんボードゲームっぽくなって、射撃後移動可能なユニットがあったり、ZOCの扱いがSLGっぽかったりする。
発売後、アンケートの結果がすごく変わったソフトとして話題になった。
75%ぐらいが「いい・面白い」と高い評価。残りの25%が「最低」という評価を下していた。

ダンジョンエクスプローラー
ハドソンの名前だけど、中身はアトラスだったはず。
グラフィックと音楽はいいけど、バグがひどくてデバッグがものすごく大変だった。あと最大5人プレイが出来るわけだけど、ハドソン社内でマルチタップが足りなくて結構苦労した。
でも一番苦労したのはバランスだった。これはしょうがないことだけど最大5人、最小1人のとき、どこに難易度を合わせるのかは大問題で、といってそのときで敵のHPを変えるのも難しい。結局バランスとしては5人ではちょっと簡単すぎるし、1人ではちょっと難しすぎる(これを解決するために経験値が入っている)ゲームになった。
こればっかりは当時だし、仕方ないと思う。

コブラ 黒竜王の伝説
PCエンジンCDROMを立ち上げたはいいけれど、売り上げ的に問題があり、しかも天外魔境が遅れることが分かっていたので、繋ぎとして突貫工事で作られた作品。
営業からの要望で2ヶ月程度で作り上げられた。ハドソン最強の飛田=和泉ラインが組んで、なおかつ一部アルファシステムも関係している(ADPCM周りで)凄いゲーム。
『コブラ』で作り上げられたシステム(完全にアドベンチャを記述できるツール)と、ゲーム自体の評判がよかったことで、ハドソンのいわゆるデジタルコミック路線の確立と量産が可能になった。
このゲーム、デバッグはしていないけれど、飛田さんと言語仕様を決めてちょっぴりソースも書いている。当時Smalltalkに僕が心酔してたのもあって、結構オブジェクト指向(主にカプセル化。継承とか無理! だったから(笑))とメッセージングの思想が強い設計になっている。

パワーゴルフ
パワーリーグがヒットしたので「パワー(スポーツ)シリーズ」としてシリーズ化されることになり、奥野さんがようやく好きなものを作れたゲーム
僕はゴルフゲームが抜群に苦手なゲームの一つで、あんまりデバッグしてない。
でも奥野さんは本当に幸せそうにゲーム作っていた。
「岩崎君さあ、自分のゲームのデバッグが楽しいんだよ!」
って言ってた(笑)

天外魔境 ZIRIA
デバッグもそうだが、桝田さんと本格的に付き合いだしたゲームでもあったりする。
天外1はもともとは桝田さんは絡んでおらず、ある日突然、やってきてひたすら作り始めた。そして実は桝田さんは凄ノ王の広告を担当しており、ちょっとした知り合いだったりした。
桝田さんの作った天外1は限られた時間の中で作られた作品だけど、実にプロフェッショナルなゲームだと思う。
ちなみに天外1の戦闘システム、特に魔法やあらゆるものが切れたら終わりだが、切れなければ猛烈な無理が利くというシステムと、巻物の受け渡しが自由だから戦術のバリエーションが広い、というのが僕はものすごく気に入っていた。だから2では1のこういった部分は全部そのまま継承されている。
ところで、この戦闘のムチャさは実は『忍者らホイ!』から流用した、と桝田さんは言っていた。
「1ヶ月もないのに戦闘の計算式作れるわけないじゃん。ありものを流用するしかなかったんだよ」
と桝田さんは言っていた。

ガンヘッド
コンパイル制作。ほぼ2ヶ月、コンパイルの二人がハドソンに来て毎日作っていた。
僕はかなりゲームバランスについて言わせてもらえた。自分的にはZANACのプログラムを書いた広野さんとグラフィックを描いたアーティスト(残念なことに名前を覚えていない)と仕事できて感激した
ZANACのめちゃくちゃファンなので、最終面までのマップの並べなおしと、バランス取りを一緒にやらせてもらって、もう毎日ハッピーだった。
もしかしたら、イースを作るより楽しかったかも知れない。
ちなみに最高難度の"GOD OF GAME"の難易度は、僕とハドソン一うまいシューター、岩淵・ザ・ブッチーの二人によって決まった(笑)
毎日、広野さんが難易度を上げ、二人がクリアする…これを繰り返して、ある日「岩崎さん、思い切ってガン!と難易度上げました」といわれた難易度が"GOD OF GAME"だった。
ブッチーと僕と二人で交互にプレイして一晩かかって最終面まで行ったんだけど、どうしてもクリアできずに3日間、電源を切らず、最終面をコンティニューしまくって、最後にブッチーがクリアした(二度と来れないんじゃないかと怖くて切れなかったのが真相(笑))。
(このとき、世の中、うまいシューターは僕とはレベルが違うと悟った気がする)
そして、クリアできたけれど、これでいいだろうということで難易度が決まった。

ワンダーボーイIII モンスター・レアー
アルファシステムが移植した僕の大好きなアクションシューティングゲーム。めちゃくちゃに難易度は高いと思うが楽しいゲームだった。あとサウンドトラックの出来が素晴らしい。
ちなみにメガドラ版があり、二重スクロールできるのがいいところだけど、色がPCエンジン版の方が鮮やか(ワンダーボーイは明るい派手な色使いのゲームなのでカラーパレット数の差が結構影響する)とサウンドトラックはさすがにCDDAのが圧倒的に上なので、楽しいのはPCエンジン版だと個人的には思っていたりする。

スーパー桃太郎電鉄
これはデバッグもやったけれど、本当に印象的なのはマルサイベントで「人がどのように感じているのか」が分かったことだった。
これは、以下のような話。飛田さんがある日やってきて(ずいぶん仲がよくなっていた)
「岩崎さん、マルサのイベントさあ、どこに入るかって分かる?」
「あれただの乱数でしょ?」
「さくま先生がさあ、勝ってるやつに入るように調整してるだろ、飛田くんっていうんだよ。プログラム分からない人にコード見せてもしょうがないしさ、どうしたらいいと思う?」
「あーそれ想像はつくなあ。自分がマルサにやられて沈んだときの印象が残るから、勝ってるヤツとか思うんだと思うなあ…いい手思いつきましたよ」
で、当時、スーパー桃鉄をデバッグしていた若き俊英達、芳賀・蛯名・佐橋・杉本4人を呼び出し、さくま先生に連絡が繋がっている状態で聞いた。
「お前らさあ、マルサってどのビルに一番良く入ると思う?」
蛯名「一番左ですよ!」
芳賀「ナニいってんだ、右だよ!」
佐橋「えー? 俺は真ん中2つが多くなるように作ってあると思う」
杉本「出た回数で決まってると思うなあ。一個ずつ右に進むと思う」


もちろん、さくま先生は納得してくれました。

ドラえもん 迷宮大作戦
名前を忘れたプログラマが自分もプロジェクトをやれるといって始めた仕事。出来なくて、和泉さんがケツを拭くハメになった。ぶっちゃけると、そいつのコードは使い物にならなくて和泉さんが最初から作り直したってことだ。
和泉さんに尻拭いをしてもらうかどうか決めるために、夜中にそいつの書いているソースを読んでくれと中本さんに頼まれた。
深夜に人のPC98立ち上げて、人のソース読むなんて、かなりどうよ…な話だけど、まあ社内の人間にやらせると角が立つし、外部のヤツの判断だからシビアになるしで、頼まれたってことなんだろうと思う。
それで読んで「話にならない、とても間に合わないと思う」と言った。結構シビアな回答せざるを得なかったけれど、今考えても、彼は力不足だったと思う。

ニュートピア
安田さんという企画と、きんちゃんと呼ばれていたプログラマが組んで作ったゲーム。ゼルダのパクリといわれることがよくあるが、二人ともゼルダを崇拝していて「ゼルダのようなゲームをPCエンジンで作りたい」から始まった企画だったし、いい意味でゼルダをパクっていたと思う。

ぎゅわんぶらあ自己中心派 激闘36雀士
発売はハドソンだけど、中身はゲームアーツが作っていた。
タイトルにはゲームアーツ・イエローホーンと出たけど、実際に中身まで作っていると思っていた人は当時いなかったと思う。
というのも、当時のゲームアーツはいわばセガの星なわけで、間違ってもPCエンジンでゲームが出るのはよろしくなかった。だからハドソンが許諾をもらって、ハドソンから発売された形になっているわけ。
昔は口が裂けてもいえない話だったが、今なら書いても平気だろう。
インチキ麻雀がゲームとして本当に面白い、いい意味でのキャラクタゲームとして完成度は高かったけど、バグは本当にひどくてデバッグでバグりまくった。
担当をしていたヤツはものすごくゲームアーツを崇拝していたが「ゲームアーツはバグを出さないと信じてたけど、普通なんだね」といってた。

バトルエース
スーパーグラフィックスで、もちろんSFCとかに対抗して、こんなゲームも作れますよ、というデモソフト。発売されなかったハンドルコントローラに対応していて、和泉さんが毎日それでデバッグしてた。
結構派手なコントローラでアナログ入力もしっかりしてて出来が良かったんだけどなあ。

PC原人
PCエンジンでの最大のヒットアクションゲームになったシリーズ。
第一作は結構難易度が高めのアクションになってたと思う。これも外注が作って、ハドソンで最終デバッグをしたんだけど、イースのデバッグと重なっていて、あんまプレイできなかったのが残念。


うる星やつら Stay with you
1990年の作品。イースの最後あたりに関係した。ゲームのデバッグにはほとんどタッチしていないが、シナリオにタッチした作品。というのも、当時、僕は高橋留美子の大ファンだったのだけど、シナリオを書いた高津君はあまり高橋留美子に興味がなかった(もちろんシナリオを書くために勉強はした)。そ
のため、シナリオの一番最後が『うる星やつら』っぽくないエンディングになっていた(確かあたるとラムがキスして終わりになっていた)。で、これをドタバタで終わるようにしたほうが「うる星っぽいと思う」と直してもらった。

スーパースターソルジャー
これはもう僕は東京に帰っていて天外2を作り出していて、デバッグの最後にちょっと遊べたぐらいの作品。中身は確かKANEKOが作っていはず。
当時、ハドソンにもう1人いた「名人」、企画の川田さんが作っていた。
技術的にレベルが高くて、縦スクロール面でDMA使ってキャラクタ書き換えするとか(イース1・2のとき技術的に確立したけど使うところがなかった)、かなりいろんなことをやっていた作品で、プレイして感心した。

というわけで、寄り道終わり。
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1989年6月 - レベルを統合すると決める
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■


これはイースを2つに分割するのか、それとも一本のゲームとしてまとめあげるのかの分水嶺になった、6月後半から7月頭のあたりでの話だ。

ある日、HaHi君が僕に聞いてきた。
「岩崎さん、1から2に行くときどうするの?」
「ああ、経験値どうするかってことね?」
「そうそう」
「経験値はひとつにまとめるよ。決めてる」
そのときまで黙っていたが、2本のゲームにするか、それとも1本にまとめるかはずっと考えていて、答えは既に出ていた。
「えっ!? じゃあイース2からははじめられないの!?」
「うん。HaHi君はどうするつもりだった?」
「いや、僕は2が始まるとき、1で終わったときの1/100とか経験値あげればいいと思ってたからさ」
「それ、ダメだよ、だってさ…」

というわけで、以下が当時、僕がHaHi君に言った理由。
言った内容はほぼ当時のままのはず。

仮にイース2からもスタート出来て、イース1からプレイしたときは、1をクリアしたらそのまま2につながり、経験値が1/100でスタートするイース1・2を作ったと仮定してみよう。
バランスは言うまでもなくオリジナル版そのまま。

1)実は1の経験値1/100は意味がない
イース1は必ず経験値が65535になるゲームだから1/100しても、2の最初では、かならず経験値が655あるだけということになる。これは誤差の範囲の経験値でしかないし、誰でも同じ値になるから、意味がない。2の初期経験値655と変わらない。
ではこの2のスタート経験値に意味が出るようにするとなるとイース1の全バランスを取り直すということになる。
つまり経験値1/100は全く機能しない。

経験値を半分に圧縮し、ダームの塔に32768-65535を割り当てて、2本にする案も一時考えた。でもどっちにしても(2)の理由で駄目だと判断した。


2)イースに飛ぶときに経験値までなくすのはマズい
1から2に行くとき装備は捨てざるを得ない。なんせリング周りのゲームシステムが違うし、シルバー装備なんて間違っても持っていってもらっては困る。
アイテムも当然ダメ。金も65535が当たり前なので、とても残せない。
アイテムも金もなくなって、このうえ経験値もなくなるじゃあユーザーは絶対に怒る。少なくとも井沢のどんちゃんはコントローラを投げてゲームを止める。金や装備はイースに向かってぶっ飛んでる途中で全部地上にばらまいたと考えれば、まだ理解できるけれど「なんで経験値がなくなったんだ」と普通の人は思う。つまり、経験値までなくすのは全く得策ではない。
また経験値がなくなるってことは、そこまでプレイヤーの育ててきたキャラクタとしての連続性がなくなる=ゲームの連続性が壊れる

注)井沢のどんちゃんは、さくま先生のところのメインデバッガーで、信じられないプレイを連発してくれる凄い人。凄ノ王伝説を彼にプレイしてもらったときの衝撃は一生忘れない。そして、彼が常にプレイヤーだと仮定して「彼ならどう感じる?」は、イースを作るとき、自分にとって非常に重要な考え方だった。


3)ダームの塔は結構アクションとして難しい
ダームの塔は完全なアクションゲームで難易度が高すぎる。もちろんアクションゲームならそれもいい。そしてイース1の出来た過程を考えれば、全くしょうがない。
だがイース1・2はアクションRPGで、RPGの最大の強みの一つは「難しいとき、経験値を稼ぐことで力押しが出来ること、すなわち難易度をユーザーがある程度調整可能という点」だ。
そう考えたとき、イース1の後半をアクションにするのはあまりにムチャだし、ヨグレス&オムルガン(スタッフの間では「顔」と呼ばれていた)は、あまりに強く、ここで挫折する人間が大量に現れるのは確定的(実際、スタッフでもクリアできずに、他人に倒してもらっている人間がいる)。
顔は当時のPCゲームをやっている人間のバランス感覚で作られていて、あまりに難易度が高すぎる。

難易度について目安として考えていたのは「さくま先生や桝田さんでもクリア可能か?」だった。さくま先生はアクションはすごいへたくそだったし、僕の知る限りで、桝田さんは世界でほとんど一番目にアクションとシューティングが下手だ。R-TYPEの一面の最初の敵が撃つ最初の弾に当たって死ねる人間を僕は桝田さん以外に知らない。


もちろん上記した1-2-3の理由はあくまで、僕の考えに過ぎず、オリジナルに忠実に移植する方針もあり得る。そっちの方が移植も楽だろうし、オリジナルユーザーが満足する可能性も高い。
だが、PCエンジンで初めてプレイするユーザーが、オリジナルに忠実に作ったイースをプレイしたと考えてみよう。すると、初めてのプレイヤーにとってイース1・2は以下のようなゲームになる。
RPGのはずなのに、途中で経験値MAXになり、ダームの塔ではアクションをやらされ、しかも1から2に行くとき、金もアイテムも経験値も全てをなくしてしまい、また一から育て直しをするゲーム(そのうえユーザーは1と2の区別を知らないから経験値が0になって初めて2じゃないかと想像すると予想できる)
どう考えても、これが理不尽なゲームなのは明らかだ。

また、話から考えても1・2は一つにまとめるべきだ。
なぜなら、イース1・2はタイトルとしては2本入っているが、1はそのうちの1/4程度で、いわば序章程度に過ぎない。そして、1をクリア出来ないと、もちろん2は楽しめない。仮に2から遊べるようにしても、1をクリアせずに2をプレイしても話がわからない。そして忠実に移植すると1をクリアできない人がいる=話が分からない人がいることになる。

結論
イース1ではオリジナルのゲームバランスは使えない。また使うべきではない。加えてイース2に行くとき、経験値をゼロにするべきではない。アイテムも装備も何もかも捨てさせて経験値まで捨てさせるのは厳しい。
すなわち一本のゲームにまとめ、経験値を統合したほうがよりよいゲームになる

と、こんな感じでHaHi君に説明し、イース1・2は一本のゲームとしてまとめられることになった。
これをやった瞬間からパソコン版をプレイしたユーザーが文句を言い倒すだろうと思っていた(まさか21年も文句を言われるとは想像はしていなかったけど)。
なぜなら、経験値を稼げると言うことは1の後半、ダームの塔の難易度が劇的に下がる。すなわち「こんな簡単なのはイースじゃない」と言うのが分かり切っていた。イースのバランスは伝説的にいいことになっているのだから、それを修正すれば文句を言うに決まっている。
でもだ。
「だったらオリジナルをプレイすればいい」
1本にまとめた方が初めてのプレイヤーにとって優しく、ゲームとして合理性があり、かつ完成度が上がるのに、わざわざ分断する必要はない。

僕はダームの塔はアクションとして確かに良く出来ていて面白いと思うが、そのバランスの良さは、あくまでアクションゲームとしてのバランスの良さであり、RPGのバランスの良さではないのが非常に大きな問題だと考えていた。そして、オリジナルのバランスではさくま先生と桝田さんは「天地がひっくり返っても100年プレイしてもクリアできない」のは明らかだった。


最後にHaHi君は聞いた。
「数字は岩崎さんが決めてくれるんだよね?」
「もちろん」
「…あ~一つだけ。1から経験値半分システム入れて。やばいから」
「そんなの簡単。すぐ出来るよ」

「よろしく~」

こうしてイース1・2は経験値の統合された1本のゲームになることに決まった。
|| 20:23 | comments (8) | trackback (0) | ||
 
1989年7月 - バランスを取り直しつつ、ボスの調整を始める(1)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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いろいろあって、えらく間が開いたけど、続き。

前回書いたとおり、イース1と2のレベルを統合すると決めた以上、バランスは完全に取り直さなければならなかったが、このときには「バランスを取り直すことが出来る」という自信はあった。

というのも、凄ノ王伝説で痛い目にあったあと、桝田さんと会って、結構長くつきあった結果、バランスの取り方にはっきりとした方針が出来上がっていたからだ。

凄ノ王伝説を作る前、自分はTRPGのゲームマスターなどをやっていたし、アマチュア時代に大量にゲームを作っていたこともあり、バランスを取れると思っていた。
だが、実際にRPGを作ってわかったことは「バランスの取り方なんざ、まるでわかっていなかった」ということだった。

デビュー作の凄ノ王の戦闘システムは、距離の概念のあるタクティカルコンバットで、おまけにプレイヤーのアクションが行動ポイント制のシステムだ。
当時主流だった対面型戦闘(DQ型)や、サイド型の戦闘(FF型)に不満を持つボードゲームユーザーが、当時のボードSLGやTRPGの戦闘システムを大いに参考にして自作したわけだが、ぶっちゃけ複雑すぎて、うまくコントロールできず、毎日AI(というほど複雑なものでもないが…)をいじり、バランスを調整し、四苦八苦して、正直、最後にはどうすりゃいいのかわからなくなっていた。
凄ノ王伝説のバランスについて、今の自分が評するなら「バランスが分からなくなったとき、簡単な方に調整した」のが唯一褒められるぐらいだ。
どうしてこれが褒められることなのかというと「難しい」と言われ、自分にはわからないときには簡単にすれば少なくともクリア出来る方向に進むが、そこで直さないと、クリア出来ない人が多い可能性が高いから。
本当はもっと正しい(みんなが楽しめる)方向があったわけだが、当時のボードSLGだのTRPGだのにガチガチで、ゲーム論的な話をすると「50歳にならんとする今より、遥かに柔軟性を欠いたゲーム論教条主義者だった自分」には直せなかったのは間違いない。
もちろん凄ノ王伝説は、僕の手を離れたゲームであり、世の中にはこのゲームを好きな人がいるのは分かっているが、当の本人にとっては自分の思い通りにならず、散々苦労した苦々しい思い出の多い作品だ。


このバランスの悩みを劇的に変化させたのが、桝田さんとの出会いだった。桝田さんは非常に論理的なバランスの作り方を考え出していた。

まず、目安として仮想の標準的なプレイヤーを考える。
次に標準プレイヤーはレベル20でクリアする、と決め、1レベル上げるのに平均では1時間かかり、クリアまで20時間かかると決めてしまう。
そしてプレイヤーが1レベルを上げるのに必要な戦闘回数は、例えばレベル+1と決める。また最終レベルの経験値も決める。すると敵がどれだけの経験値を持つとか、自動的に決まってしまうのだ。
またパラメータは(主人公は)単純な直線で伸びる(1レベルに+4など)と決め、さらにプレイヤーのパラメータ、例えば攻撃力や防御力の20%は「装備によって与えられる」と決める。すると、自動的に武器や防具の攻撃力まで決まってしまう。
雑でいいから最初に最終ボスと戦って勝つレベルを決めてしまえば、自動的に様々なものがある程度決まる
このバランスの考え方はTRPGをやってきた人間からすると衝撃的なアイディアで、本当に目からうろこだった。
桝田さんが、どうしてこの方法を思いついたのかは知らないが、いずれにしても「1ストーリーを最初から最後までプレイして、プレイしたら(やり込み要素は別にして)、キャラクタはもう使う必要がないゲーム」だからこそ成り立つ、キャラクタがシナリオ毎に持ち越されていくTRPGでは絶対に出てこない発想で感動的だった。

ちなみにこれはゲームデザイン脳 ―桝田省治の発想とワザ― (ThinkMap)に書かれている方法でもあったりする。

この方法の最高に優れているところは「致命的にバランスが破綻してどうすりゃいいかわからない」なんてことがまず起こらないことだ。当たり前だが、数字が全部先に決まっているのだから、仮にバランスが破綻していても「敵を調整すれば、かならずバランスは調整できる保証」がある。
日がな一日、数字をいじり倒しても、どうすりゃいいのかわからなくなっていた凄ノ王はこれと比較したとき、バランスの骨格がなかったのだな、と今ではよくわかる。

さて、このバランスの取り方は天外1をしゃかりになって作っていた桝田さん - 天外1を作っていたとき、北海道に数ヶ月拉致監禁(笑)されており、毎日、ハドソンにいた外注メンバーでメシを食いにいっていた - と話をしたとき、バランスはどう取ったのよ…という話から出てきて聞いた。
北海道は平岸のハドソンの近くにあったロイヤルホスト(ストリートビューで調べたら、今でもあった)で夜中に飯食って、無駄話してたときに出てきたネタだと思うのだが、このゲームバランスの取り方は、イースに決定的な影響を及ぼした…というか、イースは桝田方式アレンジ版でバランスをとった。

まず、1の6+ラスボス1体、2の5体+1+1体で14体。14体のボスを倒す基本レベルを4レベル間隔と設定し56レベルでダームと戦う、と決めた
初期HPを20ほどと設定すると、約230ぐらいあるHPは1レベルについき大ざっぱに4ぐらいあがることになり、武器の数は少ないし、手に入る場所が決まっているから、数字を先に決めて設定。
そして1レベル上がるのに、基本、ザコ10体からスタートし、レベルが上がる毎に5体ずつ必要な数が増えていく…と、ここまで決めたところで、イース1に経験値半分システムを導入しても、経験値幅がどう計算しても65535では非常に厳しいことが判明してしまった。
(不可能ではないがプレイバランスとしては問題がある、が正確なところ。例えばジラの家を使えば簡単にレベル上限までレベルが上げられるとか、後半部の経験値幅が狭すぎて、隼の彫像とか持ってるとあっつーまにレベル上がるといった問題)
そこで--

「ごめん、HaHi君、どうしてもさー経験値が65535だと足りないんだよ。それでさ、99999まで増やしたいんだけど、大丈夫?」
「んー表示ルーチンはすぐ対応できるし簡単。でも99999から先は大変だよ。99999で大丈夫?」
「大丈夫。絶対に足りる」
「じゃあ直しとくよ」


で、確かあくる日…どころか数時間後には99999対応になっていたはずだが、HaHi君には平気な顔をしていたが、実は経験値10万でも厳しいのはわかっていた
本当のことをいうと、20万にしたかったのだが、1桁増やすとグラフィックの書き直しになるので、100%進藤が暴れるし、199999が最高経験値というのももちろんダサいし、また2ビット経験値が増えるので10万上限でしょうがなかったのだが、以下、どうして厳しいとわかりきっていたかの説明。
イース1はダームの塔前までで65535に経験値がなる。そしてイース2は、やはり65535。2つのゲームを合わせるとダームの塔をアクションにしても経験値が約13万必要
つまり、オリジナルのゲームバランスを再現するためには13万ぐらい必要な経験値を、イース1側のレベルアップのスピードを経験値半分システムを入れることで圧縮し、最初はトータル6万の中に押し込もうとしたけれど、さすがにどうにも厳しいという計算が出てきて、トータル10万の経験値幅でなんとかする、という計画になったわけだ。

と、こんな風にして基本的なバランスは決めた。
結構、この項長くなるので続くw
|| 22:15 | comments (0) | trackback (0) | ||
 
1989年8月 - どうせ銀の装備なしには勝てんのだ
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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続くと前項で書いたけど、別に続けなくてイイヤと思ったので、やんぺ。

豪華声優と言われるイース1・2だが、決め方は簡単だった。
当時も、そして今もそうだが、僕はさっぱり声優さんとかわからない。また、アニメはいっぱい見るが「声」で覚えることはさっぱり出来ない。だから声優さんを選んでくれといわれると「あの作品のXXをやっていた人」という表現しか出来ない。
実は映画でもたいていそうでストーリーや場面は一度見たら30年経っても、セリフまでいえるぐらいだが「役者(の本名)および役名」は即忘れしてしまうことがほとんど。例えば「マスク」のジム・キャリーは一発で覚えたが、相手役の女の子が美人なのは覚えていたが、まさかそれがキャメロン・ディアスだったとか、そういうのが全然ダメ。「すげえ美人の金髪の女の子」としか言えない。

そんな余談はともかくとして、声優をまるで知らない人間が、声優さんをどんな風に決めたかと言うと、都合がいいことに、当時ハドソンの入っていたビルの1Fに大きなレンタルビデオがあった。そこでともかくアニメビデオを借りまくって、スタッフみんなで見まくってこれが良さそうという面子をかき集めたのだ。
【注】 そのレンタルビデオ屋のあった場所をストリートビューでチェックしたらドコモショップになっていた。Hahi君とやたらほっけ定食を食った定食屋もなくなっていた。諸行無常だ。

それでハドソン東京にリストを出したら、声優さんの所属プロダクションが複数あって調整が取れないから、青二プロダクションに一本化してくれ、と言われ、青二プロダクションの声優カタログがやってきた。
そこで「これが良さそう」と選んだメンツから、青二プロダクションに所属している人はそのまま決まりで、足りなくなった人を、またみんなでCD聞き倒して選んだだけだ。
【注】 声優カタログとは声優さんの顔写真や、やってきた仕事が収録され、一緒にCDが付属していて、ひたすら声優さんの自己紹介+演技(2分程度ある)が入っているという代物。今なら電子化されているのかも知れないが、当時はカタログがプロダクションからやってきた。青二プロダクションに統一してくれと言われた理由は不明。当時、ハドソンは東映と距離が近かったのかと思ったら、高橋名人の映画は東宝だし、Bugってハニーは東京ムービー新社。なんで青二プロダクションだったんだろう…



あとから声優を知っているヤツに「豪華声優だ」といわれただけで、僕らスタッフは当時そんなことを知りはしなかった。(ただし、進藤は一応それなりに豪華だとはわかっていたらしい)
声優さんはクラスがあって値段が違うということすら知らず「この人がいい~」というだけの理由で集めてしまったのだから、音声の入ったゲームの黎明期だったんだなあと思う。
自分にとってはオープニングの絵コンテで声優さんの名前をだすことになっていたので(最初は「声優」としか書いていなかった)名前に第二水準が入っている人がいたら漢字フォントをタイトルで出すときアーティストにドットを起こしてもらわないといけないので注意しないとなあ…と思っていた程度だ。
【注】 PCエンジンCDROMでは、16x16ドットと12x12ドットの2種類の漢字フォントがシステムカードに収録されていて漢字仮名交じり文を標準で扱うことが出来たが、どちらも第一水準約3000文字しか収録されていなかった。そして名前、特に芸名などはかなり第二水準(あまり使われないことになっている漢字)が良くあった。
全くの余談だが、自分の名前、岩崎啓眞のうち『眞』は第二水準でPCエンジンCDROMではフォントを作らなければ表記できない。でも自分の名前程度にフォントを作るのは面倒だったので、全部『啓真』で統一している。

録音は東京のスタジオで行った。僕も録音に立ち会った。
イースは喋る時間が短いこともあり、録音は1日で終わっている。集めた声優さんがとても上手い方ばかりだったので、せいぜい4テイクも取れば終わってしまう楽さ加減で、あっというまだった。
終わった方からサクサク帰ってもらったのだが、今から考えれば、山根に色紙にイラストでも書かせておいてサインをメディアの分とかもらっておけば、プレゼントに出来たのにと、後悔することしきりだ。

さて、声優さんにしゃべってもらうセリフは、オープニングのナレーションを除いて、原作のテキストがあるが、結構表現を修正した。修正した理由は簡単で、話し言葉と喋り言葉は似て非なるものだから、普通の小説などの会話文をそのまま喋ってもらうと、たいてい不自然になる…ということを最初に所属していた会社でCD-Iの仕事をしていたとき(プロの脚本家に)教えてもらっていたから。
そして、セリフを書くときのコツを簡単に教えてもらっていたので、そのまま実践しただけだ。
やり方は簡単で「自分でしゃべる」。録音して聞く。これを繰り返すだけ。
話し言葉と書き言葉は違うから、最初のうちはともかく声に出すことだ、と教えてもらっていたのだけど、自分の声を聞くという不愉快さはともかくとして、きわめて有効だった。これがなかったら、オープニングの長さの調整とか大変だったと思う。

と、実はここまでが前フリ。

セリフの修正の大半は、言葉の入れ替えだったり、微妙な修正だったりで、ほとんどのユーザーはまるで気がつかないものだったわけだけど、たった一つ、どこの誰でもわかる大修正を加えたセリフがある。
それがタイトルでも使っている「どうせ銀の装備なしには勝てんのだ」
このセリフは、ダームの塔の最上階で、イース1のラスボスに当たるダルク・ファクトが喋るセリフだ。
どうしてこんなセリフを喋るのかというと、イース1では最強装備は「バトルシリーズ」だが、ファクトを倒すためにはシルバーシリーズを装備しなければならないトリッキーな謎が用意されており、人にプレイさせているのを見ていると、結構分からないで詰まる人が多かったので入れたセリフだ。

ボスがネタバレをするのはどうなんだ、と当時もいわれたし、今でも言う人がいるので、ここらへんでゲーム論的な話を語ろう。
実は、これは全く同じことを、デバッグに入った当時、ハドソンの若き俊英の一人だった杉本悟に質問されて、僕が答えた会話がそのまま答えになっている。
ちなみに杉本は、PC版のイースをプレイしたことがなかったので、デバッガとしてもとても役にたったわけだけど、こんな会話だった。

「杉本、お前は最初に最上階に行った時、どうした?」
「嬉しくてすぐにファクトの前行きましたよ」
「で、銀の装備つけてた?」
「つけてませんでした。バトル装備でした」
「まあ当たり前だよなあ。バトルのが強いもんな。それで、銀の装備なしでは…って言われたんだろ? どうだった?」
「うわー俺、バカって思いました。言われたのに!って」
「負けるよなあ」
「負けました」
「そこでね、君の操るアドルの人生は終わってるの。本来ならさ『俺、バカーッ!』って言いながら、アドルは死んでいったんだよ。終わってるの
「ゲームオーバーってのは、君のアドルにとっての話で、本当はイースの世界は、それが現実だとしたら続いているはずなんだよ。で、ダルク・ファクトが邪魔者はいなくなった、俺が世界の支配者だ! とかいって、ウハウハしているはずなんだよ。コンティニューしたアドルはさ、それはキャラクタに人生があるとしたら、平行世界のアドルなのさ」
「それにさ、2回目は間抜けなヤツめ!と思えるから、優越感あるだろ?」
「あーはい」

もちろん、この通りの会話をしたわけではないが、これがゲーム論的な答えだ。
RPGの原理的な構造から考えれば、アドルが死んだ瞬間、そのイースの世界でのアドルの人生は終わっている。だからネタバレをしても構わない。それを聞いて「今度は銀の装備をつけよう」と思っているプレイヤーは神の立場に立っている、その世界の住人ではないモノというわけだ。

ところで、本来なら音声トラックを2トラック用意して「ど、どうして銀の装備を!」と「どうせ…」の2種類を用意するべきだったが、今までのこのシリーズをお読みのみなさんなら、わかっているだろうが、もちろんCD音源はメインメモリと並んで重要な資源だったので、残念ながら2つのトラックを用意するのは無理だった。
なんとも無念なことである。
|| 00:41 | comments (8) | trackback (0) | ||
 
1989年8月 - 不思議なメッセージ
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかく8-9月ともなると、ゲームの制作は最終段階に入りつつあった。

ザコ・ボスのバランスの調整、山根の書いてくるビジュアルデータを入れる - まだ8-9月あたりでは、エンディングとインターミッション(1と2の間のデモ)は完成していなかっし、エンディングも出来ていなかった - さらにテキストの直し、バランスの取り直し・ボスの作成、デバッグとてんてこまいだった。

正直、どれだけ人手があっても足りない状況で、僕は長山豊というハドソンにいた男をとっ掴まえて、テキストの直しを手伝ってもらうことにした。
スタッフロールのシナリオ再構成のところに名前が入っているスタッフだが、8月あたりから後、実質フルタイムで手伝ってもらったメンバーの一人だ。
スタッフロールに載っている人達は、当たり前のことながら全員仕事はしてもらっているわけだが、仕事量にはずいぶんばらつきはある。
例えばビジュアルの人手が足りなくて、久保君やらに無理矢理手伝ってもらったりしてはいたが、これはあくまで一時的に片手間で手伝ってもらったわけで、フルタイムで手伝ってもらったわけではない(アーティストは一時的に手伝ってもらった人は多い)。
フルタイムで手伝ってもらったのは、若い衆(芳賀・蛯名・佐橋・沢口・杉本)を除けば、途中からではあっても、長山君ぐらいだ。
【注】 ちなみに久保君は、クボキュウと呼ばれていたアーティストだが、自分の知っている中では、最もシャープなドットを置く2Dアーティストで、ドットだけなら山根よりすごいと思った。天外2でとっ捕まえて、一緒に仕事した。
あんまりドットがうまいもんで「ドットだけなら、山根よりうめえよな」と言ったら「失礼な! 俺の本当の実力を知りませんね、ゴー!」とか山根は言っていたが、本人もドットは久保君のほうが上だと思ってたようだ。



どうして長山君をとっつかまえてフルタイムで使ってもよかったのかというと、理由があった。
初めて彼を見てからしばらくの間、どうしてハドソンにいるのか、さっぱりわからない男だった。企画でもなければコード屋でもグラフィック屋でもなく、どのプロジェクトに参加しているわけでもなく、たまにデバッグを手伝っているぐらいで、しかも机の上には、山のように江戸時代の資料が置かれ、毎日それと格闘していた。
あまりに不思議だったので聞いてみると、当時、ハドソンの社長(SLの趣味で有名だった)が江戸時代のゲーム、それも考証のしっかりしたゲームを作りたがっていて、江戸時代を研究していた彼を採用し、社長プロジェクトの責任者に据えた…というわけだった。
ところがいうまでもなく、当時のハドソンはPCエンジンCDの立ち上げで社内のリソースも信頼できる外注も目一杯に使われていて、社長の趣味のような、売れるかどうか分からないゲームにリソースを割り当てる余裕などなく、彼はいわば社長ゲームの準備をしながら、雑用小間使いをしていたわけだ。
で、イースでも雑用でコマゴマと手伝ってもらっていたので、結構仲良くなっていたのに加え、彼は文章とか書けそうだったし(ハドソンで企画以外で文章を書けそうな数少ない人間だった)、前述した理由で基本ヒマのは知っていたので「イースのテキストの直しが多くて、苦労しているから、暇見て、直し手伝ってくれないかなあ」と振ったところ「いいですよ…というか、やりたいです」と非常にやる気な返事だったので、当時、技術の直接の管理のトップ(課長だったはず)だった、ヘクターこと小山さんにお願いしたら「使ってやってください」で、使えるようになったわけだ。
【注】 ヘクターという名前でオールドゲーマーなら気がつくだろうが、ハドソンの87年のキャラバンソフト、ファミコンのシューティング"Hector 87"は、小山さんのあだ名が「ヘクター」でメインプログラマだったのでついたタイトルだ。
間違ってはいけないがHector 87を作ったから、あだ名が「ヘクター」になったのではない。驚くべき事にあだ名がそのまま正式ゲーム名になってしまったのだ。

余談を書くと、長山君は、なんと、このイースが縁となってイースチームのアーティスト、イトマキと結婚
それだけでもビックリだが、そのあと、長山君はイースIVのシナリオを手がけて、しかも、このハドソン版イースIVは、1・2で若い衆と僕が呼んでいて、このシリーズで何度も出てきている蝦名や芳賀がメインプログラムを作っているのだから、二重にビックリだ。
そして、長山君はIVのあと、天外の第4の黙示録とかそこらへんのシナリオをやり、ハドソンの中でメインのシナリオライターになった挙げ句、退社してフリーのシナリオライターになってしまった。
今でもシナリオをやっているらしいので、なんとも嬉しい話だ。

と、余談はさておいて、本題に話を戻すと、どうしてイースのテキストを直すのに、手伝いが必要なほど苦労していたのかというと、2つの理由がある。
一つめの理由はイース1のテキストはオールカタカナだということ。
イース1では漢字仮名交じり文ではなく、オールカタカナで書かれており、カタカナをひらがなにするのは自動で出来るが、ひらがなを漢字の熟語にするのは自動では出来ない。つまりイース1の全てのセリフ(ただし音声のセリフだけは先に完成していたけど)を漢字かな交じり文にするために苦労していたわけだ。
【注】 パソコンなのになんで…と思う人多いだろうが、当時のPCは漢字はフォントパターンをROMで持っていて、しかも別売で、なおかつ第一水準と第二水準は別なのが当たり前だった。漢字ROMが標準で搭載されるようになったのは、まさにこのイースが発売される前後だった。だから、87年より前のゲームでは、たいていのパソコンゲームは「カタカナ」もしくは「ひらがな」のみのテキストだ。
追記。イース1のメッセージは「ひらがな+カタカナ」だったと言われたので、調べたら確かにそうでした。ただソースのレベルではオールカタカナでシフトコードでカタカナを表記する方式だったので、ソース上ではオールカタカナだったのです。

もう一つが表示可能なテキスト量の違い
イース1では漢字仮名交じり文にするだけで長さがまるで変ってしまうので、いずれにしても全面調整せざるを得なかったが、実は漢字仮名交じり文だったイース2にも問題があった。
PC版は640x200の画面に16ドットの漢字フォントで表示し、両側に漢字2文字ずつ分の意匠枠がついている状態。つまり、ウィンドウの枠などを無視して表示すると36文字の漢字かな交じり文のテキストが表示できることになる。それに対してPCエンジンでは、12ドットのフォントを使って320ドットで表示。320/12=26.7文字の表示領域しかない。しかも両側に16ドット、すなわち32ドット=漢字2.5文字分の意匠枠があるので、約24文字しか表示できない。
つまりオリジナルそのままのテキストでは横幅がパンクしたり、長すぎて複数ページに渡ったりという事態が頻発してしまうのだ。
メッセージウィンドウが複数にわたる(ボタンを押すたびに新しいウィンドウが表示されるということ)のは、出来るかぎり避けたかったので、オリジナルのテキストを文意を変えずに縮め、改行を調整していたのだが、イース2には膨大な量のテキストがあり、これの手直しが一人だとちょっと無理な雰囲気になっていたので、アシスタントとして長山君を捕まえたわけだ。
全く、彼なしにはイースのテキストを全部直すのは無理だったろう、と思う。
【注】 イース2ではテレパシーの魔法を使うことでモンスターと会話をすることが出来る。これがキーになっている謎も沢山あるのだが、言い換えると全てのモンスターにセリフがある。割り当てのルールは簡単で一つのモンスター発生ポイントから登場するモンスターに一つのセリフだった。

と、そんなこんなで長山君とテキストを直していたわけだが、ある日長山君がやってきて、僕に聞いた。
「岩崎さん、サルモン神殿の門番なんですが、こんなメッセージ読んだことあります?」
といって、見せてくれたのが
「Zzz。門番は眠りこけていて起きない」
という内容のメッセージ。
「なんだこりゃ? 見たことないぞ…?」
周辺のスタッフ誰に聞いても、一度も見たことがない。ソースを見るとフラグチェックはしていてフラグが立っていたら表示するのだが、そのフラグもまた見たことがない。こういう不思議な事は、解析マスターのHaHi君に聞くに限る。
というわけで--
「HaHi君~こんなメッセージ読んだことないんだけどさ、このフラグ、どこで立つのかね?」
しばらくソースを眺めたHaHi君。
「僕もわかんないな、ちょっと調べてみるよ」

…数時間後だったと記憶しているけれど、HaHi君が喜色満面で僕にいった。
「岩崎さん! わかったよ、このフラグ!」
「なんなの?」
「これはね、プロテクトなの!」
「え?」
「あのね、コピープロテクトに引っかかると、このフラグが立つんだよ。で、コピーでプレイしていると、サルモン神殿のここまで来て、門番が絶対に起きなくなるというわけ! つまりコピーで遊んでいると、このいいところから先、絶対に進まなくなるんだけど理由はわからない、というわけなんだよ!」
「なるほど! じゃあ削除してもいいわけだ!」
「そりゃうちらにはコピー問題ないもんね」


…と、今のコンソールのコピーの蔓延ぶりからすれば、思わず苦笑いしてしまうようなシメで、このメッセージは削除されたわけだが、今、コンソールでも同じようにコピーに悩まされ、コピー対策として、まるで同じような処理が入っているのだから、なんとも皮肉だ。
そして、このようなコピー対策をしないと話にならない市場…というのは不幸だと思ってしまうのだった。
|| 19:34 | comments (0) | trackback (0) | ||
 
1989年9月 - どっちがヒロインなのよ?
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかくこのあたりで作っていたパート、エンディングに関してだ。
イース1・2のエンディングはゲームのお話の終わりになっているビジュアルとスタッフロールの2段階になっているが、今回ネタにするのは、前者のほう。僕は前者をエンディング、後者をグランド・フィナーレとか呼んでいた。
これまた物議をかもして、21年前のゲームなのに、いまだもってこれがあるから許せないとか語る人が多いエンディングにまつわる話だ。

コンテはむろん言うまでもなく、あの山根ともおの作品だが、ほぼ山根に勝手にやらせたコンテだが、エンディングについては僕からの指定が2つあった。
一つめがPC版のエンディングの絵は全部いれること。つまりPC版のエンディングの絵が全部入っているコンテを書いてくれ、ということ。
ただしこれは山根は1枚だけ絵を切ってしまった。
それはフィーナが「お別れです」という1枚絵なのだが、山根は「「お別れはその前の二人だけのシーンで終わっているのに、もう一度お別れですというのは意味がない(ゴー)」と主張し、僕も「ああ、それは納得がいく」ということで削除になった。
【注】 この「お別れです」の代わりに玉が降りてくるシーンを山根は入れた。最初は乳首を書いてて「見えないからいいじゃないっすかゴー」とかいってたが、全くメモリの余力がなく、見えやしない乳首は抹殺された(笑)。


2つ目が、絵に関すること。
バギュ=バデット、つまり空に飛んだあとのイースの穴にもう一度イースが着陸している絵を入れてくれってことだ。


これにははっきりと理由があった。
オリジナルのPC版では、一度もどこでもイラスト化されておらず、プレイヤーの頭の中でイメージできてないかも知れないと思い、僕としてはそこをはっきりこうなったんだよと教えたかったということだ。
もちろんシナリオ中で「イースが地上に近づいているっぽい」と散々言われるし、中枢にゴーバンとルタ・ジェンマがいるのだからもちろん地上に降りているのは明白なのだが、(中枢に入ったフラグをたてた後)鐘つき堂に行かないと、ゴーバンとルタ・ジェンマのセリフ以外に地上に降りている、ということはわからない。
山根は「中枢から廃坑に出られて、地上に出られるようにして欲しいんすよ、ゴー」とか、めちゃめちゃナメたことを言っていたのだが、残念ながらメモリ容量の不足により、そんなん絶対無理だった。
次善の策として、進藤に「中枢の女神の部屋とバジュリオンの場所が繋がっていて、崩れているってマップにしてくれ」と要望を出していたのだが、なんせ時間も押していたし、ヘタにそういうところをオリジナルから変えると、ファルコムから何を言われるか分からないって問題もあったので、あきらめることにした。
いずれにしてもゲーム中でバギュ=バデットにどんな風にハマっているのかというのはもちろんおぼろげに想像はつくが、イラストにされていたことは一度もなかったので、それを入れてくれ、と要求したわけだ。
しかしまあ、山根のバカがまさか斜めにスクロールするバカでかい絵を書いてくるとは想像もしておらず、しかも形の都合上、キャラは縮まないし圧縮は効かないしで、泣くほどメモリがきつくなって、見えないところは1キャラたりとも残してやらない! という勢いで削りまくったのは…まるでいい思い出じゃないな(笑)
【注】 正確には全くイラスト化されていないわけではなく、若干それっぽいイラストはあるが、端のほうにチラっと見えているだけなので、よくわからない、が正しい。
また、今から考えれば、バジュリオンの部屋に繋がっているのは、突っ張ってやるべきだったと思っている。とはいっても中枢は結構広いマップで、キャラも使ってメモリもなかったし、時間もきつかったし、入れろと言っても入れられなかった可能性は大きいが


ところで苦労して入れた全景だが、めっちゃぶっちゃけた話を書くと、当時から思っていたし、今でもそう思うけど、着地したときジグゾーパズルみたいにうまくはまるわけがない。空飛んでいるほうは魔法の力に守られていたんだろうからまだしも、地上のほうは数百年経っているわけで、侵食でガタガタだろうし、元のマニュアルのイラストでは森もあったしで、もう別物だ。
それに、空に飛んだときどういう風に切れたんだとか、突っ込みどころは満載もいいところで、山根の書いたイラストほどきれいにはまるわけがないのだが、そこらへんについては笑って許すのが大人というものだろう。
ついでに書くなら800年空飛んでいたとして、高度どんだけを飛んでいたのかしらないが、雨が降らないとまずいとか、空気薄すぎはまずいと考えると、せいぜい3000メートルかそのあたりだろう。いずれにしても空を飛んでいる限りは補給は基本的に水以外なかったと考えるべきだろう。
そう考えたとき、イースのみなさまのエコシステムはせいぜい数キロ弱しかない完全な閉鎖系で生き延びられるのかとか、いる人間の数から考えて、近親相姦してたんじゃないかとか、真剣に考えると疑問の嵐が噴出してくるわけだが、まあそういうものはみんな忘れるのがベストだろう。

さて、前述の2点以外は別になんの注文もしなかったエンディングだが、山根が書いてきたコンテを見て、正直ぶっ飛んだ。なんせ、どーみても最後にリリアとキスしてるコンテだ、シャレになってないぞと思って、僕は聞いた。
「なあ山根、キスはまずくね?」
「いやーアングル的には微妙っしょ! キスしてるかどうかはプレイヤーのみなさんにお任せって事で…ゴー」
「…ところでさ、キスさせてるってことはリリアがヒロインなわけ? 話的にはフィーナじゃないの? どっちがヒロインなんだよ?
「いやーまあヒロインはね、どっちもなんですよ。ただ宮さん(宮崎君のことを山根はこう呼んでいた)は、フィーナだ言ってましてね」
と煮え切らない山根。
「まあ、イースはフィーナ…というか女神の話だしな。でもじゃあなんで2でリリア出したんだ?
橋本さんがですね、新しい作品には新しいヒロインだろ? とか言いやがってですね、宮さんは結構反対したんですけど、俺はアニメでオープニングやりかったんで、大賛成で、ゴー」
「ま、人気あんのはリリアの方だけどさ…
「フィーナは女神様だし、石になっちゃったし、はっきりさせちゃっていいかなあと思いまして。それにさっき言ったとおり、キスしてるかはわからないじゃないっしょ!」
「じゃ、これでいくからね…ところで、山根はキスしたことあんのかい?
「失敬な、俺はもてるんですよ! ゴー!」

と言っていたが、僕はこの当時、山根という男は多分、女の子とちゃんとつきあったことは一度もなかったんじゃないかなあ、なんて思ってる(笑)
と、まあ、こんな風にリリアとアドルはキスをすることになった(どうみたってキスしてるだろ)が、作っていたときは、既に3を見ていたのもあって、シリーズ1作ごとにマドンナが現れる、まるで寅さん状態になっているのはわかっていたが、まさか以降もシリーズが連綿と続き、一作ごとにヒロインが登場するスタイルが踏襲されるとは、さすがに想像もしていなかった。

ところで、当時、山根には言わなかったことがある。
21年経った今だから、あえて書くと、イース1・2を作ったとき、山根がリリアとひっつけたのは、疑いもなく山根にとっては間違いなくリリアがイースのヒロインで、それを正式なヒロインの座につけたかったからキスをさせた…と僕は思っている。
一見、山根の話は筋は通っている。フィーナは女神で、リリアは人間で、フィーナとはひっつきようがない。しかも当時、リリアの人気はミス・リリア(杉本理恵さん)なんて子までデビューするほどの絶頂期だ。
だが、だからといってアドルをリリアとひっつけなければならない理由はどこにもない。フィーナとひっつかないから、リリアとひっつけなければいけません、なんてことはサラサラ、カケラもない。
だいたい宮崎君の書いたイースの根本的なストーリーは、山根が何を言おうが、疑いもなくフィーナとアドルの悲恋の物語で、イースと神官と女神に何が起こったかを知る物語だ。いくら人気があるとはいえ、第二部から登場した、狂言回し程度の役目しか持っていないヒロインと最後にキスをさせるのは、あまりにいただけないし、そんな事は山根は百も承知だったはずだ。
【注】 だいたい、シナリオ的な話をするなら、リリアはまるでいらないキャラクタだ。なしでもなんの問題もなく話を作ることが出来るし、ランスの村にずっといて「アドルさん…ありがとう」といわせておいて、全く問題ない。鳥にさらわれてサルモン神殿まで来た挙句に、地下水路にいて、そのあと理由も全くなく、チャッカリと神官の子孫たちと一緒にイース中枢にいるなんて、それこそご都合主義でムチャクチャで、しょせんは脇役の範囲のキャラであるはずなのだ


ではなぜ? というと、山根の立場に尽きると思う。
山根には、イースを宮崎・橋本コンビではなく、自分も作ったし、2で大人気になったのは、自分のアニメだという自負とプライドがあったが、イースで取り上げられるのは常に宮崎・橋本コンビであり、また音楽をやった古代君であり、山根にスポットライトが当たったとは言い難い(もちろん当たっていないわけではない)。
当時、あれほどのオープニングを1人で作ったにも関わらず、メディア大賞はファルコムに与えられただけで、山根個人の栄冠と呼べるものは、会社(ファルコム)からはついに与えられなかった。
また"to make the end of battle"を作曲した古代君はまさに激賞され、以降、ゲームミュージックのスター街道を歩んでいくことになるが、山根にはそのような栄冠がくることはついになかった。
それは彼と仕事をしている間、ずっと感じていたことだった。
当時、グラフィックアーティストの立場は、今の業界からは想像もつかないほど低かった。明らかに山根は天才的な能力を持っていて、しかも企画としても結構イケていたし、宮崎・橋本と一緒にイースを作ったのは間違いないのに、彼にはあまりスポットライトが当たったとは言い難い。(僕は、疑いもなく彼は掛け値なしの天才だったし、仕事をした中では最高のドット屋の一人だったと思っている)、
その、少し鬱屈したプライドがラストシーンに結実したのだろうと当時思ったし、今でもそのとき感じたことは間違いないと思っている。
だから、山根は(山根が生み出した)リリアを正式のヒロインに置きたくて、キスシーンを置いたのだろうと思ったが、反面、彼は当然全体を通してのシナリオを理解していて、イースは結局女神と神官とアドルの話だと分かっていたから、最後のカットでもリリアとキスしているか曖昧にしたのだろう。
実際、茶化したが、当時、もし最後のカットがアドルとリリアのドアップでキスしてたら、僕はそのコンテは拒否して書き直せといったと思う。あくまで微妙な、どうみてもキスしてるだろ…と思いながらも確信出来ない絵だから、許せたわけだ。

そういうわけで1・2のエンディングは、イースの人気を作った一角は俺も担っているという自負のあった山根が、リリアをメインに置きたくて作ったエンディングだった…と僕は今でも思っているわけ。

【注】 全くの余談だが、イース1・2を作った後、1990年になって、海外版の1・2を作るためにハドソンに戻る少し前、なんと僕がいた東高円寺のボロ部屋に電話がかかってきて、立川のファルコムに来いと言われた。
確かに移植した後、なんの連絡もしてなかったので義理を欠いていたから、なんか文句言われるのかとビビりながらファルコムにいったら、そこにいたのはデビュー寸前のミス・リリアこと杉本理恵さん。アイドルに興味ゼロの僕に握手などさせ、サイン入りの色紙やらCDやら大量にもらった。
アイドルと呼ばれる人と話をしたのは、斉藤由貴さんと並んで二人目だったのだが、まあアイドルというのはとんでもなくかわいい女の子だなあ、というのが印象に残っている。
余談の余談だが、どうして斉藤由貴さんと話をしたことがあるのかというと、これがNECが発売していたパソコン、PC8801MAのおかげ。これもひどい話なのだが、時効だと思うので、そのうち一度書いてみたいと思っている(笑)

|| 18:53 | comments (8) | trackback (0) | ||
 
1989年9月 - 微調整と最後のバランス
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

9月も後半になると、イースは本格的なデバッグ体制に入っていた。ほとんどすべてのマップ・イベント・(スタッフロールだけはまだ作っていなかった)が入り、デバッグ&バランス調整の最終段階に入っていた。

このころになると、中本さんがデバッグに入って細かな穴が見えるようになっていた。ぶっちゃけるなら最後まで遊べるようになったところで、自分も遊ぶべぇって話だが、もちろん何も知らない初プレイの人ってのは凄く大事で、結構決定的なモノを見つけてくれる。
「岩崎ぃ! 2のボスが倒せないべやあ!」
なんてセリフのが、その一つだ。
イース1ではボスは体当たりで倒すもので、イース2ではファイアの魔法で倒すもの(違うボスが2匹ほどいるが)だが、イース2では誰も魔法の使い方を教えないし(もともとのPC版ではマニュアルに書いてある)、誰も「ボスにはファイアの魔法しか通用しない」なんて言わない。しかもマズいことにザコは別にファイアの魔法でなくてもイース1と同じように倒せてしまう。
つまり、ファイアの魔法をとっても使い方が分からないし、ボスはファイアの魔法でなければ倒せないこともわからないわけだ。
まあ使い方のほうはメニューで選択すりゃ、ボタンも押してみるだろうし、ボタン押せばファイアが飛び出すんだし、マニュアルにも書かれているんだからなんとかなるだろう…ということにして、ボスをファイアの魔法以外で倒せないってことを教えるために、神官の像に「勇者よ、魔法でなければ巨大な怪物を倒すことは出来ない」などといわせることで切り抜けた。ところで「勇者よ…」という言い方はあまり好きじゃないのだが、イース2では導きの巻物とか結構「勇者よ」って書いてあったりする。
【注】ところで中本さんのセリフには「べぇ」が入っているのは、中本さんは北海道弁の人であり「だべさ」と「べぇ」は、北海道で最も聞く語尾…少なくとも1988-92にはそうだったので、僕は死ぬほど聞いた。
使い方としては「岩崎ぃ、酒飲みにいくべぇ!」、「これはバグだべさ」、「そんなんだめだべさー」と、こんな感じ。


当たり前のことだが、9月ともなれば(ビジュアルシーンのような固定されたものを除いて)細かい作業でないといけないわけだが、ともかく様々なデバッグや細かい付け加えなどをしていた。
それに平行して「オリジナルにあって、PCエンジン版に無いもの」がないかを洗い出す作業をしているうちに見つけて悩んだのがジラの家でコメントアウトされているソースだった。
知らない人のために説明しておくと、ジラの家はイース2の一番最初の基地になるランスの村にある家で「地下室から夜な夜な気持ちの悪い音がする」とか言われ、地下室に入り、イカニモなアイテム「悪霊の鈴」を鳴らすと壁を破ってドサ~~~ッとモンスターが現れ、その先には落盤でいけなかった神官の像があるって場所だ。
だいたい、そんなところでそんなもん手に持って鳴らすな、とか思うが、それはともかくとして、初めてイベントを見るととてもビックリして、最初のうちは非常に危険な場所であると同時に、ある程度レベルが上がると、大変に効率のいい経験値稼ぎの場になるという、とてもよく出来た場所になっている。
そして経験値が1になっても、最後までここで稼ぎ倒して、レベル最高にして挑む人が非常に多い超メジャー経験値稼ぎの場だったわけだが、ここのソースを読んだとき、びっくりした。
サルモン神殿で銀のペンダントを手に入れると、ジラが「君のおかげで地下室のモンスターは退治できたよ」と言って、地下室に入れなくなってしまう…というソースがコメントアウトされていたのだ。
これを復活させるかは、かなり迷った。というのも、デバッグしていて、結局、みんなジラの家で経験値を稼いでレベルを上げ倒してしまうからだ。ならば、そうしてしまうほうがいいのではないか…と考えたが、結局、止めた。
というのもだ、これは多分、結局、オリジナルのスタッフも同じ思考をたどったと思うのだが(後半戦のフラグをチェックしているということは、デバッグでもプレイして、結局コメントアウトしたんだと思うので)、仮にコメントアウトせずに実際に使えなくしたとしよう。そうすると、経験値を稼ごうと思ってきたのに(突然)稼げなくなったことになる。
そして経験値を稼ごうとしたということは、ボスに負けた・きつく感じたといった理由だ。その状況で、いきなり使えなくなるというのは理不尽以外の何者でもない。
また仮にセーブデータがあったら、それに戻ってレベル最大まで上げちゃうだろう。そして、当然レベル最大まで稼ぐだろう。それはバランスとしてどうよ、という話になる。
つまり「いつでも使えるからこそ、逆に適当な所で使うのを止めて、負けると使う…を繰り返すのだ」という判断だ。
次に経験値は最後にはすべてのザコが1になるように出来ている。そこで1000単位の経験値を稼ぐなら、どう考えても一番楽なのがジラの家で、これを潰すのはやはり理不尽だ。
だから、コメントアウトしたのだろうし、僕もこのイベントは復活させないことにした。

また、このころはダームだのボスのバランス&演出に集中していた時期でもあるのだが、ちょうどこの時期に付け加えた大きなパートがダームとの最終決戦で橋が落ちる。最初から案としてはあったが、間に合うかどうかわからなかったのが、間に合うと確信できたので入れたイベント。
もともとのPC版では、ドアを開けるとダームがいてセリフしゃべって、最終決戦で全くなにも演出がなかったので、ここに橋を入れてくれ、と進藤に頼んだのがソレ。
ドアを開けると真っ暗で、橋が一本あり、アドルが走っていくに従って橋に稲妻が落ち、どんどんと落ちて消えていく。そして橋の先にはバトルステージがあり、ダームが待っている…という仕掛け。
底なしの穴の上を走っていく雰囲気を出したかったのだが、イマイチ自分のイメージとは違う感じになってしまった。
イメージのモチーフは銀河鉄道999の最後の機械化母星がバラけてくシーンだったが、底なしの雰囲気がうまく出なかった。当時はどうすりゃいいかわからなかったがVRAMは少し余裕あったはずだから、今から考えれば、底に薄暗く青い光とかあれば、深さがもっとイメージできたのにと自分の演出力のなさにがっかりしてしまう。
全くの余談だが、銀河鉄道999は、高校時代に見たときは面白い映画だと思っていたのだが、時が経ってから見ると、実に散漫な構成の映画でびっくりしてしまった。映画を沢山見ることから来る「目の肥え」というヤツは結構怖いものだ。
どうしてこの演出入れたのかというと、ともかくPC版で衝撃的だったのが最終決戦で背景が炎になってアニメした瞬間だった。オープニングどころではなく、本当には腰を抜かした。実はハドソンの開発で一番最初にエンディングに到達が自分だったのもあって、その瞬間、後ろで見ていたギャラリーから「おおー!」という声が起こったほどだ
だが、反面、このシーンの手前が弱いと思っていた。なんせ普通のボス扉を開けるとふつーのボスルームがあって、そこで偉そうなセリフを言って、突然炎。これじゃ、あまりにタメがなくてもったいない…というわけで作ったわけだ。
いろいろな都合上「負けるといちいち橋が落ちるよ?」とHaHi君に言われたのだが、そこについては目をつぶることにした。なんもないよりは絶対にいいと思っていたし、数秒の演出だ。

ところでダームに関係したことで、21年の間、誰も書いたのをみたことがない演出について、一つ触れておきたい。
ダーム戦ではHaHi君が考えた演出が一つ入っている
それは背景でアニメする炎の色がダームのHPに応じて変化していくというもの。最初は赤い炎がHPが減っていくに従って青くなっていく。
ある日、HaHi君が「こんなんやったんよ、岩崎さん」って言って見せてくれた。カッコイイしやってもらってまるで良かったが、当時「戦闘に必死で後ろを見る余裕はないと思うんだよね」と言っていたのだが、予想が当たってしまった。
21年経っても誰も触れたのを見たことが無いので、ここで書いておく。戦闘時の炎の色が変わっていくのはHaHi君のオリジナルである

そしてダーム戦で、一番悩んだのがバランスだった。
というのも、レベルを最大まで上げればさくま先生や桝田さんでもクリアできて、なおかつ低いレベルでは歯ごたえあるバトルを楽しめる…そういうバランスを作るためには、ダームにどういうパラメータを設定すれば思いつかず、毎日四苦八苦していたのだが、ある日、スゴいインチキなアイディアを思いつき、一気に解決した。
1)自分のバランスでは54以下では実質的にダレスを倒すことはできない(イースでは=与えられるダメージ=自分の攻撃力-敵の防御力で、これが0以下になるとダメージを与えることが出来ない)。
2)言い換えるなら、ダームと戦うのは55,56,57,58,59,60,61の6レベル。
3)ダームと戦うときの装備は盾と魔法を除けば実質固定。違う装備は即死で構わないレベル(だいたいクレリアソード以外では当たり判定がでない)。
結論:
6レベル分の戦闘用の特別なテーブルを用意して、アドルのレベルに応じて参照すれば、こちらの思った通りのバランスを作ることが出来る。
というわけで、以下はイース1・2の恐るべき(笑)秘密。
1)ダームとの最終決戦では実はアドルのレベル以外なにも見ていない。
2)アドルのレベルで、ダームに「どれだけダメージを与えるか」と「どれだけのダメージを受けるか」が決まる。攻撃力とか防御力は関係ない。
3)クレリアソードでなければ、与えるダメージは自動的に0
4)クレリアアーマーでなければ、ダメージ大幅アップ
5)クレリアシールドでなければ、ダメージ大幅アップ
つまり、PCエンジン版イースでは、ダームとのバトルではレベルと装備しか見ていなかったわけだ。
インチキといわばいえ。だが、ゲームは面白いことが絶対の正義で、それ以外はどうでもいい。こういうのが演出というものだ、と僕は言いたい。
そして、こうすることによってレベル61…つまり99999で、圧倒的に強いアドルを作ることが出来、さくま先生だろうが、桝田さんだろうがクリア出来る、と確信する強さに出来たのだった。

イースはもう完成寸前だった。
|| 23:03 | comments (3) | trackback (0) | ||
 
1989年10月 - 頭に来たスタッフロール
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

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この本名だらけのシリーズでHaHi君とハドソンの営業担当Zだけが、なぜ名前が伏せられているのか?
このシリーズが基本的に本名で書かれている理由は、イースのスタッフロールが本名だからだ。スタッフロールが本名なのにグラフィックチーフの進藤と書かずにグラフィックのSと書いても意味はない
もちろん、Sではなくグラフィックの●とかにすりゃ仮名の意味では出てくるが、一緒に作ってくれたスタッフに感謝しているのに仮名では、それこそスタッフに失礼ではないか。
山根やファルコムのくだりは結構ナマナマしい話だし、会社同士の関係もあったから、21年前に本名と実際の会社の名前で書いていたら問題になったかも知れないが、今は21年後であり、もう過去の話である。いまさら山根のことに怒る人もいるまい。

つまり、イースを作ったメンバーはスタッフロールで満天下に本名を出しており、そして仕事のクオリティはとても高かったと僕は思っているので、本名で書いているわけだ。
ところで、当時はゲームのエンディングまで行き着いたとき、まずスタッフロールは出たり出なかったりで、誰が作ったのかすらわからないことが多かった。
さらに仮に出てもぴょんきちだのガッツ.アンパンだの、ふざけた名前のが並ぶことが多かった。
これは大手ではスタッフの引抜きを警戒したから名前を出させてくれなかった…なんて話を聞いたことがあるが、僕はこれが本当かどうか知らない。少なくともハドソンでは「会社としてペンネームでなければ困る」と要望されたことはない
ただ、デビュー作、凄ノ王伝説ではハドソンのスタッフの一部に仮名を使っている。スタッフロールを作るとき名前を確認した記憶があり、そのときペンネームで…みたいなことを言われたので「なんとなく名前を出すのが恥ずかしい」みたいな風潮があったのかも知れない。
【注】当たり前のことながら、当時、僕はフリーで、名前を売らないと話にならないのだから一生懸命本名を書いた。このとき、ペンネームを考えたこともあったのだが、どうにもいいペンネームを思いつかず、結局本名のままになっている。
僕はキャラクタの名前を考えるのが大変に下手で、今作っているゲームでも、スタッフ、名前については「かっこ悪い」だの「ダメ」だのボロクソ。なんだかいい名前を作る才能が欲しいと思ってしまう。


というわけで、当時のハドソンではゲームに載せるスタッフ名は仮名でも本名でもよかったわけだが、イースのスタッフロールがほぼ本名な理由は2つある。
一つが、ハドソンが出すゲームのスタッフロールが急速に本名に変わりつつあったこと。もう一つが自分の考え方だ。

まずハドソンの話からすると、PCエンジンにCDROMが登場したとき、スタッフが大幅に増えた。当たり前だが、声優さんがスタッフに入ってきたり、社内だけでない協力の会社がグラフィック・録音スタジオ・芸能プロダクション・声優プロダクションなどの形で増えたりして、ともかく一気にスタッフの数が増えた。
88年ごろのゲームは先ほど書いたとおり、スタッフロールもあったりなかったりだったが、CDROMのソフトでは、声優さんや協力プロダクションはどこかに出さなければいろいろとよろしくない。だからスタッフロール(もしくはそれに近いモノ)もほぼ標準になった。
そして、そのスタッフロールで外部協力の人は当たり前のことながら、本名もしくは知られたペンネームで記載されるのが当たり前で、CDROMシステムには漢字フォントが搭載されており、スタッフロールに漢字を表示するのが簡単だった。
だからスタッフロールでは銀河万丈さんとか、広井王子さんとか、いずれも知られた芸名(ペンネーム)で、漢字で表記されることになった。
ここで「ぴょんきち→銀河万丈」では、あまりにバランスが悪いのは確かで、それよりは「中本伸一→銀河万丈」の方が、バランスがいいのは確かだろう。
つまりCDROMソフトの製作によって、スタッフロールには本名を使う方が都合がよくなりつつあった、ということだ。

では自分の考え方とは何だったかというと、イースの時にははっきりしていて、スタッフロールは、本名もしくは長く使う予定の芸名を基本とするというものだ。
というのも、ゲームを作ったスタッフがスタッフロールに名前を載せるのは「僕はこのゲームを作るメンバーとして作品に関わったということを示す権利であると同時に義務である」と考えるようになっていたからだ(これは今も変わらない)。
権利は当たり前のことながら自分はこのゲームに関わったコトを示す権利であり、義務は「自分はこのゲームの責任の一端を担います」という意味だ。だから名前を出せない特別な場合を除けば、出来るだけ本名でというのが僕の考えであり、イースでも例外は声優さんを除けば2人しかいない(当たり前だが声優さんは芸名=本名だ)。
その例外の1人がHaHi君で、もう1人が山根ともお。
HaHi君はおよそあらゆるゲームでそうしてきたから、というのが理由で、山根については、ファルコムでイースを作っていた人間が入っているのがファルコムにとって気持ちいいわけがないので、ペンネームを用意させてもらった。これは、個人的には避けたかったのだが、致し方ないと思った。
と、まあ一部例外を除き、イース1・2では、ほぼ本名のスタッフロールを作れることになったわけだ。
【注】もちろん、この件の山根のように「名前を出せないゲーム」は存在する。
僕自身も、PCエンジンではスタッフとして関わったゲームで2本ほど名前の出ていないゲームがある。他にもPS1の3DシューティングだのRPGだのPS2のアクションだのに関わったことがあるが、当時メディアワークスの社員であり、名前を出してもらうわけにもいかなかった(名前を出すほどの仕事もしていないと思うが)。
友達に泣きつかれて会社に隠れて手伝ったとか(普通は業界他社だからかなりいただけない話だ)、パブリッシャーとデベロッパーの関係の都合上出せないとか、ともかくいろいろな理由で、仕事をしたゲームで名前を出せないというのは、それなりに経験を積んだゲーム開発者なら一度や二度はあるのが当たり前なのではなかろうか。

ところでスタッフロールは本当にプログラム的には一番最後に作っている。
天外2でもエメドラでも、ともかく関わった作品ではスタッフロールは最後に作る。これだけは絶対に曲げたことはない。
だいたいデバッグや修正はともかくとしてスタッフロールを作った後、なおかつ何かやることがいっぱいあるなんてイヤではないか。スタッフロールってのは「これ作ったら、あとはデバッグのみ!」という気持ちでウキウキしながら作るモンだと思っている。

また、とても評判が良かったスタッフロールの背景に出てくる、ルーやアドルやらフィーナやらのアニメーションだが、これはもともとは僕が「スタッフロールでNG集をやりたい」と言ったのから始まる。
当時、アクションスターとして全盛時代だったジャッキーチェンの映画の最後には良くNG集が入っていた。実に面白くて、その趣向が大好きだたので、ゲームでやってみたかったのだが、そのためだけにマップ作るとか、映画のカメラ作るとか、アーティストチームがブチ切れるような仕様を言ったのでお流れになった。
フィーナを助けようとしてこけるアドルとか、糸で釣ってあるボスとか、そういうチープなノリをやりたかったのだが、本物のNG集は撮影失敗のフィルムだが、こっちはNGをわざわざ作るキチガイざただ。作れるわけもなく、残念ながら諦めざるをえなかったが、少々進藤を恨む次第である。
で、その代わり…といってはなんだが、スタッフロールで次々とキャラクタが現れる…という作りにすることにした。
ここでバラすと、この2番手アイディアのスタッフロールは『謎の壁』(1986年・コナミ・ファミコンディスクシステム)『ガルフォース』(1986年・HAL研究所・ファミコンディスクシステム)のエンディングの合体版だったりする。興味がある人は検索して欲しい。
踊らせるように指示したのは僕で「最初にアドルとフィーナが出てきて踊り始める。そしたらあとは適当にアニメーションするから、ループアニメーションで回るようにして、最後にお辞儀するようにしろ」と簡単に指示をだしたら、大変にカッコいいアニメーションをイトマキが作ってくれた。
ところで、踊らせるように指示したのは僕だが、アドルとフィーナにしたのはイトマキだ。僕は、まあフィーナの方がふさわしいんだけど、アーティストの連中の好きにやらせようと思い「こういう仕様でやる。何をするかは任せるから、好きにアニメを作れ、割り当ても勝手にやってちょ、遊ぶのはいくら遊んでもいい」とだけ言ったら、イトマキが「アドルとフィーナがふさわしいと思う」といい、アドルとフィーナを踊らせることに決めてきた。
また、他のアニメについてちょっと書くと、踊るダルク・ファクトは確か百田のバカが書いたはずだし、ダレスはウリ坊、ドギは山口もとが…というように、もう呆れるほど好き勝手に遊んでくれた。今見ると、ヘボなのかも知れないが、とてもいいアニメーションを作ってくれたと思う。

と、ここまではタイトルの「頭にきた理由」がわからないだろう。

実は元のイース1・2のスタッフロールは、あの形ではなかった。

当たり前の事ながら、イースは原作つきのゲームであり、オリジナルスタッフがいる。でも、彼らはイース1・2を作っていたときは、すでにファルコムを辞めているわけで、スタッフロールには載せられないと考えるのが普通だ。
だけど、ハドソンは他の会社でファルコムの社内事情など知らないことになっている。そこで、僕はそれを利用して、ダメもとで「オリジナルのスタッフロールを一緒に掲載して良いか?」と質問を出した。

返事はZからやってきた。「オッケー」

正直、舞い上がった。信じられなかった。
それも当たり前だ。絶対無理だと思っていた。まるで知らない顔して質問したわけだが、ダメモトで質問しただけで、オリジナルのスタッフを掲載することが許されるわけがないと思ってた。
もう嬉しくて嬉しくてしょうがなくて、一気にスタッフロールを作った。
構成は工藤社長などが最初に出て(お金を出す人が一番偉いというルールが世の中にはアルンデスヨ)、次にオリジナルスタッフとして1と2のPC版を全部合わせたもの、そしてそのあと移植スタッフで、今のイースのスタッフのタイトルロール。

で、出来上がってもう大喜びで、僕は見せた。
「岩崎、これはダメだよ。オリジナルのスタッフを削ってくれ」とZは僕にいった。

いまだもって、どういうつもりで「オッケー」といい、そして、どういうつもりで「ダメだ」と言ったのか、僕には全く分からない。
ただ、信じられないほど頭にきたのを覚えている。
聞いた瞬間「ふざけんな」って大声で怒鳴って、即、仕事止めて、酒を飲みに行った記憶がある。
あくる日、あまりに頭に来たので、一度は、声優さん以外のスタッフは全部削除した版を作ったのも覚えている。
自分的に絶対に許せないと思ったので、だったら声優さん以外スタッフはなしでいい、と思った。HaHi君とか、進藤とかも、まあ僕があまり怒っていたせいか「しょうがないよね」って雰囲気だったのも良く覚えている。

それから2・3日本当に怒っていたけれど、考え直して、結局、今のスタッフロールを作ることにした。
確かに声優以外スタッフが載らないスタッフロールを作ると僕の気は晴れる。
だが、当たり前のことながら、スタッフロールに名前を載せるのはスタッフの権利なのに、それを僕のエゴイズムでハドソンのスタッフを全部削除しました、ではあまりにひどい。
それに仮にスタッフロールを削ると、僕はイースを移植していることも公表していたのだから、自分ひとりはイースを移植した人間として知られるが、他の人間は知られないことになり、これまた話しにならない。
Zのやらかしたことは、全くの裏切りだと思うが、だからといってスタッフを載せないというのは、僕のエゴイズムも度が過ぎると思い、作り直して、今のスタッフロールが完成した。

ただし、どうしてもZを僕は許すことはできなかった。
だから、僕は彼をスタッフロールから削除し、載せていない。
Zはスタッフロールに載っていないので、本名を出してない。だからこのシリーズでも仮名なわけだ。

なんといおうと、スタッフと言える範囲には限度があると思うのだ。
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1989年11月 - アフターカーニバル
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

みんながデバッグしているとき、僕はいつでもイヤな人になる。
というのも、作っているとき、徹底的に面白くなるように直していく。でも、それはあくまで自分の感覚でしかなく、実際に他の人間がプレイして面白く感じるかとは別だ。
目標として100人がプレイしたとき、全員が面白いのは無理だが、出来れば80人ぐらいは面白いと思って欲しい。だけど、それが他人のある程度の評価として実際に分かるのは、それなりにゲームが完成してプレイ出来る状態になってからだ。しかも本当にわかるのは、最初から最後まで遊ばれるデバッグの時だけと考えていい。
だからデバッグ期間は「自分が信じて作ってきたモノ」に対する最初の審判が行われる時間であると同時に「最後の調整が行える時間」でもあるわけだ。
だから僕は、デバッグの時、デバッガの不満をカケラも見落とししたくないので、延々と何時間も人がデバッグしている画面を後ろから覗いて、挙句に「面白い?」とか聞いて「面白いですよ」といわれれば、どこが面白いのか根掘り葉掘り聞き、つまらないと言われれば、やはり根掘り葉掘り聞く。
どう考えても、たまらなく面倒くさい人間だ。

そして延々とバランス調整とデバッグを繰り返した、四苦八苦のデバッグが終り、とうとうイースはマスターを出すことになった。10月マスター予定だったが、実際は間に合わず、1989年11月7日がマスターを入れる日付になった。

イースは72分もあったせいで、当時はCDRを使うことが出来ず、何枚もマスターを作ったので、バージョンヒストリーのようにCDを持っている。そして、中でも貴重品が、声優さんとミックスが行われていない曲が入ったバージョン。僕はこれをサウンドトラックと呼んでいる。



まあ年末商戦には発売できたから…いいということにしておきたいが、正直な話として、僕の関わったゲームが予定通りに発売できたことは、たったの一度しかない。なんだか、とてもダメな話で困ってしまうが、そんな情けない話はともかくとして、マスターを出して、焼き鳥屋で酒を飲んだ明くる日。
部屋にいたってやることもないので(だからといって、ハドソンに行ったってソースの整理とかしかやることはなかったわけだけど)、ブラブラと昼ぐらいにハドソンに行って、ソースの整理などしつつ、ファミコンの新作を遊びながら、マスターあとの打ち上げどうするべーなんて思っていると、そこに我らが俊英、杉本悟がやってきた。
「岩崎さん、すみません」
「なに?」
「バグ見つけたんですが…」
「エ~~~~~~~ッ!?」

症状を聞いて、即調べたHaHi君はソースを開き、調べるとあっというまに理由を特定した。
「岩崎さん、理由わかったよ!」
「なんなの?」
「カウンタがさ、リターンの魔法で使うワークとかぶってるんだよ。でリターンの魔法を起動して選んだ町の番号が上書きされちゃうから、どこ飛ぶかわからないんだよね」
「わはは、こりゃー見つからなかったわけだ」
「岩崎さん、えーとマスター焼きますか?」
「なあ、杉本…マスター出しちゃったから、直しようがないんだよ」
「えー! じゃあどうすればいいんですか?」
と驚いた杉本に僕は言った。
「見つからないことを祈るだけだね」

実際、少なくとも、僕はイースのバグとしてこれが知られているという話は全く知らないし、少なくとも裏技・その他で見つかったという話を聞いたことが一度もないので、今回、あえて公開したい。
ただし試すときは、以下の条件を読んで、納得した上で試して欲しい。
本物は壊れたワークエリアを参照しているので、どこにジャンプするかわからない。最悪バッテリバックアップを破壊するなど様々な危険がある。またエミュレータ版ではなにが起こるか全くわからない。

●以下は再現方法。
1)リターンの魔法を装備する。
2)ノルティア北壁で滑り台に乗る。
3)滑ってる最中にリターンの魔法を起動
4)ドーン


…なんで、みつからなかったかなあ…

と、このシリーズで、長々とイースについて書いてきたが、僕にとって、イース1・2はプロとしてコンソールゲームを作った第2作という意味以上に、深い意味があった。

正直、凄ノ王伝説で、イマイチのゲームを作った僕が、プロとして食べていけるのか、それを知りたくて本当に受けることを考えて全力を尽くした。正直、これが受けなかったら、ゲームを作るのは止めようと思っていた(どう考えても受けて当たり前で、コケる方が情けない状況だ)。

作っている環境も最高だった。
HaHi君と二人で全コードを書き、テキストは長山君と全部書き、山根とコンテの打ち合わせで毎日もめ…と、本当に楽しかった。
このあと様々な作品に関わったが、コード2人、シナリオ2人なんてゲームは後にも先にもこれだけだし、グラフィックチームもゲームのサイズを考えれば小さいく、ほとんど最小に近い人数構成だったので、風通しがよく、自分の意志を隅々まで完璧にいきわたらせることが出来た。
イース1・2はCDROMでありながら、ROM時代の小さなチームで作れた、ほぼ最後の作品だった気がするし、少なくとも僕はこれ以降は最低人数25人の世界で、一度もこんな小さなチームで仕事が出来たことはない(今、すぐソーシャルを作れば小さなチームでやれそうだけど…)。

そしてイースを作ってから色々な事があったが、一番うれしかったのは、発売された直後に、東京のハドソンに打ち合わせで呼び出されたときに、返ってきてたアンケートはがきを見せてもらったときだった。
ほとんどのアンケートはがきが買ってよかったに丸がつき、およそアンケートのほとんどの答えが満足だったときだ。あまりに嬉しかったので、100枚サンプリングしてチェックさせてもらったら、97枚がオール満足だった
本当に作ってよかったと思った瞬間だった。

また、このとき、中本さんから「海外版のイースを作ってくれ」と言われた。
海外版のイースBook 1&2は、移植には結構時間がかかった。作業自体はそれほど辛くなかったが、ともかく待ち時間が多かったのだ。
1月から移植をスタートして丸2ヶ月ぐらいで翻訳&バランスの調整を終わらせ、ゲームが出来上がったのは2月だったが、大変だったのはそのあとだった。
まず翻訳のチェック(差別的な用語などに対して、アメリカは非常に厳しい)をするために、アメリカにテキストをFAXすると、当時は統一された規制ルールを統括するESRBのような団体がなかったために、様々な政治団体をシナリオが巡って、チェックされることになって、2週間返事が戻ってこない。
さらにディスクをアメリカに送ると、航空便丸2日はかかる(インターネットがないので、飛行機に乗ってディスクが行く)。
これまたディスクの中身が各種の団体を巡り、チェックされた項目がFAXで戻ってきて、それを元に修正。またディスクを送る…こんなことやっていれば、飛ぶように時間は過ぎていく。
ヒマでしょうがなかったので、作ってるゲームを片っ端からデバッグしたり、他のチームのサブプログラマやらしてもらったりしてた。あと受付のかわいい女の子とデートしたり、花見にいったりもした記憶がある


そして海外版イースの製作スケジュールの打ち合わせも一通り終ったところで、中本さんが言った。
「ところでよぉ、岩崎」
「はあ、なんでしょうか?」
「今度さ、広井さんとさ桝田君とで、天外2作るのよ。で、広井さんがお前がいいっていうんだよ、やってくれない?」

来たか、という感じだった。
10月ぐらいから天外2を桝田さんがやるという話は聞いていた。それで桝田さんから非公式に「広井さんが仕事をしたがっている」とは聞いていた。それが、イースが終わって、公式なものになろうとしていた。
「桝田さんから、聞いてます。いいっすよ、やりましょう」
「おう、またみんな驚かすべや!」


こうして、僕はまた中本さんに誘われ、天外2を作る、とんでもなく困難なプロジェクトに挑むことになった。
でも、それはまた別のストーリーだ。

■■■ 僕がイースを作った頃 - The end ■■■

ところで全くの余談だが本当に反省していて、しまったなあと思っていることがある。それは自分の名前をパスワードに使ったことだ。
解説しておくと、PCエンジンCDROMのセーブ用のRAMの容量はとても小さくてたったの2キロバイト、漢字で1024文字分しかない。つまりちょっとセーブ容量の大きなゲームが出るといっぱいになってしまう。そして当時はメモリカードなんて便利なものはなかったので、セーブデータがいっぱいになると、何かファイルを消すしかない。
そのとき、ファイルを消してもセーブデータをパスワードとして出しておけば、またパスワードを入力することで、プレイすることが出来る…というわけで、イースにはパスワードがサポートされている。
今時の感覚からすると奇っ怪きわまりない話だけど、当時はまだバッテリバックアップが高くセーブ領域も小さかったので、RPGがパスワードで保存できるのは当たり前だったから、なんの不思議もなかったわけだ。
で、このパスワードにデバッグコマンドを入力すると、いろいろなデバッグモードを起動出来る…という仕掛けを入れたわけだ。
それでどんなパスワードにしようかという話になったとき、人の名前とか会社の名前にしておけば絶対に忘れないとHaHi君が言って、僕の名前だの誰かさんの名前だの、アルファシステムだのをパスワードに設定したわけだ。(アルファシステムは残念ながらそのままではないぞ)
パスワードは3つほどあり、撮影用・デバッグ用・音楽モード&セーブ数を増やすぞパスワードだったわけだが、もちろん、デバッグコマンドなので公開する気はゼロだった。
ところが、この中で、実質的に大きな問題がない音楽モード&セーブデータの数を増やすパスワード「いわさきひろまさ」をハドソンが裏技として公開してくれたわけだ。
どうせ本名で活動しているんだし、別にいいといえばいいのだが、こんなどうしようもない目にあうなら「あまぎひでゆき」でもしておけば良かったよ、と全く後悔している次第なのだ。
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