さて問題です。あなたにとって「よいセックス」とは何ですか? 逆に「わるいセックス」とは?


 答えは人によって違うだろう。そもそも何が正解で、何が誤りというものでもない。ただ、僕はこう考える。セックスが終わったあと、当事者にとってそのセックスがどんな感じだったのか? それがひとつの目安になるのではないかと。


 「うれしい!」「幸せ!」と感じるならば、それは「よいセックス」である。その反対が「わるいセックス」になるわけだが、市原克也が先日Twitterに書いていた「飛影の話」などは、そのひとつの典型かもしれない。


 どういうことなのか、簡単に説明しよう。アテナのかつてのシリーズに「欲情列島宅配便」というのがある。そのなかの「私の処女を破りに来てっ!!」というのが問題の作品。監督は飛田淳。最初に処女喪失に挑んだ男優の池田こうじは途中でダメになり、その後、再起はしなかった。終わった直後、別室でインタビューされて彼はこう言う。「イヤなもん、やっちゃったな。今はこの場から逃げたい」。そう言われた監督の飛田はといえば「俺も同じさ……」。


 相手の女の子は28歳のOL。タイトルのとおり、処女をビデオで捨てようとしている。ビデオでの初体験がよい思い出になるように、ふつう監督も男優も最大限の誠意をもって接するものだが、さんざんな言われ方である。でも、これには理由がある。


 この女の子に2番手として行ったのは市原。彼女の陰部に指を差し入れたとき、彼女が言う。「飛影……好きだ!」。つづけて「オレ、飛影にされてるんだよね?」。一同、意味がわからない。だが、そんなことにはおかまいなしに彼女は「ママって呼んでいいよ!」。市原はなんとか合わせ、事を遂行しようとする。「お母さん、ココ、すごい!」と市原。すると彼女は「お母さんじゃない……蔵馬」。最終的に市原も「これ、無理だよ!」とリングから降りる。


 男優と監督が休憩時間に作戦会議。「飛影って何だ?」。どうやら「幽☆遊☆白書」というマンガの登場人物らしいということになる。僕は現場にいなかったけれど、ロケから戻った飛田は実際、疲れ果てていた。


 28歳のOLはセックスの相手を飛影に見立て、自分は蔵馬になりきっていた。ただし、単なるごっこ遊びではない。ごっこ遊びなら「設定」という事前のコンセンサスがある。彼女にはそれがまったくない。彼女にとっては、現実よりもアニメの世界のほうがリアルだったのだろう。


 しかも彼女の中のイメージとは、蔵馬と飛影という男同士のキャラクターが女と男としてのセックスをし、なおかつ蔵馬は母親、飛影はその息子という近親相姦+幼児プレイという二重三重に倒錯した世界なのだった。


 この「私の処女を破りに来てっ!!」は1994年の制作。今から22年も前の作品だ。けれども、昔の話と片づけられないように僕は思う。当時、現場はさぞかし大変だったと推察するが、彼女は自分の妄想をはっきりと口にしているぶん、何がどうなっているのか、まだわかりやすい。


 それに比べて、今はもっと混沌としている。妄想を誘う媒体はとても巧妙で、快のツボを心得ている。自分がそっちに行くつもりがなくても、気がつけばどっぷり妄想の世界に浸かっていることもあり得るだろう。そこから「よいセックス」が生まれることは決してないのである。






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